陶弘詮
三郎、中務、兵庫頭

有名な連歌師・宗祇は大内氏の庇護を受けたことで知られているが、山口滞在中に、九州を旅行し『筑紫道記』という書物を記した。宗祇が筑前を訪れた際、その守護代を務めていたのは、陶弘詮であった。
宗祇は彼の館で手厚い持てなしを受け、大内家中の風流の士らと交流したことなどを書きつけている。
宗祇は彼らとの連歌の席で「広く見よ民の草葉の秋の花」と発句した。
為政者(守護代)としてあるべき姿の思いを込めたということだ。
さて、弘詮様はどのようにこたえたのであろうか。
いっぽう、著名な連歌師に対する彼のもてなしぶりは最高であったらしく、旅日記には
此のあるじ年廿の程にて、その様艶に侍れば、思ふことなきにしも侍れで、覚えず勧盃時移りぬ
と絶賛されている。

弘詮と言えば、後に『吾妻鏡』の写本を集大成した功績で知られるが、思うに、この人は容姿端麗な風流人であったのだろう。

しかし、文の人だけでなかったことは、応仁の乱の際に、兄・弘護を助けて武においても活躍したことが証明している。

主君・政弘の信任もあつく、また、弘護の死後は、残された甥たちを後見した。彼なくしては、甥たちもなかった。上二人の甥は寿命をまっとうできなかったが、末子の興房が陶の家を継ぎ、類まれなる忠臣として名を残した。これもまた、叔父の養育のおかげだ。

興房は長じて、弘詮の娘を妻としている。つまり、従姉弟(もしくは従兄妹)どうしの婚姻だが、そこから生まれ出たのが、後の隆房。陶家でもっともメジャーな人物が彼なのだから、母方の祖父である弘詮にももっとスポットライトが当たっても良い。

なお、父・弘房が右田家から陶家を継いだ際、弘詮は代わりに右田家に入ったが、兄・弘護の死後、幼い甥たちの面倒を見るために陶家に戻った。この際、「暫定的に」陶の姓に戻ったが、これは「前提的」には終わらなかった模様で、それ以降弘詮が再び右田姓になったという記録はなく、その息子や孫も陶姓のままである。

母上のお父上、つまりおじいさまだよ。

宗祇が本に書いたことを読んで、変な想像をする人がいて困るのだけど、ちょっとしたゴマすりじゃないのかな。でも、誰かさんの身内だもの、美男子だったことは間違いないよ。醜男を美男とか詠んだらフツーに嫌味だしね

弘詮に関して重要な点をまとめると……。

一、隆房の祖父である
二、右田の家を継いだ
三、イケメン伝説が残されている
四、『吾妻鏡』で後世に貢献した
五、その子孫は大寧寺の変で主君に殉じている
六、兄・弘護様を助けて応仁の乱(留守分国)で活躍した
七、両親の菩提寺を建てた孝行息子
八、子孫は毛利家臣に

一から四までは、もう説明しちゃったね。
続きを見ていこう。

弘詮は弘房の次男。身内である右田家を継いでいた弘房が、長男として陶の家を継いでいた兄の死によって実家に戻った話はしたよね。

将来、弘詮に右田家をつがせることはこの時に決定していた。
約束通り、寛正六(1465)年十一月、弘詮は右田弘篤の遺領を受け継いだ。まだほんの子どもだった頃である。

文明十(1478)年、兄・弘護に従い、九州に出陣。時はちょうど、応仁の乱の頃。主君の政弘が在京中で留守の間、付近の連中や、身内の裏切り者が国を荒らしていた。それらを撃退して、国を守ったのが、弘護。弘詮はその右腕として、兄を支えた。

七月二十九日、少弐の残党が至る所に立て籠っていたのを、自ら駆けつけて即刻撃退。この戦功について、主・政弘に注進したところ、「弘護兄弟は、歳は若いがその働きぶりは見事である」と称賛された。弘詮たち兄弟は主・政弘にたいへんに重んじられていたことがわかる。

自分で自分のこと偉そうに報告してなんだかさーーなどと思ってはいけない。
当時はこうした自己アピールがたいへん重要な時代。合戦で敵を倒した証としてその首を取った人は、それをきちんと軍奉行みたいな人に報告し、働きに見合った報酬を得るのが普通だった。
しかも、それには、いちいち一部始終を目撃して、確かにそのとおりである、と証言してくれる人が必要だったり、とって来た証拠の首が誰のものなのか、きちんと調べなければならなかったりと、まあ。あれやこれや、イマドキの民には想像できない世界。
逆に言うと、それなりの身分にある人が、何も報告できないような状態であれば、別の意味で問題だ……。

つまり無能ってこと。大将ならば手柄をたてて当たり前だよ。でも、報告はキチンとする。そこは、大将も一兵卒も同じだよ。

十一(1479)年冬、兄・弘護が筑前守護代の職を辞して帰国したので、弘詮がそれにかわった。

この頃、応仁の乱もおさまって、帰国した主・政弘は、著名な文化人を多数山口に招き、手厚く保護した。お陰で、山口には一大文化サロンが形成されるに至った。
そんな中でも、特に贔屓にされていた一人に、連歌の宗祇がいる。彼は何度も山口を訪れ、連歌会などを催している。連歌の会を開いたのは、当主の政弘のみならず、主に似て風流の心得がある重臣たちも同じであった。

ま、一種の文化的ステイタスみたいなもの。好き嫌いにかかわらず、宗祇を招いて、連歌の会開いたぞ、っていうのが重要だ、ってことだよ。そもそも主のレベルが高いと、それに仕える家臣のレベルも底上げされるから、大内家の家臣は皆、それなりの文化人ぞろい。陶家の弘護、弘詮兄弟も、何度も連歌会を開いているよ。

だから、宗祇は、山口滞在中、そこかしこで連歌会に呼ばれ、主にもその配下にも連歌の知識を教授し……と忙しい毎日だった。そんな中で、のんびりと旅行にも出かけている。
それが冒頭の旅行記の話だよ。

うーーん……

何を悩んでいるかな?

おじいさまは終世陶姓のままだったみたいに書いてあるけど……でも母上の姓は右田なんだよね(系図)。同姓婚を避けたのかな?

五百年前の子どもにそんな思想概念あるの? コリョなんか異母兄妹で普通に結婚してた。これには僕も驚いたけど。

コリョって何だよ? お前の話、よく分らん。

高麗のこと。韓ドラで見たんだ💖

あああ、ますます訳分らん……。

将軍から「軍勢催促の御教書」というものが届いた時、弘護の遺児たちはまだ幼過ぎてお勤めすることが無理であったため、主の政弘は、叔父である弘詮を名代として上洛させることにした。その際に、弘詮は「暫し」陶氏を称し、兵庫頭となった。
弘詮は兵を率いて上洛し、将軍家でのお勤めを果たして、数々の勲功をたてた。将軍は多いに喜び、その推薦で従五位下に叙され、その後また、筑前国での賊徒討伐にも貢献したという。それらの活躍については、一部の史料しかないものの、陶姓に戻ったことは疑いがなく、それも、「暫しというのは誤りで、これより先、弘詮が陶姓を名乗ったのみならず、その子隆康も陶右馬允となっている」(『実録』)ということだ。

要するに五郎の両親は両方とも陶姓だよ。でも、別に気にしなくていいんじゃない?

弘詮の領地は吉敷郡朝倉、本領は長門国豊田郡にあり、殿敷村の諏訪山を居城としていた。
この、殿敷に近い楢原村に妙栄寺という寺がある。弘詮が亡き母のために建てた菩提寺だ。母の菩提を弔うためには、既に、都濃郡富田に保安寺という寺を建立していたが、更に二つ目の寺を建てたわけだ。
この寺は、最初は矢田村にあり、後に現在の地に移ったという。妙栄というのは、弘詮の母の法名。もともと、位牌が安置されていたのは普済寺といって、臨済宗だったが、明応年間には断絶してしまっていた。

何やら寺がらみの話はどこもややこしいね……。これらの話は全て『実録』にあって、「それらの事情は妙栄寺略伝に詳しい」とあるから、近藤先生はそれをご覧になったんだね。

永正十四(1517)年、弘詮は、家督を息子・隆康に譲って隠居した。
系図では、大永三(1523)年癸未十月二十四日、筑前筥崎で亡くなったとされている。だが、ほかの史料がないため、正確なところは死亡年月日不明ということになるようだ。法名は「凰梧真幻昌瑞」で、これは生前より名乗っていたらしい。

男女二人の子がおり、息子・隆康の供養塔は大寧寺にある。父親同士が兄弟なので、隆康と陶興房とは従兄弟どうしにあたるわけだが、大寧寺ではなく、法泉寺で戦死した。身内とは言え、隆房の政変には加担せず、最後まで主である義隆を守って亡くなったのだ。そのおかげで、「忠臣」として、大寧寺にて手厚く供養されている。
娘が甥・興房の妻となったことはしつこく繰り返している通り。五郎でなくとも、イマドキの民には、娘が甥の妻になっているのか、と驚く方がおられるかもしれないが、当時としては普通のこと。興房は従姉妹と結婚した、ということになるわけだが、実はこれ、現代でも法律上何ら問題はないのだ。

最後に、弘詮が全国区で有名になっているのは、多分、『吾妻鏡』を編集したことかと。兄のように、若くして亡くなることがなかったので、死亡年月不明とはいえ、晩年は楽隠居なさったらしい。かなりの文化人で、まあ、主の政弘も源氏物語の編集とかしているので、まさにこの主にしてこの配下。しかし、源氏物語ではなくして、『吾妻鏡』である。
研究の成果は、大内家を潰した毛利家にそのまま持っていかれたが、お陰で、その後、この分野研究の発展に大いに貢献したのだった。

なお、つい最近読んだ『毛利元就卿伝』によれば、陶鶴千代丸という少年が、毛利家の防長経略で手柄を立てているとあった。のちに「宇野」姓を名乗ったそうだ。これは、大寧寺に供養塔がある陶隆康の子である(つまり弘詮の孫)。
積読山となっているため、この本を再び見るのはいつのことか分からないが、その際には出典としてページを記したい。

よーーし、俺も『吾妻鏡』を学ぶぞ

将来、君のせいで、おじいさまのお子様たちが亡くなった、とはとても言い出せないよ、僕……

参考にしたご本:近藤清石『大内氏実録』
初出:2020年4月14日 周防山口館『陶家猛将伝』改編