広島県 廿日市

任助法親王墓(広島県廿日市市宮島口)

任助法親王様御陵墓前ゲートの写真
ツアーガイドのイラスト
ミル

広島県廿日市市宮島口にございます、任助法親王さまの陵墓です。

宮島にはお墓がない!

宮島は島全体が信仰の対象となっている聖なる島です。ゆえに、島で人々が亡くなっても、島内でお葬式をすることや、埋葬することは許されていませんでした。宮島の島内にはお墓というものがないのです。

しかし、この世に生を受けた以上、どうしてもさらぬ別れというものはどなたにも訪れます。では島の中でその日が訪れたらどうなるのか? 心配になりますよね。だって、観光客はいざ知らず、島内で暮らしておいでの地元の方々も大勢おられるのですから、ご葬儀が営めないというのは大問題です。

島内の方々は、お亡くなりになると、島を出てご葬儀、ご埋葬ということになります。ですから、島内ではなく、県内他所、もしくは他県かもしれませんが、ご実家の墓所にお入りになるか、もしくは、先祖代々宮島の方、ということであれば、対岸の宮島口でご葬儀、埋葬が行なわれます。そして、ご親族を亡くされ、島外でご葬儀を終えて戻られた方々は、しばらくの間、島内の決められた場所で待機する必要がありました。つまり、聖なる島ゆえに、人が亡くなられるということを穢れとして避けなければならなかったのです。

かつてはそのようなとき、ここで待機したのである、という場所を地元の方が教えてくださいました。ただし、現在はそのように厳格な規則はなくなっており、ご葬儀から戻られたからといって、それらの場所で待機させられるようなことはなくなりました。でも、宮島にお墓がない、ということは今も変りません。

任助法親王さまについて

任助法親王墓

さて、今回ご案内する、任助法親王さまのご陵墓は同様の理由で、島内にはご埋葬できなかった法親王さまの島外のご廟所です。宮島を愛した法親王さまは死後はこの場所に葬って欲しいと望んでおられたといいます。

法親王さまが下向されたのは、九州での布教活動が目的であり、宮島にはその途上で立ち寄られたようなのですが、大聖院にとどまられ、「厳島御室」と呼ばれたそうです。

天正十二年(1584)に亡くなられ、この地に墓所が営まれました。現在は、宮内庁管理となっております。宮内庁HPによれば、宮内庁管理の天皇陵も見学が可能とのことでした(どこもそうですが、史跡の見学には注意事項がありますので、HPに書かれているご指示に従い、きちんとマナーを守りましょう)。こちらは天皇陵ではないため、宮内庁HPにはご案内がありませんでしたが、普通に考えて見学は可能だと思われます。しかし、理由は不明ながら、この日は中に入ることができませんでした(鍵がかかっていました)。お参りすることができなかったので、外から手を合せるかたちとなりました。見学希望の方は、事前に宮内庁の方にお伺いするのがよろしいかと思います。

仁和寺御室

さて、「法親王」って何? 「御室」? ということになりそうですし、任助法親王さまについてもどのようなお方なのかわからない、ということで、『日本史広事典』などを使って調べました結果をまとめておきます(なお、『事典』には任助法親王さまについての項目はなく、そちらは郷土史のご本を読みました)。

まず、京都にございます「仁和寺」。これはたいへん有名な寺院さまなので、名前を聞いたことがないという方はおいでにならないと思います。京都市右京区嵯峨にあります真言宗の寺院です。この仁和寺というのは、光孝天皇の御願寺となります。 仁和二年( 886) 光孝天皇勅願により造営開始、 仁和四年(888)の金堂完成を以て仁和寺と呼ばれるようになりました。その後、昌泰二年(899)、宇多天皇は出家なさり、位を醍醐天皇に譲られました。それ以後は、仁和寺の中に「御室」を造り、そこにお住まいになられました。「御室御所」と呼ばれたそうです(説明ないですが、天皇が住まわれるお部屋なので『御室』なのかな、と思います)。

仁和寺の門跡は代々、皇室ゆかりの法親王が務めることとなり、やがてお住まいだけではなく、門跡である法親王さまを「御室」とお呼びするようになりました。当然のことながら、たいへんに格式高い寺院という扱いでして、寺領なども多く、非常に栄えました。しかしながら、応仁の乱では仁和寺すらも平然と兵火にかけられ、なんと焼失してしまったのです。ゆえに、現在の仁和寺は江戸時代に再建された建物となります。

真言宗の中にも、ほかの○○宗同様、真言宗○○派というようにいくつかの宗派がございますが、仁和寺は「真言宗御室派」に属し、その総本山となります。宮島ゆかりの大寺院として大聖院がございますけれど、コチラも真言宗御室派の寺院さまとなります。

法親王とは?

つぎに、「法親王」とはどのような方々なのか、と申しますと、これはもともと親王の位にある皇族が出家された場合、法親王とお呼びする、というきまりでした。ところが、康和元年(1099)白河上皇第三皇子覚行という人は、もともとは親王ではなく、僧籍にある皇族というお方でしたが、その後親王となりました。なので、親王が出家したケースは「入道親王」と呼び、出家してから親王となったケースを「法親王」と呼ぶようになりました。ところが、あれこれのややこしいケース(『事典』の例には、僧籍にあった『孫王』があとから親王になったものを『法親王』と呼んだという『特殊な』ケースについての言及あり)が出てきて混乱し、やがて「入道親王」と「法親王」との区別は曖昧となりました。ですので、親王クラスの皇族で出家された人、というような認識であっているかと思われます。

任助法親王

仁助法親王は仁和寺の二十世門跡でした。伏見宮貞敦親王第四子で、お母上は太政大臣・藤原定香のご息女。後奈良天皇の猶子となられました。天文八年に出家し、最初は寛法といいましたが、のちに仁和寺の門跡となりました。天正十四年(1584)、宮島で亡くなりました。60歳でした。なお、『宮島本』によれば、極楽寺に位牌が、円明寺境内に墓であるとされる宝篋印塔が伝わっているそうです(未見)。

古い郷土史のご本によりますと、この陵墓がある山はかつて「御室山」と呼ばれ、法親王の墓には「厳島御室」の文字があるそうです。円明寺のものは(その本だと円『好』寺となっていますが、そのような寺院はないので、誤植かお名前が変ったのだと思います)「追慕塔」だろうとしていますが、形は陵墓のものとまったく同じであるそうなので、お墓をご覧になりたい方は、円明寺に向かわれても良いかも知れません。

まとめ

仁和寺は皇室ゆかりの寺院で、代々の門跡は法親王が務め、「御室」と呼ばれた。

仁和寺は真言宗御室派の総本山である。

法親王とは、出家した親王、親王宣旨を受けた僧籍にある皇族、のような意味(元々は厳格な定義があったがやがて混乱、曖昧となった)。

任助法親王は仁和寺門跡を務めたあと宮島・大聖院に長らく滞在され「厳島御室」と呼ばれた。

「厳島御室」は宮島で亡くなられ、そのお墓は宮島口にある。宮内庁管轄。

参照文献:『日本史広事典』、『宮島本』、『厳島大合戦』、宮内庁様HP

基本情報

所在地 〒739-0411 広島県廿日市市宮島口2丁目1−1

※史跡解説ページはございません。

アクセス

宮島口駅から徒歩です。線路から見える場所にありますので、迷うことはありません。ですが、大きな看板が立っていたり、経路案内図のようなものが駅からついていたりはしませんので、Googlemapのナビを立ち上げて行かなくてはなりません。

全体像を知るには、外から見るのがいいのですが、線路を挟んでしか見ることができないので、やや遠くなります。また、線路から見た感じはただの小山ですので、ピンポイントで探して行かないと、普通に歩いていて偶然にもスゴいものを発見した、ということにはなりにくいかと思います。

泣き顔の五郎イメージ画像
五郎

ほかの人の書き込みを見ても、鍵なんてかかってない、ってあるのに、なんで俺たち入れなかったんだろう……。

泣き顔のミルイメージ画像
ミル

た、たまに、定休日とか、お掃除の日とかあれこれあるらしい(天皇陵の場合)から、そういう日だったんだよ。

怒った五郎イメージ画像
五郎

違うな。『本日定休日』の札も、掃除している人たちもいなかった。

泣き顔のミルイメージ画像
ミル

あああ、天皇陵の場合だけど、「開門時間」があるっぽいよ。

泣き顔の五郎イメージ画像
五郎

俺たち、そんな変な時間帯に来たんだっけ?

泣き顔のミルイメージ画像
ミル

いずれにしても、ミルたちが入れなかったことは事実です(写真に鍵も見えてます)ので、絶対にお参りしたい! という人は、事前に確認してくださいね(思うに9時前に来てたっぽい)。

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