陶弘政創建の寺院で、南北朝時代から続く古刹。
有事の防御施設としての役割を担っていた中世寺院の特徴を今に伝える「土塁」が残る。
新南陽駅から歩いて五分。
しかしながら、なぜかカーナビで辿り着けず……。
周南は発展し続ける街だ。道路工事も盛ん。稀に分かりづらくなることもある。
そして……史跡は多分に埋もれやすい……。
土塁跡
中世寺院はある程度の防御機能をもっていたとされ、すわ騒乱発生となると寺に逃げ込むのはそのためだ。
大内義隆が守護館を捨てて、法泉寺→大寧寺と逃れて行ったのも、陶家の最後の城主・長房が城を出て龍文寺に籠ったのも、これらの寺院がそれなりに守るに固かったからであろう。逆に言うと、山口の守護館などは、まったくもって、守るに向いてはいなかったのである。
この寺院を建てたのは陶家の先祖。文字通り土塁を築いて防御を固めていた。この寺院は、その当時の「土塁」が遺されていて貴重。
ごらんのように、すぐ前に看板がたっている。こういう配慮がないと、ただの現代の盛り土なのか、南北朝時代の土塁なのか、素人には分かりづらい。
その意味で、ここはたいへんに親切な史跡である。
「土塁」とは何たるかをここで学んでから、ほかの城跡などに行くとよいのかもしれない。看板がしっかり立っているので、初心者でも見落としがない。
寺というよりも、この土塁のほうが有名。
その辺の事情は、龍豊寺と掛け軸の関係に同じく。
ここは、五郎の先祖・陶弘政が建てた寺院だ。この人、以前見た正護寺も建てていたね。
陶の家が分家したのは、その一代前の弘賢の時。弘政という人が重臣を務めたのは、大内弘世の治世下。
ちょうど、大内本家が名実ともに防長の主としての立場を確定していこうという時期でもあったし、時は南北朝の戦乱の最中。
中世寺院は防御施設的役割を備えたものであったという話をどこかでしたけど、このお寺もご多分に漏れず。さらに、当時のこの土塁が一部ではあるが、残されていることが貴重。
嘘です。ちゃんと書きました。
教訓状
なお、この寺院は、毛利元就氏とも縁がある。毛利家が防長経略によって周防長門の主となり、やがては故地の安芸を追い出されて長州藩になるわけだが、元就氏が有名な三本の矢の話をしたのはこの寺でのことだという言い伝えがある。
典拠は案内看板。陶家とは関係ない話になってしまうが、じつは元就氏以外の有名人の逸話も載っている。写真が小さくて読めない方のために、要点だけお伝えする。
一、毛利元就氏が一揆の鎮圧の際、当寺を本陣となさった。
有名な「三子宛教訓状」をお書きになったのは、この寺院内でのことである。
一、豊臣秀吉氏が九州に向かわれた時(討伐の際か?)ご宿泊なされたのは、当寺院である。
(陶鶴寿丸は毛利元就の親友だし、ここは別に反毛利ではないです。ただし、ミルはとても感情的な妖精で、更に、根に持つタイプなので、多くを書かせるのは危険です)。



本堂
この本堂じたいは、南北朝時代のものかどうか不明。
アピールがないので違うのだろう……。
勝栄寺の板碑
当寺院に関わる文化財は多数ある。
まずは、先ほどの「土塁」そして、寺院の境内が「山口県指定文化財」に指定されている。
さらに、境内板碑は「阿弥陀如来種子」であり、周南市指定文化財に指定されている。
いずれも、建造物なので、いつでもだれでも見に行くことが可能。
ただし、貴重な文化財ゆえ、意味もなく触ったりしないように。
偶然にも「板碑」が写真に納まっておりました……。