山口県岩国市藤生町の松巌院とは?
松巌院は山口県岩国市にある禅寺です。歴史史料としても価値の高い『二宮佐渡覚書』で知られる二宮佐渡守こと二宮俊実が建立した寺院です。俊実は吉川家家臣として活躍した人ですが、厳島合戦で毛利氏が勝利したのち、世の無常を悟り、仏門に入りました。
山口県指定文化財となっている庭園が有名な寺院さまです。後山の墓地には二宮俊実および、二宮家代々の墓などがあります。
松巌院・基本情報
住所 〒740-0036 岩国市藤生町5丁目 24−6
寺号・山号・本尊 鍾秀山・松巌院・
宗派 臨済宗
松巌院・歴史
二宮俊実と『二宮佐渡覚書』
二宮俊実? どなたでしょうか。けれども、二宮佐渡守と聞けば、『二宮佐渡覚書』がすぐ思い浮かびます。二宮佐渡守は吉川元春の家臣として活躍した人です。あれこれの軍記物では、「二宮木工助」もしくは佐渡守として出てくる人、と言えば途端に納得できる方が増えるかと。
あくまで『陰徳太平記』で読んだ内容なのでどこまでが史実かわかりませんが、巻二十七「三浦越中守最後之事」のくだりでこの人の名前を見たことを記憶しています。陶さまを逃そうと青海苔浦で奮戦した三浦越中守さんは鬼神のような活躍ぶりで、何やら『平家物語』の平教経さまを彷彿とさせます。毛利家の雑魚など束になっても敵わず、突出して追いすがってきた小早川隆景はひょとっしてココで死んでたかも? ってくらいのピンチに陥ります。弟を助けろということで、吉川元春が駆けつけて(本人というか家臣を派遣した)辛うじて事なきを得るのですが、その時、駆けつけた中に「二宮木工助」もいたわけです。一番活躍したって雰囲気です。
そんなことより、越中守さんが亡くなったことのほうが悲しくて「二宮木工助」の名前も生涯忘れられません。それが二宮俊実さんだったってことですね。もっと色々なところで「二宮木工助」って見たきがするので、吉川家では有名な人なのでしょう。
けれども、毛利家が大内家を潰して中国地方を我が物にしたあとで、あれこれと世の中の無情を感じて出家入道したということなので、怨念も歴史の彼方に(なんかここら『平家物語』の熊谷直実みたいですね)。
さて、毛利家では、平和な世の中となったのち、かつての合戦の歴史などを記録しておくため、ゆかりの家臣たちに記憶を辿ってもらい、書物のかたちで保存しておくような事業を行ないました。それらの記録の数々が、現代の先生方の研究にたいへん役立っているわけです。そんな中で、この二宮さんも覚書を提出しました。『二宮佐渡覚書』と呼ばれているものがそれです。
「三浦越中は、青のりまで御越之間、ふせぎ矢仕候はんと申候て、かの峠に罷居、其所へ、隆景さま御座候ヘば、かの者共切かかり、隆景御被官宗徒之衆、御用御立候。左候処へ、粟屋源三被罷合、及数戦、数人手被負、引のかれ候。左候而も、越中守かの道不退、罷居覚悟仕候。其以後、其元にて落度候。頸をば内藤蔵丞被取候」
『陰徳太平記』に書いてあることもまったく同じ。軍記物のほうは、この 10 倍くらい脚色して面白く書かれているけれども。
寺院の由緒
寺院さまの由緒看板に書いてくださってあることがすべてです。要するに、出家入道した二宮佐渡守さんが建てたということと、庭園が美しいということですね。
ところで、昭和初期に書かれた『山口県寺院沿革史』によると、二宮さんが寺院を建立する以前にも、この場所に寺院が存在し、その意味では元の寺院を再興した、という扱いのように書いてあります。
「この寺院が昔、真言宗で卜院と呼ばれていたとき、愛宕社は南の山手荒神社と同じ場所にあった(神仏習合していた時の鎮守社か、メインは神社で寺院が社坊だったのか?)。愛宕社は官位を受けていた(神階授かるほどの立派な神社だったのだろうか?)。慶長年間に、開基の周伯和尚が再興して禅寺に改めて建立したという。和尚は吉川家の家臣で佐渡守俊実という人で、厳島合戦の際に参陣していた。陶晴賢が討たれて、世の中が平穏になると、つらつら無情を感じ、発心して出家剃髪し、旧跡を復興し寺院を建てて理長院と称したのであった。
二世・聞叙解公座元は、はじめ艮首座といい、のちに移り住んで諱を解と改め、号を聞叔と称した。このことは本地院の僧籍簿に詳しく書かれている。この代にはたびたび火災が起って焼失したから、愛宕に木像を勧請して願かけし、東の山の尾末、平松というところに、中興・荒神と愛宕をわけて、愛宕だけの小社を建立したけれども、風が激しくすぐに破損してしまった。中興・荒神を平松に建立したのは、寛保元酉の頃のことである。現在は社の跡のみ残っている。このことは七世・天心和尚が書き記した記録で明らかである。
享保十年の秋、玉渓和尚が再建した際、先祖・佐渡守の位牌所を拝領し、禅宗なので永興寺末寺となった。佐渡守の法名は理長院といったが、百年忌の際、佐渡守の院号を松巌院殿延瑞理長大居士と改めたので、ここにはじめて寺号を松巌院と公称するようになった。以来、現在まで受け継がれている。
本堂(慶長八年八月再建)、庫裏、長屋、部屋、門、鐘楼、観音堂(文化三年十月創建)。
境外仏堂:藤生村観音堂、文化十四年創立常光庵あり、海士路に正受院(文化十四年創立)、師木野村六呂師地蔵堂(明治十二年以降所属末寺となる)……(後略)」(原文・文語文)
二宮佐渡守の法名が周伯和尚なのでしょうかね? 二世・聞「叙」解公座元は聞「叔」ともなっており、どちらが正しいかわかりません(いずれかが誤植と思われますが、調べようがなく、すみません)。元々ここにあった荒神社、愛宕社の話などは興味深いですけれど、原文が難しすぎて、意味がとれておらず申し訳ないです。肝心の庭園について、一言も触れていないことが謎ですね。
松巌院・みどころ
みどころは庭園のようです。しかし、寺院さま入り口に「当山は信仰と修養の場であって決して遊園地ではありません。 こころ静かに参拝してください。参拝とは仏前に坐して敬虔に合掌礼拝することであります。庭園の拝観を希望される人は参拝の後に拝観してください。参拝の意志のない人や、犬を連れた人の山内に立入ることを厳禁いたします」とあります。
参拝せずに庭園だけ見に来る人や、犬の散歩目的で入る人ばかりとは思えませんが、よほどマナーの悪い人がいたのでしょうか。地元の方のお話によれば、現在寺院さまにはどなたもおいでにならないようです。Googlemap で検索していた時、カーナビに電話番号を入れようとしていて、誤ってスマートフォンの電話番号をタップしてしまったらしく、「この電話番号は現在使われておりません」との携帯電話会社のアナウンスがいきなり大音量で流れてきたのでびっくりしました。入り口の貼り紙からわかるように、そっとしておいてください、という意味と思われますので、丁寧にお参りして退出しましょう。
松巌院の遠景
静かな山の中に佇んでおられます。草木が生い茂っているため、建物は隠れてしまっていました。
山門
山門は開いているので、礼儀正しく参拝するのならば、庭園を見学することはできます。
庭園
庭園を見てもさっぱりなので、それこそ「来ないでください」とお叱りを受けそうです。でも、庭園を見に来たわけではないですし、犬も連れていないので許していただけるかと。
二宮佐渡守の墓
後山の墓地に眠っておられます。下は二宮家代々の墓となります。
陶晴賢遺髪塚
寺院さま由緒看板によると、首級を見付けたのは二宮佐渡守の功績らしいので、その時遺髪を記念にとってでもおいたのでしょうか。出家入道なさったくらいなので、こうやって供養してくださっておられるのですね。
松巌院(山口県岩国市)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒740-0036 岩国市藤生町5丁目 24−6
アクセス
JR西日本・藤生駅から歩けるのですが、かなりローカルな雰囲気なので、心細く感じる人にはすすめられません。とはいえ、カーナビでも寺院名から所在の確認はできない(載っていない)ため、住所をたよりに探すほかないです。錦帯橋あたりの地元の方々にお伺いしても、「知らない」とのお答え。岩国市観光協会のホームページで検索しても出て来ないので、タクシーの運転手さんもご存じない可能性が高いです。
あくまで Googlemap の計算ですが、藤生駅から 20 数分くらいということです。当然ながら、ご近所にお住まいの方はご存じなので、ナビゲーションに頼って歩いても見付けられなかった場合は、地元の方とすれ違う可能性を祈りましょう。
参照文献:『二宮佐渡覚書』、『山口県寺院沿革史』、『陰徳太平記』
松巌院(山口県岩国市)について:まとめ & 感想
松巌院(岩国市)・まとめ
- 吉川元春の家臣・二宮俊実が仏門に入り、建立した寺院
- 境内の庭園が、山口県の文化財指定を受けている
- 後山の墓地に、二宮佐渡守の墓などがある
入り口の貼り紙を見ると、入っては行けないような気がしてしまいますが、門は開かれており、マナーを守ってきちんとお参りする方のご訪問を排除する意味ではないので、もろもろ心がけて丁寧に参拝しましょう。こういう貼り紙のある寺院さまは少なからずあり(最近はホームページなどにも書いてあります)、犬については神社さまでも同じ貼り紙(というか、そちらは看板でした)。通りすがりの観光客はちょっと恐ろしくなって入山を躊躇ってしまうのですが(よほど格式が高く、そこらの通りすがりは入ってはいけないような大寺院などに書かれていることが多いからです)、もちろん、そんな意地悪な意味で書いていらっしゃるのではありません。飼い犬の散歩コースに組み込んでしまうとか、御朱印だけもらってお参りもせずに帰ってしまうとか、写真だけ撮って帰ってしまう人が多いため、「信仰心のかけらもない人は来ないでください」となるのも自然の流れです……。御朱印は集めていないため、無関係と思っていましたが、写真撮影も同様なんですよね。ミルたちも初心者の頃はそうだったので、実際、有名な観光地で怒られてしまったこともあります。それ以来、必ず小銭を持参して賽銭箱に投げ込んでいます(問題はお金ではないと思うのですが。お賽銭は機械的に入れていても、信仰していない人は多いですので)。
寺院は宗教施設です。その意味では、檀家ではない人が入っていく意味はない場所なんです。しかし、伽藍が重要文化財指定を受けているとか、庭園が見事であるとかいう理由で、何となく観光資源化してしまうと、信仰とは無関係な方々が大挙して訪れます。京都のように町中がそのような観光資源化した寺院ばかりになってくると、「拝観料」を徴収したりしていますから、結局の所、観光客からの収入もすごいよなぁと思うのですけど。そうなると、特にお墓がここにありますので、という理由がなくとも、拝観はできますね。え!? ってくらい高額な拝観料をおさめねばならないとなると、入るのをやめようか……と感じることも多々ありますが、お金を払えば無関係な人も伽藍見にはいっていいですよ、ってことで、却ってお気楽になれるので素直に支払いましょう。結局は先立つものはお金なのか、と思うと世俗化している気がしてアレなんですけど……。こちらの寺院さまは、拝観料を徴収なさってはおられません。見事な庭園がある著名な寺院であるのにかかわらず、庭園を愛でたいというだけの方々にも入山を許可してくださっていたわけです。でも、それをいいことに、マナーが悪い人たちも入っていったんですね。自らがそれにあてはまらないかどうか、心静かに日頃の行いについて振り返ってみるよい機会だと思いました。
周南から来た場合、ここに「遺髪塚」があることは知っていますから(むろん、知らない人は知らないけど)、庭園は素通りで墓地にお参りしました。入り口由緒看板にもその存在について記されているのですが、順路矢印をつけてアピールしていたりはしないため、探すのはけっこうたいへんです(そもそも寺院さまじたい見付けにくいし……)。地元のご親切な方から、墓地へ上がっていく路を教えていただき、なんとか辿り着くことができました。この場を借りて御礼申し上げます。墓地は綺麗に整備されていて、数は多くないものの、一般の方のお墓もありました(二宮家ゆかりの方々かも知れませんが)。それゆえに、定期的にお参りなさる方がおられるのでしょう。
こんな方におすすめ
- 吉川家、吉川家家臣、二宮佐渡守が好きな方
- 庭園観賞が好きな方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
遺髪になっちゃったけど、陶入道の供養塔って岩国にもあるんだね。そういえば、陶にも正護寺に分骨塔あったけど。でも肝心のお墓は安芸国の洞雲寺だもんね。
もう一度来るのは難しい場所だけど、一門の人を気遣う君の気持ちはきっと通じてるよ。
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