陶興房

陶興房
書きかけ

文武両道、人柄も並外れて優れた伝説の忠臣。
この家臣あって、この主。
主君の大内義興は、大内本家ナンバーワンの西国の覇者である。

誰書いたの、このウザすぎるベタ褒め記事……。
この父あって、この息子(瞳キラキラ)
お前の仕業か……孝行息子というよりは売名行為だな

五郎の話は言い過ぎではないよ。恐らく、史書の類いに頻出する忠臣ナンバーワンはこの人。露出度が多いから、知ってる人も少なくないんじゃかな。
ん?

厳島の合戦でボロ負けした陶晴賢の親父だろ?
そそそ、あの大寧寺の陶の親父な。
ここらあたりなら、ゲームにも出てるからそれなり知名度あんのよ。

何だと(怒)。お前らゲームしか分らんのか?
厳島と大寧寺以外に言うことないのか。
それに、「その親父」って……。本人については?

ヒマさえあればスマホアプリ起動してる妖怪に言われたくないってクレームがじゃんじゃん来てるよ。
……。

さて、このサイトには素敵なイラストが大量にあって、キャラが生き生きしているのは御存じの通り(イラストは外注なので、自画自賛ではないよ)。
だから、アイキャッチとだべログチャットで陶家のキャラがすべて動くよ。
ま。それは良いとして。
アイキャッチに政務中のイラストを使うか、戦闘中のイラストを使うか、ってけっこう悩んでるんだよ。もちろん、すべての人に両方のバージョンがあるわけではないけど。
五郎のお父上は、文武両道。政務でも戦争でも、主の大内義興さんを助けた。だから、迷う所なんだけども、ここはやっぱり合戦モードにしてみたよ。
正直、政務ってよく分からないんだよね……。合戦は至る所に、名前出て来るけど。上の、「名前くらいは知ってるぞ」ってゲームの人たちなども、知ってるのは戦絡みだと思う。
政務については、古文書を調べて事細かに研究している先生方以外には、あまりイメージ湧かないよね。フツーにこなしている分には、それらの古文書でその「足跡」を辿る以外ないもの。正直、誰も興味ないんじゃない?

何年何月、どこそこの寺宛に書かれた宛行状が見付かった⇒お、きちんと政務執ってるやん。

てな感じだよ。

例えば……。あれこれの政治機構を整理したのだった、みたいな歴史書に出てる事跡まとめは、先生方の研究の成果だよ~ん。
つまらん。父上が先代に付き添ってあれこれの合戦で手柄を立てた話を聞かせろよ。
まフツーの男の子的にはこうなる(↑)。でも、そのような、戦で手柄を……も、先生方が、古文書の軍功を記した文書を研究した結果だからね~
つまらん、つまらん、つまらーーん。ん? じゃ、文書が消えたり、なくなっちゃったりしたら、どうなんの?
いいことに気が付きましたね。消失した文書は先生方が目にすることができませんから、たんなる噂話のように軍記物に載っているレベルだと、史実として認めてもらえない可能性大だよ。
そんな……。俺が手柄を立てたら子々孫々絶対に記録をなくさないように厳重に管理させるぞ‼
そうだね。でも、歴史上、故意に抹消された歴史、っていうのは数多い。勝てば官軍と言ってね、負けた側は殺されるだけじゃなく、それまでの功績も皆、リセットされちゃうことが多いよ。そうなると、先生方も、意図的に史料が処分されたらしいです、とは言えても、じゃあ、その人の事跡は、ってなると、これはもう、「推測ですが」として語るほかないんだよ(君は本当に気の毒な運命の星の下に生まれた子だ。僕がきっと守って見せるからね)。
まだ肝心な父上の話を何一つしていないけど、これで終わりじゃないから安心しろよ。

年譜
人となりは、口数が少なく、思いやりがあって、正義感が強かった。親孝行で、主君に忠節を尽くした。また、文武の才を兼ね備えていた。信心深く、公務以外の時間は一心に座禅を行い、精神を集中させていた。
永正五(1508)年、義興が前将軍を奉じて東上すると、興房はそれに付き従い、常に左右をはなれず、その智謀によって主を助けた。

永正八(1511)年、船岡の戦いでは先駆けをつとめた。翌年の秋、勲功により尾張守に任じられた。

永正十年(1513)春、瑞夢を得て法名を道麟と改める。(それ以前の法名はわからない)。都濃郡長穂・龍文寺の春明師秀(本寺第六世)に別称を選ばせたところ、師秀は祥岩を使い、生前に肖像画を描き(壽像)、褒め称える言葉を添えた(賛)。龍文寺の侍衣寮を改築して信衣院と名づけ、そこに壽像を掲げ、香花を添えて冥福を祈った。

大永二(1522)年三月、義興の命で、防長豊筑討伐軍の将となった。安茜に入り佐東郡藤丸に陣を置き、所々で戦い、新荘小幡の要害を取り、八月になって帰国した。
大永三年(1523)四月、安芸の国衆・友田上野介興藤が造反し、佐東の武田光和に援助を求めると、神領の城番を追って桜尾城を本拠地としてたてこもった。義興は、興房及び弘中下野守らに命じこれを攻撃させた。興房は佐西郡に出て大野の門山に陣を置き、神領軍と戦った。
十二月二十八日、厳島に太刀、御供及び定燈を奉納した。
大永四年(1524)正月四日、厳島社人・棚守左近太夫と師檀の契約を結んだ。
五月、大野城を攻撃する。十二日、興藤と光和は合流して、大野城を救援するため女瀧に出陣した。城主・弾正少弼は興房と誼を通じ、城に火をかけた。興藤・光和は逃亡したが、興房軍は追撃して七八十人を倒した。
六月、義興は大野での戦勝の知らせをきいて、嫡男義隆を伴い、厳島に出軍した。
七月、興藤は岩戸山に陣を移したので、吉見、杉、内藤らとともに桜尾城を囲んだ。二十四日、桜尾城の二の郭に切り入って戦ったが、家人・勝屋甚兵衛尉、渡辺掃部助ら十余人が戦死した。
十月十日、吉見頼興の仲立ちによって興藤は降伏した。
十二月二十八日、周防小守護代・野上右馬助及び深野文祝、河内山富六、力竹らを厳島に渡らせ、元日供応(椀飯)の宴を設けさせた。
五(1524)年正月元日、厳島に渡り、義興父子に拝謁した。
二月十日、また厳島に渡り、棚守の屋敷を宿所とし、義興父子をもてなした。
四月五目、岩戸より矢野に渡る。
六月、賀茂郡志芳荘に進み、天野民部大輔興定が米山城を攻めた。興定は毛利家の仲立ちによって、大内方に降った。
八月、興定と合流して、志芳荘の所々で戦い、ついで備後に入り、尼子軍と黒山に戦い、牛尾備後守および米原軍配下数十人を斬った。興房側も、家人・深野木工助、同平太郎、江良三郎、三烏彦九郎ら十余人が戦死した。

大永七(1526)年、阿南郡にて戦い、諸城を落とした。
八月、毛利家とともに、再び備後の三谷郡に入り、尼子軍と和智郷にて戦った。
十一月、三次郡三次にて戦った。
享禄元(1528)年七月十四日、義興が病に倒れていたため、厳島に戻り、この日、西廊にて野田興方、内藤興盛らと撤退の策を話し合う。友田興藤を諭して二十日に息子・掃部頭広就を義興に謁見させると、義興を護して山口に帰還した。
十二月二十日、義興が亡くなり、義隆が家督を継いだ。
大永三(1530)年、義隆が佐波郡に松崎天満宮を造営し、興房はその奉行となった。(二(1529)年十月十八日までの文書には尾張守とあるのだが、十月十四日の棟札に前足張守とあり、また布施本大内家壁書、二年十月十日の連署でも前尾張守となっている)。ついで剃髪して尾張入道道麟、または道麟と称した。

天文元(1532)年十一月、義隆は少弐冬尚を攻めた。道麟は先鋒として、十五日に九州に渡り、少弐と戦った。

三(1534)年冬、少弐が降伏し肥筑は平定された。

四年(1535)二月、凱旋。

八年(1539)四月十八日に亡くなった。法名:大幻院透麟道麒。
妻は叔父・弘詮の娘。二男一女を生む。
長男・興昌、次男・隆房、娘・宋像大宮司興氏の妻。

参考文献:近藤清石『大内氏実録頼』親族より

五郎とミルの部屋的講評
終わりをまっとうできなかった父や兄たちにかわり、陶家の家督を継ぐ。文武両道に優れた文字通りの名将であり、主の義興、その子・義隆に生涯忠義を尽くした。
陶興房(すえおきふさ)
三郎、中務少補
陶弘護の末子。隆房の父。
統率:★4.5
武勇:★5
知略:★5
政治:★5
ルックス:陶家のものに醜男がいるはずはない
性格:これ以上ないほどの人格者
総合評価:★5⁻
講評:いやあ、これほど出来過ぎた完璧な人もいないであろう。強いて言えば、当主というより家臣向きの人である。が、元々そういう星回りなので、主にとっては文字通り、これ以上ないくらいの配下。
自信過剰で、権力への野心がチラとでもあったらたいへんな地位にあった訳だが、それがまったくなかった。生まれつきの人柄なのか、父や兄たちを見るうちに自然に形成されていったものなのか、それは本人にしか分からない。
しかし、自信過剰でよからぬ思いを抱いてしまった者というのは、もうそれを隠すことが難しい。おそらくは、正真正銘の仁徳者であったのだと思う。

リニューアル前公開日:2020年4月15日 10:30
「陶家猛将伝」