『陶弘護肖像賛』

キャラ吹き出し
後から分ったんだけど、徳山市(現在周南市)が完璧な訳文を公開しておられた。こんなインチキを載せる意味、全くないんだけど。ただの「記念」ね。

陶弘護肖像賛 龍豊寺文書
昌龍院殿前尾州太守建忠孝勲禅定門肖像

尾州刺史・陶弘護は周防の名門である。元は、百済国聖明王の第三太子・琳聖の末裔であり、本朝の三十四代推古天皇の御代、辛未十九年に来朝した。これは、隋の大業七年に相当する。百済の船は周防の佐波郡・多々良の岸に着いた。琳聖の王子・正恒は、初め多々良姓を賜って、周防・吉敷郡大内県に住み、今に至るまで八百年、綿々と絶えることがない。

正恒から七代の子孫・貞成は二子を生み、嫡男が周防介盛房で現在の太守(大内政弘)の祖先である。次男の盛長は陶家の祖先で、盛長より四代の子孫・弘賢が周防・吉敷郡陶を領地とした。弘賢は弘政を生み、周防・吉敷郡富田保に移った。越前権守に任じられた。

弘政は弘長を生み、弘長は盛長を生んだ。太守に代わって長門の事を司った。盛長は盛政を生み、また、太守に代わって周防の事を司った。盛政は弘房を生み、父を継いで周防の事を司った。弘房は弘護を生んだ。

康正年乙亥九月三日、山口の私邸にて生まれ、幼名を鶴寿といった。天性俊邁にして和歌をよくした。

応仁元年丁亥の夏、天下は大いに乱れ、太守は鎮西の軍を率いて上洛した。弘房は、太守に付き従い、家の事は鶴寿に任せた。鶴寿は年幼ながら、幹蠱の才があったから、幾つかの事を委託した。この時、わずかに十三歳であったが、八月二十二日、周防国都濃郡・龍文寺にて、器之為璠に受衣し、法名を孝勲、号を忠建と称した。

応仁二年戊子十一月二十四日、父・弘房は京師の軍営にて亡くなった。太守はなお、京師にて従軍していたから、豊前・筑後両国の賊徒らが、この隙に蜂起した。鶴寿はわずかに十五歳であったが、太守の命で加冠して弘護、通称・五郎と称した。

文明二年庚寅の春。今八幡宮の神職某は、国が将に傾かんとしている事態を憂い、毎日夜半に神殿に詣でて、密かに祈りを捧げていた。百日目の夜、寝ているのか起きているのか分からないでいると、宮殿の扉が勝手に開いて、中から一人の人物が出てきた。厳めしい冠を被り、手には何かを持っている。それを、指示して、神職に向うと「私は長いこと国を守ってきた。今太守は京にあって、国は危急存亡の秋(とき)である。この掛け軸を太守に届けて欲しい。私は太刀に姿を変えて弘護の身について国を守ろう」と言った。

神職は掛け軸を太守に、太刀を弘護に渡した。神職が、京で太守に掛け軸を渡した時、太守が中を見てみると、摩利支天の像であった。

その頃、太守の伯父・南宋道頓は太守の留守に国を掠め取ろうとし、長門国豊東軍赤間関で兵を挙げた。道頓は百計を巡らせて、弘護を招いたけれど、彼は頑としてそれに応じなかった。

冬十一月二十日、道頓は安芸へ向かおうと出発したが、弘護は十二月二十二日、義兵を率い、玖珂にて道頓を大いに破った。道頓は残党を連れて石見の吉見を頼った。弘護は二十八日、長門国阿武郡江良城にて道頓の残党を破った。

吉見は道頓に力を貸して兵を集め、長門国阿武郡を襲撃したが、弘護は太守の母君の命を奉じ、砦を築いてこれを防いだ。道頓軍は潰走し、翌年再び挑戦したが、遂には十七、八人となって豊前へと逃れた。吉見は長門国阿武郡得佐城を攻撃したが、弘護はこれを追い、逆に石見国吉賀郡吉賀、美濃郡長野の地を切り取った。

文明六年甲午、太守は弘護の功績をたたえ、尾張権守に任じた。

文明九年丁酉冬、天下はおさまり、太守は帰国なさった。弘護は周防国玖珂郡柳井津にお迎えし、富田保の私邸にてもてなした。太守は「国が平穏無事であったのはそなたのおかげである」と仰り、水魚の交わりを深めんと、金蘭の契りを交わし、兄弟の盟を結んだ。弘護は夜は太守の寝所に控え、昼は皆が集まる席で世話を焼き、終日倦むことがなかった。

文明十年戊戌の春、吉見は謝罪し和を請うたので、太守はこれを許した。太守は弘護に筑前の事を任せ、彼はそれに忠節を尽くした。

秋、太守は豊前・筑前に遠征し、弘護は先駆けとして戦い、九州は平定された。九月二十五日、大宰府にて少弐政資を破り、少弐一党は散り散りとなった。

文明十一年己亥、筥崎宮にて釣鐘を造り、その功績を刻んだ。冬、筑前守護代の地位を辞して、弟・弘詮に譲り、文明十三年辛丑、伊勢神宮に詣でて、秋に帰国した。

文明十四年壬寅の春、小笠原元長が太守に拝謁したが、弘護は、「武門にある以上、武芸をきわめるのは当然であり、武は弓矢をもって要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以て規範とするものである」と言って、これに師事して奥義を学んだ。

五月二十七日、殿中の宴の席にて亡くなった。二十八歳であった。なんと惜しいことであるか。その驕勇を惜しみ、忠義に感動しない者はなかった。

文明十六年十一月十七日
前相国寺・以賛周省書

※摩利支天の太刀のくだりについてはO様にお力添え頂きました。この場を借りて御礼申し上げます※

原文:『戦国遺文 大内氏編 第3巻』575 182~183頁

初出:2020年4月1日 『周防山口館』陶家猛将伝・陶弘護