広島県東広島市の福成寺とは?
福成寺は広島県東広島市にある真言宗寺院です。「ふくじょうじ」と読みます。寺院の由緒はたいへんに古く、奈良時代・聖武天皇の御代にまで遡ります。もとは福納寺といい、別の場所にありました。平安時代に弘法大師が福納寺を訪れた際、現在地への移転を勧められ寺号も福成寺となりました。その後、源平合戦の頃、伽藍は焼失してしまいましたが、その再興に尽力したのは、源三位頼政の夫人(側室)だった「菖蒲の前」という方でした。この時に再建された建物は火災によって焼失し、伝えられていません。
のちに復興された福成寺は、安芸国での直轄領として東西条を治めていた大内氏の崇敬を受けました。大内氏は福成寺を氏寺・興隆寺の末寺とするなど、安芸国においてたいへんに重要な寺院と見なしていました。現在、国の重要文化財として伝えられている須弥壇および厨子には、大内菱の装飾があり、大内氏によって寄進されたものであることは疑いありません。
現在も由緒ある名刹として地元の方々に愛されています。特にシャクナゲが美しいことで知られています。
福成寺・基本情報
所在地 〒739-0023 東広島市西条町下三永 3641
寺号・山号・本尊 表白山・福成寺・千手千眼観音菩薩
宗派 真言宗御室派
寺院さまHP https://fukujyo-ji.com/
福成寺・歴史
奈良、平安、南北朝、室町、江戸、現代にわけてご説明します。
一、奈良時代――寺院の起源
福成寺の前身は「福納寺」といいました。創建は神亀三年(726)である、とされています。開基・網衣上人はもとは漁師さんでした。狩猟中に、金色の観音菩薩像のお姿を見たことから、出家して仏門に入り、寺院を建てたのが「福納寺」の始まりです。
二、平安時代――寺院の移転と改名、源平合戦による荒廃
弘法大師空海が「是れより北に山あり佳き堂地なり、 彼の地に寺を移すべし」(福成寺さまパンフレット)と言ったので、現在の場所に寺院を移しました。つまりこの地が「佳き堂地」ってことですね。寺院の名前が変ったのも、空海の言葉によるものなのかどうかはわかりませんが、堂宇の移転と寺号の変更は同時のようです。寛仁年間(1017~1021)のことです。
「西条一族の氏寺」(同上)となって栄えたようですが、「西条一族」というのはこの地を名字の地とした地元の豪族でしょうか。しかし、源平合戦で建物すべてが焼失した模様です。復興を援助した中に、「西条の庄」に逃れていた源頼政の夫人(側室)「菖蒲の前」という女性がおられました。
ゆえに、この「菖蒲の前」さんゆかりの品々が現在もこの寺院さまに数多く伝えられております。
菖蒲の前は「二神山」というところに築かれた「城」におられた、というようなお話が寺院さまのパンフレットにあります。ココ、広島大学を挟んで鏡山と向き合っているような位置関係です。この城は源三位ではなくて、菖蒲の前さんが築いたという意味なんでしょうか? 平氏に追われて逃れてきたとのことですが、頼政は宇治川で亡くなっており、実は生きてた伝説ないですよね? だとすれば、城まで建てた女傑って雰囲気です。そもそも、この女性、もしくは頼政と西条との間に、もともと何らかのつながりがあったからこの地に逃れてきたと推測されますが、領地とかあったんですかね。とても気になりますね。おそらくはこの地と何らかのゆかりがあったゆえに、西条に逃れて来て、福成寺とご縁が結ばれたのですね(多分)。⇒ 二神山城
三、南北朝期――後醍醐天皇の綸旨、南朝天皇等による保護
「菖蒲の前」さんの援助で復興した寺院でしたが、今度は火災によってまたしても焼失してしまいました。元亨年間(1321~1324)のことです。
後醍醐天皇が政務を執っていた頃。綸旨を出しまくっておられた中に「寺領は地頭に干渉させない故、 よく祈祷して国を鎮護せよ」(同上)というのがありました。後醍醐天皇、後村上天皇といった教科書にも載っている南朝方天皇の綸旨が、重要文化財として寺院さまに残っているそうです。パンフレットには「後醍醐天皇綸旨」の写真も載っています。
後醍醐天皇によってなのかはわかりませんが、当時の天皇の援助によって寺院は再び復興されました。
四、室町時代――大内氏直轄領下
安芸国東西条が大内氏の直轄領であったことは周知のごとくです。その支配は応安元年(1368) から始まり、鏡山城がその拠点でした。歴代当主は皆、宗教を手厚く保護したことで知られています。周防長門やせいぜい九州に目が向きがちですけれど、国人たちが乱立し、まるごと支配下に収めることができなかった安芸国で、東西条だけは完全なる支配下になっていたわけです。上の「宗教を手厚く保護」ってことは、当主自身が信心深かったという例もあるでしょうが、じつは人々の信仰心を利用して支配力を強めよう、という意図も多分にあると思われます。
そんな中、東西条でもっとも大切に扱われ、手厚く保護されたのがこの福成寺でした。ということは、裏を返せば、ここを大切にしておけば人々から立派な当主だと思ってもらえるってことで、そのくらい、当時の東西条で人々の信仰篤い由緒ある寺院さまだった、ということになりますね。
もう一つは、寺院の位置。高台にあり、大内氏の拠点だった鏡山城(最初の拠点。やがて曾場ヶ城、槌山城へと移っていった)にも近いですし。そんなこともちょっと関係あるのかな、と思います。
この宗教的に支配を目論んだことの表れとして、福成寺を氏寺・興隆寺の末寺にしてしまったことがあげられます。末寺というからには同じ宗派の寺じゃなければダメなんじゃないのか、とか思いますが、じつはそのような制度ができたのは近世に入ってからみたいで、この場合、なんとなく強引に服従させられちゃった感がありますね。
それはともかくとして、福成寺が大内氏から丁重に扱われていたことは確かで、恐らく大量の寄進をしたり、あれこれ優遇措置をとっていたと思われます。細かなことはわかりませんが、そうした歴史の遺物として、国の重要文化財となっている須弥壇および厨子(後述)などが伝わっているものと思われます。
五、江戸時代以降――毛利家の保護とその後
大内氏が滅亡した後、その旧領は毛利家のものとなりました(全部じゃないけど)。毛利家の根幹地がある安芸国は当然、最も大切なところです。いわば他所からの「支配者」がいなくなって普通に地元の領主さまに治められる国となったわけです(多分ね)。寺院さまのパンフレットには毛利輝元期の繁栄ぶりについて記されています。「31 宇の諸堂と 42 坊、北山 12 坊」とあります。全部毛利輝元が造ったというよりは、大内氏代々がそれだけ拡張してくれてたんじゃないかと思われ、輝元もまたこの寺院を信仰したことから、さらに整備されたんでしょう。
しかし、なにゆえにか江戸時代に領地を没収されたりして廃れてしまったようです。これは毛利家が故郷・安芸国を追い出された後のことなんでしょうか。そこらがよくわかりませんでした。近代になると全国の寺院さまは受難の時代を迎えるわけで、福成寺さまも同様だったようです。しかし、地元の皆さまや信者の方々のお力で復興され、現在のような奥ゆかしいお姿に戻られたのでした。
源三位頼政
源三位は『平家物語』でも有名な文武の人で、それゆえにか何となく大内氏歴代と重ね合わせる向きもありますが、気の毒なご最期なので、一緒にしないでください。歌を詠んだお陰で三位になれたとか、どこぞの歴代にも似たような逸話あるけど違います。高倉宮(教科書とかだと以仁王)を唆して謀叛を起こさせたのはこの方です。平氏に追い詰められて亡くなった際、その首級を忠義の家臣が宇治川の淵深くに沈めたおかげで、お子様方のように敵の手に渡ることはありませんでした(巻四『宮御最期』)。
『平家物語』はあくまで創作とはいうものの、今も頼政は宇治川の底に眠っておられるのでしょうかね? その奥方(側室)・菖蒲の前がここ福成寺とゆかりある人ということで、それに附随してこの頼政という人も寺院ゆかりの人物となります。現在の西条と源頼政が結びついているなど、福成寺を訪れなければ生涯知らぬままに終わったはずです。
埋木のはな咲く事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける(辞世の句)
高倉宮の事件後、源頼朝とか木曾義仲とかが蜂起していくことになるんだけど、頼政の時はまだ時期尚早だったというか、いや、このお陰でその後の展開があったんだから、すごいことだというか、どっちもありだと思うのですが、損な役回りで気の毒な方ですね。
「弓矢をとってならびなきのみならず、 歌道もすぐれたりけり」って、どう見ても法泉寺さまを賛美するに相応しい文言をこの人に使っちゃってるけど(巻四『鵺』)、最期が気の毒だから絶対同列にして欲しくないです。
菖蒲の前伝説について
初めて聞くお名前で、どなたなのかまったくわかりませんでした。『日本史広事典』で調べましたが、予想通り載っていません。源頼政は著名人ですし、奥方もたくさんいたでしょうから、類似する女性がいたことはあり得ることです。ネット検索をすると、大量に出てきますので、関心を抱いている方々が多いこともわかります。けれども、それらは典拠にはできません。たいへんに興味深いエピソードではありますが、大内氏とは無関係ですし、残念ですが資料を集めて云々する余裕はまったくありません。唯一出典を明記してご紹介できるのは以下の通りです。『平家物語全訳注』「鵺」の段で、源頼政がバケモノ退治をしたエピソードの解説部分に「菖蒲の前」の名前だけ確認できます。しかし、これは「文学作品」である『平家物語』に名前が出てくる、ということの証にしかなりませんから、文学的な伝承の域を出ません。逆にそれゆえに、あれやこれやのストーリーが伝説として残されたのでしょう。興味のある方はご自身でお調べください。
(前略)褒賞に一方は剣、一方は御衣、それを取りついだのが左大臣に右大臣、そしていずれも上の句で賞賛され、下の句で応じた頼政は、どちらも謙譲の態度をしめしている。『 源平盛衰記』には、「竹柏園本」に あって「覚一本」にはない、 頼政が菖蒲前という美女を賜わった話を載せ、(後略)
新版 平家物語 全訳注 全四冊合本版 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.19982-19985). 講談社. Kindle 版.
『平家物語・全訳注』は「覚一本」なので、美女を賜るエピソードは載っていません。加えて「解説」はすべてに目を通しているわけではなかったため、菖蒲前というお名前は初耳でした。
完全なる想像ですが、菖蒲前伝説のおおよその内容は、つぎのようなものであるようです。
高倉宮が平氏に叛旗を翻して討伐された時、宮に蜂起を勧めた源頼政も亡くなります。菖蒲の前は夫の死後、平氏の追討を逃れて西国に下った模様です。その時、菖蒲の前は頼政の子を身ごもっていたとか、出産後、その幼子を守り育てたとか、いや、その子どもはすぐに亡くなってしまったとか、あれこれの意見あり。菖蒲の前が身を隠していた場所などについても様々。亡くなった場所についても諸説あるみたいです。この件についてはこれ以上深入りせず、福成寺さまに伝わるお話だけをご紹介するに留めます。
福成寺・みどころ
奥ゆかしい伽藍や境内内の社などを見て回るだけで大満足なので、以下にそれぞれご紹介します。それに加えて、この寺院さまでは、事前にご連絡をしておけば、貴重な文化財を直接目にすることもできます(202303現在)。ただし、寺院さまのホームページを拝見すれば、わかりやすいお写真を載せてくださってありますので、特にこだわりがある方をのぞけば、寺院さまを煩わせることなく、すべて見ることができます。
残念ながら、平安、鎌倉時代と二度の火災で焼失。江戸時代にも荒廃してしまった時期があるなどして、創建当時からの建物は残っていません。のみならず、大内氏時代から伝えられてきた建築物も皆無です。建物はすべて、江戸時代後期から明治時代の再建物となります。建築物に重要文化財がないのはそのためです。現代になっても台風による被害などで修築事業が行なわれており、正確にはさらに真新しいと言えます。けれども、南北朝時代に造られた放生池やそれ以前から伝えられてきた仏像などが多数ありますし、再建物が多いといっても伽藍は奥ゆかしく、歴史を感じさせる佇まいです。
なお、ご本堂でパンフレットが販売されているのですが、たいへんコンパクトなものながら、素晴らしい内容なので、お賽銭をお入れする時に代金を投入して一部拝領してお帰りください。普段すべて見ることができるのかどうかわからない仏像のお姿なども数多く載っています。重要文化財についてもあますところなく書いてある上、見ることができないものの写真も載っているので、思い残すことはなくなります(正直、このページは『パンフレットをご購入しましょう。終わり』でいい感じがしてます……)。世の中ペーパーレスがいいんだ! という方はホームページでも見ることができるので無理強いはしませんが(でもなんか、パンフレットでしか見られないものがあった気がするけど)。
仁王門
仁王門の全体像はアイキャッチに入れたのでそちらをご覧くださいませ。寺院さまホームページおよびパンフレットによると 18 世紀の建築物ということなので、大内氏とは無関係です。源平合戦と、南北朝に修理した時の火災以外には修繕の記録がないですが(ホームページなどには)、江戸時代には一時期廃れてしまっていたとありますし、荒廃していたものを修繕したのでしょうか。仁王像も18世紀のものです。
しかし、しかし、つぎの額は「弘法大師の真筆」だそうです。
台風の被害によって、平成四年に修理工事が行なわれたとありますので、正確にはこれは平成時代の再建物となります。しかし、現代では限りなく精確に、なるべく往時の姿に修繕することが普通なので、台風の被害がどれほどのものだったかわかりませんが、多分に 18 世紀の趣を遺したものであると想像します。じっさい、とても年代もののように思えたので、平成時代に修繕されたとかまるでわかりませんでした。
放生池
仁王門を潜って道なりに行き、放生池にかかる橋を渡ってご本堂に向かいます。ちなみにこの池なんですが……南北朝期に造られたものだそうです。パンフレットに書いてありました。
福成寺の巨樹群
放生池に至る途中の道、仁王門を出て右手の方角に説明看板があります。トチノキ、モッコク、スギの三種類の樹木からなる広島県指定の天然記念物です。
「福成寺の巨樹群
広島県指定天然記念物
昭和57年10月14日 指定
・トチノキ 主幹はほぼ直立していますが、地上約7m付近で折れており、そこから東側に向かって支枝が大きく伸びています。根回り約6.1m、目通り幹囲約4.3m、樹高約16mです。
・モッコク 主幹は直立し、 地上4m付近で10数本の支枝に分かれています。 また、楕円形状の整った樹冠を形成しています。 根回り周囲約1.5m、目通り幹囲約1.4m 、樹高約11mです。
・スギ 2本の幹の根元が接しており、また、ほぼ同じ形をしていることから「夫婦杉」と呼ばれて います。 地上約1.5m付近から上で技を出し、整った形の樹冠を形成しており、西側株は根回り周囲約5.7m、目通り約4.7m、東側株は根回り周囲約 6.6m、目通り幹囲約4.5mで、樹高は約40mです。
これらの樹木は、いずれも数百年の樹齢を経ていると推定されます。一寺院の境内にこれだけの大木がそろっている所は珍しく、学術上貴重なものです。 古くから土地の人々に崇敬され、大切に保護されながら、 福成寺への信仰と共に成育した樹木といえます。
東広島市教育委員会」(天然記念物説明看板)
夫婦杉
上の「巨樹群」にある「夫婦杉」は平成二十六年に落雷に遭いました。六時間にも渡って燃え続けたと看板説明文にあります(消火活動にそれだけの時間がかかった)。倒れて周囲の建物に損害を及ぼすおそれがあるため、残念ながら伐採されました。手前に見えているのは元の木先端部分です。
看板前の募金箱に天然記念物保護のため200円の寄附をと呼びかけがあります。樹齢数百年を越えるというこれらの木々の中に、法泉寺さまもご覧になったものが残っているかどうかわかりませんが、そんなこととは無関係に本堂賽銭箱にパンフレットが何冊か買えるだけお入れしました。寺院さまの関係者の方がこれをご覧になっておられたとしたら、何卒よろしくお願いいたします(御朱印を購入してもまだ余るので御朱印もお持ちくださいと、ご住職の奥さまかご家族の方がご丁寧に教えてくださいましたが、御朱印は集めていないのでお取りしませんでした。御心遣いありがとうございました)。
天神社
放生池の中にある小島の上に鎮座しています。池に架かる橋の途中から渡っていけます。進行方向右手の方角にあります。説明看板によれば、永享五年(1433)に円祐和尚というお坊さんが大願主となって建立された、とあります。つまりは、築山大明神さまの治世の頃、我らが法泉寺さまがまだ若子さまであられた時代に建てられたお社ということに。
なんということか、そのような由緒あるお社は平成時代に台風で倒壊してしまったそうです……。つまり、現在あるものは再建物となります。平成十一年に改築されたとご説明がありますが、被害をもたらした台風は平成三年に襲来した台風でして、仁王門の再建が平成四年でしたので、同じ台風にやられたのでしょうか。
こうしてみてくると、宮島も東広島も台風によって再建された文化財がものすごく多いですね。山口県内だと台風より火災の被害が圧倒的に多い気がしますが……(確証なし)。
本堂
六所大権現社
この「六所大権現社」には、熊野権現、吉野権現、八幡大菩薩、日吉山王権現、厳島大霊権現、白山権現が勧請されています。この寺院の鎮守社にあたり、文字通り神仏習合していた時代の名残ですね。ちなみに、この権現社を建立したのは菖蒲の前さんだと伝えられているそうです。(参照:寺院さまパンフレット)
本堂後ろに階段があり、何だろう? と上がっていくとすぐ見付かります。手前に鳥居があり、階段の下から見えたような? 石段はそれなり長く、けっこうたいへんですが、手すりがついておりますので安心して登れます。
鐘楼
六所大権現社から下りてきたところにあります(つまり登った道は引返さない)。この寺院さまには重要文化財の鐘がございます(後述)が、ここに吊されているものとは違います。
源三位頼政卿並西妙尼一族追慕碑
福成寺とゆかりある西妙尼(=源頼政側室・菖蒲の前)と頼政とを追悼した碑。その隣に下のような古墓群があるのですが、これらは西妙尼さんたち一族のお墓なのでしょうか。説明看板などがなく、詳細は不明ですが、位置的に見て関連性がありそうに思えました。
御大師堂
真言宗寺院さまゆえ、弘法大師さまがお祀りされておられます。
水掛け不動尊
御大師堂の後ろにありました。お参りの仕方が看板に解説されているのですが、肝心なのはひしゃくで水を掬って三回かけること。もちろん、きちんと合掌し、お参りを丁寧にしなくてはなりませんが、水を掛けないお参り方法なら「水掛」お不動さまにはなりません。
これまで「水掛○○」にお参りしたことはなかったのですが、この後登山する予定でしたので、滑落しないようにと豪快に水を掛けてお参りしました。何とも霊験あらたかと思ったら「交通安全」の神様(仏様?)でした。
九品堂
ナニコレ? きちんと説明文が書いてあるのに、珍しく撮影し忘れ。でもって、このお堂についてはHPにもパンフレットにも写真はあっても解説文がない……(と思う)。九躰の阿弥陀さまをお祀りしている、ってことでよいの?
(液晶割れした pixel 君とお別れし、新しい機種になったら、やっぱり性能がイマイチ……。新機種が悪いのではなく、pixel 君が良すぎた。わずかに劣るだけなのに、拡大するとその差歴然。文字などがまったく読めない。ミルの背後あたりに、寺院さまが懇切丁寧な解説文を書いてくださってあります。)
虚空蔵堂
虚空蔵菩薩をお祀りしています。昭和期に「虚空蔵山」というところから現在地に移転されたそうです。虚空蔵菩薩さまは「虚空の如く広大無辺な福徳と智慧を人々に与え願いを叶えるといわれる。記憶力を得る求聞持法の本尊であり、農耕の守護神」と説明看板に書かれており、あれこれある「願意」の中で特に目を奪われたのが、「学力増長、記憶力増進」の二つです。大量に寄進してお参りし、頭良くなりたい……。
でもってさ、虚空蔵堂に向かう順路矢印碑の所に、東広島市お馴染みの(?)毛利元就看板がありました。
「学力増長、記憶力増進」したら「謀神」になれそうですので、これ以上ない配置です。
観音菩薩立像
これ、普通に道端にあるのですが……室町時代の作品だそうです。もうなんか、そこら中の石造物みんな物凄いモノなのではないかという気がしてきました。これほどの由緒ある寺院さまなので当然、仏像の類は大量にあります。平安、鎌倉、室町と長い年月を経た仏さまがたくさんおられますが、それらについてはご紹介できませんので、本堂のパンフレットを購入してご覧ください。もしくは、法要などで本堂に入る機会があれば見ることはできるかも。
けれどもこの石造りの観音さまも年代モノですので。なお、おとなりの小さな像は弘法大師さまだそうです。こういうこともすべてパンフレットに載ってます。
文化財あれこれ
福成寺さまは文化財の宝庫です。これから順番に見ていきますが、それらの文化財はすべて、下の写真にある「宝物殿」の中で大切に保管されています。
どのような文化財があるかというと、本堂内厨子及び須弥壇附鬼板絵 (国指定重要文化財), 「寛正二年(1461) 」銘銅鐘(県指定文化財)、毛利輝元書状 (=『福成寺文書』、県指定文化財)です。
これらの文化財については、一般にも公開されており、この目で見ることができます。ただし、事前のご連絡が必要であること、その日の天候如何によっては公開できないこともあることをわきまえていなくてはなりません。どの文化財もきわめて貴重なものであるため、雨天など湿気の多い日は宝物殿を開けることができないのだそうです。からっとした晴天に伺えればよいですね。
どうしても実物をこの目で見たい方はとにかくとして、参拝することが目的なので、文化財はだいたいこんなものがあってスゴい、ってわかればいいだけであれば、仁王門を入ってすぐ左手のほうに、以下の看板があります。とりあえずこれで、どんなものがあるのか視覚的に確認できます。これを見て、どうしても実物を見たくなってしまった方は、事前のご連絡をしていないので、もう一度出直す必要があります。なので、ホームページで事前に拝見しておきましょう。
※赤枠で囲ったのが国指定文化財、大内氏ゆかりの須弥壇および厨子の写真です。さらに、宝物殿の脇には須弥壇および厨子を除いたほかの文化財の文化財説明看板(写真なし)もあります。
ちょっとわかりづらい写真になっているので、文字起こししておきます。
「福成寺の広島県指定重要文化財
・銅鐘
昭和28年(1953)6月23日 指定
通高 125.7cm 鐘身高 96.0cm 口径 69.7cmで寛正2年 (1461) の銘がある。 鋳物師は三原(現広島県三原市)の宗吉で ある。 撞座は2カ所あるが文様はない。 また、乳の間1区内に 4段4列 16個、 全体で64個の乳を持つ。 袈裟襷は形式が崩れ て下帯がない。銘文が池の間2区に 7行 42陰刻されている。
・金銅輪宝羯磨文置説相箱
昭和59年(1984)11月19日 指定
24.1cm 横 33.5cm 高さ 11.0cmで縁に金剛製帯板を貼り、腰にめぐる界により身部と台脚に区別され、身部には、 輪宝・羯磨文の透彫金具が付けられている。 台脚部には覆輪を施した格狭間を透かしている。 戒体箱と同時に製作使用された
ものと思われ、 戒体箱同様室町時代末期のものと考えられる。
・福成寺文書
昭和53年(1978)10月4日 指定
後醍醐、後村上両天皇の綸旨をはじめ、毛利弘元、輝元、また、 小早川隆景の書状など9通の文書と福成寺縁起文1巻が所蔵されている。これらから、南北朝時代の福成寺と南朝方との結び付き、 また、その後の周防 (山口県) の大内氏の東西条支配をめぐる動向、当寺で毛利輝元と河野通直が会見したことなどがわかる。
東広島市委員会」
※「金銅唐草文板蓮華文金具置戒体箱」の説明文のみ、木の枝で隠れていて読めませんので、だいたいこうなんじゃないかな、と推測して文字に起こしたため、以下の文章は看板内説明文と異なっている可能性があります。
「昭和59年11月19日指定
縦36.8㎝、横12.7㎝、高さ8.7cmで蓋の表面に唐草文を刻み、3か所に輪宝、羯磨文の透彫り金具が付けられていた脱落痕がある。 また、その側面及び身部には蓮華文の金具が取り付けられ、身部中央の鐶付金具によって、身と蓋を紐で結ぶ。台脚部には覆輪を施した格狭間を透かしている。室町時代末期に製作されたと考えられる。」
大内文化の神髄・福成寺本堂内厨子及び須弥壇
「国指定重要文化財 福成寺本堂内厨子及び須弥壇
平成12(2000)年12月4日指定
厨子は、入母屋造妻入の1間仏堂を模倣した宮殿系厨子と呼ばれるもので、 間口 1.4m、 奥行 1.1m、高さ 3.4m です。
軒を支える斗供の特徴など、 禅宗様主体の様式となっていますが、折上支輪や軒を平行垂木にしてい る点などは和様の特徴です。 屋根は、 たるみが小さく、 妻飾りを強調した大型のものです。 こうした特徴は、 室町時代後期に瀬戸内地方で主流となるもので、 本厨子はその初現となるも のです。 正面の桟唐戸の内側には、八方天像と飛天像が描かれています。 なお、 垂木小口の金具には大内氏の家紋である唐花紋が浮彫されており、大内氏の強い影響がうかがえます。
須弥壇は、厨子を安置するための台で、間口 3.2m 奥行 1.4m、高さ1m です。 上下の框は刳形で、四隅に立てられた束柱は和様ですが、腰部のくびれが大きいところは禅宗様の特徴で、和禅折衷形式となっています。 また、高欄は なく、正面腰部に入八双形の格狭間があります。
このように本厨子及び須弥壇は、室町時代前期から中期にかけての特徴をよく示しており、15世紀初頭の造立と考えられます。 また、 16世紀に瀬戸内地方で多く見られる宮殿系厨子のはじまりとなるものです。
東広島市教育委員会」(説明看板)
前述のように、この須弥壇は見せていただくことが可能です。ですが、手を触れたり撮影したりすることはできません。マナーを守ってください。遠方にお住まいで、写真でもいいから見てみたいというの方のために文化庁のHPへのリンクを貼ってありますので、そこにある写真をご覧くださいませ。
※福成寺さまのHPにもお写真が公開されています。
(前略)厨子は桁行一間,梁間一間,入母屋造,板葺,妻入の形式である。
須弥壇は上下に刳形付框を重ねた形式で,正面腰部には入八双形の装飾をつける。
様式的特徴や細部などから,福成寺本堂内厨子及び須弥壇は15世紀前期の作と考えられる。福成寺には旧本堂の部材と考えられる応永21年(1414)の銘のある板絵が現存し,厨子の建築年代もこの頃と比定される。
福成寺本堂内厨子及び須弥壇は,16世紀以降,瀬戸内地方に広く流布した妻入厨子の嚆矢となる意欲的な作品といえ,建築史上,高い価値がある。また,周防大内氏による造営が確実な作品であり,中国地方における大内氏の支配や文化の展開を考える上でも,重要な存在である。
出典:国指定文化財等データベース(文化庁)※一部省略して引用
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/3694
上の東広島市教育委員会さまの文化財説明看板から、図面部分だけを抽出させていただきました(上の看板全体写真の赤枠内の部分です)。青色で囲ったあたりに大内菱がずらーっとついていますので、写真で確認してください。
須弥壇と厨子についての説明は、東広島市教育委員会さまの説明看板で必要にして十分と思います。というよりも、これすらも建築の知識がないとよくわからないです。国指定文化財等データベースの引用文に、「応永21年(1414)の銘のある板絵」のことが書かれておりますが、『山口市史 史料編 大内文化』だと「現存する応永二十年(1413)の銘の絵板一〇枚は旧本堂の部材と考えられる」とありまして、同じもののことだと思われますが、一年間ズレています。どちらが正しいのか、二種類あるのかはどうでもよく、大切なコトは「応永年間」に造られたものである、という点です。
そして、これは東広島市や国が言及しておられない点ですが、『山口市史』には「厨子」が「応永二十七年(一四二〇)に大内盛見が宇佐八幡宮に寄進した神輿に付された唐花菱に酷似している」とあります。つまり福成寺の須弥壇と厨子とは、盛見さんが寄進なさったものであろう、ということがわかりますね。これは製造年代からもわかることではありますが。
この厨子の中に、ご本尊である千手千眼観世音菩薩さまがおられます。つまり、須弥壇と厨子とは、宝物殿ではなく、現在も本堂に安置されているのです。ご祈禱などをお願いすれば、目にする機会があるかも知れませんね。
福成寺(広島県東広島市)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒739-0023 東広島市西条町下三永 3641
福成寺山(通称)の山頂南端。標高約 509 mもあります。
アクセス
行き方は東広島駅からと西条駅からの二つあります。公式アナウンスによれば、東広島駅からは車で5分、西条駅からは20分となっています。以下、順にご説明いたします。
東広島駅から
車で5分なので、当然「歩けます」。けれどもじつは、東広島駅に行くことがけっこう面倒です。なぜかなら、東広島駅は新幹線の駅でして、しかも「在来線との接続がない」というかなり面倒なことになっているためです。だいたい新幹線の「新○○駅」は「○○駅」とは離れていることが多く、駅によっては面倒といえば面倒なんですが、たいていは在来線が繋がっています。けれども現在のところ(202303)、東広島駅に乗り入れている在来線はないため、東広島駅に行くためには広島駅から新幹線を使うか、もしくは西条駅からバスを使うか、の二種類です(バスならばほかの様々な駅と繋がっていると思いますが、未確認です)。
初めてのご訪問でバスを使うのがわかりづらくて嫌だ、という方にとってはかなり行きにくい駅となっております。けれども、徒歩で行きたい方や、車を使いたいけれどもタクシー代金が高額になるのが嫌だ、と考える方にとっては東広島駅を使う行き方が推奨となります。
西条駅からですと、四番乗り場から東広島駅に行けるバスが出ております。
歩いて行くときは「東広島天文台」を目印とします。ゴルフ場を横切るようにして登っていきます。
西条駅から
「車で20分」とありますので、もしもタクシーを使ったらどれだけ高額になるのかとびっくりします。ネット検索して「タクシー代金 20分 いくら」などと調べるととんでもない金額が出てきますので……。ですが、実際にはそれらの金額の半分以下です。そもそも20分かからないのかも知れないです。
ただし、西条駅からは「歩けません」。まる一日をこの寺院さまご訪問に使うので歩いても平気、という方でしたら可能かも知れませんが、観光案内所さまやタクシーの運転手さまなどに「歩けますか?」とお伺いするとたいてい「無理です」とおっしゃるはずです。
とは申せ、行ったら戻らなければならないことを考えると、東広島駅からにせよ、西条駅からにせよ、タクシー代金は「×2」となりますので、それなりの金額にはなります(ちなみに 2820×2 でした)。
参照文献:福成寺さま発行パンフレット、『山口市史 史料編 大内文化』、『広島県の歴史散歩』、『平家物語・全訳注』、国指定文化財等データベース(文化庁)
福成寺(広島県東広島市)について:まとめ & 感想
福成寺(東広島市)・まとめ
- 東広島市にある真言宗御室派の寺院
- 創建は聖武天皇の頃という由緒ある古刹
- 弘法大師の導きによって現在地に移転した
- 反平氏として高倉宮と共に旗揚げした源頼政の側室「菖蒲の前」ゆかりの寺院として、遺品、像などが伝えられている。境内には、頼政と菖蒲の前の「追慕碑」もある
- 南北朝時代には宮方として、南朝の後醍醐天皇や後村上天皇の庇護を受け、綸旨も残されている
- 安芸東西条が大内氏の直轄支配地であったため、手厚く保護されて、氏寺・氷上山興隆寺の末寺とされた
- 国指定重要文化財「本堂内須弥壇及び厨子」は大内氏文化の遺品である
- 大内氏の滅亡後、毛利輝元にも保護されたが、江戸時代には一時期廃れてしまった
- その後も困難な時期があったが、檀家の方々、地元の方々によって守られ再興されて今日に至る
- 地元で「ふくじょうじ」と言ったら知らない人はいないほど有名で、シャクナゲなどの花々が美しい寺院さまとしても親しまれている
あらゆる意味で、素晴らしい寺院さまでした。お花が綺麗な時期に訪れたらもっと麗しかったであろう、と思うとちょっとだけ残念でしたが。東西条は大内氏が直轄支配していた地域なので、付近の由緒ある寺院さまは恐らくいずこも何かしらの繋がりがあると考えられますが、そこまで調査するのはたいへん過ぎます。どうすりゃいいんだい? と思ったらこちらの寺院さま一つでいいです。そのくらいゆかりが深いゆえ、「山口市史 史料編 大内文化」にも「県外」ではあるものの、福成寺さまの須弥壇及び厨子を載せておられます。
というような事前知識だけで出かけたのですが、源三位頼政とゆかりがある寺院だったとか、ご訪問してからわかったあれこれにもびっくりでした。源平合戦で燃えたとか、『平家物語』に出てくるエピソードしか知らないとなにゆえに!? と思ってしまいますが、確かに、そこここで合戦があったことは書いてある(具体的には書かれていないけれども)のですから、ここがそれらの合戦の舞台になったとしても頷けることではあります。
ところで……。この福成寺さまのロケーションが最高でして、ものすごい山の上って感じの場所になります。それゆえに、駅から遠かったり、タクシー推奨だったりするわけですが、車道がくねくねしててすごい道です。付近に広島大学の天文台がございまして、そのような施設があるくらいなので当然、見晴らしのいいところですよね。ですけど、あまりにも山の上にあるゆえにか、スマートフォンなどの電波が入りにくいのです。おかげでQRコード決済が使えませんでした。最初、なにゆえに? とタクシーの運転手さまともども「?」だったのですが(クレジットカード決済すらダメ)、どうやら電波状況の悪さゆえにだったみたいです。現金が賽銭箱用の小銭 +α くらいしかなかったので「どうしたら(泣)」という感じでしたが、運転手さまが多少なりとも電波の良いところを探してくださって何とかなりました。
福成寺さまは地元の方なら皆さまご存じの有名な寺院さまですので、帰りのタクシーは普通に呼べると思いましたが、スマートフォンの電波アンテナが1本だったこと、上述の支払関係の出来事などから、ひょっとして電話が通じなかったら……と思い、参拝を終えるまで運転手さまに待っていていただきました。とっても親切な運転手さまでした。本当にありがとうございました。で、帰り西条駅まで下りてきたら、QRコード決済もさらっとできましたので、やはり電波が悪かったんだと納得。風景の良いところでは Googlemap のナビゲーションが固まるとか、モバイルアンテナが「×」になっちゃうとか、ままあることですけど、同じ場所でもいつも必ず絶対そうであるとは限りません。ですけど、今回はこうなったので、念のため。
※202405 に再訪いたしましたが、お支払いはスムーズにいきました。しかし、モバイルのアンテナはやはり今一つでしたので、帰りのタクシーは友人に呼んでもらいました。まったく何の問題もなく通話できました。どうやら、スマートフォンのキャリアによる相性ってあるようですね。関東では思いっきり Max なんですが、西に行くと某社さまの回線が圧倒的に強い気がいたします(個人的な意見です)。
こんな方におすすめ
- 大内氏ゆかりの地を回ってます(特に寺社仏閣中心の方はココを外したらダメです)
- 寺院巡りが趣味で、ことに由緒ある名刹が大好き(奈良時代、弘法大師、源三位頼政あれこれ)
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
202405 に再訪。なんと、須弥壇ほかの秘宝の数々を見せていただいてしまった!
まるで夢みたいなひとときでした。一つ一つの文化財について、とっても貴重な解説も拝聴できました。そのうち、その時の体験もご紹介します。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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