陶のくに風土記

瑠璃光寺跡地(山口市仁保下郷)

瑠璃光寺跡地・歴代住職の墓所

山口県山口市仁保下郷の瑠璃光寺跡地とは?

瑠璃光寺は、大内氏の親族でもあった家臣・陶弘房の菩提寺です。弘房が相国寺の戦い(応仁の乱中でも、特に有名な戦闘)で亡くなった際、奥方さまが建立したのが瑠璃光寺の前身・安養寺でした。その後、弘房の次男・弘詮が安養寺を別の場所に移して再建。名前も「瑠璃光寺」とします。

瑠璃光寺は、その五重塔が山口市のシンボルともなっており、多くの観光客で賑わっておりますが、元々はこの場所にあり、のちに現在地に移築されたのです。旧地のほうにも、移築前の歴代ご住職の墓所や、ミニチュア版五重塔などがあります。

なお、史跡としての正式名称は「旧瑠璃光寺歴代住職墓碑」です。

瑠璃光寺跡地・基本情報

所在地 〒753-0303 山口市仁保下郷
(※Googlemap にあった住所です)
正式名称 「旧瑠璃光寺歴代住職墓碑」

瑠璃光寺跡地・歴史と概観

瑠璃光寺と弘房夫妻、子・弘詮

瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺です。弘房は、応仁の乱が勃発した際、主君とともに上洛しました。長期に渡る大乱の中で、多くの勇猛果敢な忠臣たちが命を落としましたが、弘房もそのひとりとなってしまいます。応仁の乱では、日本全国至る所で数え切れないほどの戦闘が行なわれたと言っても過言ではありません。しかし、対立する勢力同士の小競り合いのようなものがほとんどで、大規模な戦闘となると数は限られます。その中でも、恐らくは最もよく知られているのが、相国寺の戦い(応仁二年、1468)でしょう。主とともに従軍していた弘房は、この戦いで命を落としています。

「戦死」は主君への忠義でも、最大級の扱い。名誉なことではありますが、残された家族の悲しさはたとえようもありません。奥方・仁保氏(仁保盛郷の娘で、『大内氏実録』などから『華谷妙栄』という法名もわかっています)は、安養寺という寺院を建て、亡き夫の菩提寺としました。元号が改まった文明三年(1471)のことです。この時の寺地は仁保荘小高野(『実録』)で、「仁保」という地名からも想像がつく通り、妙栄の領地だったそうです。

『実録』には、永正三年(1506)に、弘房の次男・弘詮が「元」安養寺の自牧庵領などを瑠璃光寺の領地にする旨したためた古文書をあげ、安養寺と瑠璃光寺は別の寺で、安養寺というのは瑠璃光寺が建立されるまで弘房の位牌が置かれていたのだろう云々と難解な考察が書かれております。読んでいて目が点になりますが、現在は近藤先生含む先生方のご研究により、寺院の変遷ははっきりとしています。

延徳四年=明応元年(1492)、弘房の二十五回忌にあたる節目の年に、弘詮が新たな寺院を建立したのです。その際、弘房の法名から瑠璃光寺と呼ぶようになった模様です(『実録』に、元の寺地は狭かったので隣山に移したと書いてあります)。寺院の名前は変ったものの、安養寺が瑠璃光寺になったと見るべきで、二つの寺院が同時に存在したかのような近藤先生のお考えはやや古いようです。「今に仁保に本寺(=瑠璃光寺)の址二所あり。」と書いてあるのは正しく、安養寺時代の跡地と瑠璃光寺となってからの跡地の二箇所があるということでしょう。

残念なことに、記念すべき年に装いも新たに建立された寺院は、わずかに数年後、明応八年(1499)に火災に遭い、伽藍は失われてしまったそうです。そのため、現在「跡地」となっている場所・土井香ノ石(当時の地名です)に場所を移して再建されました。

こうして、愛妻と愛息によって、弘房の菩提は弔われたのでした。なお、諸々次男の弘詮によって、取り仕切られているのは、長男である弘護が早くに亡くなったゆえにです。

瑠璃光寺の移転と史跡として整備された「跡地」

弘房の菩提寺が、奥方さまゆかりの仁保にあったことは頷けます。しかし、現在山口市内にあるのはなにゆえに? という疑問が湧くと思います。それについて答えてくれている資料(先生方や自治体さまの啓蒙書や案内看板も含むというか、それが主な情報源であることが多いので『史料』とは書いてません)には今のところ、お目にかかったことがありません。

強いて言えばですが、現在五重塔が建っている場所=元大内義弘菩提寺・香積寺は、毛利輝元によって解体され、旧寺地は空き家状態となっていました。つまり、寺院を建立するに絶好の場所が空いていたわけです。ただ、寺院さまというのは、檀家の皆さまなどによって支えられているわけですので、場所を移転すると元々の寺地付近にお住まいの方々からは不便になってしまう、というケースもあり得ます。毛利家の時代、首府機能はほとんどの期間萩に置かれていたゆえ、国の中央に進出したかったから、という理由でもなさそうですし。とはいえ、大内氏時代とは比べものにならなかったであろうと想像するものの、山口はやはり「都」ともいうべき奥ゆかしくも麗しい場所です。

瑠璃光寺が弘房の菩提寺であるというだけではなく、由緒ある曹洞宗の大寺院となったことから、中央に出て行く必要が生じたのかもしれません。今のところ、想像できる答えはこれだけです。

瑠璃光寺が、香積寺跡地に移転したのち、瑠璃光寺が元々建っていた場所も「跡地」となってしまいました。伽藍その他は引っ越しできても、移せなかったものがありました。そう、歴代ご住職の墓所です。ゆえに、「跡地」には移転前までのご住職方の墓所と、わずかに池ひとつが残されていました。

瑠璃光寺が現在地に移転されたのは、元禄三年(1690)のことです。以来、ご住職方の墓所だけがぽつねんと残されていたのでしょうか。こちらに墓碑があるのは、開山から二十世までのご住職です。相当な数に上ります。また、瑠璃光寺が「跡地」に存在していた期間は、安養寺時代から数えれば創建年・文明三年(1471)から、瑠璃光寺として再建された年代を起点とするならば、延徳四年=明応元年(1492)から、いずれをとっても、ほぼ 200 年間もの長きに渡ります。

平成三年(1991)、瑠璃光寺創建五百二十年にあたる記念すべき年に、「跡地」は整備されました。歴代ご住職の墓所、ミニチュアの五重塔などがこぢんまりとした中にまとまっており、なかなかに荘厳な赴きのある場所となりました。なお、付近にある池は、往時から今に続くものであるということです(参照:『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』)。

瑠璃光寺跡地・みどころ

墓所以外にはなにもない場所とはなりますが、開山から続くご住職方の墓碑が整然と並ぶさまは圧巻です。山口市内の瑠璃光寺を拝観し終えた方には、ぜひとも立ち寄って頂きたい場所です。

入口

瑠璃光寺跡地・入口

ひとりで夜遅い時間帯に到着したら心細くなること必定です。背後は山で、緑に囲まれており、とても奥ゆかしい風情です。しかし、実は広い道路から少し奥まっているくらいですので、そんなに緊張することもありません。

入り口看板

瑠璃光寺跡地・入口看板

読んで字の如くです。特に重要史跡認定などを受けてはいないようですが、史跡としての正式名称はこの看板の通りであり、瑠璃光寺跡地という呼び方は通称となります。右手に見えている池(後述)にご注目ください。

全景

瑠璃光寺跡地・全景

歴代ご住職の墓碑、五重塔のミニチュア、案内看板。これですべてです。個々のものについては、以下順番にご案内します(※池だけは入りませんでした)。後山が本当に長閑でいい感じですね。

案内看板

瑠璃光寺跡地・案内看板

この看板を見れば、下手な解説はなにも要らない名文です。常に思いますが、看板の拡大写真だけを掲載すれば、記事の執筆は不要なのではないかと。見えにくいので、文字に起こしておきます。

「曹洞宗
旧瑠璃光寺
歴代住職墓碑
瑠璃光寺は、陶氏六代弘房が応仁の乱で戦死したため、その夫人(仁保氏十三代盛郷二女)が文明三年(1472)に夫の冥福を祈るため仁保小高野の地に安養寺を建立したのが始まりです。 その後明応元年(1492)弘房の二十五回忌にこの地に寺を改築し寺号も弘房の法号に因み瑠璃光寺と改めました。 元禄三年(1690) 現在地の山口市香山町に移るまでの約二百年間瑠璃光寺はこの地にありました。 このため開山から第二十世までの住職の墓碑がここに残されています。平成三年に瑠璃光寺五百二十年を期として整備されたものです。
なお二十一世からの住職の墓は瑠璃光寺裏山の墓地に あります。
平成三年十二月吉日
二十世までの住職名
開山 大庵須益・二世 全巌東純・三世 桃岳瑞見・ 四世 剄巌珠端・五世 悟宗圭頓・六世一尖珠麟・
七世 規盛良模・八世 機明養全・九世 雲甫永岳・ 十世 享巌宗貞・十一世 華翁桂岳・十二世 秀山祐田・十三世 年叟永賀・十四世 的翁全當・十五世 中華珪法・十六世 重堂専宗・十七世 竹谿昌筰・十九世 香雲怒薫 ・二十世 寂堂楷禅 各々大和尚」
(看板説明文)

歴代ご住職の墓碑

瑠璃光寺跡地・歴代住職墓碑

全部で二十基の墓碑があることになりますが、さすがに数えませんでした。

瑠璃光寺跡地・歴代住職墓碑2

瑠璃光寺跡地・池

小さなため池のように見えますが、これは歴とした元瑠璃光寺にあった池です。その意味で、かつての姿を今に伝える唯一のものとしてたいへんに貴重です。

ミニチュア五重塔

瑠璃光寺跡地・ミニチュア五重塔

今や瑠璃光寺=五重塔、五重塔=瑠璃光寺となってしまっています。一般観光客的には、麗しい五重塔のお姿を拝見しに来ているのであって、それがどこの寺院さまの所属であるかなど時間が経つにつれて曖昧になってしまわれる方もおられるかもしれません。あれは、大内盛見が兄・義弘の菩提を弔うために云々とか、元は瑠璃光寺ではなく香積寺のもので云々とか、研究者の先生方や、知ったかぶりマニアの人などが解説しても「?」です。実際、瑠璃光寺さまが五重塔を管理してくださっているわけですし、単に五重塔といったら、全国各地にありますので、区別するためにも「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれることが普通です。こうなると、五重塔のお姿とともに、皆さまの山口旅行の思い出は、「瑠璃光寺五重塔が素敵だったわ」となるのでしょう。

そんなわけで、瑠璃光寺のシンボルともいえる五重塔のミニチュアが、ここ、瑠璃光寺跡地にもございます。きれいに刈り込まれた草が、地元の皆さまが跡地を大切に管理なさっていることを物語っておりますね。

瑠璃光寺跡地(山口市仁保下郷)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0303 山口市仁保下郷

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

所在地は、とてつもなくわかりにくいです。Googlemap にも載っていますので、ナビ起動で造作ないと軽く考えておりましたが、見事に裏切られました。このような時、頼りになるのは地元の方々なのですが。山口県内山口市外在住の友人の車に便乗し、ナビでも探せなかったため、付近の住民の皆さまにお声かけして回りましたが、どなたもご存じなく。「あの方ならご存じのはず」という、長老のような方をご紹介くださり、ご案内いただくまでまったくもって場所がわかりませんでした。

『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』に、仁保の地で火災後再建された「土井香ノ石」というのが、現在の「山口市斎場付近」であると書いてくださってあります。これが最大のヒントになります。後からほかの県内在住の友人に尋ねたところ、やはりとても見付けづらく、斎場がわかれば楽なんだけど、最初はそのことを知らなかったので苦労して云々と。ちなみに Googlemap 「仁保斎場」とあるのがそれで、地図を見ると向かい合っているのがわかります。

参照文献:『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』、『大内氏実録』、現地案内看板

瑠璃光寺跡地(山口市仁保下郷)について:まとめ & 感想

瑠璃光寺跡地(山口市仁保下郷)・まとめ

  1. 現在山口市にあり、瑠璃光寺五重塔が有名な瑠璃光寺が移転する以前の所在地
  2. 正式には「旧瑠璃光寺歴代住職墓碑」という
  3. 陶弘房の菩提寺である瑠璃光寺が創建された地は仁保だったので、大内氏の時代には瑠璃光寺といえばこの地をさした
  4. 弘房夫人が最初に建立した安養寺、弘房の二十五回忌に次男の弘詮がさらに立派な寺院を建立し、名前も瑠璃光寺と改めた旧地、そして、ほどなく火災によって伽藍焼失の憂き目に遭い付近に再建された場所と、何度か寺地は変遷したが、火災による焼失以降はずっと同じ場所にあったと見られ、それが、現在のこの「跡地」
  5. 山口市の現在地に移転するまでの歴代住職(開山から二十世まで)の墓碑がある
  6. 平成三年、瑠璃光寺創建 520 年を記念して、跡地は整備された
  7. 現在、ご住職方の墓碑、ミニチュアの五重塔、かつて伽藍がこの地にあったときの名残である池を見ることができる

開口一番、探すのに苦労した、という場所です。案外と、歩いていたらナビ起動で普通に着く可能性もありますが、郊外もいいところですので、まさか歩けません。そこで、タクシーなりを使うことになりますが、ここはもう、タクシーの運転手さんが偶然にもご存じであることを祈るしかありません。辿り着くまでそのくらい苦労しました。一度辿り着いてしまえば、「あら、斎場の近くね」ということになり(執筆者はこれだけお伺してもわかりませんが)、この辺りをヒントにすれば普通に見つかるかもしれません。

瑠璃光寺が山口市内、香積寺跡地に移転した理由が昔年の謎です。とある研究者の先生が、大内氏を滅ぼした陶の家にかかわる寺院が跡地におさまっているのは皮肉だ云々というようなことを書いておいででしたが……。大内氏を滅ぼしたのは陶ではなく、毛利なので、そこは意見不一致ということで、気になりません。でも、毛利家が来るまで(確かにそれまでは、大内本家にゆかりある寺社ばかりだったことを考えれば、研究者の先生がさらっと愚痴っておいでなのもわからなくはないですね、笑)、陶弘房の菩提寺はずっとずっと仁保の地にあったわけです。移転は江戸時代。もはや、陶も大内もこの世に存在しない時代です。となれば、引っ越しは寺院さま都合のお話となり、まあ、旧地よりは便がいいところにということで納得ではあります。しかし、その時点で、陶の家ゆかりの人の菩提寺というよりは、曹洞宗の大寺院という性格が強くなっていたのだろうな、と考えるとちょっぴり寂しくもあります。

中世、瑠璃光寺はここにあり、陶家代々の人々も先祖である弘房を偲んで訪れたのはこちらの場所のほうでした。そう思えば、跡地のほうこそ懐かしく、無事に辿り着けたこと、感無量でした。長年訪れたいと願い、叶わなかった願いを叶えてくれた、心優しく親切な友人に、この場を借りて感謝いたします。本当にありがとうございました! 

最後に謎がひとつ残りました。案内看板に明記されていないゆえ、分らないのだと判断しますが、ここが菩提寺跡地であった以上、弘房の墓碑もあったはずです。歴代住職の中に紛れ込んでいるのでしょうか。普通に宝篋印塔もあったのですが、それがそうだと判明しているのであれば、その旨書かれているはず。つまりは所在不明なのでしょう。そもそも、陶氏菩提寺である周南市の龍文寺にも、弘房の墓があるのかどうか不明ですし(あちらは、ものすごい数の墓碑がありますが、誰のものなのか判明していません)。やはり、墓碑の数を数えてみるべきでした。また、意外にも、すごい墓が存在していることを、知る人は知っていても、なにも主張していないケースもあります。無事到着できただけで喜んで終わったのは浅はかでした。せっかく博識の友人と一緒だったのに……。

こんな方におすすめ

  • 香山公園、瑠璃光寺五重塔を見終えた方に
  • 中世陶の家に関心ある方に

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

覚えているよ。曾祖父さまの菩提寺。俺がお参りしたのもこっちだった。今は跡形もないね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

確かにそう思えば悲しいね……。でもこうやって、跡地を大切にしてくれている地元の方々に感謝しようね。

城主さまイメージ画像
祖父さま

父上の菩提寺を管理するのはお前の仕事になったな。長男として面目ない

右田弘詮吹き出し用イメージ画像
外祖父さま

何を仰るのです、兄上。一族皆で管理してきたのですよ。今は我らがなにもせずとも、イマドキの民に広く愛される寺院となりましたね。思い残すことはなにもありません。

龍文寺山門(常楽門)前記念撮影
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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
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