陶長房

曾孫

陶長房とは?

厳島合戦で毛利元就に敗れて亡くなった、陶晴賢の嫡男。父不在の居城・若山城を守っていましたが、厳島での大敗をきいて、晴賢を父の仇と憎んでいた杉重輔らが攻め込んできます。父の死を悲しむ暇もなく、いきなり「味方」であるはずの杉氏に襲われた長房は城を出て、菩提寺・龍文寺に逃げ込みました。陶盛政が、万が一の時のためにと、要害の地を選んで寺院を建立したといわれるだけあって、龍文寺はまさしく天然の要塞でした。杉側は寺院を囲みつつも、攻めあぐね、念仏踊りの踊り手に紛れて乱入したという逸話が残されています。長房は菩提寺の住職の勧めで寺院内で自害したといわれています。

基本データ

生没年 不明※
父 陶晴賢
幼名 五郎、鶴寿丸
官職等 右馬助、兵部少輔
法名 龐英洪□ 
※弘治三年(1557)龍文寺で亡くなったというのが定説ながら、一部異説もあるため、没年は定かではない

敗軍の将の跡継ぎ

長房について一言で表すとしたら、見出し通り。史料は限定的だし、若くして亡くなっているため、人となりも不明です。『大内氏実録』は明治時代に書かれた書物なので、その後明らかになって来たことも多いと思われますが、まずは、なんと書いてあるか見てみましょう。

「父・晴賢が岩国に向けて出陣した時、長房をあとに残し、若山城を守らせた。

弘治元年十月七日、杉重輔兄弟が攻撃して来た。長房は父敗死の知らせに気力をなくし、また重輔の襲撃が意外な事であったから、防ぐことができず、城を棄てて長穂村龍文寺に逃れた。重輔に追撃され、長房は寺家に入って自殺した。
 ※系図には閏十月七日、杉隆重のために、富田城で討死したとあり、龍文寺の伝記は、矢地若山で没とするが、龍文寺のそばに千人塚という古い塚が五所もあるのでこれを採用しない。

法名:龐英洪□ 」

(原文文語文)

え!? これだけ? って思いますけれども、これだけです。そもそも、家臣のことについてはあまり詳しくなかったりする本ですから、こんなもんです。父親に付属してちまっと書いてある感じです。ただし、これ以上のこともなかったりします。父が亡くなり、味方に攻め寄せられ、追い詰められて自害した、これだけ。

軍記物を開いたり、郷土史の本を調べたりすると、もう少し記述があります。意外にも『陰徳太平記』の記述が感動的だったりするのですが、それについてはそのうち訳文を載せようと思いつつ、頓挫しています。

要害・龍文寺

さきほどの近藤先生の記述で、城を棄てて龍文寺に逃れたとあるのを見て、奇怪に思う方は少なくないと思います。執筆者もそうでした。どう考えても、寺院より城のほうが堅固ですから。なんで、城から出て寺院に逃げるんだろ? って思うわけです。その答えの半分は、『実録』に書いてありますが。「父敗死の知らせに気力をなくし、また重輔の襲撃が意外な事であったから、防ぐことができず」と。

杉重輔という人も、なんとも嫌な感じの人物ですね。父の仇討ちと称して、いきなり「味方」の城に攻め込むなど、普通はあり得ないことです。父の仇は長房ではなく、晴賢であったはず。父親の代には敵わないと実行できなかった仇討ちを、父を亡くして落ち込んでいる若者の代に決行するなど。厳島で大敗し、そのまま毛利家が防長の地に雪崩れ込んでくるという事態に、味方同士が争っている場合ではないでしょう。そういう「あり得ぬこと」をされたら、誰だって狼狽します。長房本人が気丈であったとしても、城を守る将兵もびっくりですよ。毛利軍には備えようと思っていても、それに先んじて味方が喧嘩を売ってくるなんて、夢にも思わなかったでしょうから。城の内外は大混乱。軍記物曰くですけど、相当奥深くまで容易く入り込まれてしまったようで。

だとしたら、城の中で生涯を終えたのでは? と考えるのが、第二の疑問ですよね。ここは、郷土史の先生方の出番です。若山の城から、龍文寺に至るまで、「陶の道」と呼ばれているいわば秘密の抜け道のような道があるのです。実際歩いたことがないので、なんともですが、地元のお子さんたちなども歩いて通る遠足などをすることがあるようですよ。地元のガイドさんなどに依頼すれば、ご案内いただけるのかは不明ですが、少し前までは観光協会のサイトにも載っていました。つまり、万が一の時に、城を棄ててでも立て籠もれる場所が準備されていたのです。それが、菩提寺・龍文寺でした。勝栄寺のところにも書かれていましたが、中世寺院は、万が一の時には防御施設としても機能するような性格をもっていたのです。長房からみたら先祖にあたる寺院の開基・盛政が、天然の要害に菩提寺を建てたのには理由があったわけです。とはいえ、その最後の切り札を使うような事態が現実になろうとは、想像もしていなかったことでしょう。

この辺り、長房が若山の城で亡くなったのか、菩提寺で亡くなったのかについては、長きに渡って議論されてきた模様です。亡くなった年代についても同様です(後述)。『陰徳太平記』では、長房は城内で亡くなったと書いています。杉らの襲撃を、相手が味方ゆえそうとは見抜けず城内に入られてしまった時点で、もはや逃れられないと察したのです。その時、弟の小次郎も、兄とともに逝きたいと望みましたが、長房に一喝されます。自らはここで命を絶つが、弟にはなんとかこの場を逃れて杉らを倒し、仇を取って欲しいと。弟は泣く泣く、兄の遺言に従い、龍文寺に赴き……となっており、杉らに攻め込まれて菩提寺も支えきれなくなるまで戦い続けたと。弟が無事に逃げられるのなら、兄も逃げられたと思うのですけど、そこは脚色でしょう。どちらが読者の興味を引くかはわかりませんが。

陶長房イメージ画像
死を覚悟する長房

創作はとにかくとして、通説は近藤先生のお言葉通り、龍文寺に逃れてそこで亡くなった、ということで落ち着いています。文字通り、要害の地にあったゆえ、たかが寺院とはいえ落とすのは容易ではありませんでした。念仏踊りの踊り手に紛れ込んで侵入したという伝承があるのも、寺院が難攻不落だったことを物語っているといえるでしょう。

亡くなったのはいつ?

長房自刃の場所とともに、亡くなった時期についても諸説あった模様です。近藤先生の記述では、「弘治元年十月七日、杉重輔兄弟が攻撃して来た」とありますが、その後は龍文寺に逃れてそこで亡くなったとなっていて、亡くなった日付については明記されていません。何やら、弘治三年(1557)説が有力らしいのですが、さて、どこで見かけたものか、今典拠を思い出せません。いっぽう、ちょっと今は昔になりつつある郷土史『都濃郡誌』と、それよりはずっと新しい『徳山市史』では、弘治元年(1555)と書いています。

弘治元年(1555)はつまり、厳島合戦の年。十月には陶晴賢が自刃しているので、弘治元年十月に襲撃してきた杉重輔って、厳島敗戦たちどころということに。逆に言えば、なんの準備も整わぬ間にということにもなって(どんだけ杉重輔対応早、みたいになってあまり褒めたくないのに嫌だけど)、そのままやられちゃったのかという説もなんとなく理解できます(近藤先生が採用していない、杉襲来、城で自害の説)。

対する、弘治三年(1557)はつまり、大内氏滅亡、というか大内義長自害の年。そんな時まで、長房は健在だったのでしょうか? 流れ的には、厳島敗戦 ⇒ 杉重輔襲来 ⇒ 長房自刃 ⇒ 内藤隆世が杉重輔と戦闘 ⇒ 山口市街&大内氏館火災で義長焼け出される ⇒ 無人になっている若山城に毛利元就入る……となるはず。そもそも、内藤隆世と杉重輔が争ったのは、隆世が長房の叔父であり、主を失った陶家臣から涙の訴えがあったから。ということは、それ以前に長房は亡くなっていないといけないんだけど? 龍文寺に立て籠もって健在だったとしたら、杉重輔はそっちに張り付いているであろうし、内藤隆世もそっちに援軍じゃないの? 龍文寺がなかなか陥落しなかったから、念仏踊りのエピソードが出てきてというのはわかるけど、二年間も立て籠もれるのか? とか。謎です。

厳島敗戦十月一日で、杉襲来十月七日、長房自刃閏十月七日と日付まで書かれているから(近藤先生が採用してない説)、きっかり一か月後とかなんとなく出来過ぎているようには思えるものの、二年間も寺に籠ってられないだろうし、義長と同じ年に亡くなった!? というのが、なんとなく腑に落ちないのとで、どうも弘治三年説は信用ならない気が……。しかし、弘治元年説を採用する『都濃郡誌』の典拠に、『陰徳太平記』その他とあるのを見ると、信じていいのだろうか……と思わなくもなかったり。正直なところ、ここはもう、伝承の域を出ないのであって、新しい弘治三年のほうも、なにか最新の根拠で確定しているわけではないかも知れない(そもそも典拠忘れたし)。

龍文寺の記録に、真ん中を取って、弘治二年(1556)に亡くなったとありますが、これが正解の気がしています。いずこを見ても「諸説ある」ですけどね。

偉大な父を失い絶望の淵にいた若い跡継ぎが、なすすべもなく短い生涯を終えたことだけは事実です。菩提寺としての龍文寺はまた、陶氏の最期を看取った寺ともなりました。龍文寺からも逃れたのか、最後の生き残り・鶴寿丸(長房の子、もしくは晴賢の子両説あり)が傀儡当主・大内義長とともに、忠臣・野上の手で殉死させられた際、直系としての陶氏は完全に終わりました。それについては、逃亡を続けた大内義長が最後に辿り着いた場所での話なので、正確にいうとこの寺院内で家が消滅したのではないのですが。なお、親戚筋の中には毛利家家臣となって続いた人もおり、関係者が全滅したということではありません。

附・陶鶴寿丸

さて、長房に跡継ぎがいたかどうかについては不明です。長府の長福寺(現功山寺)で亡くなった幼子・鶴寿丸が彼の息子であったとする説、晴賢の子であるという説があるからです。現在と中世では年齢の感覚がまるで違いますから、若くして亡くなった人に遺児がいても何の不思議はないのですが、そもそも、長房の生没年も不明です。どなたか研究者の先生が、年齢的に長房の子とするのは無理があると書いておられたのを見かけた記憶があるのですが。どうなんでしょう。ここでは、素直に『実録』の記述だけ拾っておきます。

「陶某

系図に貞明、小次郎、雅楽助とあるが、ほかに所見がない。

龍文寺で自殺した。
系図は十七 歳、龍文寺伝記は十四歳であったとする。

法名:月光阿三

鶴寿丸

長房の子。晴賢の末子であるとする説もある。

弘治三年、且山に逃れた大内義長に従う。

四月三日、義長が長福寺で自殺した時に殉死。

鶴寿丸は六歳の幼児だった(五歳とするものもある)ため、且山には家人・野上房忠に背負われていき、義長自殺の際にも、房忠が鶴寿丸を殺した後に自らも殉死した。⇒ 野上房忠 」

(原文文語文)

例によって、これだけ? って思いますが、これだけです。

陶鶴寿丸の墓
鶴寿丸の墓@長府・功山寺

陶長房・まとめ

  1. 厳島合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢の息子
  2. 父の出陣中、若山城を守っていたが、晴賢の死後同じ大内氏に仕える杉重輔らに襲撃される
  3. 重輔は晴賢を父の仇と恨んでいたための襲撃だった
  4. 突然の味方勢力の襲来に、まったく無防備だった長房は城を棄てて菩提寺に逃れた
  5. 陶氏の菩提寺・龍文寺は開基・盛政が万一の時の備えとして要害の地に築いた寺院であり、守りが堅かった
  6. 龍文寺を攻めあぐねた杉勢は、念仏踊りの民衆に紛れて寺院に乱入したという伝承がある
  7. 長房は菩提寺で自害し、陶氏の嫡流は途絶えた
  8. 最後に残った鶴寿丸という幼児は長房の子とも晴賢との子ともされるが、主君・大内義長とともに長府の功山寺で亡くなり、墓とされる小さな宝篋印塔が残る
  9. なお、長房が亡くなった時期と場所については諸説あり、城内で亡くなったとされる逸話も伝わっている
ミル

陶の嫡流は、鶴寿丸さまがお亡くなりになったことで途絶えたけど、ここで陶の家がなくなってしまったわけではないことは、もう分かりますね。

弘護

そうだな。弟の系統は今も続いているだろう。

弘詮

系図には載っていない人々も多いこと、そもそも、系図に載っていない云々以前に、世に知られていない子孫は数え切れないはずですね。

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