ロープーウエイで弥山まで上った方々は、弥山本堂などに参詣してそのままロープーウエイで戻られるか、ほかの観光資源などに立ち寄りつつ歩いて下りて行かれるか楽しみ方は色々ございます。ロープーウエイの駅から弥山本堂まではそれなりに距離があったりするため、疲れ果ててしまう方もおられるかと。
とても一度では回りきれませんので、何度もリピートしていただけたらなぁ、と思います。そんな弥山のみどころの中から、今回は「奥の院」についてご案内いたします。ぜひ行かなければと次回の計画に組み込んでいただけたとしたら幸いです(訪問回数2回)。
広島県廿日市市宮島町の奥の院とは?
宮島・弥山の諸堂中のひとつという扱いです(参照:『宮島本』)。弥山山頂を散策した後、仁王門を抜けると大元公園に下りていく弥山登山道「大元ルート」に接続します。その手前で左折した道を行った先にあるのが「奥の院」です。
弘法大師と不動明王をお祀りした堂宇が中心ですが、ほかにも弥勒菩薩、地蔵尊などの堂宇、小さな社や祠などが点在しております。参籠するための場所も設けられており、山岳修行の方々が寝泊まりするための施設だったものと思われます(現在も参籠できるのかは不明ながら、連絡先は『弥山』と書いてあります)。管理なさっているのは、大聖院さま(参照:『広島県の歴史散歩』)とのことですので、不明な点はお伺いすれば解決するかと思われます(それ以前に、桟橋で観光案内所にお声かけしましょう。寺院さまはお勤めでお忙しいですので)。
小祠や社に混じって、厳島合戦で戦死した「陶一族の碑」なる記念碑が建っています。明治時代の建立とのことです。
奥の院・基本情報
所在地 広島県廿日市市宮島町
(※Googlemap にあった住所です)
弘法大師、不動明王などをお祀りしている
奥の院・歴史と概観
弥山山頂奥深くで弘法大師さまを祀るお堂
『宮島本』「弥山諸堂」の項目には、不消霊火堂などとともに、「奥の院」のご案内があります。「弘法大師と不動明王が祀られている」とのことです。弥山で修行なさった弘法大師さま、密教とゆかりが深い不動明王さまがお祀りされているのは、いかにもといった感じです。
修行のために参籠なさる方々がおられるようでして、そのためのお堂もございます。『広島県の歴史散歩』によりますと、奥の院は弥山の本堂などと同じく、大聖院さまが管理なさっているようです。ただ、HP などを拝見しても、この場所については取り立てて記述がなく、知る人ぞ知る場所となっている気がいたします。
いったいいつ頃から存在し、どなたによって建立されたかなど、詳細を示すご案内は現地にも何もありませんでした。どこで調べればよいものか。
陶一族供養の碑
奥の院じたいが、あまり訪れる人もなく、ひっそりとしていることが多いように感じます。観光客的には厳島神社や弥山頂上の霊火堂などに比べて地味に感じてしまいますし、どこも同じようなお堂と考えた時、こちらまで足を伸ばす方は稀なのかも知れません。純粋に、信仰の対象としておられる方向けの場所です。
そんなひっそりとした奥の院に、これまたいつ頃、どなたが建てたものかわからない「陶一族の碑」なる石碑がぽつねんと建っております。建立年代が明治四十四年(1911)であるということは、『宮島本』に明記されております。しかし、これがそうである、というような案内看板の類はございませんので見落とします。ここに建っている謂れも不明です。
明治時代の建立ということは、地元の心優しい方の手になるものかもしれません。現在一般観光客の立ち入りは禁止されている区域内に、総大将最期の地とされる記念碑があるそうです。その記念碑が建てられた時期と時を同じくして、鎮魂のための碑も建てられたことはじゅうぶんに考えられます。
なお、立ち入り禁止区域への入山は絶対におやめください。最悪命に関わります。現在、登山道として整備されていない場所については、道がありません。珍しいモノ見たさに山中に入っていく素人観光客が、勝手な行動を取ることができぬよう、敢えて道をなくしてくださったのです。宮島は厳島神社の参詣だけで終えれば、何の危険もない観光地です。しかし、登山については全く次元が違います。整備された登山道ですら、迷ってしまう方は皆無ではありません。まして、道なき道を行くような行為は危険極まりなく、その結果起きてしまった事故により、多くの方に迷惑をかけることになります。
世界遺産として整備される前には、そのような道なき道を行くことも、できた模様です(登山経験豊富なリーダーの引率があり、自ら道を切り開きながら進むことができる方々であるならば。一般観光客には昔も今も無理なことです)。インターネット上などには、古い記事が残されていたりしますので、それをご覧になった方は興味をもってしまう可能性があります。しかし、現在は「行くことはできません」。
お参りは洞雲寺でできますし、こちら・奥の院にも供養碑がありますから、それで十分です。なお、奥の院までは、きちんと道が続いておりまして、案内看板もついています。せっかくですので、弥山に来ることももう二回目……というような方はぜひ足を伸ばしてみてくださいませ。
奥の院・みどころ
複数のお堂、お社、祠のようなものが点在しています。堂宇にはそれぞれ、中に何がお祀りされているのか看板がついておりますが、詳しい観光案内版の類はありませんでした。宮島の文化財や建築物、行き方看板などは日毎に整備されておりますので、現在は最新の解説看板が立っているかもしれません。そう思い、いつの日か再訪をと考えております。
奥の院への道
奥の院への道は、仁王門から続いております。途中、奥の院と仁王門の分岐を示す石碑が立っていました。
奥の院堂宇
二度もご参詣しているのですが、どういうわけか全体像をおさめた写真が一枚もありませんでした。今後も赴く予定ですので、いずれ差し替えます。
この中に、弘法大師さまと不動明王さまが安置されています。中央に弘法大師さま、向かって左側に不動明王さまがおられました。なお、向かって右側にも僧形の像がございましたが、どなたのお姿なのかはわかりませんでした(要調査)。
参籠所
何らかの祈願や祈祷のために山に籠もるお話は、中世の物語などにもよく出て来ます。いわゆる「おこもり」行事は、氷上山で大内氏当主となる定めの若子さま方も行なっていましたね。
現代でも山籠りができる所があるのは、初めて見ました。こちらの建物で、「参籠」ができる模様です。建物と看板がともに古くなっており、現在も使われているのかは不明です。
「参籠御希望のお方は彌山寺務所へ申し出で鍵を借りて下さい
無断参籠と一週間以上の参籠はご遠慮下さい
彌山」
(看板説明文)
物資輸送用ケーブルカー
何だろう? と思いますが、奥の院に物資を運び入れるためのケーブルカーだとか。ガイドさまにご教授いただいた記憶がございます。奥の院から護摩堂まで続いているそうです。奥の院に物資を届ける、奥の院から物資を送る、どちらの用途だったのかは記憶が曖昧になってしまいました。どちらのケースもあるのが当然かなと思いますが、典拠がないですので、「荷物を運ぶためのもの」ということで。そこは間違っておりません。
参籠する方々のためにお食事を届けたりするのに使われるのだろうか、などと想像いたしました。
白姫
「白姫」と書かれた小さなお社です。「白姫」さまというのが、どのような神さまであるのか、現状不明です。案内看板の類はございませんでした。
お日切地蔵
「お日切地蔵□」と書かれておりましたが、最後の一文字が不鮮明になっており、読めませんでした。お隣にも小さなお社が見えております。
「弥勒菩薩」
「弥勒菩薩」さまのお堂です。
陶一族の供養塔
上の弥勒菩薩さまの堂宇の脇にもチラ見えていますが、こちらが「陶一族の供養塔」といわれる石碑となります。手前に小さなお社がございますが、こちらにお参りするという意味なのでしょうか。『宮島本』には「厳島合戦で戦死した陶晴賢の一族の石碑」と書かれております。石碑に刻された文字はやや不鮮明となってしまっておりますため、解読できませんでした。
普通に考えれば、合戦で亡くなった総大将一族のために造られた記念碑と読めますが、「合戦で戦死した」がどこまでかかっているのかわからないというどうでもいいことが気になっています。要は、総大将ともども合戦に参加して戦死した人たちだけを記念しておられるのか、合戦とは無関係の人も含め一族すべてを記念しているのかという点です。
本人にだけ関心がある方にとっては特段気になる問題とはなりませんし、この石碑が厳島に立っている意味を考えれば、戦死者慰霊碑であろうと推測されますが。
祠
いったいどんな神さまをお祀りしているのでしょうか。小さいながら、とても趣のあるお社がございました。
奥の院(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 山中なので Googlemap にも「廿日市市宮島町」としか書かれていません。住所は不要でしょう。
アクセス
仁王門をくぐり、向かって左手の方角に進みます。真っ直ぐ行けば大元公園、右へ行くと大聖院さまとなります。このあたりの地図については、弥山の項目に詳細を書き記しましたので、ご参照くださいませ。⇒ 関連記事:弥山
参照文献:『宮島本』、『広島県の歴史散歩』、現地案内看板
奥の院(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想
奥の院(廿日市市宮島町)・まとめ
- 弥山に数ある堂宇群のうちのひとつ
- 弥山本堂からは離れた場所にあり、仁王門を抜けて登山道・大元ルートに入る手前で左折した先にある
- 中心となるのは、弘法大師と不動明王を祀った堂宇
- ほかにも弥勒菩薩、日切地蔵などの堂宇や小さなお社、祠、お地蔵さまなど信仰の対象となっていると思われるものが多数点在している
- 御山神社が厳島神社の奥宮だとしたら、こちらは大聖院の奥の院といったところ。神さま系、仏さま系二つの聖地にご参詣してこそ、弥山を満喫したといえるかもしれない
- 堂宇や小社に混じって、「陶一族の石碑」が立っている。明治時代に建立されたもので、厳島合戦の戦死者を鎮魂するためのものと思われる
あるお方の生誕五百年にあたる年、生誕の地である山口県には行くことが出来ず、広島県で一族の供養塔とご本人の墓所に赴きました。別にきっかり五百年だからどうのこうのということはないのですが、次に来る記念の年が生誕千年だとしたら、その時はもう自らはこの世にいないわけで。なんで山口に向かわなかったのかは分かりません。何となくですが、宮島でその年を迎えたかった、そんな気がしたことだけは確かです。
だいたい、どこで生まれたのかなんて、正確なことはよく分からないわけで。ただ、亡くなったのが厳島であることだけは確かです。だとしたら、確かな場所に赴くほうがいいに決まっています。最近、その方の出生についてもあれやこれやの疑問符が出ているようです。明治時代の先生がお書きになった本に書いてあることが、長らく「通説」のようになっておりましたが、そうとも言えないようです。しかし、新しい説とやらが、正しいのかもまた疑問符です。タイムマシンで現地に行かなくては何も明らかにはなりません。タイムマシンなるものはどう頑張っても開発できないことが、科学者たちの研究などから明らかにされているのは周知の通りです。
つまり、歴史なんて、どれほどの「史料」とやらに囲まれたからといって「真実」は説明不能ということです。その「史料」がホンモノかどうかなど、誰にも証明できませんから。せいぜい、限りなく真実に近い(=信憑性が高い)としか申せません。かつて歴史学を志し、非科学的ゆえ投げ出した者の戯言とお笑いください。その反動からか、根拠なき「通説」「言い伝え」が大好きです。「真実」よりずっと興味深いと感じます。何事にもファクトチェックが必要な昨今、現地案内看板と自治体発行の郷土史だけを信じて生きてきました。案内看板が古い「通説」のまま書き換えられていなかったとしたら信頼を失いますので、看板に書かれていることは信じて問題ないと思います。看板に反映されるまでは、古い通説のままで生きていても問題はありません。
宮島に観光に来て、奥の院まで行かれる方はあまり多くないのかな、と感じます。しかし、案内看板にもきちんと載っておりますので、ぜひとも足を運んでください。そして、遙かに昔の合戦でこの島で息絶えた人々の石碑にも、声をかけてあげてくださいませ。一度目奥の院を訪れた際、この石碑の存在を知らずに通過しておりました。山口県で一族の関連史跡を網羅したご研究のご本を拝読しましたが、そこにもこの石碑については書かれておりませんでした。恐らくは、広島県の方しかご存じないのだろうと。地元の心優しい方々の手になる石碑であろうと思われます。通りすがりの部外者ですが、山口県にお住まいの関係者の方々に、この事実をお伝えできたらな、と願うばかりです。
こんな方におすすめ
- 弥山のすべてを見尽くしたい方に
- 厳島合戦関連史跡コンプリートの方に(戦死者側の記念碑あり)
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
なんか、よくわからない感想文だなぁ。とうとう頭が変になってしまったのかも……。「あるお方」というのはいったい誰なんだろ。言われなくても陶入道のことだとはわかるけど。なんで、ぼかして書いているのだろうね。
厳島は毛利家の聖地である。敗軍の将についてなど書いたところで、誰も読まん。
お前も懲りないね。合戦って、相手あってのことだろ? 負けた側にも歴史があるんだよ。いちおう、同じ血が流れてはいるらしいから、多少は先祖だか子孫だかを敬ってみたら?
御免被る。
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みやじま・えりゅしおん
宮島旅日記のまとめページ(目次)です。厳島神社とロープーウエーで弥山頂上は当たり前。けっしてそれだけではない、宮島の魅力をご紹介。海からしか行けない場所以外は、とにかく隅々歩き回りました。宮島の魅力は尽きることなく、旅はなおも続きます。
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