陶のくにの人々

陶盛長 四代目当主・盛見代の長門国守護代として尽力

右田弘詮イメージ画像

陶氏の歴代当主さまについてまとめております。今回は、四代目・盛長さまについてご紹介します。大内宗家盛見期に活躍した方となります。初期の頃のご当主さま方については、ほとんどその詳細はわからず、通史タイプのご著作では、その記述もお名前程度となります。今後、より詳細なご研究に出逢えることを期待しつつ、現状況で知り得た範囲内でまとめました。

陶盛長とは?

室町時代の武将です。大内氏の庶流右田氏から分家した陶氏の四代目当主にあたります。周防国富田保を根拠地とし、主として宗家盛見代に活躍しました。陶氏と言えば、代々周防守護代職についていたことが知られていますが、まだこの時点では長門守護代を務めており、世襲化されるほどでもありませんでした。

父は陶弘綱であり、先代当主・弘長にとっては父・弘政の兄弟にあたります。弘長に跡継がいなかったものか、弘綱の三男である盛長が家督を継承しました。弘長とは従兄弟関係ということになります。

なお、陶氏の本家筋にあたる右田氏の始祖とされる方も同じ盛長という名前でした。混同なさらぬようご注意ください。⇒ 関連記事:右田氏

基本データ

生没年不詳
父 弘綱
兄弟 弘宣、宣顕
呼称 三郎
官職等 治部少輔、中務少輔、長門小守護代 ⇒ 長門守護代
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』)

略年表(生涯)

・従兄弟弘長を継ぎ、陶氏四代目当主となる※
応永十七年(1410) 富田保地頭職安堵
応永十八年(1411) 長門守護代補任
※家督継承の年月日は現在のところ不明。地頭職安堵を以て継承されたと推定。
・逝去年月日、死亡理由なども不明(執筆者の努力が至らない点もあり、まったく史料が存在しないものかはわからない)

おもな業績

従兄弟・弘長を継いで陶氏の当主に

陶氏の始祖は弘賢―弘政―弘長と続いていました。弘政の代に、「名字の地・陶」から富田保に移って以来、三代目、陶氏歴代当主としては、四代目となるのが、盛長です。

弘政、弘長期は、宗家の弘世・義弘期にあたり、まだ南北朝の動乱の最中にありました。宗家内部でも内訌が絶えず、また、義弘期に至っては、将軍・義満に叛旗を翻すなど争いの絶えない時代でした。先代・弘長は、義弘を継いだ盛見と、その兄弟・弘茂の家督相続争いで盛見を支持して活躍。その功績で長門守護代に任命されますが、未だ戦乱絶えない九州の地で戦死しています。

弘長に後継者となる実子がいなかったために、跡を継いだのが盛長となります。弘長とは従兄弟関係にありました。先ずは将軍・義持から富田保地頭職を安堵され、翌年には長門守護代に任じられています。⇒ 関連記事:陶氏陶弘政陶弘長

実父・弘綱の系譜

盛長の実の父親は弘綱であり、三代・弘政の兄弟にあたります。ともに、陶氏の始祖とされる弘賢の子です。弘政も弘綱も、ともに宗家の弘世・義弘を助けて活躍しました。けれども、弘世から長門守護代に抜擢されたのは弟である弘綱のほうでした。また、義弘から紀伊守護代に任命されたのも弘綱の子(盛長の兄弟)・弘宣でした。先代・弘長は義弘を継いだ盛見を支持してその功績を認められ、長門守護代となりましたが、見た感じ、弘政期までは、弘綱の家のほうが、優勢であったように見受けられます。

ところが、弘宣は応永の乱に際して、紀伊国で戦死。弘綱のもう一人の兄弟・宣顕の子・宣輔は盛見代と思われる九州の合戦で亡くなっています。

いずれも、『新撰大内氏系図』に書かれている内容ですが、先代弘長も宣顕と同じく九州の合戦で亡くなっており、盛長以外の家督継承候補はいない状態に追い込まれる事態でした(あくまで系図に記されている範囲です)。

弘綱が弘政を差し置いて長門守護代に任命されたのは、長門・厚東氏との合戦で功績をあげたためと思われ、その活躍ぶりには、兄・弘政を凌ぐものがあったのかもしれません。いずれにしても、陶氏の当主は以降、盛長の子孫たちに受け継がれていきますので、嫡流云々に拘る方々からご覧になると、始祖嫡流はこの代から庶流に移ったとも言えます。

宗家・盛見に仕える

宗家・盛見は幕府が承認した家督継承者であった弘茂と争って当主の地位を獲得したという経緯があり、先代・義弘期に幕府に叛旗を翻した(=応永の乱)ことなどから、その治世の初期には大内氏内にも混乱が残っていました。盛見は家臣・領民たちの動揺をおさえると同時に、幕府内での大内氏の地位を修復することに努め、見事に成功しています。その過程で盛長が、どのような役割を果たしていたのか、具体的な事例はほとんど伝わっていません。しかし、盛見を助け活躍したであろうことは十分に想像できます。

その証拠として、陶氏の大内家中での地位を垣間見ることができる史料に「応永十四年大内盛見署判氷上山興隆寺一切経勧進帳」があります。前述の家臣や領民たちの動揺をおさえるための施策として、盛見は信仰の力を借りています。盛見自身が、仏教への帰依篤い当主だったこともあり、多くの宗教的行事が執り行われたのです。ことに、氏寺として、一族・家臣を結束する神聖な場所であった興隆寺を荘厳化させるために様々な行事が執り行われました。興隆寺に一切経を完備させたこともそのひとつです。家臣たちにその費用を負担させることで、大内氏というひとつの家に属する人々の心を結束させることをはかったのでした。

「一切勧進帳」にはその時の家臣たちの寄付金額が載っているわけですが、その額の多少から当時の家臣たちの地位や勢力を垣間見ることができるものとして多くの研究者の先生方が史料として用いておられます。ここでは、『大内氏史研究』で拝読しました。

「杉弾正忠重貞・陶三郎盛長・鷲頭道祖千代丸等歴々の二千疋」

とあります。ほかにも千疋の大枚を寄進している方がおられるものの、多くは五百疋、三百疋、 二百疋、百疋という額であったそうです。陶氏の宗家に対する忠心が推し量られると同時に、それだけの財力があったということが知れます。

残念ながら、通史類に載っている盛長の事蹟はこれだけです。ただし、日々の政務で記された記録、合戦で功績をあげた記録などは断片的に残っているとしても、通史に載るほどの興味深い記録は残されていないようです。

むろん、記録に載っていなかったとしても、盛長が盛見の治世を助けて、政務と軍事両面で活躍しなかったはずはありません。現時点では想像するしかありませんが、研究者の先生方も否定はなさらないと思います。⇒ 関連記事:大内盛見

人物像や評価

人物像については不明点だらけ

残念ながら、盛長の人物像について触れることは、できません。それについて語る史料には出逢えていないからです。系図に載っていることがすべてですので、父、兄弟、子息について以外はまったく不明というよりほかないです。地元の郷土史を丹念に調べることで、どこかに何かしらの言い伝えが残っていないだろうかと期待する次第です。いつどのような亡くなり方をしたのか、菩提寺や墓所はどこにあるのか、法名すらも不明です。

後継者となった盛政期に、陶氏菩提寺龍文寺が創建されます。龍文寺以外にも、専用の菩提寺を持つ歴代もおられますが、代々がこちらの菩提寺にて弔われていることは間違いないでしょう。盛政が龍文寺を建立した逸話に、父の菩提を弔うためと明示されたものがなく、断定はできませんが。⇒ 関連記事:龍文寺

陶盛長が果たした役割と後世の評価

なお、後世の評価として、『中世周防国と陶氏』にある以下の文章を掲げておきたいと思います。現代の郷土史研究家の方々による、最新研究の成果としての盛長についての評価であり、きわめて貴重かつ信頼できるものです。

義弘が幕府に叛旗を翻して敗れ、大内氏は支配領国を防長二ヶ国にまで削られます。また、留守分国を預かっていた盛見は、幕府に降伏し継承者と認められた弘茂によって討伐される対象となります。幕府の介入によって、減国や兄弟同士の家督争いに追い込まれるという、大内氏にとっては最大の危機でした。そんな中で、

「義弘の遺志を継いだ大内盛見に陶氏は味方して、幕府の命を受けた弘茂軍と戦って勝ち、そののちも陶盛長、盛政が主家を支えて四ヶ国の守護にまで復権出来たのである。」(上掲書)

これは、宗家の危機を救い、その発展を助けた陶氏二代に対する最高の評価であり、事実その通りであったと思います。

盛長の子ら

『新撰大内氏系図』によれば、盛長の家督継承者は盛政です。普通に考えれば父子関係です。盛政以降はその事蹟についても記録が詳細となっていき(あくまで系図上)、逸話なども伝えられるようになります。一族の発展がより加速していった証拠です。先祖あっての子孫ですので、詳細不明の盛政以前の人々の努力も報われることになります。

まとめ

  1. 陶盛長は、陶氏四代目の当主であり、三代目・弘長の従兄弟である。弘長が跡継なく戦死したため、家督を継ぐ
  2. 盛長の事蹟などについては、ほとんど伝えられていないが、将軍家から富田保地頭職を安堵され、長門守護代となったことはわかっている
  3. 宗家は盛見期にあたる。盛見には、義弘期の幕府への叛乱(応永の乱)、盛見と弘茂による家督相続争いなどで不穏となった分国を落ち着かせ、悪化した幕府との関係を修復するなど多くの課題があった。盛長は盛見に仕え、それらの事業を手助けしたと考えられる
  4. 盛長自身については不明な点が多いが、その跡を継いだ盛政以降、陶氏がますます発展していく過程が見て取れるようになる。その土台には、盛長期における宗家のために尽した事蹟が多数あったはずで、その功績は十分に評価されるべきである

参考文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏史研究』、『大内氏実録』、『中世周防国と陶氏』

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五郎

ふーん。やっぱりよくわからないんだ。暗黒時代がなおも続いている。菩提寺の創建は、次代のご先祖さまか。漸く色々なことが分かってくる一歩手前だね。

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ミル

そうね、もうひと息ね。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

書くことが増えるとミルは混乱し、グチャグチャとなっていくから、平穏無事な最後の時代だなぁ。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

……。

陶氏 大内氏歴代重臣の家・忠臣が輩出されたが最後に謀叛人が出る
陶氏 大内氏歴代重臣の家・忠臣が輩出されたが最後に謀叛人が出る

右田氏からさらに分家した一族。名字の地は「陶」だが、二代弘政の時、都濃郡富田が本拠地に。代々優秀で忠義の臣を輩出し、大内家中で重きをなした。 ...

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ミル@周防山口館

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1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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