この人ほど、評価するのが難しい人物も稀だろう。立ち位置をどこに置くかで、その見方はまったく違ってしまうからだ。ここはタイトルからも分かるように「大内氏」のために作った空間。だから、亡くなった殿様に優しく、造反した家来に厳しいというスタンスをとっている。
ただし、それは、書いている人本人の意見を代表しているわけではないことをご理解ください。正直な思いのたけは「陶の城」に入れる予定です。ですので、ここを読んで意見が合わないと思った人も、そちらならば合う可能性はございます。
基本情報
父・興房 兄・興昌
幼名:五郎
改名:隆房⇒晴賢⇒全薑
従五位下、中務権大輔(天文六年正月八日叙位)⇒ 従五位上(天文十七年四月十六日同)
尾張守(天文十四年八月十七日任)
出雲出兵
さて、初歩の段階であれこれと評価する資格はないと思われるので、まずは淡々と流れ的なものをまとめておきたいと思う。
それについて、まずは、『実録』を使いたいのだが、これが近藤先生にしては珍しく、あまりにも情報不足で、これだけではまったく理解できないほど省略が多い。これは先生がいけないのではなくて、紀伝体というかたちを採用している関係上、同じ出来事が複数の人物の箇所で重複してしまうことに問題がある。これは検索エンジン的に非常に嫌われる形式であるけれども、書籍としてはむしろ有難いことだ。しかし、『叛逆』などというワルモノとしての扱いにしておられるくらいなので、多くを語りたくなかったのか、主のところとセットで読まなければ話が見えない展開となっている。
天文九年、大内義隆は安芸に出兵し、玖珂郡岩国に陣を置いたが、隆房もこれに従軍した。
『実録』記事だといきなりこのように書かれていて、これだけだと何のことか分らない。義隆の項目に詳細に書かれているせいで、重複を避けたのだろう。したがって、晴賢記事については、義隆記事を並行して眺めて行くことが絶対に必要。今後『棚守房顕覚書』とか、『中国治乱記』とかも総動員して補充していくときちんと繋がる。
要するに、天文十一年に出雲で大負けする以前にも義隆&晴持(養子)父子が出陣したことはあったわけ。この年は、正月に防府、九月には岩国永興寺まで来ていた。
尼子家だけでなく、厳島神主家をめぐって、先代から続く紛争が解決しておらず、天文九年の安芸出兵は、そっちの処理をするため。
殿様文弱なのに、戦は絶えず、まさに前途多難ですが、この頃はまだ、そこそこ頑張って戦していたんですね。
毛利家を援ける
天文九年九月、毛利元就の郡山城が尼子晴久の大軍に包囲され、援軍の要請が来た。
隆房は義隆の命を受け、内藤興盛等とともに、救援に赴く。⇒ 内藤興盛
天文九年十月四日、厳島に参詣し、御供物と太刀神馬を奉納。伊香賀対馬守を名代として在島させると、四日未明、海田に渡り、中郡より郡山に進んだ。
天文九年十二月三日、郡山に到着し、山田中山に軍を配置する。
天文九年十一日、城中及び五龍城の宍戸安芸守元源と連絡を取り、尼子方の宮崎・長尾の陣営を攻撃した。
天文十年正月十一日、郡山の天神尾に陣替えをした。
天文十年正月十三日、毛利元就が宮崎・長尾の敵陣営に火を放った。隆房は、この機に乗じて尼子晴久の本営を衝こうと三塚山下に進む。
晴久の従祖父・下野守久幸が山上より下りて来て奮戦したため、深野平左衛門尉等十三人が倒されてしまった。江良伊豆守は十三箇所もの手傷を負ったほどである。しかしながら、遂には久幸主従十五人を斬った。この夜、尼子軍は散り散りになり、晴久は出雲へ逃走した。
銀山城での戦い
天文十年三月、佐東にて戦う。
天文九年~殿様(義隆)は安芸国で厳島神主家問題の処理中。「同時進行で」陶軍は、吉田郡山で毛利家をイジメている尼子軍と対陣している構図です。そして、天文十年正月に鮮やかなお手並みで撃退し、尼子晴久は這々の体で逃げ帰ったわけです。
『実録』だと、その後にいきなり上の一文が現れるため、何のことなのか困惑します。
まず、三月に佐東で戦っているのは、毛利救援に成功して戻って来たからでしょう。殿様のほうはなおも、厳島神主家関連の件で出陣中だったのです。⇒ 厳島神主家
そもそもですが……先の天文九年九月時点で、陶様御一行、いえ、家臣団一同は神主家「一味」である武田氏攻略の作戦を考えていたのであり、毛利家からの SOS がなかったらそっち先だったかも知れず……。いえ、そんな感じでこちらがゴタゴタしているからこそ、尼子家に狙われるわけで……と、ここら辺り、とんでもなくややこしくてメンドーながら、分れば楽しかろうと思うトコロなのです。ま、とにかくも、尼子を撃退したので、(毛利さんも一緒に)みんなで武田家のお城へ向かったということです。
大まかに言って、「大内(陶も)」VS「神主家(友田興藤)&安芸武田&尼子」です。神主家当主が亡くなった後、身内の間で血みどろの奪い合いが始まったのが端緒です。力ある大内家が半ば「直轄地」的に厳島を支配しているような感じとなり、不満を抱いた神主家身内が反抗する中、安芸武田だの、尼子だのが「大内嫌いだから」反大内神主家身内側に味方したのです。まったく、応仁の乱以来、いえ、南北朝から、いやいや、もっと前から有史以来そうなのでしょうかね。「敵の敵は味方ルール」。ええと、殿様は三月に岩国から、大野門山城に移っていました。⇒ 門山城
でもって、さらに七尾に進み、四月、遂に桜尾城を陥落させました。先代から続いていた神主家関連のゴタゴタに終止符が打たれたのです。で、引き続き、今度は佐東金山城を攻め、五月に城主・武田氏と和睦しました。『実録』の「三月、佐東に戦ふ」はここに繋がっています。
大勢の登場人物に彩られた超大作を一人分だけ切り取ってきているため、わかりにくくなっているのであって、全員の分を読み通せば、過不足なく情報が盛り込まれているはずです。
「佐東に戦ふ」以下も、わずか数行しかありませんが、ここは本来、天文十一年の出雲大敗北の内容が来るべき箇所でして、恐らくは「世家・義隆」のほうに書いたからここにはないんじゃないかと。
以上が、厳島神主関係の補足です。こちらは今後まとまったページになったら削除します。
月山富田城の戦い
天文十一年六月七日、出雲国飯石郡に進み、赤穴の瀬戸城を攻める。勝利を得られず、粟屋内蔵助等二十余人が命を落とした。
天文十一年十二年五月、出雲より帰還した。
何ということか。『実録』陶晴賢項目内に、尼子攻めの記録はわずかにこれしかないのです。負け戦だし、気持ちは分からなくはないのですが。当然、義隆の項目には詳細が出ておりますが、ここにこれしか記述がないことには驚くばかりです。紀伝体は、内容が重複するのは宿命なので、同じことをもう一度記してもよいと思うのですが。『叛逆』に分類したことからも明らかなように、近藤先生は、かなりこの人を嫌っていたと思われます。
『国難』の発端
最初に、最近の研究では陶が起こした政変を単なる気に入らない主君を片付けた的な暴挙とはみなしていない考え方が主流です。これについては、著名な小和田哲男先生が記した「領民解放のためのクーデター」といった一連のご著作の功績が大きいと思います。
ただし、このようなテーマは事象をきちんと把握したうえででないと、あれこれ意見を述べる立場にないと考えますので、まずは流れだけおってしまおう、というのが現時点での到達目標です。
なお、かならずと言っていいほど出て来るのが、陶と相良が険悪な関係であり云々という問題です。誰しも気が合わない相手というのは存在するものであって、それが当主の腰巾着みたいなお気に入りであったとしたら、あることないこと吹き込まれてそれこそたいへんです。
犬猿の仲であったことは史実のようですが、なぜそうなったのかという事情が重要です。人間関係が上手くいかない際に、言葉では説明できない生理的嫌悪感というものは確かに存在します。ただし、ここではそのような感情的な問題というよりも、「利害対立」という問題のほうが大きい、というよりも、むしろそれだけです。
これについては、最近、政治史関係を主に研究しておられる先生方からあれこれの指摘が挙がっています。目茶苦茶簡単に言うと、当主権限を強化したいと思う当主側からしたら、守護代が地域密着型でその担当地域を私物化している現状は面白くないわけで、そこへ当主直属の代官を入れるというやり方をとってみた。それが相良もしくはその配下のような者たちであるわけです。こうなると、現地の政務に守護代が命じた小守護代と、当主から派遣された直属の者という二重構造が生まれ、あれこれの矛盾が生じます。このようなところに生じた利害関係も両者の対立を生んでおり、感情的にどうたらみたいな、ヘンテコなエピソードを読み過ぎた人たちの理解は完全に的外れ、ということです。この辺りは、きちんとした典拠をいま掲示できません(ご本はお読みしました)ので、後程となります。
人間関係
相良武任と陶との仲が悪かったことは周知の事実。『実録』にはその理由が書いていないので、今ここではそのことは考えないが、両者の関係はどんどん悪化し、最後には手も付けられないほどになった。⇒ 相良武任
そして、かくまで険悪になるにあたり、第三の人物が両者の間に入り、「讒言」によりさらにお互いが憎み合うように仕向けた、ということになっている。いったい、どういうことなのか、簡潔に記すと以下のような話だ。
相良、陶らの同僚として、杉重矩という人物がいた。彼もまた、陶についてこころよく思っていなかった。思うに、陶という人物は、主の一門筋という高い身分に、加えて亡き父・陶興房が当家の重鎮として二代に渡って果してきた役割が半端ないから、親の七光りで高い地位につき、傍若無人に振る舞っていた節があるのではなかろうか。でなければ、本人も気づかぬうちにこの杉重矩に対して何かしら無礼な言動があったのだろう。⇒ 杉重矩
火のない所に煙は立たぬというから、それなりに傲慢なところがあったに違いないと思う。そこで、杉は主君の義隆に対して日頃からあれこれと陶に関する問題事項について語っていた。これらは結局のところ「讒言」であったということで、詳細は不明である。
もともと杉は「陶というのはこんな風に、あんな風に嫌な人物で、あれやこれやの酷いことを行っており……」と告げたのだが、義隆は信じてくれなかったようで、相良に頼んで詳細を調べさせた。義隆の命で杉のもとを訪ねた相良は、杉が義隆に言ったのと同じ話をもう一度聞かされた。自分の意見を取り上げようともしないようでは大内家はもうおしまいだ、とまで言っていた杉だが、相良は彼の言葉を信用しなかったのか、義隆に杉の発言の信憑性を判断して伝えるようなことをしなかった模様だ。
不可思議なのは、この後の杉重矩の行動である。相良が自分に味方して、陶を貶めることに協力してくれないと悟った杉は、己が陶を悪し様に言っていたこの話の内容が、相良の口から陶に伝わること恐れた。そこで、先回りして陶を訪れ、自らが語ったあることないことをすべて相良が義隆に話したということにして発言者をすり替えた上で、陶の耳に入れた。
相良とは違って、杉の言葉をまるごと信じてしまった陶は、相良に対する嫌悪感をますます強めていき、やがて両者の関係は一触即発の事態にまで及んだ。のみならず、怒りの矛先は、その相良を重用する義隆にも向かった。
ここで触れておかなくてはならないことは、主君である義隆と陶との対立である。ここも、すぐに感情的云々を持ち出してくる人たちがいて鬱陶しくてならない。まあ、上司と部下との関係もあれこれで、パワハラ上司の下で日々苦しんでいる人たちは、家族や信頼できる同僚などを前に「あの野郎!」と発散しなくてはならない状態となっているだろう。逆に、無能すぎる上司が、取り巻きの、これまた阿諛追従以外能がない連中だけで回りを固め、面倒なことにはかかわりたくないという理由で有能な部下の意見を全く聞き入れない、という状態も社内に不満の渦が湧く事態となる。
この家の場合は後者。まあ、どうしても「感情的な問題」にこだわりたい人はご自由に。少なくとも、パワハラ上司や無能な上司に好感を抱く部下なんているはずもなく、その意味では「感情的な問題」の存在もまったくゼロとは言えないかもしれない。有能な主として尊敬し、好感を抱いていたのなら、造反などするはずもないのだから。
そして、さらに重要なことは、もうこんなところで書く必要もないほど当たり前に有名だが、武断派と文治派の問題。この当時、大内家の内部は武断派と文治派の二つに分かれ、武断派の筆頭が陶、文治派の筆頭が相良という組み分けが出来ていた。そして、相良の背後には当主である義隆も与していた。
武断政治:ぶだんせいじ、武力・強権の発動によって政務を断行する政治体制。法令や教化を基礎に政治を行う文治政治に対比するもの。
文治政治:ぶんちせいじ、法制や行政組織の整備、人心の教化などを基礎として世を治め、社会、秩序の安定をはかろうとする政治体制。
山川出版社『日本史広辞典』より一部抜粋
このような説明文を見ると、なんだか、武断派は野蛮人の集団にみえるけれども、この場合狭義の意味では、戦争をするかしないか、具体的には尼子氏を叩き潰すかどうか、というところで意見が割れていたので、陶の意見を採用して出雲に遠征した殿様は大敗北を喫して、以来、軍事はもう二度と嫌だということになってしまった。
いっぽう、文治派の連中はそれみたことか、戦などやるからだ、と勢いづくことになったわけだ。そんな状況下でますます驕りたかぶる相良と、わずかに勢いを失くした陶の関係が改善されるはずもなかった。さらに、ここへきて、すっかり戦から遠のき、富国強兵など考えもしなくなった主・義隆への失望も強まったに違いない。
不穏な動き
天文十九年八月十五日、この日は、仁壁、今八幡両社の例祭が執り行われる日であったから、義隆は両宮に参詣しようとしていた。ところが、参詣の道中で隆房が義隆を襲い、相良を攻める計画があるだとか、参詣するのを待って相良の屋敷に攻め寄せるのだとかいう根も葉もない噂が起って市中が混乱した。ゆえに、義隆は参詣をとりやめた。
八月十六日、陶に不穏な動きがあると耳にした近郷の兵士らが山口に集り、屋形を警衛したから、隆房は名代を遣わして無実を訴えた。それなのに、問責の兵が向かわされるだとか、 尾張守に切腹の命がくだされるだとかの噂がまた起ったので、隆房は武器を準備し、鎧を身につけて待っていた。
八月十七日、陶隆満、杉興重入道、吉田興種が義隆の命を受けて来訪し、家来を山口に集め、武器を準備したことについて問い詰めた。隆房は、家来は来年の氷上山二月会の大頭役を仰せつかっているからその差配のために少し呼び出したにすぎず、武器のことは事実ではない、と述べた。こうして、何度も難しい申し開きをして釈明につとめ、やっとのことで事がおさまったのだった。
十一月、所領の都濃郡富田に帰ってから、隆房は秘かに裏切りの相談を始めた。問責の兵が来るかもしれないと考え、若山城を修理した。
天文二十年二月、氷上山二月会には出仕しなかった。
山口では大友家と相談し、大友家も同意したからともに陶を討伐するだろうとか、また山門の真珠院に隆房調伏の護摩が命ぜられただとかの噂も起こった。領内の荘巌寺が己を毒殺すべき命令を仰せつかったと聞くと陶は裏切りを決意し、荘厳寺の住職を殺した。
さて、ここで嘉吉の乱と赤松満祐を思い出してほしい。何を目茶苦茶な? と思うかもしれないけれど、上司(将軍様)の力というのはそれほど強大で、その人に嫌われるということは、それだけ恐ろしいことなのである。さもなくば、明日は我が身かもしれない……などという妄想で、将軍弑逆という恐ろしい事件にまで発展するはずがない。
何が言いたいかと言えば、いかに、大内義隆がお人好しで、戦嫌いで、虫一匹殺せないような人物であったとしても、相手はれっきとした「当主」である。殺生与奪の件は彼にあるのだ。隆房が己は無実であると必死になって申し開きをし、在所に身を隠して二月会の役目すら欠席して、居城の修繕をしたことは、赤松満祐ではないが、万が一にも当主に恨まれ、命まで奪われる仕儀になることを想定に入れたと考えられなくはないと思う。
放っておいたらそうなったのかどうかは、分からない。しかし、隆房は隆房なりのやり方でそうなる前に当主を取り除くことにした。対処法だけみると、ホント、嘉吉の乱と同じ発想じゃないですか。
野上平兵衛尉、江良丹後守、伊香賀民部少輔に義隆を幽閉すべきか、弑逆すべきかを相談すると、義隆父子を殺し、義隆の猶子・大友八郎晴英を迎えようということに決まった。そこで山口および各所に書状を送った。⇒ 野上、江良、伊香賀
杉重矩は一番に之に与した。 そこで、麻生弥五郎を使いにやって、大友晴英に、義隆を廃すつもりであるから、大内氏を継いで欲しい旨願い出たところ、晴英は承諾し、義隆から送られてきたという密書を隆房に渡した。
麻生弥五郎:『義隆記』⇒ 筑前国の窂人。豊後におり、大友晴英への使いになることに喜んで同意。『異本』⇒ 筑前国の麻生弥五郎というのは、先年窂人して豊後の事情に詳しいので、使に定めたとある。有名衆に麻生上野介、家中覚書に筑前衆麻生上野介とあり、その一族子弟と思われる。
決起
天文二十年八月二十八日、江良丹後守、宮川甲斐守は防府口から、隆房自身は徳地口から進入して山口を襲った。義隆は法泉寺に退ぞいて防戦した。
八月二十九日、義隆は長門国大津郡に逃れたので、 柿並佐渡守に足軽を率いさせてこれを追わせた。
九月一日、 佐渡守は深川村大寧寺で義隆を囲み、義隆は自殺した。義尊を捕らえ、翌日殺害した。⇒ 宮川甲斐守、柿並佐渡守
義隆が亡くなったのが、長門深川の大寧寺であったことから、一般に、この政変を「大寧寺の変」と呼ぶ。しかしながら、『日本史広辞典』にはこの項目はなく、単に、名刹として大寧寺の項目が載っているばかりであった。そして、日本史教科書にも必ず載っているこの政変は「下剋上」の例として語られ、かくして、大内家はこの年に滅亡し、勘合貿易はそれによって終わってしまいました、という先生方の説明を聞かされ、予備校の著名な先生は 1551 の語呂合わせを教えてくださる。
気になったので、下剋上ってそもそも? と思うと、次のようにあった。
下剋上:げこくじょう、「下、上に剋つ」と読み、下位の者が上位の者に実力で打ち勝ち、その地位にとってかわる意。
山川出版社『日本史広辞典』一部抜粋
朝倉孝景は守護代の身分で守護を追い出して、自らが守護になってしまった。後から出て来る、織田信長とか、もう何が何だかわからないけど、守護様をどこかに奉ってはいなかったはずだ。
陶等は重臣たちの合議制をとって、きちんと当主様を奉じていた。その意味で、世間一般の謀叛人下剋上の連中とは一緒にして欲しくない気がする。
つまり、「下位の者が上位の者に実力で打ち勝」ったが、「その地位にとってかわ」っていないからである。
新政権
「傀儡」
天文二十一年三月、大友晴英を豊後から迎えて、当主とした。⇒ 大友晴英
さて、大内義隆、および、彼を継ぐべき息子も死んだので、かねてからの約束通り、大友家から大友晴英を迎えて、当主に擁立した。
晴英の偏名を求め、隆房を晴賢と改めた。排除した元の当主からもらった一字を使い続けるなんて、縁起でもないし、これからはこのお方を盛り立てて参ります、という意味でも当然の行為と言える。
しかし、その晴英は義長と改名してしまった……。これは時の将軍から一文字を頂戴したためで、よく言われているように、義満、義教、義政……の満、教、政よりも、義のほうをもらうほうが、ちょこっとだけグレードが高いので、元の晴英(義晴将軍の『晴』字)より、ワンランクアップだ。ここで、晴賢もまた、長の字をもらってさらに改名すればいいのにとど素人は思ったが、晴賢はそのままで、かわりに、彼の嫡男は「長」の字を頂いて、長房となった。
大内義長が、晴賢らがたてた単なる「傀儡」だった、という意見には賛成だけれども、究極の目標が、自らが当主にとってかわろうというほどのものであったとは思えないので、単なる名義貸しでも必要不可欠な人物であったろう。
当主なんて、中途半端に無能で、我儘だと手も付けられないので、何もかも言う通りにハンコを押してくれるか、でなければ、先代までのように、自らの力でどんどん政治も軍事も動かして欲しい。無理ならばハンコ係。重臣たちの評議会で仲間割れが起こらなければ、全員にとって平和である。
粛清
重臣たちが一枚岩で盛り立てていってくれたなら……といった矢先に、一枚岩どころか最初からガタガタであった。
そもそもこの政権の大物といったら、晴賢以外だと、内藤興盛、それに、れいの二枚舌の杉重矩といったところで、ほかの人は、単に義隆と一緒に大寧寺で死ななかったからと言って、どこまで協力的なのかまさに不透明。
一方で、「非協力的」だったが、大寧寺で主君とともに死ぬことはできなかった者たちは、真っ先に排除された。晴賢がまず最初にしたことは、「兵を各所に差遣し、己に与せざる者を撃」つことだったのである。
あれほど気に入られていたのに、大寧寺で殉死することもなく、またしても九州へ身を隠していた相良武任、彼を匿っていた杉興運、そのた大勢の、「親」義隆派と見なされる人たちが犠牲となった。
これらの人々は数も少なくない上、広い領国に散らばっており、また内政を整える大仕事もまっていたから、晴賢と晴英はすべてをこなしきれず、毛利家の援助を求めた。なので、安芸国などのそれらの城主の討伐はもっぱら彼らの仕事となった。その際に、旨味のあるところを巧みに自らの配下に組み込んでしまっていることに、忙しすぎる晴賢らは気付かなかった。
そうこうするうち、内藤興盛は老齢のため死亡。また、もう一人の幹部であった、杉重矩と晴賢とのあいだに不協和音が生じる。問題は、大友晴英を当主に擁立しようとするところで意見が食い違ったとのことなので、ほとんど最初からずっと不和だったいうことになる。だいたいからして、杉という人物はそもそも陶が嫌いだったのである。しかし、陶を讒言したことが後から怖くなって相良武任に罪をなすりつけたという前科者だ。
二人は仲違いし、力関係から杉は追いやられ、ついには自害にまで追い込まれた。ここへきて、杉が相良を讒言して、陶を貶めようとしたというのは杉の作り話で、実際に貶めようとしていたのは杉自身であった、ということを教えてくれる人がいた。
加えて、相良武任が無実を訴えて切々とつづった俗にいう「相良武任申状」なる書状も出てきた。この原文は色々なところに出ているし、『実録』中にも載っているけれども、一言でいうならば、杉が相良をハメたこと、隆房は権力があって相良にはかなわないこと、彼らによってたかってはめられたら事実を明らかにすることも困難であるけれども、神仏に誓って悪いことは何一つとしていないこと云々を書き綴っている。
それを読み、杉重矩が果たした「役割」を知った時、晴賢は激怒し、相良に対しても、当主の義隆に対してもとんでもない誤解をしていたことに気付いた。今更ではあったが、晴賢は義隆の霊前で罪を詫び、杉重矩を梟首にした。その後は出家入道して呂翁全薑と名乗った。
さて、この一連の流れだが……。陶も殿様(相良までも)も杉重矩なる小人に操られてとんでもない過ちを犯してしまった。本来ならば、彼らの間には何ら怨恨はないはずだったのである。つまらない誤解からとんでもないことをしてしまった、晴賢の悲しみは喩えようもない。
このエンディングは、陶、義隆双方を傷つけることなく、杉重矩という「悪い家臣」にすべての罪を擦り付けて、気の毒な悲劇としてすべてを片付けるにはもってこいの逸話である。しかし、果たしてことはそんなに単純なのであろうか? そんなつまらない人物に操られるくらいの人間だったとしたら、晴賢は泣こうが喚こうが、霊前で殉死しようが、何をやっても許されないし、とてもじゃないが名将とは言えない。
杉が出てこようが来まいが、陶と相良、義隆との間には諸々の矛盾があり、対立があった。それは研究者の方々が様々な角度から指摘なさっている通りである。そのような研究論文の中に、杉重矩が云々について書き加えられている例にお目にかかったことはないような気がする。つまり、殿様にも陶にも、ともに善人であってほしいと願う地元の心優しい人々にとっては、杉重矩の讒言のせいでこうなった、と結論付けるのはこれ以上ない解決法だけれども、実際には違う気がする。
そうなると、晴賢が杉の首級をさらし、霊前で涙する感動的なシーンもどことなくパフォーマンスの匂いがしてしまうのである。「讒言」というのがどれほど恐ろしいものか、せいぜい、会社を「クビ」になり、明日から失業保険だ、どうしよう……のイマドキの民には理解しにくい。
今生の別れ
もともと、何もなかったとしても世の中は戦国乱世。麻のように乱れている。そこへ来て、大内家という大きな国の当主交代。それも、平和的政権譲渡ではなく、家臣の謀叛という暴力的なものだ。周辺諸国は動揺し、不安定となる。加えて、国内もあれこれとやらねばならぬことがあるというのに、人材はおらず手が付けられない。
そんな中、天文二十二年十月、石見の吉見正頼が挙兵した。吉見と聞いただけで身の毛がよだつほど嫌な連中だ。祖父・弘護がこやつらに殺害されて以来の犬猿の仲。当然、思いは相手も同じ。晴賢は自ら吉見討伐に向かい、これは、新当主・義長も自ら出陣する大規模な戦争となった。
天文二十三年、義長は吉見を撃つため阿武郡渡川に出陣し、晴賢は先鋒となって徳佐に軍を配置した。
ところが、同じ年の五月、毛利元就が挙兵する。元就挙兵の意図は、主殺しの晴賢を倒すため。そもそも、毛利は、吉見攻めにもまったく協力しないばかりか、「親」義隆派拠点の掃討に際しては何となく自らを強化しているように見えたし、また、それらの手に入れた城の分配などに関して幾度か意見の不一致も起きていた。
毛利家はすでに、大内領のいくつもの城を接収。周防国付近を侵す有様だった。とても見許しにはできない。これ以上の膨張は許せないとは言っても所詮は国人風情、一捻りで潰せると思っていたのかどうか……。
毛利氏の反間策に陥り、「有能な家臣」であった、江良丹後守を殺したり、狭い厳島に渡って布陣することはとても不利なのでやめるべきだと勧めた忠義の人・弘中隆兼の意見を無視したり……とあれこれ、後世の人に馬鹿にされるようなことをして、狭苦しい「囮の城」に誘き寄せられたのは、毛利びいきの後世の人が多分に脚色したものであり、すべてをそのまま信じることは問題だと思う。
戦には勝ちもあれば、負けもある。この人がそこまで達観していたかどうかはべつとして。
宮島から対岸の大野浦まではとても近いのである。泳いで渡れるのではないかと思うほど。実際、泳いで逃げた人もいたようだし、反対に、島の中で暫く身を隠していた人もいたらしく、現在でも、当時の食べ物(貝殻とか?)が見付かったりすると言う。
ただし、それは名もない兵士たちだからできたこと。桜尾城でこの頭部はだれですか? と一々確認されちゃったような人が隠れ潜んだり、泳いで逃げたりは無理な相談だし、そもそも、かき集められた分国の民だから許されることで、支配者の都合で戦争を起こしている張本人たちにそれはできません。
武士たるもの、潔く死ぬべし。
塔の岡で奇襲に遭ってすぐに、晴賢は自害を決意したが、総大将さえ無事ならば、本国に帰っていくらでもやり直せるからという忠臣・三浦越中守の言葉にいったんは生存する道を選び、とにかく対岸に渡る船を探した。しかし、虚しいかな、どこへ行っても船は見つけられなかった。⇒ 三浦越中守
とうとう、もはや二度と、故国の地を踏むことはないと覚悟した晴賢はそれこそ潔く腹を切った。豊後から連れて来たばかりで、まだ一人では何もできそうにない義長と残された人々とでは、国を守っていくことはできまい。己の死は、中国地方の版図を大きく変えることとなるだろう。彼の胸に去来した思いは果たして何だったのか。今となっては知る由もない。
亡くなった場所には諸説あって分からないけれども、ここが亡くなった場所です、という石碑が高安原という場所にたっている。そこに行って、花ならぬお酒を手向けてきた。宮島の自然を守るため、土に還らないものは残しておけないから、酒はご案内くださった方とともにそこでごちそうになり、名残惜しくもその場を後にした。一人では辿り着けぬ場所ゆえ、今後は二度と行くこともないであろう。
おどろおどろしい話で恐縮だが、敵が欲しいのは「頭部」だけ。つまり、あの場所が正しい死に場所だったとしたら、そこらに骨と化した五百年前のご遺骸が埋もれていたのかも知れない。
なお、墓地は廿日市の洞雲寺にあり、ミルは毎年お参りに行っています。
附録一・『実録』中特記事項
一、出生の異説
興房の子ではなく、その姉の子とする。実父は問田紀伊守。興房には五郎義清という実子があったのだが、「無道而不応父意」だったので、これを殺し、かわりに隆房を養子とした。
このとんでもない逸話は、近藤先生言う所の「俗書」の『陰徳太平記』から来ていて、「無稽の談話」。
ただし、歴史学の先生方は「無稽の談話」を眉をひそめられても、この話が当時、それなりに「信じられて」いたらしいフシがある。『陰徳太平記』の作者が脚色したというより、そのような噂話があって、皆がそれを信じていたのだろう。宮島町から出ていた『棚守房顕覚書』の解説にもこのエピソードが載っていたので、のけぞるしかなかった……。
好意的にとれば、陶興房のような史上稀なる忠義の臣から、謀反人が生まれるはずがない、という考え方なのかもしれないが……。我が子を手にかけたなどというとんでもない濡れ衣を着せられたら、そちらのほうが悲しい気がする。
一、改名の時期
隆房から晴賢になった時期に関して、近藤先生は次のように指摘しておられる。
「古文書(によれば) 九月廿三日の 文書に隆房とあり て、十一月十一日の文書には晴賢と見ゆ。この間のことなり」。
出家入道して改名した時期に関して。
「古文書(によれば)九月十 八日の文書に尾張守とありて、十月十五日の文書に尾張前司と見ゆ。此間のことなり」。
参照箇所:近藤清石『大内家実録』巻二十八「叛逆」より、山川出版社『日本史広辞典』
陶 すえ という姓について一昔前までは、フツーにオンラインゲームで自らのHOMEに麗しい画像を並べているだけで「謀反人などを好きになってはダメです」と説教してくるオジサンというものが存在した。
その後、なにやら愛情のかたちも色々あるとかで、そのようなジャンルを好む女性たちから好奇の目で見られ(時に男性からも)、いったい、何をしたどういう人だと説明すべきなのかまったく分らなかった。
そもそもゲーム機の中に現われる人名の読み方すら分らなかった。なにゆえにいきなり○国の人が出て来るのだろうか、と真剣に考えてしまったほどだった(何気に、そのように読める三文字の組み合わせなのでなおさらいけない)。これは笑い事ではないのであって、宮島で働いている地元の方が、陶を「普通に」トウとお読みになり、○国のお方でしょうか? と真顔で尋ねられ当惑してしまった。
そのくらい「読めない」。普通に読めるのは、地元に住んでいる人か、日本史を専攻して教科書のふりがなを読んだ人だけかも知れない。まあ、難読の地名人名など全国に山とあるわけで、難読というよりも「誤解されかねない」という意味。もし、なおも読めない方がおられたら日本史を復習してください。
※この記事は 20220423 にリライトされました。
リライト前公開日:2020年4月9日
附録二・リライト前記事「年譜」
※近藤先生の『大内氏実録』を抄訳したもののようです(書いたの本人のはずだが……)。上の本文と被るところもありますが、現在多くのページがそうなっている、古文苦手高校生逐語訳的イマドキ語変換より、こちらの分かったふり意訳のほうがわかりやすい気がしたので、残しておくことにしました。のちほど、重複を整理します。以下「 」はリライト前そのままです。
「年譜
陶晴賢、初名は隆房、幼字は五郎。尾張守・興房の二男。
(俗書・『陰徳太平記』の記述に、晴賢は実は問田紀伊守の嫡子であり、興房の姉の子であった。興房の実子・五郎義清という者は、十五歳であったが、 道徳に背く行いがあり、父の意に従わず、ゆえに興房はこれを殺して、晴賢を養子とした。とあるが、根拠がない)。
容姿が美しく、義隆に愛された。
天文六(1537)年正月八日、従五位下に叙され、中務権大輔に任じられた。
九(1540)年、義隆は安芸に出陣して、玖珂郡岩国に布陣した。隆房もこれに従った。九月、尼子晴久は大軍を率いて、安芸・高田郡に入り、毛利元就の郡山城を囲んだ。元就が援軍を要請してきたから、義隆は隆房と内藤興盛らを派遣した。
十月四日、隆房は厳島に参詣し、太刀と神馬を奉納すると、伊香賀対馬守を名代として在島させた。
四日未明に海田に渡り、中郡より郡山に進んだ。十二月三日、郡山に到着し、山田中山に陣を置いた。十一日、城内及び五龍城の宍戸安芸守元源に呼びかけ、尼子の宮崎長尾の陣営を攻撃した。十年正月十一日、郡山の天神尾に陣替えをした。十三日、元就が宮崎長尾の敵営を焼く。隆房はこの機に乗じて晴久の本営を衝こうと三塚山下に進軍した。晴久の従祖父下野守久幸は、山上より下って奮闘した。 深野平左衛門尉ら十三人が戦死し、江良伊豆守も十三ヵ所もの傷を負ったが、久幸主従十五人を斬った。この夜、尼子軍は壊滅し、晴久は出雲に逃れた。
三月、佐東にて戦った。
十一年(1542)六月七日、出雲国飯石郡に進み、赤穴の瀬戸城を攻めた。 戦況は芳しくなく、 粟屋内蔵助ら二十余人が戦死した。
十二年(1543)五月、出雲より帰還。
十四年(1545)八月十七日、尾張守に任じられ、十七年四月十六日、従五位上に昇進した。
十九年(1550)八月十五日、先に杉重矩の讒言を信じた隆房は、 義隆を恨んで相良武任に立腹していた。この日、仁壁、今八幡両宮の例祭に際して、義隆が両宮に参詣するのを狙って、隆房が途中でこれを襲うだとか、相良の屋敷に押し寄せるだとかの噂があり、市中は騒然としていた。義隆は参詣をとりやめ、十六日、近郷の兵を山口に集めて、館を警衛させた。
隆房は名代を派遣して、無実を訴えた。それなのに、なおも罪を問い質す兵を差し向けられるとか、切腹を命じられるとかの噂が起こった。
それで、隆房は武具を揃えて、防御を固めた。
十七日、義隆の命を帯びた陶隆満、杉興重入道、吉田興種が来て、家人を山口にあつめ置き、武具を揃えたことを詰問した。隆房は、家人は翌年の氷上山二月会の大頭を承っているため、その差配のために召し出したこと、武具のことは誤解である、と弁明した。こうして、なんども陳情するにおよび、ようやく疑いが晴れて、事はおさまった。
十一月、所領の都濃郡富田に帰還。これより密かに造反を謀り、また、罪に問われることを想定して、二十(1551)年二月には、興隆寺の二月会に出仕しなかった。
山口では、大友家が援助に同意したので陶討伐に兵を送ってくるだろうとか、真珠院では護摩を焚いて隆房を調伏するよう命じられたなどの噂があった。そんなところへ、領内の荘厳寺が隆房毒殺の命を受けたときいたので、叛意を決して荘厳寺の僧を殺した。
義隆を幽閉すべきか、あるいは弑逆すべきかと、野上平兵衛尉、江良丹後守、伊香賀民部少輔と相談し、義隆父子を殺害し、義隆の猶子・大友八郎晴英を当主に迎えることに決まった。そこで、山口及び各所に通達すると、杉重矩が仲間に加わってきた。麻生彌五郎を遣わせて、晴英に、義によって義隆を廃するので、大内氏の家督を継いでくれるように頼むと、晴英はこれを承諾し、義隆から贈られていた密書を隆房に渡した。
八月二十八日、江良丹後守、宮川甲斐守が防府口から、隆房自身は徳地口から進軍し山口を攻めた。
義隆は法泉寺に退却して抗戦し、二十九日、長門国大津郡に逃れた。
柿並佐渡守に足軽を率いさせてこれを追撃させた。
九月一日、佐渡守は義隆を深川村大寧寺に囲み、義隆は自害した。義隆の子・義尊を捕らえ、翌日殺害した。また、各地に兵を派遣し、己に従わぬものを討った。
晴英に偏名を尋ね、晴賢と名を改めた。(九月二十三日の 文書に隆房とあり 、十一月十一日の文書では晴賢となっているので、この間のことである)
二十一(1552)年三月、晴英を豊後から迎え、主君に立てた。晴英は義長と名を改めた。口月、先に、義長を迎える件で、杉重矩と仲違いしていたが、遂に重矩を蟄居させた。重矩が風見鶏のような人物であると進言する者があり、相良武任が免罪を訴える書状も見つかった。そこで、はじめて重矩に利用されたことが分かり、重矩を殺害し、その首を晒した。その後、義隆の霊に謝罪し、剃髪して法名:呂翁全姜と称した。(九月十八日の文書に尾張守とあり、十月十五日の文書に前尾張あるので、その間のことであろう)
二十二(1553)年十月、石見の吉見正頼が挙兵した。二十三年、義長は吉見討伐のため阿武郡渡川に出陣し、晴賢は先鋒として徳佐に陣を置いた。
五月、毛利元就が挙兵。九月、正頼は嫡男・亀王丸を人質とし和平を求めた。この時、晴賢主従は毛利氏の勢いが盛んになっているのを憂いていたので、これ幸いと和睦して、義長は山口へ帰還した。
晴賢はただちに周防国玖珂郡岩国に赴き、横山の永興寺に陣を置いた。
弘治元(1555)年三月十六日、毛利氏の離反の計に陥り、江良丹後守を殺害した。
九月二十一日、安芸国厳島に軍を派遣して宮尾城を攻めていたが落とせず、晴賢はこの日、大挙して厳島に渡り塔の岡に陣を置いた。
十月一日未明、毛利元就父子が塔の岡を襲った。晴賢は不意を突かれて狼狽し戦うこともできず、西山に向けて逃れた。小早川隆景がこれを追った。
三浦越中守が殿となって戦死した。晴賢は何とか逃れて、青海苔浦にいたったが、船がなかったので、大江にて自害した。三十五歳であった。
宮川市允が介錯し、晴賢の首を山中に隠して埋めた。伊香賀民部少輔、柿並佐渡入道、山崎勘解由らもこれに殉じた。
毛利氏は晴賢の首を探したが見つけられずにいたが、晴賢の召し使う子供が、命を助けてくれるように頼み、晴賢の首の所在を告白した。それで、毛利軍はその首を見つけることができたのである。元就父子これを廿日市の洞雲寺に埋葬した。
妻は内藤左京大進隆時の娘。二男を生んだ。長男・長房、二男・某。 長房は五郎と称した。(鶴寿丸、右馬助、兵部少輔の名があるがほかに所見がない)。
長房は若山を守っていたが、弘治元年十月七日、杉重輔兄弟が襲って来た。興房は父敗死の訃報に意気消沈しており、また、杉重輔の襲撃は思いも寄らないことだったので、防御することもできなかった。
城を棄て、長穂の龍文寺に逃れたが、重輔はこれを追撃し、寺内に押し入ったので、自害した(閏十月七日、杉隆重のために、富田にて討ち死にとするものもある。また龍文寺の寺伝には若山にて亡くなった、とある。しかし、龍文寺付近に千人塚という古い塚が五つもあるため、これらの説はとらない)。法名:龐英洪□。子・鶴寿丸(系図は、あるいは、晴賢の末子である、とする) 、某(系図に貞明、小次郎、雅楽助とあるが他に所見なし) は龍文寺にて自害。
弘治三(1557)年、義長が且山に逃れた際、鶴寿丸は六歳(五歳とするものもある)だったが、家人・野上房忠がこれを背負って義長に従っていた。四月三日、義長が長福寺にて自殺した際、房忠は鶴寿丸を刺して、これに殉死させた。
近藤清石『大内氏実録』より」