広島県廿日市市宮島町の滝小路 & 柳小路とは?
滝小路、柳小路はともに、宮島にある通りの名前です。古くから続く、歴史ある通りです。宮島検定のテキスト『宮島本』にも項目がたてられていて、解説があります。いずれも厳島神社周辺から続く通りですが、歴史的に見ると、滝小路は神職さんたちが住まいしていた区域、柳小路は一般庶民の方々が住まいしていた区域という区別があります。
現在はいずれも趣がある古い町並みといった光景なので、かつての神職さんたち居住区域、一般庶民の方たち居住区域という「違い」は見分けがたく、よほど意識していないと適当に歩いていてココがどちらの通り、とは区別し辛いです。両通りの位置関係と行き方について、写真入りで丁寧にご案内します。
滝小路 & 柳小路・基本情報
所在地 〒739-0588 廿日市市宮島町
※ Googlemap にあった住所です
今回ご紹介する「滝小路・柳小路」は地図で見ると、およそつぎのような範囲となります。
(五重塔に上がっていくところの案内看板地図をお借りしています)
緑枠内の大聖院に向かって真っ直ぐに伸びている道が滝小路。黄色枠内の滝小路に接続し、藤の棚公園方面に向かう道が柳小路です。また、数々の案内文によれば、滝小路は「筋違橋」から大聖院に向かう云々とあります。オレンジ枠で囲った部分がその、「筋違橋」の位置となります。
滝小路 & 柳小路・歴史と概観
※滝小路 & 柳小路の読み方について:ガイドブック等には、「たきのこうじ」「やなぎこうじ」とふりがながありました。けれども、『宮島本』には「たきしょうじ」「やなぎしょうじ」とあります。どちらが正しいのか、あるいは、どちらも正解なのか悩ましいところです。現状、『宮島本』が基本である、というスタンスなので、「たきしょうじ」「やなぎしょうじ」としますが、ほかの文献も探してみたいと思いますので、いちおう保留とさせてください。
内侍さんだけの島へ男性神職方の引っ越し
宮島は島全体が聖なる領域です。ゆえに、古来より信仰の対象となってきました。厳島神社が創建されて以来、神社の祭祀を執り行う方々が島に居住するようになり、厳島神社信仰が盛んになるに従い、神職以外の方々も島に住むようになりました。寺社があるところに次第に門前町が形成されていき、寺社の発展とともに町も栄えていく、というごく普通の流れですね。
けれども、厳島神社に関しては当初、島内には「内侍」さんといわれるいわば巫女さんしか居住しておらず、男性の神職は島外に住んでいました。地御前神社の辺りといいます。女人禁制というのはしつこく耳にする言葉ですが、男性がいなかった、というのは珍しいんじゃないでしょうか。ただし、祭祀を執り行ったりはしていたはずですし、男子禁制ときいたこともありません。そもそも、男子禁制ならば、時を経ても島に住むことはなかったでしょうし。なにゆえに、最初は巫女さんしか住んでいなかったのか、気になるところではあります。
『宮島本』によれば、男性神職の島内移住が始まったのは「1300年代」といいます。ずいぶんと長い間、巫女さんたちだけが住まう島時代が続いたのですね。もっとも、神社の歴史そのものは推古天皇まで遡るとはいえ、現在の社殿の建築は平清盛の時代だったりするわけです。そう考えると、今のように広く人々の信仰を集めるようになってからをスタート地点と考えるとお仕事が忙しくなるまでは外部に住んでいただけなのかも知れないとも思えます。
いずれにせよ、男性神職方が島内に居住するようになると、引き続き、男女取り混ぜ商人たちも移り住むようになりました。神聖な島であることには変わりないものの、人が住むところに町ができ、やがて大いに賑わう観光地となっていくのです。
新たに島内に移り住んだ人々は、神社の周辺に居住します。彼らが居住地としたのが、滝小路・柳小路界隈でした。このふたつの通りは、住人たちの「住み分け」がなされていました。滝小路には神職が、柳小路には商人などの庶民が住む、という区別があったのです。それゆえに、滝小路にはかつての神職にまつわる史跡が残されています。
柳小路は神職ではない方々が住む町、ということなんですが、現在みたところ、滝小路も柳小路もそっくりです。デカデカとここより滝小路、のような看板が立っているわけではないですので、正直、見分けがつきません。現地にいる際には、ナビ起動で現在地がわかりますが、帰宅後写真を見ると、どれがどっちなのかわからないです。現在は表通り商店街などができてお買い物街となって賑わっており、それらの今風な賑わいある通りを見てしまうと、かつてそうであったと思われる柳小路は現状、昔の面影を残す風情ある通りという趣です。その意味で、同じく由緒ある滝小路と区別がつきにくくなってしまったものと思われます。
トロすぎる案内人・ミルは、二桁通った宮島で「柳小路と滝小路」の区別ができなかったんだけど、今回(20230604)ついに、その区別ができるようになったよ。
あんまりじゃん……(涙)。でも、せっかくなので、区別方法を特別公開いたします。
これでバッチリ! 柳小路と滝小路の区別
基本は上の観光案内板引用地図の通りです。滝小路は大聖院へと続く通り。起点の目印は筋違橋です。こちらはとてもわかりやすいです。で、問題は柳小路ですが、こちらも目印は筋違橋で、滝小路と交差するようにして始まっています。口頭ではわかりにくいので、現地写真を交え、順追ってご説明いたします。
まずは筋違橋ですが、この橋は厳島神社の裏側。参拝後、ほかに立ち寄らず真っ直ぐ桟橋に帰る方々なら普通に通っている道付近にあります。参拝後と仮定すると、右手に見える御手洗川に架かっている橋です。まずはこの橋を渡ります。
橋を渡ったところは、下の写真のような感じになっています。
ごらんの通り、左右に曲がれる道があり、十字路のように見えます。滝小路と柳小路は交差している、という言葉に惑わされると、橋を渡って最初に交差するこの道が気になってしまうかと。けれども、ここで曲がってはなりません。この道がなんという道なのか未調査ですが、柳小路ではないと思います。また、この写真からはわかりづらいですが、じつはこの道は一本の長く続く通りではありません。神社参拝後の方が右折するとそのまま大願寺のほうに引返してしまいますし、左折した道は迂回するようなかたちで元の道に戻ってしまうだけです。
ちなみに、この道を左折すると、「厳島神社宝蔵」です。
写真左手に入り口が、その奥に宝蔵もチラ見えております。けれどもこの道は宝蔵に行けるという以外、特に何もなく、前述した通りそのまま進んでも元の道に戻ってくるだけですので、宝蔵を見るための「立ち寄り」専用です。
というわけで、最初の交差は無視してもうちょい進んでください。二本目の交差した道に行き当たります。わかりやすい目印として、郵便ポストがございます(黄枠内)。
ここは「いちおう」本職ガイドである、@SITEOWNER が指し示す方角を信じてください。緑の矢印の方向に左折します。左折するとこのような通りが真っ直ぐに続いております。
最初のうちこそ、お食事処などがございますが……。なおも進んで行くと、滝小路と区別がつかない、奥ゆかしい町並みとなります(お食事処付近からして、すでに奥ゆかしいですが)。
途中には鹿まで出現。そういえば、立派な角が生えた鹿さんと巡り逢ったのは初めてのような? 雌鹿ばかりと行き逢っていたのだろうか。
こうして延々歩いて行くと、この道はどこまで続いているかと申しますと、「藤の棚公園」です。そのちょい先は四宮神社でして、要するに紅葉谷公園のほうまで行けてしまいます。なぜか Googlemap ですと、藤の棚公園には繋がっていないのですけど、宮島観光協会さまの地図ではきちんと繋がっており、実際その通りに辿り着きましたので、権威のご案内として安心して大丈夫です(観光協会さまの地図は桟橋で無料配布されています)。
以下が証拠写真というか、柳小路から行き着いた先です。ここを以て柳小路の終点と定められているのかわかりませんが、地図にはこの先の道が何と呼ばれているのか書いていないので、適当なことは言えません。この階段を上った先が「藤の棚公園」であり、行き止まりではありません(公園を抜けてあらたな道が続きます)。
回りくどい説明など不要で、誰でも普通に区別できる道だと思うが……。
(珍しく意見一致)俺も当然、ちゃんと区別できるよ。でも、なんだろ、この「既視感」?
(はっ、思い出さないで……)
滝小路と吉川元春の消火活動(厳島合戦)
いきなりですが、柳小路も滝小路も厳島合戦の舞台です。かくも神社からほど近いところで戦闘があったのかと思うとビックリしますが、考えてみたら宮島そのものが神社中心に開けているので、そんな島を合戦場に選ぶという罰当たりなことをしている時点で、神社が巻き込まれるのも当然と思い至るべきです。
毛利元就さんを敬愛する広島県の皆さんには、決して目にして欲しくない一文ではありますが、これ、正直、悪いのは毛利さんですので。皆さん都合のよいところだけ覚えていらして、肝心なところを忘れてしまっておられるので、敢えてたまには嫌味を書いてしまいますと、以下の通りになりますが。どう思われるでしょうか?
軍記物などの影響で脚色されているためどこまでが史実かはっきりしないものの、毛利元就が「囮城」を造ってまで、大内軍を宮島に招き寄せるという作戦をとった、ということが事実だとします。となると、宮島=厳島神社のある島を戦闘に巻き込んでしまう、という事態を招いたのはほかならぬ毛利さんということになるではないですか。
大軍を擁する大内方と開けた場所での戦闘を行なって正面衝突したら不利ということで、陸路来ないように門山城を徹底的に破壊したりしたわけですよね? それから偽情報流してまで島に誘導したと。誘導されたらその通り来ちゃったってことで、敵を愚か者扱い。その一方で、まんまと敵を罠にはめた毛利元就公は神がかりである、という敬愛の念がさらに深まっていく……という流れかと思うんですが。そうやって誤魔化したところで、ますます墓穴を掘ることにしかなりません。あれこれ策を弄して誘い込んだりしたから、宮島が戦闘に巻き込まれて、厳島神社付近までたいへんなことになったわけですよ。
戦争なので、どっちもどっちですから、大内軍も神をも畏れぬことをしていますし、それについてはどっちが悪いとかはありません。神社や寺院は古来より、数多の合戦の舞台となっています。兵士が屯するスペースを確保でき、お坊さんが日常生活を送っている場所でもある寺院など食事にも事欠きません。寺社ともに、伽藍や社殿で総大将レベルの偉い人なら寝起きもできますし、本陣を設置するのにこれほど相応しい場所はないです。たいていは、出撃地点みたいな使われ方だけれども(大内家が岩国の永興寺から何度も出陣したみたいに)。けれども本陣があるってことは当然、敵から襲われる可能性もありです。応仁の乱両畠山の上御霊社なんて、防御に勝れた場所選んで陣営置いたところからして、そこが戦場になる、って知りつつもって感じだもんなぁ。神社という神聖な場所だというのに……。
毛利元就さんは両畠山なんかと比較してはだめなお方ですし、厳島神社に本陣置いてなんかいなかったけど(地御前神社では出陣準備したけどね)、陶方が陸路行ってたら少なくとも厳島神社は巻き込まれなかったよ。その場合毛利軍に勝ち目はなかったとか言い訳する人いるかもだけど。こんだけ神がかりなお方なんだから、正面突破でも「愚かな」敵なんか薙ぎ倒してたかもしれないですよ。むろん、神社そのものは合戦の舞台になりませんでしたし、敗残兵が逃げ込んだりしたのを捕まえたくらいのことしかないと思いますが。
でも、神社に火が燃え移ったら大変だから消火活動とか、ほど近い所で合戦など行なわれたから穢れを払うために床掃除するとか(貼り替えたんだっけ?)、そういうこと気になるくらい大切な神社なのだから、だったら最初からここが戦場とはならないようにする気配りあってもいいんじゃないの? と、負けた側は嫌味たらたらなのでした。
毛利元就の博奕尾からの奇襲が成功し大内軍は総崩れとなりました。で、撤退する道中で弘中隆兼が滝小路に火を放ったとされています。ココ、なんで燃やすんだろ? と疑問を抱く人がもしいたらばのお話とはなりますが、戦争中ってね、あれこれ燃やすんですよ。軍記物とか見ていると山と出てきます。何月何日、どこそこに火を放つ、みたいに。
単に邪魔な民家を撤去するためだったり、暗いから明るくするためだったり、理由は色々。敵の兵糧を燃やしてしまう、とかもありますよね。いつの世も悲惨な目に遭うのは我々一般庶民です。滝小路は神職方のお住まいがあったところ、ってことですが、どなたであれ、家が燃やされたら大変ですよ。とは言え、逃げるほうも必死なので、攪乱して時間稼ぎをしようとでも思ったんでしょう。
単に逃げる途中火を着けた、ってだけではお話になりません。軍記物マニア以外には知る人もいない、ってことになろうかと。けれども、この放火案件が現在まで語り継がれている理由は「吉川元春の消火活動」の逸話によってです。
滝小路は厳島神社からほど近いところです。まあ、横に長い通りなので、実際火を着けたのがどのあたりなのかわからないけど。普通に考えたら神社に近いあたりでしょう。そうでなくとも、木造家屋、延焼するスピードはすさまじく早いかと。放っておけば、そこらじゅうが火の海となって、厳島神社にまで被害が及ぶかも知れません。
敵を追っていた吉川元春は、追跡なんぞより消火活動が先だ! と下知して皆で必死に火を消しました。理由は大切な厳島神社が燃えてしまうようなことになったらたいへんだからです。何せ安芸国一の宮ですから、地元でもっとも格式の高い、心の拠り所みたいな神社です。他所者大内にとっては妙見社とか興隆寺が大事かもだけど、それに匹敵するよね、きっと。
そんなわけで、滝小路は、吉川元春さんが戦闘などそっちのけで消火活動を優先したことで有名な通りです。
柳小路と敗軍の悪あがき(厳島合戦)
『宮島本』には、滝小路の吉川元春の消火活動の逸話とともに、柳小路のところには、逃げる大内軍が毛利勢と戦った古戦場みたいなことが書いてあります。コレ、バラバラに見ると繋がりませんが、吉川元春の消火活動と、柳小路で毛利勢と云々はひとつの話です。
『陰徳太平記』だけ見て書いているため、真偽の程は知りませんが、まずは弘中隆兼が奮戦したという話が来て、その後、そのさまを見たほかの逃亡中の人々も「柳小路から」毛利勢に襲いかかったと続きます。弘中と戦っていたのは吉川元春の部隊でした。この人は優秀すぎる毛利三兄弟の中でもことに武勇が煌めくお方ですが、先に弘中、つづいて、そのた大勢「柳小路から」来た連中と敵も然る者なので、けっこう危うい感じになったんです。とまれ、奇襲が成功した時点で勝敗は決していますので、こんなところでやられるはずはありません。
ちょっと突出しすぎていたので、人員が足りなかっただけです。後からぞろぞろと味方が追いついてきますから、こうなるともう、敗戦濃厚の連中にはどうにもなりません。先に弘中が滝小路に退き、その後から「柳小路から」加勢が来たのですが、それでももうダメだ、ってことで火を着けながら逃げていったわけ。ここで、消火活動という順序です。
まとめると。
弘中 vs 吉川元春 ⇒ 弘中強いし、人手不足で吉川元春押され気味に ⇒ 吉川勢加勢現るによって弘中滝小路に退く ⇒ 弘中奮戦に刺激された大内軍諸々が柳小路から吉川元春らに襲いかかる ⇒ なおも人数揃ってないので吉川元春ちょいヤバそう ⇒ 吉川勢加勢さらに到着 ⇒ 弘中これ以上は無理と感じ、左右の民家に放火して、そのどさくさに紛れて逃げていく
どこをどう見ても、吉川元春スゴい、って話だけです。とりあえず、ここらで戦闘があったことは事実でしょう。先に弘中と吉川元春とが戦闘状態に入り、結局滝小路に退くことになりはしたものの、弘中の奮戦を目にしたほかの連中が柳小路から吉川元春に襲いかかったというのですから、これらは滝小路と柳小路が交わる辺りの出来事と見受けられます。
吉川元春が消火活動に入ってしまったせいか、これ以上の記述は取り立ててなく、滝小路・柳小路における戦闘は、逃げていく大内軍の悪あがきって程度のものと思われます。そもそも、いかに神社が大切とはいえ、命の危険がある状態では悠長に消火活動などできなかったはずです。毛利方には崩壊して逃亡する連中など放っておける余裕があった、ということですね。むろん、この後も忠義の家臣による最期のご奉公は続くので、厳島合戦がこの通りで終了したわけではありません。なお、現在の滝小路・柳小路を見たところで、ここが合戦跡地だった、というような痕跡は何一つないです。
滝小路 & 柳小路・みどころ
厳島合戦跡地としてこの通りを見に来たとしたら、「何もない」です。滝小路には『棚守房顕覚書』で有名な棚守の屋敷跡など、かつて神職方が住んでいたという証となる史跡がありますが、ほとんど看板だけです。だったら見るべきものは何一つないのか、と言えば、むろんそんなことはありません。
滝小路 & 柳小路は風情ある昔の町並みを満喫しながら、かつてここでこんなことが、あんなことがあった、という歴史にも思いを馳せる、そんな趣のある通りです。
筋違橋
厳島神社の裏手、御手洗川に架かる橋です。ここより滝小路ってところにあります。厳島神社に参詣している人で、この橋(の前)を通らない人はいないはずです。ただし、意識して○○橋だ! といちいち考えている人は少ないかも知れません。宮島にはかなりたくさんの橋がありまして、全部でいくつとかわかりませんが、どれもそれなりに趣があるので楽しいです。たいてい、「○○橋」と名前が書いてありますから、たまには橋を見かけたら何橋なのか見てみるといいかもしれません。島じゅうの橋コンプリートとかしたらスゴいかもね。
滝小路
こんな感じの風情のある道が続いていきます。これはもう、かなり歩いた辺りで、大聖院の伽藍がチラ見えていますね。
棚守屋敷跡
滝小路を入って最初にあるのがこの「棚守屋敷跡」です。「棚守」って聴くと、すぐに =『棚守房顕覚書』ってなってしまいますけれど、むろん、棚守さんはこの『覚書』の棚守さんだけではありません。この「棚守」って、そもそもは文書管理かなんかの役職名(ちょいうろ覚えです。間違ってたらすみません)。やがてそれが名字みたいになっちゃったんですね。棚守房顕さんも佐伯氏の方ですよ。
ミルたちもたいへんお世話になっている『棚守房顕覚書』ですが、これ、途方もない悪文でして、素人にはとても読めません。厳島合戦とか大内義隆寄進しまくりとか、凌雲寺さま来島とか、厳島神主家内紛とか、ここには様々なお宝情報が詰まっているゆえに、多くの研究者の先生方が史料として使っておいでなので、ここに書かれていることは、かなり信憑性が高いと見なされている、と思われるのですが。
当初、「群書類従」に収録されているものを見たけどチンプンカンプン。漢字とカタカナで書かれている上、いわゆる貴族の日記類の如く、年月日順に並んでもいません。「覚書」なので、おもいつくままに書いているため、時系列はグチャグチャです。解説の先生によれば、お国言葉も混じっているらしく、そのこともこの本をますます難解なものとさせています。中身ギッシリのわりには分量的には少なく、こんなものかよ? という感じではあるのですが。
このように図書館で呆然となっている人々のために、宮島町から小見出しを付け、詳しい解説を施したありがたい本が出版されたのですが、現在では絶版となり、入手困難となっております。廿日市で郷土史を研究する先生にお伺いしたところ、古書店で「万単位」の値段がつくほどの稀少本となっているそうです。というよりも、そもそも、ほぼ流通しておりません。
「が」、ミルたちは毎日欠かさずウオッチを続けた結果、偶然にも広島市内の古書店に入荷したとの情報をキャッチ。2000円で購入しました。正確には2000数百円だったと思われますが。「万単位」のご本を数千円で手に入れていたという謎な事態に、郷土史の先生もびっくりでした。本の状態はそれなりに古本してるな~という感じではありましたが、読むのに支障があるレベルではありません。現在も「万単位」かどうかはわかりませんが、とてつもなくラッキーでした。
㊙ 情報
宮島町版の『棚守房顕覚書』が、現在も桁違いの稀少本なのかは正確なところわかりません。確かに古書店サイトなどで検索してもなかなか見付からないです。ですが、202306 現在、以前購入したのと同じ古書店さんに一冊入荷しており、3000 円くらいでした。さすがに万単位はないんじゃないかな、と思いますが、郷土史の先生の情報が偽りのはずはないですので、その当時はまったく流通していなかったのでしょう。現在はチラホラと見かけるので、そこまでの高値にはなっていないのかも。
そんなわけで、あ~「万単位」の棚守屋敷跡だ、と思いましたが、何もありません。看板が立っていて、その脇に階段みたいなものが見えるだけです。中にも入れませんし、この階段が遺物かどうかも不明。ご覧の通り、階段の両脇は現代の地元の方のお屋敷と思われますので、見ての通りの「跡地」なんだと思われます。
「棚守屋敷跡
江戸時代、厳島神社は神仏習合の社としてその信仰を集め、その管理・運営は棚守・座主・大願寺によって行われていた、棚守は神職を代表して神事を行い、自らも舞楽を舞っていた。戦国時代の棚守房顕は、大内義隆や毛利元就の御師を務め、厳島神社の再興に尽力し、 厳島神社高舞台の擬宝珠には「棚守左近将監房顕 天文15年(1546)」の銘文がある。
この屋敷は、広島藩主などの来島時の宿泊所となり、邸内には能舞台もあったといわれる。
また、ここから大聖院にかけての石垣の上には、祝師・上卿などの神職や、仏事を行った社僧、東泉坊・執行坊・修善院・多聞坊などの寺院が並んでいた。 」(説明看板)
棚守・座主・大願寺のうち、「座主」とは大聖院のことです。あと、御師ってのはここでいうと、大内義隆専属神事取り扱い係みたいなモノ。大金持ちの大内義隆があれもこれも寄進すると言えば、イマドキの一般人のように、お賽銭箱にお賽銭を入れるだけで帰宅、ってわけにはいきません。それに、こういうやんごとなきお方(≓公家なので)は、あれこれの神事マニアですから、祈禱お願いとか色々ありますよね。いくら頑張っても神職ではない人が祈禱はできませんから、棚守さんに手配をお願いするわけです。そういうお役目。
説明看板によれば、棚守さんのお屋敷は能舞台まであるすごい邸宅だったみたいですので、そのまま残っていたならば、ぜひ見てみたかったですね。
ついでに、「高舞台の擬宝珠」ってのはコレです。写真だとよく見えないけど、現地で目をこらせば読めるかも。
「房」の字ははっきりわかりますね。
上卿屋敷(林家住宅)
棚守屋敷より先にあります。こちらは建物も残っています。中に入れてもらえるのかどうかは不明ですが、入り口に受け付けなどがないので、多分見れないのではないかと思われます。
現在、看板が立っていて確認できる神職屋敷は棚守屋敷と林家住宅だけみたいですが、滝小路にはコチラの林家住宅同様、門に注連縄をはっておられるお宅がありました。もしかしたら、現役の神職さまのご自宅などだったかもしれません。現在進行形でお住まいになっておられるお屋敷ですので、写真撮影などはできません。
粟島神社
棚守屋敷、林家住宅を過ぎると、粟島神社があります。厳島神社末社となります。
「粟島神社
祭神 少彦名命
例祭日 五月三日
少彦名命は大国主命(大黒さま)に協力して、国土開発、殖産興行、社会福祉などに大きな功績を遺された神様です。
商業、産業、醸造、医薬等の守護神として篤い信仰を受けておられます。
殊に病気平癒、安産、家内安全、福徳開運の霊験あらたかな神様として女性の方々の信仰を受けておられます」
(説明看板)
説明看板には書かれていませんが、『宮島本』によれば、この神社はもともと「東泉坊の鎮守」であったとのことで、現在地に遷されたのは明治維新後です。
棚守屋敷跡の説明看板に、「厳島神社は神仏習合の社としてその信仰を集め」とあるように、現在は完全にどこをどうみても完全なる神社である厳島神社も、大内氏の時代には神社なのか、寺院なのかわからないような雰囲気だったのですね。のみならず、神社の「管理・運営」には神職である棚守はともかくとして、大聖院や大願寺などの寺院も参画していたわけで。これまでいやというほど、このような例を見てきましたが、厳島神社だけは何となく、古来から現代に至るまで、純粋な神社であったような錯覚を受けていたので、ここも例外ではなかったということに気付かされました。
棚守屋敷と林家住宅は「跡地」がありますが、社坊については何一つ残っていません(いないと思います)。
金刀比羅神社
厳島神社出口付近、柳小路の先にある末社。
「金刀比羅神社
御祭神 大物主命
佐伯鞍職
例祭日 十一月一日
御由緒 大正四年に留守口恵比須
神社を昭和三十八年に
大願寺鎮守住吉神社を
それぞれ合祀した」
(説明看板)
柳小路にあるとはいえない気がします(Googlemap だとこの神社の前も柳小路となっていますが……)。ただし、どこに書けばいいかわからないので、滝小路・柳小路「界隈」ってことで、ここにお入れしています。
大願寺鎮守住吉神社が合祀された、ってありますが、大願寺はこちらの神社さまの目と鼻の先です。どうでも寺院と神社は分離しないと気が済まなかったのでしょうかね……。
滝小路&柳小路(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒739-0588 廿日市市宮島町
※通りなので、住所はないです。
アクセス
滝小路はとてもわかりやすいです。柳小路はちょいわかりにくいです。滝小路は厳島神社出口から少し戻り、筋違橋のところで右折します。筋違橋から大聖院まで、真っ直ぐに続いている道です。柳小路については、本文中の「これでバッチリ! 柳小路と滝小路の区別」をご覧くださいませ。鬱陶しいので、そのうちこちらの「アクセス」欄に移したいと思っています。
滝小路 & 柳小路(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想
滝小路 & 柳小路・まとめ
- 滝小路・柳小路は厳島神社付近にある古くからの通り
- 滝小路には神職の方々が、柳小路には庶民の方々が住んでおられた
- 厳島合戦の時、両通りで戦闘が行なわれた
- 現在の滝小路・柳小路は昔ながらの町並みを残す、宮島を代表する通りのふたつとなっている
- 滝小路は筋交橋から大聖院まで続く真っ直ぐな道、柳小路は滝小路に接続し、藤の棚まで続く道である
滝小路はとてもわかりやすいのですが、柳小路はちょいわかりづらいです。ここがそうである、と確信できるまで、数年かかりました……(方向音痴の人物尺度での話です)。いずれも劣らぬ風情ある通りであるため、ここはどこ? 私は誰? となってしまいます(正直、二つの通りは全く同じに見えます)。以前、この問題を解決しようと頑張り、毎回今度こそはと思いましたが、帰宅後調べると、どうやらすべて滝小路の写真ばかりのようでした。両方とも一度に解決しようとするからこうなるのであって、滝小路はもういいので、次回は柳小路だけを撮影するようにしないと、またしても混じってしまうと思った次第です。ただ漠然と写真だけ撮っていると、そのくらい何もわかりません。最終的に、写真云々は関係なく、現地で丁寧に地図を見る、という方法で問題を解決しました。
宮島桟橋に置いてある MAP を頂戴し、こっちが大聖院、これが滝小路と向きを合せて何度も確認し、ようやく柳小路がこの通りである、という答えを見付けることができました。アホらしい、普通にわかるだろうが、というお叱りの声が聞こえてきそうです。でも、宮島の町の通りって迷路みたいで、意識していてもいなくても、いつの間にかどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
観光客の方にも二種類あると思います。一つは普通に有名な観光資源だけ満喫して戻って行かれる方。恐らく、日本全国あれこれの場所へ行かれておられるでしょう。もう一つは、ココって決めたお気に入りの観光地を極めたいと何度もリピートしている方。断然後者なので、わずかな貯蓄と限られた人生を、ほんの数カ所のお気に入りの場所にすべて注ぎ込んでいます。本来なら、このような旅を楽しんでいる方なら、通りの区別などいとも容易いことだと思います。けれども、人には得手不得手がございまして、生来「地図を読み解く」能力が欠けているのか、なかなかに難しいのです。
うぐいす歩道とかあせび歩道とか、宮島にはほかにも「○○道」の類が非常に多いですけれど、これらをすべて極めるのは非常に困難であろうと推測します。おまけに、ナビゲーションがよく固まることも特徴です。神社のある付近ですと、問題はないと思われますが、包ヶ浦自然歩道など完全にアウトでした。
そんな複雑摩訶不思議な宮島の通りの中で、滝小路は非常にわかりやすいもののひとつです。何せ、筋違橋から大聖院まで「真っ直ぐ」という道ですので、これで迷う人がいたら、そのほうが謎です。けれども、それすら最初はよくわかりませんでした。つまりはこの通りが「筋違橋から大聖院まで」通っているということを知らなかったから。わかってしまえばどうということないことも、知らないとどうにもなりません。そもそも、大聖院がどの辺りにあるか、ということすら不明でしたので。
厳島合戦は毛利元就が博奕尾から「滑り落ちて」終わり、って感覚の人が多いと思いますが(そのひとりでした)、さすがに敵は大軍ですから、奇襲で攪乱して勝利を得ることはできても、完全に殲滅するのはそれなりにたいへんだったようです。吉川元春の消火活動の話は耳にタコができるくらい聞かされましたが、塔の岡で終わらず、その後の市街戦があったってこと、考える始めると滝小路・柳小路もまともに歩けそうにありません。
こんな方におすすめ
- 趣がある通りが好きな方
- 古き良き宮島を想像したい方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
火を消すだけで英雄になれちゃうなら、俺も消すぞ!
やめなさい。そもそもイマドキならば火を着けるなんてことは犯罪行為です。消防隊員の方々がヒマでヒマでしかたないくらい平穏な日々が過ぎていくことが理想なんです。
ちっ、厳島神社に火が燃え移るなんてこと、俺だって許さないって意味なのに。よくもこんなところで戦争なんてやったもんだな。毛利元就とかいう野郎のせいだろ? 殿様がしっかりしてたら、とっちめてやれるのにな。
ん? 毛利元就とは友好的にやっておるぞ。はて。なにゆえに、この島で戦いなどになっておるのやら?
あなたも、厳島合戦以降のことは知らなくてけっこうですから。
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みやじま・えりゅしおん
宮島旅日記のまとめページ(目次)です。厳島神社とロープーウエーで弥山頂上は当たり前。けっしてそれだけではない、宮島の魅力をご紹介。海からしか行けない場所以外は、とにかく隅々歩き回りました。宮島の魅力は尽きることなく、旅はなおも続きます。
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