安芸紀行(除廿日市、宮島)

二神山城跡(広島県東広島市西条下見)

2024-07-13

二神山城・山頂2

広島県東広島市西条下見の二神山城とは?

『平家物語』で活躍する源三位頼政。高倉宮に反平家の挙兵を勧め、宮ともども命を落としました。『平家物語』には、文武の将として様々な逸話が残されています。この頼政の夫人(妾)だったとされる菖蒲前という女性についての伝説は全国各地にあるようです。ことに、東広島市にある福成寺には菖蒲前の墓まであり、ゆかりの深い土地ということになっています。

この二神山城は、現地では「菖蒲前」伝説ゆかりの城として有名です。ただし、伝説はあくまで伝説であり、詳細は謎に包まれています。

長門の豊田氏の一類が、伊予に移って二神氏となり、この城を築いたとされるのが、史料としての『二神家文書』に記された真実のようです。

二神山城・基本情報

名称 二神山城
形態 連郭式山城
標高(比高) 313メートル(90メートル)
築城年 不明(伝承によれば、鎌倉時代)、(『二神家文書』によれば南北朝期)
築城者 不明(伝承によれば、水戸新四郎頼興)、(『二神家文書』によれば二神氏)
廃城年 不明
廃城者 不明
遺構 郭、小郭、竪堀、堀切
文化財指定 なし
(参照:東広島市ボランティアガイドの会さま資料)

二神城・概観

「東城」「西城」「本城」という呼ばれる三つの部分に分れ、それぞれ丘陵の三つの頂に存在。
東城:東端頂部、遺構は最高頂部郭、南下小郭と竪堀、東下堀切
西城:西端頂部、遺構は頂部郭、三条の竪堀
本城:最高所郭、郭周辺の小郭、南下の竪堀
(参照:東広島市ボランティアガイドの会さま資料)

二神山城・歴史

菖蒲の前と水戸新四郎頼興

西条の名刹・福成寺。この寺院さまの創建は奈良時代にまで遡るとされています。そして、「西条一族」の氏寺として、たいへんに栄えていました。けれども、源平合戦の際に、伽藍は焼失。

灰燼に帰した寺の再興を援けたのが、平氏に追われて西条の庄に落ち延び、やがて二神山に城を構えた源頼政の側室・菖蒲の前と伝えられます。
出典:福成寺さまパンフレット(有料)

福成寺さま境内には、「源三位頼政卿並西妙尼一族追慕碑」という石碑があり、その付近には大量の墓碑がございます。恐らくは、菖蒲の前さんとその一族の墓、もしくは供養塔と思われます。また、寺院には菖蒲の前さんの遺品と伝えられる品々も遺されており、ゆかりの深い女性であったことは明らかです。

先の引用文だけを拝見していると、二神山城を築城したのは菖蒲の前さんのように思われ、何ともすごい女傑だったという印象を受けます。夫の留守を守って戦った城主の妻、のような伝承は戦国期などには少なからずありますが、女性が城を建てたという話は極めて珍しいのではないでしょうか。⇒ 福成寺

二神城山頂にある由緒看板によれば、菖蒲の前は頼政の子を連れて逃れて来たとあり、その子は無事に成人して水戸新四郎頼興という武士となり、源頼朝から賀茂一円の土地をもらい、二神山に築城したことになっています。これならば、普通にありそうな展開です。

早速、『賀茂郡史』を紐解き、水戸新四郎頼興さんなる方を探してみます。が、どこにもそんな方の記録はないのです。存在しもしない人が、城を建てることなどできるはずはありません。しかし、実際城はそこにあるのですから、何かが違っているのでしょう。

そこで、あるいはと思い、『賀茂郡史』にも頻出する「三戸」氏について確認してみます。案の定、「≒」っぽいです。ただし、この一族の名前が史料に出てくるのは南北朝期のことで、武家方についたとされる、安芸国三戸三四郎頼忠なる人物です。詳細は省きますが、現在の八本松辺りの地頭であったようです。三戸一族は、遡って行くと、源頼親の末裔にあたります。御戸義胤なる人物が、承久の乱に際して上皇方についたため、父とともに安芸国まで逃れて来たのが始まりといいます。系図上、頼胤の子・頼嗣の欄には「水戸弾正忠三戸孫三郎」と書かれています。この辺りで、御戸 ⇒ 水戸 ⇒ 三戸と名乗りが変ったのでしょうか。いずれにせよ、諸々の史料に登場する際には「三戸」氏です。

さて、西条には上述の三戸氏のほかにもうひとつの三戸氏が存在しました。

西条盆地には小倉縁起に代表される三戸氏の伝承が広範囲にわたってある。そしてこの三戸氏は源頼政に出自を持つとするもので、前記の三戸氏とは異なっている。
出典:『賀茂郡史』32ページ

こちらの「三戸」氏は、伊豆国出身で、三戸というのはその出身地から来ているらしく、要は名字の地ですね。鎌倉時代にはすでに、西条の地(三入)に地頭職をもっていたらしいことが、『熊谷文書』などの史料からわかるそうです。

残念なことには、頼政から続く三戸氏の存在は確認できるものの、系図には「頼興」なる人物は載っていませんでした。ただし、途中に「四代略」とあるので、そこにいる可能性もあります。しかし、菖蒲の前や、二神城については何の説明もありません。これほど有名な物語なので、何らかの史料が残されていれば、必ず触れられているはずです。それが記されていないということは、史料がなく、確認できないのでしょう。

それよりも、「西条盆地には小倉縁起に代表される三戸氏の伝承が広範囲にわたってある」という記述のほうが興味深いところです。この地域には恐らく、頼政および菖蒲の前にかかわる伝説が根強くあるということでしょう。しかし、伝承の裏には何らかの真実が隠されているようにも思え、はからずも、頼政ゆかりの一族がこの地にいたことまでは確かです。いつ、どんなかたちで西条の地に移り住んだのかが空白ですが、それを埋めるのが菖蒲の前の伝承でしょう。

福成寺さまに伝えられる菖蒲の前にかかわる伝承は、いい加減な作り話とは到底思えません。だとしたら、供養塔やゆかりの品々は誰のものなのか、いう疑問がわきます。確かに、それらが紛れもなく菖蒲の前の遺品であり、彼女たちの供養塔(墓碑)であるということは、確たる史料がないため証明はできません。しかし、長きに渡り代々そうであると伝えられてきたのですから、強ち間違っているとは思えないのです。⇒ 関連記事:福成寺

二神山城の真実

菖蒲の前さんと水戸新四郎頼興さんのことはひとまず置いておくと、ではいったい二神山城はいつ誰の手によって築かれたものなのでしょうか。ほとんどすべての答えが載っている『賀茂郡史』を再び開いてみます。

二神山城
下見の西方、東西に流れる二神山にある。尾根に三つの隆起があり、東を東城、西を西城、南を本城と呼び、この本城と呼ばれる部分に城跡としての遺構がみられる。(享保十一年下見村御建山・御留山・腰林帳)
出典:『賀茂郡史』489ページ

大いに期待したのですが、ご本にあったのは、以上の記述だけです。城の概観については記されていますが、築城者やその時期に関することには触れられていませんでした。西条にある(あった)と思われるほぼすべての山城跡を網羅していると思われる貴重なご本にも載っていないとは。要するに、これ以外の史実はよくわからない、ということになろうかと。菖蒲の前さん云々についても何も書かれておりません。

ただし、そもそもこの城跡、ガイドブックや『日本の城辞典』の類にも一切載っておりません。いわゆる城跡マニアの人も、よほど広島県内特化型でない限り、ご存じないかも知れません。当然、ミルたちがそんな貴重な城跡の存在を知るはずもありません。東広島市ボランティアガイドの会さまのご厚意により、とっておきのところをご紹介いただいたから登城できたのです。

むろん、地元の方は皆さんはご存じです。恐らく、菖蒲の前さん伝説ゆかりの城跡がある山として。でも、見て来たように、それを裏付ける証拠はありません。源頼政の末裔である「三戸」氏が西条の地に住まいしていたことまでは明らかになっていますので、福成寺さまにある菖蒲の前の遺品などまでは、かなり信憑性がありそうですが。だったら、城跡もその流れで菖蒲の前さんゆかりのものなのでは? と思ってしまってかまわない雰囲気でもあり、それゆえにか、山頂には水戸新四郎頼興が築いたという由緒書があるわけです。でも福成寺さまのパンフレットには、新四郎の名前は出てきていません。

なにゆえ、山口から来たミルたちがこの城跡をご案内いただいたか。それはもちろん、「ゆかりがある」からです。よくしていただいている郷土史研究の先生のご意見は、山頂案内プレートの説明文とはまるで違うものです。しかし、数々の史料を丹念に調べ上げた結果のご推察であり、極めて信憑性が高いご研究です。ただし、地元の方々が、あそこは菖蒲の前さんの……と信じて疑わないところに、いいえ、違います。と反対意見を述べるのは時と場合によっては、地元の皆さんの夢を壊したり、観光関係の役所から嫌われたりする悲劇ともなります。よって、敢えて、先生のお名前は伏せます。

まずは、この城を建てたのは誰か、という問題。それは「伊予海賊衆=伊予衆」なる方々です。南北朝期、彼らは伊予国・河野氏の配下として、付近の島々を勢力範囲としていきます。何と! 海賊の城と聞き、スケジュールの段階では海上に浮かぶ要塞みたいなものを想像していました(因島水軍城じゃないっての……そもそもここも浮かんでないし)。当たり前ですが、普通に山城でした。

しかし、愛媛県の海賊と山口に何の関連が? と思いますよね。じつは、この伊予衆なる人たちの中には、何と、かつての防長三名族の一つ、豊田氏の流れをくむ方々がいたのです。

『山口県文化史年表』附録の系図にもちゃんと出ています。

豊田氏は藤原道隆の末裔と記憶していますが、摂関家のやんごとなきお方の子孫が海賊になっておられるとは。いえ、海賊などというと、すぐにパイレーツオブカリビアンってなってしまいますが、少しく違います。確かにいわゆる「海賊」のような行為に及ぶ場合もあるのですが、海を拠点とした在地勢力というべき人々です。大内弘世が厚東氏を倒して防長の覇権を手に入れた時、豊田氏のほうは滅亡ではなく、臣従の道を選んだ模様です。⇒ 関連記事:防長三大名族(大内弘世記事内、厚東氏との戦い

その後も配下の氏族として命脈を保っていたようですが、詳細は不明ながら、長たらしい系図の中途で、いきなり「東西」と書かれて分裂してしまっております。面倒ですが、一応記してみます(枝分かれは無視しております)。

輔長(豊田氏祖)⇒ 輔平 ⇒ 輔行 ⇒ 輔継 ⇒ 輔継 ⇒ 輔隆 ⇒ 種弘 ⇒ 輔隆 ⇒ 種綱 ⇒ 種氏 ⇒ 種貞 ⇒ 種長 ⇒ 種藤 ⇒ 東:種治(庶長子)、西:種秀(参照:『山口県文化史年表』)

途中、同じ名前の人が連続している箇所がありますが、同一人物か同名の別人かは不明です。最後の「東、西」というのは、恐らく、ここでニ派に分裂したものと思われます。なお、家督は西(種秀)に行きます。これだけでは、単なる子孫繁栄してニ派に分れたのか、それとも何らかの抗争でもあったのか不明ながら、その後も、家督を継がなかった「東」のほうも、「西」ともどもそれぞれの系図が続いていきますので、問題はここではありません。とりあえず、東は放置して、西を追っていきます。

西・種秀 ⇒ 種世 ⇒ 儀種 ⇒ 弘種(参照:同上)

系図はここで途切れておりますが、単に紙幅の問題なのかは未調査です。ここで、「西」の二代目種世のところを見ます。彼の隣には種家とあり、普通に考えたら横並びなので兄弟です(詳細は後述)。そして、この種家のところに「藤十郎、居住伊予国二神島、二神氏」と書かれているのです。

郷土史の先生のご説明によれば、種世は種秀の養嗣子、種家は実子だったといいます。これはまるで、畠山弥三郎(政長兄)と義就ではありませんか。なんでこんな家督相続になっているのか不明ながら、種世と種家は畠山の人々同様、激しく家督を争い、結果敗れた種家は山口を去り、伊予に渡ったのです。住まいしたのが、二神島とありますから、これが名字の地となったらしく、以後は「二神氏」と名乗ります。

つまり、故郷の地での争いには敗れたものの、新天地で独立したのです。先生はこれらを『二神家文書』によって調査。種家は二神家の祖となっております。南北朝期、河野氏は北朝方につきました。足利尊氏から、安芸国に侵攻するよう命じられたことから、配下の海賊衆が乗り込んで行ったのです。その際、この二神海賊、いえ、二神水軍が西条の地に楯籠もったいうことが、前掲の『二神家文書』に書かれているそうです。その城こそが、この二神山城ではないのだろうか、というのが先生のご推察です。二神氏が楯籠もった城ゆえに、二神山城と呼ばれるようになった、ものすごく分りやすいですし、さもありなんと思われます。

歴とした文書に明記されていることから、二神氏ゆかりの城が存在したことは確実です。この城がそれだとすれば、どうやら築城者は二神氏であるようです。にもかかわらず、史料も見付けられない水戸新四郎頼興という人が建てた城となってしまっているのはなぜなんでしょうか。むろん、たまたま残されていた水戸頼興の城に、二神氏が楯籠もったのかもしれません。なお、水戸新四郎や菖蒲の前の物語では、建久九年(1195)、沼田小早川氏によって城は落城したそうです。再び城として機能させるには、手直しが必要だったでしょう。

菖蒲の前さんは源平合戦の頃のお方です。そのご子息も、南北朝期まで健在のはずはありません。先に水戸頼興が建てた城がこの山にあり、二神氏はそれを再建、または増改築した。そうであれば、二つの説がともに並び立つと思うのですが、いかがでしょう。元誰かの城だった跡地に新たに城を再建する。普通にあり得る話ですね。

二神山城・みどころ

東西に細長い山です。山城登山の難易度は高くなく、一般の方々のお散歩コースといった感じです。菖蒲の前伝説や伊予の海賊に思いを馳せつつまったり登っていくと楽しいです。

山の姿

二神山城・遠景

横に長すぎて全体像は入り切りませんが、それにしてもこんな一枚しかなかったなんて(涙)。このように、綺麗な車道が通っている町の中にあるんです。

登山道入り口

二神山城・登山道入口

登山道入口です。「マムシなどヘビに注意」「スズメバチに注意」と書いてあります。でも文字が薄れて見えにくくなっております。この注意喚起はホンモノでした……(後述)。

山道

二神山城・山道

ご覧のように、山道はきちんと整備されております。この先もおおむねこんな感じです。特に滑りやすいとか、危険な場所はございません(※感じ方には個人差があります。また、天候などの要因によって道が荒れる可能性もあります)。

順路案内看板

二神山城・順路看板

要所要所にこのような看板が立っており、現在地や残り時間が確認できて、とても親切です。

大岩

二神山城・大岩

山道に大きな岩が一つ転がっていました。かつて城の一部を構成していたものでしょうか。

三叉峠

二神山城・三叉峠

普通に順路看板ですが、ここが「三叉峠」という名前がついた場所であることがわかりました。福通東口まで五分、広大西口まで五分、頂上までは東ピークを経て三十分と書かれています。まだほんの入り口ですね。なお、福通というのは、福山通運さまの略です。

山道(東ピークへ)

二神山城・山道2

東ピークを目指している山道です。ここにも岩がありますね。また、先の方に階段がご覧いただけるでしょうか。左上のほうに、わずかに見えています。階段はほかの箇所にもありました。

東ピーク

二神山城・東ピーク

ここが東ピークです。って、草に埋もれています。大丈夫。看板周囲はこんなですが、城跡はきちんと確認できました。

東城跡(削平地)

二神山城・東城

東西に長い山の東と西に城(郭)があり、その真ん中に本城があった、という東部分に着きました。

東城・虎口

二神山城・虎口(東)

見るからに虎口だけど、あってるかな?

東城・展望

二神山城・展望(東)

この先に、樹木に埋もれた状態で「展望〇(所、と思われます)」はこっちです、という看板もあり、確かに展望は開けております。が、残念ながら、初夏の樹木に覆われておりました。生い茂っていなければ、案内看板のような景色が見えたはずです。展望図には曾場ヶ城山も載っていました!

二神山城・展望(東)2

登山時の郭跡は、こんな感じになってしまっていました。樹木が邪魔になり、眺望がききません。

東城・虎口(二)

二神山城・東城虎口2

分りやすい。でもちょっと岩と岩との間隔が広いような……。無関係なただの二つ岩でしょうか。

福通峠

二神山城・福通峠

東西に長い山であり、東城と西城とがあって、その真ん中に本城が。……という説明だったはず。当然東西の「城」は離れているものと思っておりました。が、この「福通峠」看板によると、東ピークまで10分、西ピークを経て頂上まで15分とあります。この所要時間から察するに、頂上(本城)付近を挟み込むように東西の城があり、その間隔はあまり開いていなかった、ということになりますね。面積は広いけど、郭部分は集中して中央にあった、と。

西ピーク

二神山城・西ピーク

西ピークに着きました。削平地になっていることがおわかりになるでしょうか。要するにここが「西城跡」ですよね。

西城・展望

二神山城・西城展望案内看板

なんと。ここはもはや、展望が完全に絶望的だったようでして、案内看板の写真しかありませんでした。右手に槌山が見えています。そして、なんと、その手前に東山が。槌山合戦の時に、吉川元春が陣を置いていた山です。槌山登山の時は見えなかったんですが、こちらから位置関係がわかりました(看板から)。

頂上・本城跡

二神山城・頂上案内看板

「由緒
二神山城跡
西条跡地に古くから残る「菖蒲前物語」に、この山の城跡としての今日がある。
即ち、宇治の平等院の扇の芝で平家に追われ敗死した源頼政の一子種若丸は、妻の菖蒲前に守られて、従者猪早太と共にこの地に隠棲していた。 世が源氏の時代となり頼朝は鎌倉に幕府を開いた。その時種若丸は成人して元服し、水戸新 四郎頼興と命名、賀茂一円を賜り「二神山」に城を築いたという。
山上には、本城(南北30間・東西8間)、東城、西城が構築されていたという。元久元年(1204) 3月 土肥遠平の為に陥られたと言われている。
下見の歴史散歩 下見地域振興協議会」
(看板説明文)

地元の方々が信じている菖蒲前と水戸新四郎頼興の物語のすべてがここに詰まっています。前述の沼田小早川に攻められて落城という記述とはやや異なりますが、小早川=土肥ですから、話の流れ的には大差ありません。年号が違うなどもよくあることです。要するに、諸説あるのです。しかし、現地案内看板が正式見解ということになろうかと思います。

郭跡(削平地)

二神山城・頂上郭跡

地面は綺麗に整備されているのですが、樹木が生い茂っていることはほかと同様でした。展望は望むべくもありませんね。なお、この写真では見えませんが、ベンチはもう一つあり、全体としてそれなりの広さがありました。

山頂からの展望

二神山城・山頂からの展望

もしも、樹木の生い茂りがなければ、見えたはずの展望です。ここで、東、西、本城と来て気が付いたことは、曾場ヶ城、槌山城、鏡山城と大内氏の東西条統治の拠点が、順番にすべて見えていたのです。見る位置が変れば、見える景色もかわりますので、当然のことですが、まるっとその遠景をすべて確認できるってすごいことです。全部見たいと思った人は、二神山城に登ればいいんです。

二神山城・山頂からの展望2

もう一つのベンチとわずかながらに見える展望。これらの樹木がなければ……と悔やまれますね。来た時期が悪かったのです。

二神山城跡(広島県東広島市西条町下見)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒739-0044 東広島市西条町下見

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

鉄道最寄り駅が地図から見えず、どうすれば? という感じですが、じつはこの山、広島大学キャンパスのすぐ隣です。つまりは鏡山城にも近い。となれば、最寄り駅は西条です。恐らくは最寄りのバス停などがあるはずで、周囲はさほどローカルではないので、交通の便は悪くないと思われます。車で行ってしまうと、歩いて(+α 公共交通機関)行く行き方がご案内できないことになり、そこは大問題。map にバス停は載っていないですから。今はまだ調査中ということにしておきます。お役に立てずすみません。

参照文献:東広島市ボランティアガイドの会さま資料、『賀茂郡史』、『山口県文化史年表』

二神山城跡(広島県東広島市西条下見)について:まとめ & 感想

二神山城跡(東広島市西条下見)・まとめ

  1. 高倉宮に反平家の挙兵を勧めたとされる源三位頼政の妻(側室)菖蒲前は、頼政の子を守り通して無事に成人させた。これが水戸新四郎頼興で、源頼朝から賀茂郡の地をもらい、この地に城を築いた。それがこの、二神山城
  2. 菖蒲前伝説は西条地域の人々に広く伝えられ、信じられているが、史料的根拠はない模様
  3. ただし、源頼政の子孫がこの地にいたことは確か。水戸ではなく三戸と名乗っていた
  4. 水戸新四郎頼興が実在した人物なのか史料的根拠云々とは関係なく、地元の方々にとっての二神山城は、間違いなく彼の築いた城である
  5. なお、伊予の水軍・二神氏が伝える『二神家文書』によれば、南北朝期、北朝方についた河野氏は積極的に安芸国に進出。その配下として活躍した二神氏が、西条の地に楯籠もったという出来事があったらしい。彼らの名字の地は伊予の二神島であり、この山というわけではない。二神氏が楯籠もった城ゆえ、二神山城といわれるようになったという説も成り立つ上、こちらは史料的根拠もある
  6. 菖蒲前は源平合戦~鎌倉時代の人。二神氏がこの地に来たとされるのは南北朝期。ゆえに、先に水戸新四郎が城を築き、それを二神氏が再利用したとすれば、いずれの説も真実足りうる
  7. なお、二神氏は防長三名族の一つだった豊田氏の出身。家督争いに敗れて伊予国に移り住んだ人々という

菖蒲前伝説って、東広島ではすごいことになっていたんですね。それどころか、全国各地に似たような伝説が残されているようです。それだけ源三位人気が根強く、彼の子孫が生き延びていて欲しいと望む人たちが至る所におられたのでしょうか。大内氏専門の郷土史会で若くして理事を務める友人と、福成寺に行きました。平の会員と理事では格が違いますから、彼女のネームバリューで福成寺さまの文化財を見せていただきました。大内氏愛 only の彼女とは違い、平家一門に浮気していたりしますから、源三位の話も暗誦できるくらいよく知っています。なので、ちらりとお名前を出したところ、寺院さまでとても喜んでいただけたような気がしました。そこまでは良かったのですが、二神山城にはもう行かれましたかというご質問があり、あれ、なんか聞いたことあるけど何だっけ!? となりました。で、あ、そこ、明日行く予定です! とお答えしたところ、にこやかに水戸新四郎頼興さんのお話をしてくださったのですが、誰それ!? とという感じでした。ごめんなさい。今はちゃんと覚えました。

その時点ですでに、パイレーツオブカリビアンな城だよね、と思っておりました(水戸新四郎云々ではなく、二神氏の城であると伺っていたため、海賊衆繋がりで)が、そこは黙っておきました。このあともしばらく、水戸新四郎頼興さんとのお付き合いは続きます。そのくらい、関連史跡が多いのです。本当に驚くほどです。当然、菖蒲前さんも同じです。ここまで皆さまが信じておいでなのに、史料的根拠あるんでしょうか? とか聞いてくる研究者や歴史愛好家って空気読めない極地ですね。ただ、学問的には単なる伝承だと片付けられてしまうであろうことは想像に難くないので、悩ましいところではあります(研究者ではなくてよかった!)。

さて、水戸新四郎の謎は置いておいて(信じる者は救われる、です)、山自体はとても登りやすく、難易度は低いです。もしも、水戸新四郎の城だとすると、大内にも吉川にも関係ないので、ミルたちと廿日市の先生が来ていることは謎でしかありませんが、『二神家文書』とやらまで調査している東広島の先生にご案内いただきました。豊田氏の子孫が伊予の海賊となり、安芸国に来ていたなんて。意外なところで、意外なかかわりがあるものですね。普通に考えたら文書に書いてあることが正解です。つまり、こちらは、二神氏ゆかりの城である、となります。でもさ、水戸新四郎の城跡跡地に再建したってことにすれば、みんな happy になれるから。

東西に長い山で、登りやすいと言えばそうなんですが、単調な山道が延々と続きますから、けっこう疲れますし、飽きてしまいます。ただし、展望は最高でして、槌山城、曾場ヶ城、鏡山城すべての遠景を確認できるまたとない絶景ポイントだらけの山城跡です。ゆえに、樹木が生い茂る時期の訪問は絶対にやめたほうがいいです。せっかくの展望が堪能できませんから。

なお、道が整備されていることから、気が緩みがちですが、入口の看板に書いてあった通り、「ヘビ、マムシ、スズメバチ」は本当に出ます。これまでナニモノとも出逢わなかったのが奇蹟だったことを思い知らされました。何と、マムシが出たんです! 廿日市の先生がスタックで撃退しましたが、東広島の先生はヘビが苦手でいらっしゃるとかで、固まっておられました。東西に長い道をもう一度歩くのが面倒で、帰りは南北に下りたら早い、というルートをとったのが災いしました。そちらの道を行く方は少ないようで、整備が行き届いておらず、道にも草が生い茂っていたんです。マムシはそこに潜んでいました。幸い、何事もなく撃退できましたが、かなり衝撃的な出来事でした。

こんな方におすすめ

  • 山城巡りが好きな人
  • 菖蒲前伝説に関心がある人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

廿日市の先生カッコいい。マムシまで撃退しちゃったよ。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そうなんだけどさ、先生のその、何物をも恐れぬところ、ちょっと心配。最近、広島にもクマが出没してるんだって! 益田でクマ看板見たときも、先生はクマは襲ってきたりしないって仰って。でも、最近のクマって、本当に襲ってくるじゃん。

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

そんな……。まさか、街中には出ないだろうし、先生は絶対にご無事だよ。そういや、山口市内にもクマ出たんだっけ。遭遇したくないな……。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

叔父が猟友会に入ってるの。万が一、クマの駆除に駆り出されたら……とか思うと心配で夜も眠れない。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

ミルの叔父上? クマをやっつけることができるなんて、カッコいい。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

やめて。本当に怖いから。出くわしたのがマムシで良かったって思える。この先は、登山も命がけになるね。

五郎の HIT ひろしま観光大使名刺
安芸紀行

#hitひろしま観光大使に任命された五郎が、ミルと一緒に旅した安芸国の旅(目次ページ)
宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
大内氏歴代当主さまとゆかりの地をご紹介するサイトを運営しています

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