多々良盛房の基本データ
生没年 不明
官職等 周防権介、大内介
(典拠:『大内文化研究要覧』)
流刑地からの帰国
大内氏の先祖についての物語が、本当に始祖・琳聖から始まっているのかは、現在のところ如何に有能な研究者の先生方の手になっても証明できていない。どうやらインチキらしいというご意見のようだけれども、それを証明する決定打となる史料はないので、「限りなく真実ではないらしい」としかおっしゃれない。
理由:「史料がないから」
さて、それならば、「史料があれば」なんでも証明できるのか。と問われれば、速答は難しい。史料の中には、その信憑性が疑われるとされるものがあったりして、その真偽の程を決めるのもまた、研究者の先生方であるから。
研究者でない我々は、星降る町下松♪ 異国から来た夢多き王子さま♪ とあれこれ言ったところで罪はない。ただし、むろん、どこの馬の骨かもわからない人物の「空想」が、先生方のご研究を塗り替えることはない。
大内氏が史料にあらわれた最初
その上で、「史料がない」時代の大内氏先祖については、完全に闇の中だが、ある人を境に、途端に「史料」が現われ、その存在が正式に認定された。それがこのお方。多々良盛房。いずれの先生方も「史料に現われた最初の大内氏先祖」ということでご意見が一致しているので、ここは完全に信用できるのだろう。
ところで、その「最初の史料」とやらが、「恩赦により流刑地からの帰国を許された」という内容。治承二年(1178)の出来事で、典拠となっているのは、九条兼実の『玉葉』。残念なことに、ここからわかるのは、
流刑に遭っていたこと
許されたから帰国すること
の二点だけである。何が言いたいか。恐らくは、先生方も含めて、「なんで流されていたのか」という重要なことが知りたいと思われるのに、そのことについては分からないのである。それゆえに、あれこれの憶測を呼んだ。
ちなみに。この時流刑地から帰国したのは、多々良盛房(常陸国から)、多々良弘盛(上野国から)、多々良盛安(伊豆国から)の三名で、盛房は第十六代当主、弘盛はその息子で第十七代当主、盛安は盛房の弟で分家・鷲頭家の祖である。
この「帰国許可」が出たのは、平氏政権下でのこと。なんだか、康頼灯籠の人を思い出してしまうが、形の上では全く同じである。そこで、多くの研究者は、恐らくは康頼同様、平氏政権に物申したか、反抗的であったがゆえに流されたのだろう、と推測なさっている。
時の権力者・平清盛に睨まれるような態度を取ったなんて、反骨精神旺盛でなんだかカッコいいので、大内愛に溢れた研究者の先生方が、「史料がないから不明ながら」としつつも、「反平氏の立場を取ったためであろうか云々」とこそっと書き加えたくなるお気持ちはものすごく分かる。
でも、真相はわからないのですよ。「史料がない」のですから。
『大内氏史研究』は平清盛と足利義満を世紀の大悪人の如く描いておられる。武家にして太政大臣の位に昇ったこと等に問題があるようで(ほかにも相当鬱憤が溜まっているとお見受け)。先生が気にくわないこれらの連中に対し、反骨精神を見せつけて流刑に遭ったり、叛乱を起こして誅伐されたり(戦死)した当主たちの行動は、感動のあまり先生のお心を揺さぶった。
でも、これ、「史料ないんですから」。足利義満の件は、確かに大内義弘は応永の乱起こしているのでそこは間違っていない。でも、叛乱を起こした理由は相手が世紀の大悪人だったからなのか? それは義弘さんにきいてみないと不明。しかし、平清盛は無実。流刑に遭った人たちはご無事で帰国している。他の研究者の先生方も、あるいはと断った上で、反平氏だったかも、と書いておられるが。後から源氏に味方しているところなどを見ても、何となくそうだったかのように見えるものの、あくまでも「推論」に過ぎない(わけもなく流されたりした経験から反平氏になったこともあり得るが、それだと=反平氏だったため流されたというのはヘンテコなことになる。卵が先か鶏が先かです。むろん、反平氏だった上に流されたら怒りは増幅するため、問答無用で源氏に与するほうに流れて行くだろうけど)。
そもそもこの二名(清盛と義満)が、研究者の先生方の間でそこまで嫌われているのか、執筆者には不明です(嫌いな方も、お好きな方もおられるというのが実情かと)。しかし、足利義満は置いておいて、平清盛は厳島神社に行けばその功績甚大なお方です。足利義満だって、常徳院さまはじめ、多くの歴代将軍は、この方の時代に帰りたいと願って努力されたのですよ(父への歪んだ思いを抱いていたらしき、義持将軍は除いて。まあ、そりゃそうだろう。隠居したはずの父がいつまでも実権握り続けて、何もさせてもらえなかったりしたわけで)。好き嫌いはとにかくとして、それなり偉大な人です。少なくともスケールデカいことは事実。鹿苑院建てた人ですよ。
大内弘世が南朝に味方した途端に感動物語になる辺りから、この二名が先生に嫌われている理由は分かりますがね。もはや読むに耐えない。娘を天皇の后にして外戚になった? 藤原氏がやっていいこと、平氏はなんでやったらダメなのか、理解に苦しむ(確かに、武家が主人公の世の中を作ろうという偉大な構想を抱いた人であるならば、その権力奪取のやり方が天皇家の外戚として権勢を誇ることに終始する、というのは個人的にいただけないですが。でも嫌われている理由はそこではないようですので)。
世界史の参考書で読んだのだが、日本や欧州は血統にこだわり、中国などは拘らない。そりゃそうです。農民反乱の主導者のような人でも皇帝になれるとか、血統とやらに拘ればあり得ぬ話。日本でも、出自が高貴ではないのにもかかわらず、天下人とやらになった人物はいたような気がするので、参考書の分類方法は、この点をどう説明するんだろうと思うけど。でも、平氏も源氏も元は皇族ですよ。先生のような思想ならば、その辺りから尊いって思えそうだが。古い世代の先生方のご研究が、すべての先駆けとなっており、偉大にして功績甚大なのは事実。現代の研究者の先生方も、足を向けては寝られないだろう。でも、やたら血統にこだわっていたり(ここ真実は微妙に違う。あれこれ差し障りがあるのでお察し)、『大内氏実録』でも、のちの叛乱家臣たちを「叛逆」という項目を立ててまとめていたり(文字通りではあるんですが……恐ろしすぎる書かれ方)、ここに書くべきことではないが、鬱憤溜まってるので書いて置きます。
「流された理由」の真相とは?
『大内氏史研究』の先生含め、多くの先生方が、流刑に遭った理由を、平氏に嫌われたんだろうのように書いておられる。しかし、個人的には、松岡久人先生のご研究が正しいと思う。それは一言でまとめると以下。
平清盛と親しい関係にあった佐伯景弘が、大内氏(多々良氏)を陥れた(典拠引用は末尾)
その後の大内氏の繁栄ぶりを知っている我々は、史料に登場した途端に偉大なる一族であったかのように思ってしまいがち。それは大内愛とも連動していると思われ、その点、研究者の先生であれ、通りすがりのマニアであれ同じ。でも、冷静に考えてみれば、この時点の大内氏(多々良氏は)たかが、国衙の役人でしかない。『平家物語』で、「熟根いやしき下﨟なり」と書かれてしまう「在庁」だ。居住地も都からはこんなにも遠いわけだし。いちいち、平清盛の悪口とか言うだろうか? 言わないと思うし、言ったとしたら、「世渡り上手くない」。このような場合、かかわらないのが一番。大人しく、国衙の仕事をこなしていさえすれば、すべて安泰。それを敢えて、反平氏? しかも、周防くんだりから都にとどろき渡るほどの大声で叫ぶ? 謎すぎる。でも、このこと(反平氏を明らかにして、清盛の耳に入れば嫌われて、それなりの処分を受ける)を利用して、逆に誰かを陥れることは可能である。
松岡先生は、佐伯景弘が平清盛とのコネを利用して、大内というか多々良の人々を陥れたというご推測をなさっていた。とても筋が通っていて、すとんと落ちた。平清盛的には、多々良某なんて何者かすらわからなかっただろう。だが、ともに厳島神社を再建した仲である佐伯景弘から斯く斯く然々と言われたら、信用するのはごく普通の対応かと。真偽の程など、調べもしなかっただろう。権力者との間に強力なコネさえあれば、身内を引き抜いてもらうことも、気に入らない相手を陥れることもいとも容易い。平清盛ほどの人物ならば、コネを築きたいと思う人物は数知れなかったと思われ、すべてが聞き入れてもらえたとは思えない。関係の親密さもさることながら、運もあるだろう。毎日山ほどの「お願い」が届いている中でどれが運良く聞き入れて貰えるか。どうやら景弘の申し出は、幸運にも清盛の要処置案件に入った。
そもそも、なにゆえに景弘は多々良氏を陥れる必要があったのか。それは言うまでもなく、周防国と安芸国とが隣接しているから。互いに同じ在庁官人という身分。しかも、それぞれの国衙で筆頭のような立場にある。やがて、勢力がさらに拡大すれば、隣接する地域を勢力圏に組み込みたいと望むのは自然な流れ。どちらかといえば、平清盛という権力者の強力な後ろ盾をもっていた佐伯景弘のほうに、そのような野心が芽生えていたように感じられるけれども、それはいずれ厳島神主家について考察するときに考える。
運良く「追い出し」に成功。あわよくば、多々良氏はこれでお終いとなるかもと期待していたのに、多々良の連中が、中途半端に恩赦で戻って来てしまったために、景弘の企みは上手く機能しなかった。その後の歴史の流れを見ていくと、遙かに程経てのち、厳島神主家は大内氏によって滅ばさる。これを以て因果応報だなぁ……と溜息をついている方、それは鎌倉幕府によって送り込まれた新しい厳島神主家(藤原姓)であって、佐伯氏ではない。彼ら(藤原姓神主家)は、鎌倉御家人だったので、祭祀などまるでわからず、神社のことは引き続き佐伯氏の人たちに任せていたという。平清盛、鎌倉幕府(佐伯姓神主家が交代させられたのは、承久の乱で上皇方についたから。この時は源氏の将軍は滅んでおり、北条得宗の時代が始まろうとしていた。ゆえに、単純に平氏、源氏と繋げないのがつまらないが)という時代の大物に翻弄され続けた厳島神主家だが、大内氏との抗争にも相当に根深い歴史があったと思えば非常に興味深い。
安芸と周防は隣どうしであるため、同じ在庁官人の中で頭角を現してきた者どうし、意識し合っていたことはないとは言えない。ある日ある時、多々良盛房が平清盛のやっていることは不遜だと喚き始め、それが都にまで聞こえてしまったという解釈よりは、ずっと筋が通っている。
ま、「史料がない」ので、誰が何を言っても無駄であり、逆に、立派な先生方であれば、いくらでもさもありなんな推測が許される、ということ。そこらの通りすがりに邪推は許されない。
多々良氏は特に反平氏的旗幟を明かにしたわけではなく、直接的には佐伯景弘との対抗関係で反平氏的と断ぜられ、流罪にされたと推測する。
出典:松岡久人『大内義弘』
大内氏という一族について次第に明らかに
史料がまったく存在しない「暗黒の時代」を経て、「流刑地からの帰国」というあまりカッコ良くない(一部の方々にとっては感動モノ。上述)史料に初めて「多々良」という名前が現われた。一度現われるとその後は、どっと史料が増えていくのも謎だけれども、以降、少なくともその名前を確認できる史料が次々に現われてくるので、もはや存在したかどうかも不明な謎の一族ではなくなる。
以前、とある町で博識のガイドさんと町歩きをしていた際、大内氏なんてそもそもは土豪ですからね、みたいなお話をされていた。土豪=その地に根ざした豪族ってことだと何となくわかっているし、確かにそうであることも理解できる。でも、それらの土豪なる人々ってどこから来たのか、なにゆえに「豪族」となったのかについては、常に疑問符でいっぱい。これはどこの土地の、どのような「土豪」の方々についても同じ。
結局のところ、それぞれの土地に根ざした勢力はどこにでも存在するが、それが「豪族」と呼ばれるような力をもった一族になれるかどうかを決めるのはなんなんだろう、ということに、いつもとても悩む。遡れば古代史にまで行き当たり、力のある者とない者との格差、貧富の差が生まれ云々というところまで下る。
要は力があり、富める者となれた先祖に恵まれていないとダメなんだろうなぁ……と。大内氏の先祖は力があり、富める者になっていった。それがいつ頃からなのか、古すぎることはわからない。しかし、この流刑地からの帰国という史料に初めて名前が現われ、以後続々と増えていったことは偶然ではない。
隣の有力者である佐伯景弘から目を付けられ、彼が周防国への進出を試みていたのか、あるいは、多々良氏の側が安芸国へ進出しようとしていたのか不明ながら、目障りで危険視されるほどの存在となっていたことは重要。平清盛との関係からいって、佐伯氏の側が周防国へ進出しようとしていたのではないかと思うが。時の権力者の後ろ盾もある有力者的人物から目の敵にされるというのは、放置しておいたらますます強大化すると危険視されたということで、当時の大内氏(多々良氏)にすでにそれだけの実力があったことの一つ証にはなるだろう。
国司、目代、在庁官人
国司は遙任。名代として目代という配下が現地にやって来るが、現地の事情はよくわからない。毎年毎年、同じ任務を黙々とこなし、現地の事情にも明るい役人たちに任せておけば、やることは何もない。逆に、彼らなしではなにもできない。もはや、国の役所の主人公は、国司や目代ではなくして、役人たちのほうである。
国司が受領といわれるようになり、単なる徴税請負人と化したことがクローズアップされた時代、受領は「儲かる」役職として希望者が殺到したことは、教科書などにも書いてある。序列の関係で、高級貴族たちが就くような職ではないから、中下級貴族たちはこぞってこの役職を手に入れたがった。赴任先の国によっても、実入りが多い少ないは違うので、特に儲けの多い国などに配属先が決まれば大喜びとなる。でも、税金って、割合が決まっているであろうし、徴税を請負うだけなんだから、集めたら国に納めるのでは? なんで儲かるの? と謎に思われるかもしれない。
確かに税金はこれだけ納めなければならない、というものさしはあっただろう。しかし、いっとう最初は戸籍に基づいてきちんと徴収できていたのが時代とともに難しくなって、制度が変っていったのである。まったく徴収不可能となっていた税金を、とにかく徴収することが第一であり、決められた額を納入すれば、徴収方法などは問われなかった。つまり、まともに決められた額だけをきちんと納めるような真面目な人物はほぼおらず皆、なにがしかの方法で余分に集めて懐に入れていた。
ここで、そのような「ズルい」ことをして幾らか懐にいれようと企んでいる者の配下として、直接徴税を請負っている役人たちの立場になって考えてみる。上がやっていることは丸見え。別に訴えたりするでもないが(そもそも、決められた額だけを納めればよい、というのが国の方針なので、訴え出る意味はない)、ずいぶんと余分に集めていますねぇということを目に焼き付けている。そんなやり方に対して、徴税される側から苦情が出て来たら、それを受け止めるのは直接徴税に行っている彼ら役人たち。自分たちだけに風当たりが強くなるのは、割に合わない。当然、上前の一部は彼らにも分け与えらるべきであると主張したろう。そもそも、間に入ってさらに上前をはねていることとて、考えられる。
国司がおいしければ、配下の目代も現地の役人もおいしい、そんな仕組みを構築することこそが皆で力を合わせて上手くやっていくコツでもある。国司は任期が来たらそれでお終いだが(上に頼んで任期を延ばしてもらうこともできたが、終身務められるものではない)、地元の役人たちは永久に役所に居座り続ける。地位は安定しているし、国司より旨味があるのではないかと思われるほど。しかし、悲しいかな、なんだかんだ言っても、役人たちは役所あっての存在。つまりは、役所の長官である国司あっての役人という立場なので、その意味では限定的な地位とも言えた。
しかし、世の中の制度が変っていっても、国の役所は相当長いこと存在し続けた。その意味では長きに渡って絶対安定な職務であり続けたと言える。
留守所と在庁官人の序列
どんなところにも「序列」というものは存在する。そもそもは古代史の時代から、大内氏の先祖が力ある者、富める者の側であったことは間違いない。やがて彼らは国の役人となるが、国の役人にも、その実力によって、出世できる者、淘汰される者が出る。ここでもまた、大内氏の先祖は「できる者」であったに違いない。
我々が普通に市役所や県庁に行っても、そこにはさまざまな部署の責任者がいるいっぽうで、下働き的な新人がいたりする。また、忙しくて重要な部署と、そうでもない部署というものも存在する。現代はその程度の差異だが、古代・中世は役人にも位がついていて、身分も待遇もそれによって大きく異なった。それらの特権はいちおう世襲だったりするから、やがて役所内は有能で身分の高い集団と、下っ端とにわかれていく。
どうせ自らはどこに行っても下っ端に分類される定めだよ……と思えば悲しい。いったい、どういう人々が有能集団に入れるのか。文字通り、有能であること。国の役所の実務だから、まずはそれに精通。でも、そこは普通に努力したら、誰でも可能に思える。結局のところ、力のある勢力というところが重要だったのだろう。
「大内介」の名乗り
大内氏(多々良氏)の一族が史料に出現して間もなく、彼らは「大内介」とか「周防権介」とか名乗るようになる。大内氏に関心を持ち始めた素人が最初に大いなる謎に包まれるのがここかと思う。なぜなら、大半の人は、大内弘世なり、義弘なり、もしくは最後の義隆なりから関心を抱くコースを取ることが多いため、その時の彼らはすでに、守護大名として、室町幕府の中で重要な地位を占めていた(弘世期から入った方ならば、占めつつあった)。
普通「介」といったら、律令制のところで習う、国司の四等官制「守、介、掾(じょう)、目(さかん)」の「介」を思い出す。これらは、大国の介でも正六位下、上国だと従六位上という位階。大内氏歴代の位階とは釣り合わない。そもそも前提問題として、これは「国司」の四等官制だから、国司が就く(名乗る)べきものであって、在庁官人は名乗れないはず。
弘世らの時代には彼らは幕府配下の守護として国を任されているという立場なので、周防国の守護という職に就いており、また、位階も国司の四等官制「介」より遙かに高いものになっていく。にもかかわらず、大内盛房から始まって、大内氏歴代は「大内介」という名乗りを世襲しており、太宰大弐まで上り詰めた大内義隆ですら使い続けている。これいったい、どういうこと? と思うわけである。
またぞろ『大内氏史研究』は難解すぎ、『大内氏実録』には解説すらない(明治時代に書かれた『実録』はとにかく、昭和時代に書かれた本が難解とか、己の読解力を疑うが、興味あるイマドキの青少年は、図書館でチラ見してください。この時代の教養ある先生方の文章は本当に難解なのです。令和の現代と微妙に言葉の意味も変っていますし)。そこで、やはり松岡先生のご本で学ぶのが一番。
国司が任地に赴かなくなり、在庁官人たちが政務を執り行うことになると、そのような国司がいない国衙は「留守所」と呼ばれた。これも参考書に書いてある。在庁官人たちは、それぞれが所属する部署の肩書きを持っていた(後述)が、朝廷が任命した国司ではないため、先の国司の四等官制に就くことはできなかった。そのかわりといってはなんだが、四等官のうちの三等官・掾の代理を務めている者という意味で「判官代」と呼ばれた。「判官代」の中で力をつけた者は、やがて、「大判官代」「惣判官代」などと呼ばれて区別されるようになる。
しかし、いかんせん朝廷の任命を受けた官職ではなく、ただの「呼び名」というだけでは、力がある者には「大」だの「惣」だのをつけて差別化し、役所のリーダー的存在として認められても、それは単なる役所内だけで完結するもの。それを証拠に、初期の頃には、在庁官人たちは位階はあっても官職はないことから「散位」と署名していた。
ところが、そこに「権介」という新たな「呼び名」が現われる。「権」は仮のとか定員外のとか言う意味で、平安貴族が気にくわない政敵を都から流す定番「大宰権帥」(藤原忠平が菅原道真を流したやつ)のように、実権のない意味として知られていることが多いけれど、実は「副」とか「次官」の意味もある。はっきりそういう定義をすることは差し控えるが、在庁官人中での「権介」の意味は、「介」と「≒」ということである。
つまり、任地に赴くこともない国司にかわり、官職上は「介」にはなれないけれども、実質上は「介」と同様、という意味である。周防権介といったら、周防国衙の責任者、国司代理のようなものととらえてよいかと。ただし、あくまで、最高責任者は国司であることにかわりはないので、そこはちょっぴり悲しい点でもある。ひとつだけ言えることは、多々良盛房が周防権介になったということは、在庁官人筆頭になったということの地位的証であり、彼こそが役人集団のトップに立つ人、以後、同じ役所内の諸々の役人たちは彼の差配に従う、という極めて重要な意味を持っている。
あくまで国司あっての云々とはいえ、もはや赴任もしてこない国司たちに、役所の人事を動かす意図などまったくなかったろう。権介の「呼び名」は定着。その後も世襲された。それと同時に、この頃になると、多々良氏の一族も、順調に勢力を広げており、根幹地・大内を地盤とする本家本元の宗家を中心としながらも、大きくなりすぎた本家から、分出して新たな家を作る人々が現われる。当然のことながら、嫌だから出て行ったわけではない。普通に分割相続して枝分かれしていった一族たちであり、皆で一致団結して本家を盛り立てていこうという意味で、多くの分家ができることはメリットはあってもデメリットはなかった(少なくともこの時点では)。
多くの分家が出てくるほど大所帯となると、多々良氏も数が増えすぎて判別するのが難しくなる。それは、ほかのどの氏族でも同じことだが、いわゆる名字の地を取って名乗りを変えることで区分する、ということが後には行なわれる。系図を見てみると○○祖と書いてあっても、その時点で即○○を名乗ったのではないようにも見えるので、盛房の代に分かれたとされる○○家がそれを境に○○と称したものかどうかはわからない。分れて行きはしたものの、同じ一族としての意識は濃厚だったそうで、その後も署名する際には皆、「多々良」と書いている。
そもそも、この大量にいて分かりづらいから区別が必要となり云々の説は、日本史事典にも書いてあったりすることではあるが、これはどうやら、対外的な意味合いが大きかったらしい。つまり、他家だの国家勢力だのから見たら、全部多々良ですか、どんだけいるの? となるため、大内に住んでいる人々は「大内」と呼ぼう、右田の人は「右田」で。という具合に区別したが、本人たちは、どこまでいっても多々良氏だと認識していた、というご説を拝読したことがある。確かに当初はそうだったかもしれないが、時代が下がるにつれて、もはや血縁関係も薄くなっていった頃には、多々良であることよりも、分出してからずっと使い続けている「名字の地」の姓のほうが大切にされていたのではないかな、と個人的には思う。
話が横路にそれたが、多々良盛房は、周防権介となり、周防国衙を束ねる立ち位置となった。それ以降、彼は自らの本貫地が「大内」であること、(『権』がついているものの)事実上「介」の職掌を執り行う者であるということから、「大内介」と自称した。これは一種のステイタスのようなものであり、他国の在庁官人たちの場合もまったく同じような道を辿ったから、○○介と名乗る武家が多々あるのはこのことに由来する、とこんなにも難解な事まで書いてある受験参考書があった(日本史受験者、どんだけたいへんなんだろ)。
この記念すべき名乗りは、先祖代々世襲されていくので、国衙が形骸化しても存在し続けたのと同様、大宰大弐となった大内義隆まで含めて、そこまでいったらもうどうでもいいように思われる名乗りは大切に守られたのであった。
在庁官人の旨味と限界
在庁官人たちというのは、郡司、郷司、名主といった職を兼任していたという。というか、そもそもはそのような人たちが国の役人となったのである。これらは世襲されていく職だったので、身分は安定していた。国司が任期が満ちたら帰国せねばならないのとは大違いで、地元に根を張り、ずっと同じ職を保持し続けることができるというのは大きかった。また、これらの身分に応じた職田も貰えたので、完全に自らに属する収入も保証されていた。
これだけきくと、これ以上ないほどすごい職のように思われるが、身分的にはそう高くない(むしろ低い)ので、さほど潤えたわけでもない。さらに、世襲といえども、何かミスを犯せば解任される可能性はゼロではなく、何と言っても国司の下で働いているという枠組みからは出ることができなかったので、その意味では限定的な身分でもあった。
しかし、律令制の崩壊や、武士の台頭など、様々な歴史の流れの中で、彼らの立場も変ってきた。国司がもはや赴任すらしなくなったこと、国衙の政治は在庁官人がいなければ回らないこと、ほかのすべての在地領主たち同様、彼らも武力を身につけていったこと、などである。
そして、何ら軍事的な力を持たない国司たちにとって、政治的実務のみならず、国衙の軍事部門、警察部門についても在庁官人たちに任せきりとなった。
こうしてみてくると、恐らくは盛房以前も国衙の役人、もしくは郡司職などに就いていたと思われる多々良一族だが、その中で着々と実力をつけていき、やがて役人たち内部のリーダー的存在となっていったらしいことがわかる。それは、もっと時代が下るにつれて顕著となるから、盛房代は本当にその第一歩。ちょうどそれ以前の記録が何もないということも、何とも不可思議である。古い時代になればなるほど、史料が少なくなるのはどこに行っても同じ状況なので、史料の存在が確認できるようになった頃から頭角を現してというのは、まるで、彗星の如く現われたようで、何とも言えない運命を感じる。
在庁官人の立場は国司の一存に左右されるようなところもあり、その意味では限定的かつ不安定であったものの、すでに、国司なるものが形骸化して以降は、彼らによって運命が変ることはそうあるまいと思われる。なので、「限定的」という三文字は外してもいいような。
そして、時代の流れと言うのは驚くほど早い。まだまだと思っているうちに、すぐに大内弘世登場となり、そうなるともう国司の出番などないのだから。
多々良盛房の事蹟
正直なところ、流刑に遭っていたが帰国した、ということと、その帰国後在庁官人のリーダー「権介」になったこと以外に何の記録もない(あれば先生方が何かしら書いておられる)。なお、盛房が「周防権介」と記した最初が確認できるのは寿永元年(1182)の『東大寺文書』であるらしい(参照:『大内文化研究要覧』)。
参照文献:受験参考書、『大内文化研究要覧』、『大内義弘』(松岡久人)
やっぱ、こんだけしか分からないのか……。
史料の上ではね。でも、史料にないことを想像できるほどの史料もないよね。
ヘンテコな日本語だな。でも、何となく分かる。
前にもどこかに書いたんだけど、このお方から「大内」でいいんだよね?
……(← 分からない)。俺も前にどこかで言ったけど、サインすると全員「多々良」だから。俺も、本家の奴らと区別できなかったりする。よく分からなかったら「多々良」じゃないの?
「奴ら」という言葉遣いは望ましくないから改めてね。君たちの会話はそもそも無駄にスペースを取っているだけだけど、特別に許可してあげてることを忘れないように。本家と分家を差別化するのは僕もよくないと思うけど、マナーのなっていない言葉遣いで鬱憤晴らしはしないこと。
ちっ。