ことの葉の種や玉さくふかみ草
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おいっ、ふざけるな。まともに戦えーー
愚かな。周防の「田舎者」の庭で学んだのなら、脇句をつけてみよ。上手く詠めたら戦わずして退いてやろう
こういうことは……。平和になって学ぶ余裕もあったはずの我が息子の出番だ。タッチ
げ、げげげげげ……親父、俺にタッチするなよ。
俺、古文分からんし。
こ、古文だと?
目も当てられぬ
露さへきよくしげる木のもと
おお、さすが我が息子。宗祇の脇句を諳んじていたか。
父上が発句なさった連歌会のお歌です。当然のことです。
それよりも、喧嘩はやめて帰りましょう。
くーーーなんだ、今のは?
こら、馬鹿息子、お前あのガキに弟子入りしろ。
これ以上俺に恥をかかせるな!!!!
なんで俺が
上のお歌は1476年4月23日の連歌会のもの。
いかに武家は弓矢の道が云々といえども、最小限の教養というものは必要であろう。今日日、連歌もできないとなれば、恥ずかしくて表を歩けないと思う。
何を言うか、軟弱者め。
歌など詠めずとも、戦はできる。
ほっといて、身内への講義を続けるよ。
「連歌」というのはざっくりいうと、複数の人が次々に歌を詠んでいくことで、いわば和歌の合作みたいなもの。
例えば、上の歌は、父上の「ことの葉の種や玉さくふかみ草」に宗祇が「露さへきよくしげる木のもと」と続けた。これで、五七五七七となって一つの和歌が完成している。
レベルの低い人が話を聞いているから一応注意しておくと、宗祇っていうのは、有名な連歌師だからね。
……
二人だけで作っても連歌だし、時には「独吟」って言って、一人だけで付けていくこともあるよ。
けれども、だいたいは、風流人の武家や公家が連歌師たちを呼んで、歌心のある家臣たちとともに連歌会を開いている、ってイメージかな。
もちろん、主とは限らず、家臣クラスが主催することもあるよ。
ここの庭園では……「月次」で連歌会を開いているみたいね。
教養のない人には住みづらい環境だけど、逆に言うと、主も家臣も風流人だらけだったってことかな。
……
「発句」では、開催された場所に関わる風物を詠むことが原則で、「脇句(第二句)」は発句で詠まれた季節に合わせて下の句をつける。さて、ここまでで、一つの歌ができるわけだけど、その後、第三句が続く。この第三句は、「……て」で留めるという習慣があった。
例として、文明九年閏正月二十二日に杉美作守重道さんの陣中で開催された『賦何船連歌百韻』で見てみよう。
「陣中」とあることから分かるように、これは応仁の乱の最中に開かれた連歌会だよ。
発句:風ふかぬ世になまたれそ春の花(宗祇)
脇句:めぐみの露の青柳の陰(杉美作守)
第三句:雨晴るる霞のうへの日はいでて(庭園の主)
第四句:あしたの雲うすき山の端
ちなみに、発句は主賓、脇句は主催者、第三句は連歌の師匠(ま、上手な人)、第四句以降は、詠めた人から順々に名乗りを上げていく感じ。
その中から上手なものを選んでつけていくんだよ。
で、上の1~4はどうなっているかというとね、
「風ふかぬ世になまたれそ春の花 めぐみの露の青柳の陰」が一つの歌。
そして二首め以降はどうなるかというと……。
「雨晴るる霞のうへの日はいでて めぐみの露の青柳の陰」
二首めは一首めの下の句を使ってるんだ。
三首めは……。
「雨晴るる霞のうへの日はいでて あしたの雲うすき山の端」
という感じ。
この会は春の歌から始まっているけれど、やがて夏秋冬……と詠まれる季節が移り変わっていくよ。
「百韻」とあるように、百句も詠み続けたんだね。
一句詠み、一句付け、上手なものを選び、「詠み合わせ」する。この作業が、3分として、百句詠むには五時間かかると計算した先生がいたよ。
間に休憩をはさんだり、開始前の準備の時間も合わせると、だいたい十時間だという。
中には『千韻』なんてこともあるので、もはや天文学的に思える。
でも、千韻の場合は、グループに分かれてやったりもする。例えば、百句×10グループで一斉に行った。
まあ、千韻ともなると、数日はかかった模様で、これも計算した先生がおられたけど、仮に3日で終えるとなると、一句は一分だそうです。すごいね。
何しろ、ここでは触れないけど、連歌にはあれやこれやの「決まり事」があるから、それをすべてクリアした上で皆を納得させるように句を付けていくのは並大抵ではないよ。それを国を挙げて(?)そこら中で連歌の大流行。どんだけ優秀な歌詠みだらけだったのかと思うよね。
ま、これも、当然の「教養」だったんだけど。
連歌会で詠まれた句は、「連歌懐紙」と呼ばれる四枚の紙に記録された。
一枚目を「初折」といい、表に八句、裏に十四句。二枚目以下、三枚目の表まで裏表それぞれに14句で合計九十二句(8+6×14=92)書き、四枚目の裏(名残)には残り八句のほか、誰がその会に参加し、それぞれが何句採用されたか、を書いて置く。
上の連歌会では、宗祇が十三句、主催者の杉美作守が九句、庭園の主が十一句詠んだと記録が残っています。
なお、ここで庭園の主と交友を深めた連歌師・宗祇はその後、山口を訪れることになる。この「西国行」については場所を改めて。
見るままにさながら月の心かな
ひかりをそのよ露のことの葉
参考文献:「茶道・香道・華道と水墨画 室町時代」中村修也監修 淡交社