陶隆康 と子ら

この方たちだけで、項目を立てるのはかなり苦しいのですが、とはいえ、ほかと繋ぐのも難がある方々です。
陶隆康とは?
右田弘詮の息子。弘詮には何人か息子があったようですが、その所領は隆康が継ぎました。天文二十年(1551)、家臣らの叛乱により、大内義隆が守護屋形から法泉寺に逃れた際に付き従います。法泉寺では持ち堪えられないとなおも落ち延びていった主を逃し、寺院で敵を食い止めた隆康はその子・隆弘とともに戦死。忠臣として、父子ともども、大寧寺に供養塔が立っています。幼少だった遺児・鶴千代はのちに毛利元就に仕え、母方の姓・宇野を名乗り、子孫連綿しました。
基本情報
生没年 ?~1551
父 右田弘詮
妻 宇野氏
子 隆弘、鶴千代
官職等 右馬允
法名 蘭渓道忠
陶興房のいとこ。二人して忠臣の鑑
いわゆる「国難」で主とともに果てた人々の関係者などが、叛乱家臣たちの政権に加わりたくないと考えたのは当然です。しかし、政変後にはそのような人たちの粛清なども行われましたので、生き延びることじたい困難だったのではないかと思えます。ところが、意外にもそれらの人々の遺児などが無事に生き延びて、のちに毛利家臣となるといったパターンが多くあったことも事実です。
法泉寺で大内義隆を逃し、戦死した陶隆康とその子・隆弘は、『大内氏実録』でも忠臣扱いで称えられています。冷泉隆豊などと同列です。同じ陶姓でも、叛乱家臣たちに与しなかった人たちもいたというわけです。陶興房の妻は、叔父である右田弘詮の娘。隆康はその兄弟でした。要するにいとこどうしの婚姻。隆康とも身内です。興房は「国難」の際には、すでに亡くなっていましたが、隆康は主君である大内義隆を守って壮絶に戦死。いかにも忠臣の鑑系列です。
とはいえ、『大内氏実録』には、わずかに数行記述があるだけです。まあ、これで必要にして十分ですよね。
「陶隆康は陶弘詮の子である。
永正十四年七月十八日、父の所領を受けつぐ。
天文二年二月、目付となって従弟・陶興房の軍に赴く。
三月三日、肥前国三根郡千栗村で戦い、手柄をたてた。
十三日、義隆は書状を与え「早速の大手柄、任務のたびに殊勝である」と言った。
※「毎事」とあるので、ほかにも軍功があったと思われるが、感状などは伝わっていない。
天文二十年八月廿八日、大寧寺の政変により、法泉寺に逃れた大内義隆に付き従う。
二十九日夜、義隆が長門国へと落ち延びていった際、隆康は法泉寺に残って戦い、追撃する敵兵をくいとめた。
隆康は法泉寺で亡くなり、法名を蘭渓道忠という。
妻は宇野家の女性で、息子が二人いた。長男が隆弘、次男が鶴千代である。
隆弘は父に従い、法泉寺で戦死した。法名:鳳格道外。
鶴千代は弘治二年、毛利家が都濃郡須々万の沼城を攻撃した際、この軍に加わり、城将・江良主水正を斬った。この時、僅かに十四歳であった。のち、母方の姓を継いで、宇野八郎元弘と名乗った。⇒ 江良主水正」
(原文文語文)
遺児は沼城で大活躍
隆康には、二人の子がいました(系図上)。年長の息子・隆弘は父とともに、法泉寺で亡くなっています。『実録』にはその旨と、中務少輔とだけ。父子共に、亡くなった年は明らかですが、出生年がわからないため、年齢は不明です。しかし、まだ幼かったゆえにか、父や兄には付き従わず、難を逃れたもう一人の息子はいずこかに身を隠していたものか、無事に生き延びました。
この子・鶴千代が、いきなり須々万の沼城の戦いで登場します。何とも軍記物チックではありますが、わずかに十四歳かそこらの年齢で、沼城に籠っていた叛乱家臣サイドの忠臣たちの一人を撃破します。毛利元就もびっくりですよね。しかも、身の上をきいてみれば、あの陶隆康の遺児という……。忠臣の遺児にして、猛将の片鱗もありということで、高く取り立てられました。少なくとも、毛利側から記された軍記物的にはそうなるのですが、果たしていかにして身一つで沼城を囲んでいた毛利軍に志願したものかは実は不明です。大手柄を立てた少年がいて、びっくりして身の上を尋ねたら云々だったかどうかなどわからないのです。まあ、忠臣の遺児的にはそのような脚色が相応しいですし、史実だったりしたら、それこそ感動ものです。
毛利家に仕官するにあたり、鶴千代から元就に、「母方の姓を名乗りたい」と申し出があったとか。陶の姓を捨てたのは、叛乱家臣と同姓であることを嫌ってのことでしょう。そもそも、弘詮の代から、右田が陶に戻ったり、朝倉と名乗ってみたり、なんとなく適当な感じもしますから、敢えて「陶の姓は捨てる、母方の姓で毛利家臣として新たな人生を!」っていかにも出来過ぎてます。そこまで深い意味があったのかも不明ですし、そもそも軍記物曰くだけど。でも、この感動的なシーンが、なんと『陰徳太平記』にはないんですよね……。たいして重要ではないと思われたか、あるいは、特に流布していない逸話だったのでしょうか。執筆者は『毛利元就卿伝』で、初めてこの逸話を読んで、倒れそうになったんですけど。あらゆる意味で。十代半ばで敵将を討ち取るなんて、弘護さま譲りだと思ったのが一つ。あともう一つは、何といっても、叛乱者の身内にあたる人がこんな形で「裏切ってる」って点に驚いて。お父上が、法泉寺で亡くなっていたと知ったのはその後のことでした。
あー、俺も十代半ばで敵将をぶった斬るっていうのをやってみたかったなぁ。父上の仇だった陶入道と同じ姓を捨てるってのもカッコいい。けど、やっぱ、陶の姓は大切にして欲しかった。そんな大手柄立てたならさ、毛利家でも出世しただろうに。別の名前になってしまったら、なんとなく別の家みたいに思える……。
そうね。血筋は守られても、姓は消えちゃった感、半端ないよね……。
お前も、こいつみたいに手柄を立てたの?
……。
あれ、なんで逃げ出したんだろう? さては、たいした手柄も立ててないから、みっともなくて身を隠したんだろうね。ん? あいつの名前も鶴千代じゃなかったっけ?
陶氏の傍流・宇野氏
かくして、鶴千代が、宇野姓を名乗って毛利家に仕官したことで、弘詮流の陶一族はその後も繁栄していったのでした。それらも含めて、「右田 ⇒ 宇野」ルートの流れについては以下の記事をご参照ください。
大内氏時代のことしか拾っていないため、その後の宇野氏については完全に無視されているのが嫌らしいですけど、流れはつかめますね。ちなみに、母方「宇野氏」の人々についても、のちに毛利家に仕えていますが、ここでは触れません。
お屋形様が亡くなられた大寧寺には、忠義の家臣たちの名前を記した石碑がずらっと並んでいる。ちちうえとあにうえの供養碑もここにあるんだ……。


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