
山口県岩国市玖珂町の鞍掛山城跡とは?
毛利家の防長経略で落とされた城跡です。その時の当主は杉隆泰という人でした。山頂に古戦場跡碑および麓に戦死者之碑や案内看板などがあります。
杉隆泰とその家臣らは、毛利軍の侵略に抵抗して敗北した気の毒な人々として、山麓には作家の宇野千代先生の碑文や供養塔もあります。しかし、あくまで勝利した毛利側の手になるものとはなりますが、軍記物の類によれば、杉隆泰は毛利軍への内通を希望していたという説があります。諸説ありますが、犬猿の仲だったとなりの蓮華山城主・椙杜隆康の陰謀により毛利家への投降は叶わず、毛利・椙杜両軍によって城は落とされ、隆泰はじめ多くの将兵が犠牲となりました。
遠い昔の話とはいえ、戦闘という悲惨な出来事で尊い命が失われたのは気の毒なことです。今も当時の人々に思いを馳せ、記念碑を造って彼らを偲ぶ地元の方々の優しさに触れる、そんな場所です。
鞍掛山城跡・基本情報
名称 鞍掛山城
別名 鞍懸山城
立地 山頂
標高(比高) 260.1メートル※(180メートル)※※
年代 16世紀頃
城主 杉氏ほか
遺構 郭
文化財指定 なし
(参照:『日本の城辞典』、※現地案内看板、※※『防長古城址の研究』)
鞍掛山城跡・歴史と概観
『防長古城址の研究』に見る鞍掛山城跡の概観
ここでは、昭和の初期に書かれた御薗生翁甫先生の『防長古城址の研究』から、鞍掛山城跡について学びました。理由は敬愛する先生のご著作であること、城跡というものは、年々風化することから、古い時代の記録のほうがむしろ多少なりとも、元の姿に近かったのではないかと思われるためです。
新たな史料が発見されるなどして、大きく歴史が塗り替えられたりする昨今、古い時代の本を参考にするのは時代の流れに逆行しているかも知れません。その意味では、最新の発掘調査などから新たにわかった情報等を反映した山口県発行の城跡調査の資料が最も優れています。残念ながら、まだ本が手許にないことから、それらについては日を改めて補足します。それともうひとつ。実は、山城跡は年が経つにつれて風化します。発掘調査で出てくるような埋もれていた部分については問題ないかもですが、山道などは自然災害などで、年々かつての姿から遠くなっていくのです。中世山城を回っている方々は、思い入れの強い城については、最優先で向かったほうがいいです。集中豪雨で流された貴重な遺構に涙する経験が何度もありました。そのことは、どうか心の片隅に。
鞍掛山城の姿テキトー図
最初に、上掲のテキトー図は、御薗生翁甫先生のご本にあった鞍掛山城の遠景図です。似ても似つかぬものになっていますが、大元は間違っていません。以下、これを参考にお読みください。
まず、本丸ですが、当然ここが山頂でして、だいたい二十坪ほどの削平地があるそうです。本丸から北に向かって下って行くと、また、やや高いところがあってここが二の丸です。つまりこの図は、向かって右手が北となりますね。北を上に書くのが地図の鉄則ではないのかと思いますが、そうなると城跡図としてはちょっとカッコ悪くなりますので、そこは我慢してください。
二の丸には、特に平坦な部分はないとか。ここで尾根は北東に(つまりこの図だと手前のほうですね)に湾曲。馬の尻尾のように突き出ているそうです。この部分はかなり険しく、敵が攻め登るのは困難らしい。
突き出た部分を無視し、二の丸からそのまま北に下って行くと、分岐点があり、さらに下るとちょっとした削平地があります。これが三の丸です。ここからは、山の下がよく見えるようです。
御薗生翁甫先生が、より以前に書かれた『玖珂郡誌』をご覧になったところ、兵糧蔵の跡が残っているとか、あれこれの記述があったようです。しかし、先生が登頂なさった時には、すでになくなっていたそうです。山城跡に行くには早ければ早いほどいいと書いた意味が、このようなところからもお分かりいただけるかと存じます。先生は、山頂には何の施設の跡も残っていなかったと書いておられます。
まとめると以下のようになるかと。
本丸 最も高いところ。二十坪くらいの削平地あり
二の丸 本丸から北に下ったところ。平坦な場所なし
二の丸から突き出た尾根 二の丸から北東に湾曲した部分。それなり険しい
三の丸 上の尾根に向かわず、二の丸からそのまま北へ向かったところ。多少平坦な部分あり。視界良好
なお、山の東側を「谷津原」といったそうで、ここに杉家の屋敷がありました。かつて祥雲寺という寺院があり、杉隆泰の墓はそこにあったようです。また、家臣六名の塚や、千人塚などもありました。御薗生翁甫先生の時代、すでに寺院はなくなって、隆泰の墓は他所に移されており、六基あった家臣の塚も四基だけとなってしまっていました。千人塚(といわれているもの)だけはそのまま存在していたようです。
蓮華山と鞍掛山
蓮華山と鞍掛山。岩国方面から向かうと、大きな蓮華山の手前に、小さな鞍掛山が見えます。実際に登山をしてみれば、二つの山は全く違う山ですし、すぐとなりというような表現も適切ではないかも知れません。しかし、離れた場所から眺めやった姿は、まさに「となり」です。
平和な現代にハイキングや登山を楽しむ我々から見たら、信じられない話ですが、二つの山はともに中世山城跡。しかも、二つの山に城を築いていた城主同士は犬猿の仲でした。今の世の中でも、気の合わない人というのは、誰にでも存在すると思います。怨恨によって犯罪行為が起こるような悲劇もありますので、戦闘が日常茶飯事だった中世より、現在のほうが悲惨ともいえます。いずれにしても、多少気にくわないという理由でそれが、生死にまでかかわる大事件となるとしたら、何とも恐ろしいことです。
蓮華山と鞍掛山の城主は、この「気にくわない」という理由から、相手を攻撃して城を落とし、多くの人の命を奪うまでに発展したことになっています。「ことになっている」という表現は奇怪に感じられるかと存じますが、軍記物などで創作として脚色が加えられた可能性もあり、相手の命を奪うことになった戦闘も関係者両名の果たし合いのようなものではないためです。蓮華山城主の椙杜隆康が毛利家に内通し、椙杜は毛利方、杉は大内方として敵同士になったのです。
鞍掛山城は落城し、椙杜が与していた毛利方の勝利に終わりました。たまたま、彼らが元々仲が悪かったために、後からあれこれの尾ひれがついて話が広がったのでしょう(そもそも『不仲説』じたいが、軍記物から来ております)。国情が平穏であれば、「気にくわない」という理由だけでとなりの城を攻め落としたりまではしないはずです。中世の人々の思考回路は不明ですから、全国見渡せばそのような例も皆無ではないかもですが、そこまでは調べられません。
厳島の戦いに勝利した毛利元就が、防長経略の途中で進路にある城を次々に落としていく中で、鞍掛山もその犠牲となったのです。椙杜は大内氏を裏切り毛利家に内通したため、ともに鞍掛山攻めに加わっていたのでした。椙杜の裏切りと蓮華山城については、以下の記事に書きました。
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蓮華山城跡(山口県岩国市玖珂町)
毛利元就の防長経略の際、そそくさと内通した椙杜隆康の居城跡。犬猿の仲・杉隆泰を攻め滅ぼすのに功績をあげ、以後も毛利家臣として厚遇された。
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裏切り者か「忠臣」か
鞍掛山城を舞台とした合戦のあらましですが、正直、さっぱりわかりません。一行でまとめれば、あまりにも簡単です。
毛利元就が防長経略の途中で、進路にあたる鞍掛城を落としていった
これだけ。何が事態を複雑化させているかと言えば、やはり、杉隆泰の本音が見えないせいです。となりの椙杜隆康のほうは簡単で、毛利家に寝返ってともに杉の城を落としたというだけですから、分かりやすいことこの上ないです。しかも、毛利についたおかげで、自らの城は無事です。落城までの云々を書く必要もありません。
結局のところ、杉隆泰には毛利に寝返るつもりがあったのかどうか。これは大問題です。史料が何もなければ、誰も気にも留めないことですが、ありすぎることが却って邪魔となっています。史料と言っても、軍記物の類なので、信じていいのかどうか不明であることも災いしております。さらに、すべての書物に同じことが書いてあればまだしも、それぞれの言い分が微妙に違っていたりします。いったい、何を信じたらよいのやら。
通説では、寝返るつもりだったのに、椙杜の讒言によって阻まれてしまったということになっています。それが本当だとしたら、気の毒な話です。また、一度は寝返りを決めたが途中から心変わりして、やはり大内方についたという説もあります。この「一度は寝返りを決めた」の部分が、味方になったと見せかけて毛利方を油断させ、大内方に密かに情報を伝えるための「偽りの投降」だったという説も。いずれが真実なのかは、全く不明です。しかし、途中から心変わりしたにせよ、一度でも寝返りを考えたのであれば椙杜同様、大内方からすれば「裏切り者」となります。最初から完全なる「偽りの投降」であったのだとすれば、主である大内方のために尽そうと知恵を絞って、危険な橋を渡っていた忠義の家臣となります(偽りの投降がバレてしまえば、報復されますから、命がけです)。裏切り者か忠臣かでは正反対ですので、ここを誤解してしまうと、杉氏の方々に申し訳ないということになります。
以上のようなことを考え始めると、本当に悩ましいのです。
『玖珂町史』に、以下のような引用がありました。
有馬平左衛門戦記には次のように書いてある。 「元来陶、毛利の合戦は義隆公の弔合戦である。廿日市及厳島両役には、杉、内藤二家は晴賢を助けず、かえって晴賢の滅亡を期するものなり。元就、 今度防長二ヶ国に発向は陶に倣う悪逆なり、既に天文九年十二月上旬、尼子晴久兵五万を率いて元就を吉田郡郡山城 (広島県高田郡吉田町)に囲む。義隆之を援け、兵三万を後詰として、国司住吉山に拠り、晴久の兵と戦い、遂に晴久を走らす。 元就その厚恩を忘れ大内家を覆さんとすること無道なり。是に於て鞍掛の城兵は一命あらん限り戦うべし」
出典:『玖珂町史』
この『有馬平左衛門戦記』という本の存在を知らなかったので、へぇと目から鱗なんですが、この後に「毛利方の陰徳太平記には」云々と引用があるので、これはつまり「大内方」の軍記物なんですね。
でも一旦すとんと落ちた後、また疑問符だらけになりました。つまり、毛利が厳島でやったことは「義戦」という立ち位置なんですよね、これ。叛乱家臣の親玉を倒したことまでは善し、と。だけど、そこで終わりにせず、なおも周防国にまで侵攻してくるのは何事か、と。「陶に倣う悪逆なり」とか言われたら、毛利元就もびっくりです。
殿さまの弔い合戦をしてくれたことには感謝します。しかし、それは厳島で終了したはずでしょう。さらに周防国にまで攻め込んでくるとは、どういうことか。と、作者の有馬さんは極めて立腹しておられます。お気持ちはとてもよく分かります。でも、世の中、そこまで甘くはないのではないかと。
食うか食われるかの時代。厳島の合戦が単なる「義隆公の弔い合戦」などではなかったことは明白です。周防国を守るため、もしくは、大内という名前を残すためには厳島の合戦に負けてはならなかったんです。叛乱家臣の親玉が気に入らないなら、殿さまに殉死するか、吉見正頼のように叛旗を翻せばよかったのです。「杉、内藤二家は晴賢を助けず、かえって晴賢の滅亡を期するものなり」などという人任せで何もしないとは。毛利家が厳島だけで戦をやめて、弔い合戦は終えましたので、と帰国するはずがありません。未だに毛利家の人たちを大内氏の配下であり、使い走りであるとでもみなしておられたのでしょうか。
この引用からは、杉家の人たちは、毛利家が弔い合戦を終えたにもかかわらず、そこで引返さず次は周防国に牙を向けてきたことに憤りを覚えたこと、そのような「悪逆」を行なうのであれば断固戦う覚悟であったこと、がわかります。しかし、これまた杉家を美化した記述ですので、そのまま信用してよいものかは不明です。この引用が正確であるならば、杉隆泰が毛利家に内通するなどということは、到底あり得ぬこととなります。
杉隆泰は毛利に投降したのか、したとしたならば、なにゆえに毛利家に受け入れて貰えなかったのか。当事者たちに問い合せることができないため、ここはもう永久に闇です。『陰徳太平記』そのほかにあるような、杉が内通すると見せかけてじつは、毛利家の内情を探っていた「ニセ投降」云々の話は脚色と感じます。でもそれさえも、真実であった可能性がゼロとは言い切れません。
杉が本当に「ニセ投降」とやらをしていたのであれば、椙杜なんぞに言われなくとも、毛利元就にはお見通しだったでしょう。杉と椙杜が犬猿の仲なんて情報も、どっかのトロい殿さまとは違うので、とっくに気付いていたはずです。そんな事実はなく、椙杜の讒言だったとしても、見抜かれていますよ。ですけど、そこまで憎み合っている両名を、ともに召し抱えるのは面倒だと感じたかも知れません。だいたい、忠義の家臣は大勢いるのに、これ以上他国の裏切り者などいらないんです。ただし、領国が増えると、国を管理する人員が不足します。無駄な兵損も避けたいですから、来る者は拒まず、配下に組み込んで人員不足を補ったものかと。
理由はどうあれ、投降したかったのに上手くいかなかったのだとしたら、運が悪かったとしか言いようがありません。それが毛利方軍記物曰くのような、杉と椙杜の人間関係から来ているとしたら、まったくもって恐ろしい話です。
鞍掛合戦
城主を悪し様に言いつつ登山しても面白くないですから、杉隆泰はあくまで大内氏に殉じた忠義の家臣として話を進めます。
そのような立場に立つとしても、『陰徳太平記』に出てくる「ニセ投降」の話は、避けて通れないようです。『玖珂町史』にも、この記事は事実ではない云々のようなことを但書しつつも、やはりこのインチキ本から大部の記事を採集していると見受けられます。結局のところ、負けた側には記録を書き残すいとまもなければ、落城炎上した城に記録を残していたとしても灰になっているため、毛利方の史料をひっくり返すしかないのでしょう。残念無念なことです。
毛利元就が、厳島で勝利したと知った周囲の大小の勢力は驚愕しました。付け届けをして今後も親しくしてくださいと挨拶の使いを送ったり、信頼してもらうために人質となる人を派遣して今後は味方に……と低姿勢で頼み込む勢力もいました。毛利家が大内氏のような大国を相手に大勝利をおさめたという事実は、かなりの衝撃だったと思われます。毛利軍が岩国に陣を置き、防長経略を開始するや、これはたいへんだと大内氏に仕えていたはずの家臣たちまで、同じことをしてきたので、見ている(読んでいる)こちらのほうもびっくりです。
杉隆泰の家では、毛利家が厳島で勝利した時点で、廿日市まで家臣らを派遣しました。柳井弥治郎、有永加賀、岡部佐渡、渡辺源治郎の四名です。しかし、彼らは元就が岩国に入り、何やら今度は防長を侵略しようとしているらしいと知って、途中から引返します。ところが、毛利の先発・末国左馬助、 岡惣左衛門、今岡小次郎なる連中が追いかけてきて戦闘となり、杉家から派遣された人は全員亡くなってしまいます。
この流れはかなり不可思議です。何のために廿日市に家臣を送ったのか、なにゆえに引返したのかの説明が書かれていないためです。内通のためなら、防長に向かっていると分ったからといって引返す必要はないはず。内通ではなく、戦勝祝いの使者ならば分かります。とんでもない企てがあると知り、急ぎ知らせに戻ろうとして阻止されたのでしょう。ところが、この後に椙杜が「ニセ投降」を曝く話に繋がっているため、「?」となるわけです。偽りであっても投降するのならば、内通のための使者は=人質でもあり、帰国はしないと思われるので。ここは飛ばそうとも思いましたが、『玖珂町史』に沿って書いているので、残します。読みが浅いせいと思われるので、のちほど改めます。
椙杜は杉隆泰は元就に内通したといっているが、嘘だろう。きっと裏では大内と繋がっているはずだ、と考えます。その証拠をつかむため、山口に至る道に人を置いて様子を探っていると不審な人物が通りかかります。強引に問い質すと杉から大内義長に宛てた機密文書を持っており、毛利家の状況と義長への援軍依頼などが書かれていました。椙杜がしてやったりと手紙と人物を毛利家に突き出したところ、元就はよくやったと大喜び。早速、杉を退治しようとなります。不意打ちを食らわせないと、敵方が準備を整えてしまうので、というわけで電光石火で出発。
杉側は毛利軍が来たというので、さてはいよいよ防長侵略を開始したか、と思えど、様子を伺うと何やら自らの城に向けて攻撃を仕掛けてくるような気配なので、これは何事であろうか、と訝しく思います。なぜなら人質も出し、毛利に「内通」していたからです。たとえ、れいの椙杜が何らかの讒言をしたとしても、そんなことで疑われたりすることがあろうか。七枚の起請文まで書いたのに、と。とりあえず、家老を出迎えの挨拶に出します。ところが、毛利軍の口上は「内通者」へ向けたものとは思えぬ内容。「お前らを倒して戦神に捧げる」みたいな、初戦の血祭りにされてしまうかのような雰囲気。家老たちの驚きはいかばかりか。杉側はこうなった以上は、たとえ最後のひとりになっても、徹底的に戦おうと決意したと。
この流れも謎ですよね。杉方は、毛利家が「敵として」来訪したことに驚いているように感じる記述です。「毛利家に内通した」という事実がなければ、驚く必要はなく、遂に来たか、で終わりのはずです。先に、椙杜が「ニセ投降」を曝いた話が書かれているため、辻褄を合わせようとすれば、毛利家に味方したふりをしていたのに、なんでバレたのだろうか!? とでもなりましょうか。
『玖珂町史』には、「最初十一日、十二日、十三日までは斥候戦であった」とあり、数日間は、お互いに相手の兵力を探りながら、小競り合い程度で対峙していた模様です。「内通」があったか否かは不明ながら、毛利軍の進軍がとても速かったことで、杉側には十分な防御態勢を敷く時間はなかったのではないかと思われます。援軍も来はしませんでしたし。それでも、短期間の内に出来うる限りのことをして毛利軍と戦いました。
『玖珂町史』によれば、鞍掛山城方の兵数は「総勢二千六百」とのことです。そして、防衛拠点と主立った武将の配置は以下の通りです。
杉勢防衛網
前備
本郷筑地屋敷(八幡宮下手豆田の所) ⇒ 防御施設:柵、溝 守備隊:柳井若狭、有馬平左衛門(大将)、三輪四郎兵衛、宇野弥七郎以下士卒四百人
市頭筑地屋敷 ⇒ 防御施設:三重に立てた棚、守備隊:渡辺帯刀(大将)、米倉小兵衛、作馬平左衛門、有吉助兵衛、宮川六兵衛、藤井助之進以下士卒四百人
往還道左右側 ⇒ 切所を構える
城内 総勢千八百、大石、巨材を置くなどして防備
本丸:城主・杉隆泰、有永備中、林対馬、杉隼人、宇野筑後、児玉筑前、糸原庄左衛門、三浦助右衛門、重村藤左衛門、豊田与兵衛、高野善左衛門、小柳助之進、児玉又兵衛以下士卒一千人
二の丸:土佐入道宗珊(隆泰の父)、兵数八百
毛利軍は「野口」方面からの攻略を考えていたようです。坂新左衛門、椙杜下野守 (蓮華城主) 、平賀某が先発として、上野口に到着。粟屋某という者が、兵十四、五人をつけて角明神(中野口)に斥候として現われ、兵数が多いように見せかけて退きました。杉方は鉄砲(?!)で応戦。粟屋の馬およびその他多数の兵を倒します。数日間にわたり、このような攻めてみては退くを繰り返したのち、毛利方は「野口」から攻め込むのは無理と判断。兵二千ほどを上野口に残した上で撤退していきました。
杉隆泰は毛利が負けたふりをして退いたのは、計略であると配下の者たちに伝えます。暗くなってから再度攻撃してくるはずなので、定められた場所を死守するようにと。
案の定、敵は夜になって再度やって来ました。しかし、上野口にはわずかな兵を残しただけで、主力は河内に回していました。上述の御薗生翁甫先生のご本に次のようにあります。「隆泰が対毛利勢の戦に、搦手のさまで険阻ならざる方面より駆け上られて、予て用意の大石材木皆敵の有となりて、逆に落行く隆泰の兵が多数撃殺され、城は落ちて、元就は城内の男女千三百七十余人を斬った」。
城の概観で見た通り、東側は非常に険しいのです。そして、岩国方面から来るとそちらが行く手を阻みます。自然の要害に頼って防御を固めることが可能なわけです。ですが、搦手はといえば、「さまで険阻ならざる」状態でした。本来ならば、背後には「同僚」椙杜の蓮華山城があるわけなので、味方同士手を結んで助け合えば、後ろを気にする必要はありません。しかし、今や背後は敵となっているため、逆にこれ以上危険なことはありません。二つの城はあまりにも近接していますから。当然、杉隆泰がその点に気付かぬであろうはずはないです。しかし、そちら側まで何らかの手を打ついとまはなかったのでしょう。
毛利軍、それも吉川、小早川、宍戸といったすごいのが、椙杜に導かれて蓮華山城の麓から鞍掛山城の搦手に回り、そこから攻め上りました。十一月十四日、朝まだきにのことです。
正直、無防備な方面から上がってこられたらもうお終いです。あれこれ最後の抵抗について書いてありますが、気の毒なだけです。城内には1000人ほどしかいなかったのにかかわらず、毛利軍はその十倍の兵力(つまり一万人!?)と書いてあります。真偽の程はわかりませんが、数の上でも相当に劣っていたことは間違いありません。
先に隆泰の父・土佐入道宗珊が討たれ、残るは隆泰だけとなります。味方の兵も残りわずか。これまでと悟った隆泰は先ずは中村新左衛門なる人物を斬り、敵の中に討ち入って縦横無尽に最後の立ち回りをしました。この時、小方相模守隆忠が隆泰を討ち取って手柄にしようと向かってきますが、相手が強すぎて逆に我が身に危険がおよびます。危ういところで、家来の吉井晴六という者が隆泰の腕を切りつけ、一瞬ひるんだところをすかさず小方が討ち取ったということです。
なお、隆泰の命令を守り、前備を守っていた将兵等は、敵が城内に入ったと知り慌てて救援に向かおうとします。しかし、毛利元就、隆元ら(道理で先程の一万人の中に吉川、小早川しかないんだなぁ)に追撃されて城に向かえず。すべて討ち取られてしまいました。
以上がこの合戦の流れです。合戦の際、城は焼け落ちたとされており、山中からは焼けた米、焼けた麦などが見つかることがあるそうです。(以上参照『玖珂町誌』)
千人塚と隆泰の子孫
毛利元就は杉隆泰父子、柳井若狭、有馬備中、林対馬、宇野筑後、杉隼人、児玉筑前そのほか八百九十余人の首級を実検し谷津寺ケ谷祥雲寺に葬り、岩国に帰陣しました。
隆泰父子が寺院に埋葬されたほか、六人の家老の墓、名もなき将兵の供養塔としての千人塚が築かれたといいます。
気になるのは、鞍掛山もしくは、前備にいた人たちの中で、生き残った人がいるかどうか。隆泰の子孫などは存在するのかということです。これも『玖珂町史』に書かれていることですが、生き残った人たちはいました。
じつは、隆泰の嫡男はその母親とともに、山口の屋敷にいたのです。大内氏の家臣たちが山口に屋敷を持っていてそこに詰めていたことは知られています。それぞれが城郭を持ってはいましたが、他国に攻められることもない大国ですから、城に詰めるような不測の事態は、ほぼ起こったこともなかったと思います。ほとんどの期間、山口の屋敷に住んで、そこから守護館に出仕していたのでしょう。
落城時に城内にいなかったのですから、嫡男は無事でした。また、屋敷に詰めていた家臣も無事です。城内にいた人々の中には、残念ながら逃げ延びた人はいなかったようです。ただし、外にいた人々の中に、生存者がいました。前備の人たちの中から、「大将三輪四郎兵衛、宇野弥七郎、有馬平左衛門、重村藤左衛門」の四名は助かっています。落城前に、もはやこれまでと悟り、鞍掛山で起こった出来事を山口に知らせるために逃亡したのです。
隆泰の嫡男は島寿丸といい、まだ六才の幼児でした。生き残りは彼とその母、山口屋敷に詰めていた家臣、そして戦場から逃れて来た四名、それから、島寿丸の弟(隆泰の次男)で他家の養子となっていた亀若丸だけです。毛利軍が山口に攻め込んでくる前に、島寿丸と付き従う家臣らは九州に逃れて分家の城を目指しました。ところが、そこにもまた、大友勢が攻めてくると聞き、仕方なく伊予国に逃れて身を隠します。その後、縁あって毛利元就に取り次いでもらい、許されて柳井清左衛門という人の養子となって、そこで亡くなったそうです。
弟のほうは、養子に入った家の娘婿となっていましたが、奥方が早くに亡くなってしまったため、柳井若狭守義兼の娘と再婚。以後は柳井源次郎と名乗りました。その後については不明です(書いている人が知らないだけです)。
最後に、杉隆泰の出自についてですが、杉氏は大江姓で大江匡房と同じ流れをくむ一族。杉従四位中将維元という人の代に豊浦郡を下賜されました。右京進世直代に大内弘世に服属。その後、弘真ー弘重ー弘恒ー(中略)ー直泰(=宗珊入道)ー隆泰と続いて来たということです(参照:『玖珂町誌』に記された系図 ※本文中では、直泰が興泰となっていました)。
なお、千人塚は経年劣化により朽ちかけており、地元の方々により新たに「鞍掛戦死者之碑」として整備されています(後述)。
鞍掛山城跡・みどころ
山城跡であり、古戦場跡でもありますので、それに類する案内看板などがあるほか、千人塚があります。千人塚は麓にありますが、元就時代に造られたものは朽ちかけた石組となり、現在あるものは最近になって(といってもかなり前です)再建されたものです。案内看板の類は山頂と麓にありますので、すべて見るためには、登頂する必要があります。
城の姿(遠景)
手前に見えるのが鞍掛山です。低い山です。その後ろにあるより高く、大きな山が蓮華山となります。
鞍掛戦死者之碑
向かって右が千人塚。左が作家・宇野千代先生のお言葉が刻された記念碑となります。住宅地の中にあるため、これ以上大きな写真は載せられません。
「史跡 鞍掛戦死者之碑 (鞍掛合戦千人塚)
鞍掛合戦は、『鞍掛合戦実記』によれば、今から約450年前、 弘治元年(1555年)11月14日 (「陰徳記』には10月27日) 守護大名大内氏の重臣杉隆泰・父宗珊一族郎党2600人は、 戦国大名毛利元就・吉川元春・小早川隆景一族郎党7000人を迎え撃ち戦いました。
しかし、多勢に無勢、杉氏一族は奮戦むなしく無念にも討ち死にし、鞍掛山城は落城しました。当時、領主杉隆泰 は、盆地周辺に3万石を有していました。
この谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。 昭和8年3月14日、玖珂町が残存状態の比較的よい積み石塚の3基を改修して、花崗岩製の墓柱を建立しています。 昭和63年、南端の1基について、 玖珂ライオンズクラブが積み石塚を覆う基壇を設置する改修工事を実施しています。 宇野千代の直筆による「史跡千人塚に想ふ」の追悼碑は、随筆「残っている話」の中に記述があり、鞍掛合戦の悲痛さに胸打たれた想いが語られています。 3月5日の追悼碑除幕式には、宇野女史は体調を崩して出席できず、 その後、逝去されました。
平成元年3月建立
平成20年7月改修
岩国市教育委員会」
(看板説明文)
案内看板の写真を見ると一目瞭然なのですが、これはかつての石積塚ではなく、記念碑です。元の塚はこの記念碑の後方にあります。現在、地元の方の邸宅が建っており、この場所からは見ることができません。案内看板撮影当時は見渡す限りの空き地で、こちらの記念碑を撮影すれば修復された古い塚も画面に入る状態だったようです。ゆえに、こちらはあくまでも記念碑であり、修繕されたとはいえ、三基残っている塚をご覧になりたい方は、もう少し歩かなければなりません。
鞍掛山城跡(岩国市玖珂町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒742-0332 岩国市玖珂町
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
鉄道最寄り駅は「玖珂」のようです。ただし、歩けそうにはありません。公共交通機関を使っていませんので、行き方は調査中です。岩国から車ですぐです。
参照文献:『玖珂町誌』、『防長古城址の研究』、『日本の城辞典』、現地案内看板
鞍掛山城跡(岩国市玖珂町)について:まとめ & 感想
鞍掛山城跡(岩国市玖珂町)・まとめ
- 鞍掛山城はかつて大内氏家臣杉氏の居城だったところ(『城辞典』に杉氏ほかとあるので、他者が詰めていた時期があったようだが、未調査)
- 毛利元就が防長経略を始めた時、行く先々の降伏しない城は攻め落とされたが、その中のひとつ。安芸国からほど近い岩国にあるため、真っ先に襲われた部類
- 城主の杉隆泰には、じつは毛利方への寝返りを希望していたとの説がある。希望が叶わなかったのは、日頃から仲が悪かったとなりの蓮華山城主・椙杜隆康に讒言されたためという
- また一説によれば、毛利方への投降は敵を欺くための偽装工作であり、寝返ったと油断させておいて敵情を主家に伝えていたともいう。この説では、大内方と連絡を取るため山口に向かおうとした使者が椙杜に捕らえられて毛利方に偽装工作が漏れた、とする。
- いずれも、軍記物に記された脚色の可能性もあり、真実は不明。しかし、毛利に敵対しなければ城を攻め落とされる理由が不明なので、寝返りは事実無根とする見方もできる。少なくとも、地元の方々にとっては、敵方(毛利)の侵攻を防ごうとして果たせなかった忠義の方々として認識されていると思われる。恐らくはそれが史実でもあったのではなかろうか
- 鞍掛山城は東側が防御に固い形状だったが、敵軍はそれとは反対の背後から攻め寄せた。これには、寝返った椙杜の協力が効いている
- 杉隆泰らは勇猛果敢に戦ったが、兵力も大きく劣っており、抵抗空しく城は落とされた
- 落城の際、城は燃えたため、火災の痕跡が残っている
- 山頂に古戦場碑、山麓に「鞍掛戦死者之碑」、およびかつての千人塚の一部が修復されたものが残る
沼城跡に行く途中で通過しました。どうも『陰徳太平記』あたりの影響が大きく、杉隆泰も寝返ろうとしたのに、椙杜に邪魔されて希望が叶わなかった。と思い込んでしまっており、好感を抱くことができません。山口に使者を送ろうとしたところを椙杜に見つかってしまい(というより意図的に見張っていた網に引っ掛かった)云々というのが、大概の本にあるストーリーです。だったら山口に危急を知らせようとした忠義の人ではないか、となります。しかし、この部分が最も曖昧でして、最初は内通しようとしたけれども、途中からやはりとりやめたという流れなのです。なにゆえに取りやめたかと言えば、気にくわない椙杜も毛利に内通していると知ったからだったり、やっぱり大内についておいたほうがいいかなぁと優柔不断だったりと、マイナスイメージしかありません。
『玖珂町誌』の引用文に至っては、毛利家が厳島で陶らを倒した時、杉・内藤は「ワルモノ陶」に敢えて協力せず、自滅するのを待っていたと。とんでもないことを書いていた軍記物もあるのですね。それはそれで問題ないですが、自滅するのを待っていた時点で、あなた方はすでに毛利の一党です、と思います。それならば、毛利家が防長経略を始めたところで、いきなり立腹するのもいかがなものかと。あれこれ複雑すぎて、多くを語るのは控えます。死者は何も語れないことは、厳島で亡くなった方々も杉家の方々も同じです。無関係な現代の我々はあれこれ脇道に逸れることなく、素直な気持ちで戦死者の碑に手を合せ、平和な現代の鞍掛山登山を楽しむのが一番です。
こんな方におすすめ
- 山城巡りがお好きな方に
- 古戦場巡りがお好きな方に
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

杉の先祖が大江ってのならば、毛利とは同士討ちになるのかなぁ。醜い争いすぎる。遡れば一つ枝というのは、脆いものだね。

その台詞、お前が言うことはまかりならぬ。

何でだよ?

(こやつ、本当に己が何者かわからぬのか!?)

鶴ちゃん、それ以上は言わないで。君たち二人が永遠に十四才ならと、ミルは願う。あ、ごめん。君は十四才の時にはもう……。幸せだった頃だけを思って生きていけないかな? インチキなこの空間なら、それは可能だから。
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