
『大内氏実録』では、宗家滅亡後、毛利家に仕えた方々を「帰順」と分類しております。なんとなく、裏切りじゃないのか……と感じたりするのですが、宗家の殿さまが叛乱家臣に追い出された挙げ句亡くなられたという経緯があったため、事情が複雑です。いかに毛利元就公が仁徳者であったとしても、どことなく侵略しているようにしか見えない側面もあるのですが。せいぜい「降伏」くらいに思っています。特に悪いことではないです。無駄死にはやめたほうがいいので。
現在『実録』の分類方法には問題があるのでは? と感じています。家臣は家臣としてまとめるべきかと。新しい本も見ながら書き直していますので、すべて終えたら、このページは消滅します。リンク先でお楽しみください。
内藤隆春
大内氏代々の重臣、内藤氏の一族。実の姉が義隆養女として、毛利隆元に嫁いだ。⇒ 内藤氏の記事は、下記に移しました。
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内藤氏 藤原道長の子孫・大内氏重臣の家なのに毛利家臣に
藤原道長の子孫が周防国に流れ着いて、地元の女性と結婚。住み着いた。天皇から内藤氏を下賜されたという。盛見代から正式に家臣となり、代々家中で重 ...
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椙杜隆康
三善姓。「意見封事十二箇条」三善清行、京下りの輩・問注所執事三善康信の末裔、太田というものが玖珂郡椙杜に移住し、大内氏に属した。⇒ 椙杜氏の記事は以下に移しました。
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椙杜氏 三善姓・「意見封事十二箇条」ならびに京下りの輩の末裔
『意見封事十二箇条』の三善清行、鎌倉幕府の問注所執事となった京下りの輩三善康信などの末裔で太田と名乗った子孫。周防玖珂郡椙杜荘に移住し、大内 ...
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小方隆忠
のち元康と改名(帰順ののち、隆元の隆字を避けて、その偏名を求め元康としたものと思われる)。
弘治元年、毛利氏に投降した。
弘治元年十月十四日、毛利氏は鞍掛山城を攻めた。隆忠も従軍して城主・杉治部大夫隆泰を斬った。毛利彦次郎にあてがわれていた、玖珂本郷南方の内九十石の地を領したいと願い出た。閏十月一日、元就父子は隆泰を斬った功を褒め、望む所の地を知行すべき連署の書を与えた。晩年、 児玉三郎左衛門尉就忠の二男元信を養子として娘をめあわせた。子孫は今に続いている。
小方家
始祖:長門入道。出自は不明。
安芸国佐西郡小方村に居住し、地名を以て小方と称した。
長門入道 ⇒ 盛康(左衛門大夫) ⇒ 重康(七郎二郎、長門守、対馬守入道) ⇒ 興康(対馬守) ⇒ 隆忠
小方重康・興康父子
義興に仕えた。晩年玖珂郡椙杜北方の内二十石、祖生郷の内十二石の地を興康に譲与した。しかし、のちにこのことを惜しみ、興康を不孝であるとしてその地を悔い返ししたいと願い出た。義興がその事を調べると、不孝とするべきところは全くなかったので、和睦するように命じた。重康は義興の命令に従うと答え、暇を請わずに所領地に還った。
興康は父の過失を老耄のせいであると哀謝して、また父に生涯かの地を自由にさせることを願い出た。義興は興康を褒めて望むに任せた。重康は永正十七年九月一日、かの地を隆忠に譲与した(譲与状、源二郎とあり、義隆の偏名を賜った年月不明)。大永三年四月十一日、これを許可された (興康はこれよりさきに死去したのだろう)。
小方隆忠
隆忠は義隆に仕え、兵部丞になることを望み、享禄二年十二月十二日に推挙状を賜った。また父祖の受領名対馬守を継ぐことを望み、天文十六年五月十七 日、推挙状を賜った。義隆が薨じて義長に仕えた。
弘治元年、毛利氏に投降した。
弘治元年十月十四日、毛利氏は鞍掛山城を攻めた。隆忠も従軍して城主・杉治部大夫隆泰を斬った。毛利彦次郎にあてがわれていた、玖珂本郷南方の内九十石の地を領したいと願い出た。閏十月一日、元就父子は隆泰を斬った功を褒め、望む所の地を知行すべき連署の書を与えた。晩年、 児玉三郎左衛門尉就忠の二男元信を養子として娘をめあわせた。子孫は今に続いている。
のち元康と改名(帰順ののち、隆元の隆字を避けて、その偏名を求め元康としたものと思われる)。
本末二家あり、本家はただ享禄二年の推挙状を蔵するのみ。さて本末の系譜で隆忠の子の数が相違している。 本家の系譜では男女二子として、娘は元信の妻、男は某、太郎四郎、九兵衛、子孫不明とし、末家の 譜では二男一女とし、長男某、喜兵衛尉、遺跡不明。女子元信妻。男某、太夫丸、遺跡不明とする。
町野隆風
藤原姓。安房国、近江国、周防国と移動。叛乱者に与したが、毛利家臣となった。記事は移しました。
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町野氏 近江から西国へ・叛乱者に与したのち毛利家臣に
藤原姓。武士化した藤原氏の一類と思われ、源氏に仕えて安房国に所領を得た。その後、里見家、近江の蒲生家と主をかえ、在京中の義興に従って周防国に ...
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白井賢胤
本氏は千葉、上総介忠常の遠裔白井越中守光胤の子・縫殿助膳胤の子である。白井氏については以下の記事です。
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松原氏
ポイント
ちすじは宇治関白頼通から出ている。古勢部を氏とし、代々宇治の小松原に居住した。
永享年間、木工頭兼氏が大内満弘の庶子・蔵人佐幸兼を女婿とし家を譲った。
大内持世が幸兼に周防の山代に三十五貫文 の地を与えた。
刑部少輔末則(幸兼の子)が寛正五年三月に初めて山代に下向。七町の地を加えられた。
幸兼 ⇒ 末則 ⇒ 興詮 ⇒ 満氏
古勢部興詮
対馬守。古勢部氏を松原に改める。佐波郡に七町一段の地を領有した。
晩年剃髪して源知と号した。
松原満氏
刑部太郎と称した。
天文二十三年、父・興詮および子弟等を率いて毛利氏に従った。ただ弟・安定の子民部少輔安秀、叔父出雲守氏頼の子・新四郎光末および一族隠岐守守之、その子・隼人佐幸住、主税介武正は従わなかった。
満氏は折敷畑の戦いで宮川但馬隆重および杉田主水と槍を合わせた。
弘治元年三月、神田蔵人允等と山代兵三百余を率い、廿日市の桜尾に出張して毛利隆元に 拝謁した。隆元はこれを労って太刀および馬を与えた。
永禄四年、七町四段の地を加えられた。同十月三日死去。行年七十 八歳であった。
松原祐次
主殿允。折敷畑の戦いで宮川の一所兵中村右衛門尉(山代兵で子孫は今につづく)を斬った。
弘治元年三月、父とともに隆元に拝謁した。
弘治元年閏十月晦日、元就父子の連署で山代地安堵の書を賜った(神田蔵人允と連名)。
天正十二年九月廿三日死去。子孫は今に続く。
松原安定
はじめ左近将監、のち土佐守となった。満氏の四弟である。
折敷畑の戦いで江木筑前守と槍を合わせた。分捕の功があり感状を賜った。
天正十三年五月十日死去。 行年八十八歳。
天正十三年五月十日死去。 行年八十八歳。嫡男・安秀は江良弾正忠賢宣に従った。二男正・祐、刑部少輔であった。三男・隆則は大寧寺で亡くなった。⇒ 江良弾正忠賢宣
松原氏信
安定の四男。将監進と称した。
弘治二年四月、坂新五左衛門尉元祐に従い、須々万の沼城を攻めた。
弘治二年四月二十一日、軍勢をわかつにあたり、城将・勝屋右馬允を追撃し、白砂川で右馬允を射殺し、元祐がその首を獲った。元就は氏信に感状、また右馬允の刀を賜った。玖珂郡に八町七段の地を領した。⇒ 勝間右馬允
文禄四年九月一日死去。
参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十九「帰順」より