陶弘護

陶弘護

五郎の祖父にあたる。応仁の乱で主の政弘が国を留守にした際、東軍の陰謀を封じ込め、分国の平和を守った。摩利支天の加護を受けた勇猛果敢な名将。のちに、石見の吉見信頼によって謀殺された。その時、僅か二十八歳。長生きしていたら、歴史は変わっていたかも。

すえ ひろもり
鶴寿丸(幼名)→五郎、弘護
康正元(1455)年九月三日、山口の私邸に生まれる。
父:陶弘房
越前守、周防守護代、筑前守護代

陶弘護年譜

生来才知に優れた人であった。

応仁元(1467)年、父弘房は主君・政弘に従って上洛する際(応仁の乱)、鶴寿丸には、幼いながら家を継ぎ守っていく才能が備わっていることを見抜き、死後のことを託した。

この年、八月二十二日、龍文寺・器之為璠の弟子となり、法を受け継いだしるしとして、僧衣を受け取り、身につける。法名を孝勲、号を建忠と授かった。
文明元(1469)年、加冠し、主君・政弘より偏諱を与えられ弘護と名乗った(通称:五郎)。ついで越前守となる。

『陶弘護賛』には「文明二年春のこと。今八幡の神職(名前不明)が周防の国が危機であることを憂いて、祈りを捧げたところ、国家を擁護する神が人となって現れ、一つの掛け軸を差し出した。神は掛け軸を太守(政弘)に渡すように言い、自身は刀となって弘護の身について国を守ると言った。神職は刀を弘護に、掛け軸を京都の政弘のもとへ届けた。掛け軸には摩利支天の尊像が描かれていた。太守の伯父・道頓(教幸)は政弘の留守を狙って、国をかすめ取ろうと思っており……云々」とあり、思うにこれは、弘護が国内の人心を鎮めんがために、社司を騙らって行った計略であり、弘房が委託したこと、というのは、おそらくこのことであろう。

政弘の伯父・教幸入道南栄道頓は細川勝元に与して、赤開関にて兵を挙げ、あらゆる方法で弘護を味方に引き入れようとしたが、弘護は応じなかった。
十一月、道頓は、備後で勝元に合力するため、安芸国廿日市に兵を出し、十二月、自身も安芸に赴いた。

二十二日、弘護は道頓を玖珂郡鞍掛山にて迎撃し、道頓軍を大いに破った。道頓は僅かな兵と共に逃れて、石見に入り、吉見信頼をたよった。
二十八日、弘護は道頓の残党を江良城に攻め、政弘の母の命を奉じて乱れた国をしずめた。

道頓に与力する吉見信頼は、兵を阿武郡賀年に集め、西長門を攻めた。弘護はとりでを固めてこれを防いだので、道頓軍は自壊した。

文明三(1471)年正月、道頓は再び挙兵したが、弘護に撃破され、馬嶽にて自害した。

文明六(1474)年、功績により尾張権守となる。

文明七(1475)年冬、吉見信頼が阿武郡得佐城に攻め込んだので、弘護は出陣し、信頼を破ってその所領・吉賀長野の地を切り取った。

文明九(1477)年、主君・政弘が帰国すると、弘護は玖珂郡楊井津にて、これを迎え、富田の私宅でもてなした。政弘は弘護に「国が平穏無事であったのはそなたのおかげである」と言い、今後も、魚と水のような深い関係になろうと金蘭の交わりを誓い、兄弟の盟を結んだのであった。これより弘護は、夜は政弘の寝所に、昼は多くの人々が列席している間に侍って、面倒を見、終日倦むことがなかった。
文明十(1478)年、筑前守護代となる。

周防守護代になった年代については所見がないものの、思うに弘房の死後ほどなくであろう。『肖像賛』に筑前の事を司るとあるが、恐らくは周防守護代より筑前守護代に転任したのではなく、兼務したのであろう。秋穂八幡宮奉加帳に「筑前守」と付箋があり、筑前守に吹挙されたようであるが、ほかに所見はなく、肖像賛に前尾州太守とあることから考えれば、筑前守護代であるから、筑前守と書いたのであろうか。或は実際に、筑前守に吹挙されたものを、十一年に辞職して帰国した後、前受領名に戻したのか、なお考慮する必要があろう。

七月、主君・政弘が豊筑を攻撃する。弘護は先駆けとなって、少弐と戦い、九月二十五日、太宰府にて、大いに敵を打ち破った。少弐軍は散り散りとなり、豊筑は平定された。

十一(1479)年、筥崎宮の洪鐘を鋳造し、自らの功績を刻み付けると、守護代の職を辞して帰国した。

十三(1481)年、伊勢神宮に参詣する。

十四(1482)年春、石見の小笠原民部少輔元長が周防にやって来て、政弘に謁見した。弘護は、「武門にあれば、弓馬の芸を務めなければならない、武は弓矢を以て要とする。武家故実は小笠原を以て手本とするものである」と、元長について学び、弓術と馬術射御の奥義を究めたのだった。

五月、吉見信頼も来謁した。

二十八日、政弘は宴を設けて、諸将をもてなしたが、弘護はその席上に信頼を刺し、
自らもまた信頼に刺れて亡くなった。

享年二十八歳。

翌日、政弘は弘護の弟・右田弘詮に、「思いがけぬことで、本当に口惜しいことである。言葉が見付からない」との書状を与えた。世の人々は、その強く勇ましい人となりを慕い、その忠義に感動しない者はなかったという。法名:昌龍院。

昌龍院については不明であるが、考えてみるに、弘護の肖像が都濃郡大道理村龍豊寺に所蔵されていたことから、龍豊寺が、元・昌龍院であろう。妻益田氏が大永五年九月二十六日に逝去した際、夫の菩提寺に葬られ、法名が龍豊寺咲山妙断であったため、一寺二名の菩提所となったのが、遠きものは日々疎しの習で、昌龍院の名は自然に語られなくなったのではなかろうか、なお考慮する必要がある。

妻は益田越中守兼尭の娘。三男一女を生む。長男・武護が家督を継ぎ、中務少輔となる(鶴寿丸、三郎の名はあるものの、別に所見なし)。二男は夭折。三男・興房、娘は宗像大宮司氏定の妻となった。

参考文献・『大内氏実録』親族・陶弘護より

『絹本着色陶弘護像』および『陶弘護賛』

ここでは、陶弘護様について語る上で絶対に外せないアイテム『絹本着色陶弘護像』(けんぽんちゃくしょくすえひろもりぞう)と、『陶弘護肖像賛』についてご紹介するよ。

なお、「賛(画賛)」というのは、絵の中に書き込まれた文字のこと。賛文とも言って、特に肖像画に描かれた場合、その人物の事績、ことにそれを称賛する文章であることが多い。

ほかの人の肖像画および賛も、現代まで受け継がれた良品がいくつもあり、様々な博物館などで大切に保管されているよ。

勿論、称賛する内容だからと言って、ありもしないことを大げさに書き込んでいるとは限りません。ただ、自分で自分が制作した画像に称賛文を書くことが、いわゆる「自画自賛」です。

『絹本着色陶弘護像』というのはおじい様の三回忌に合わせて作られた肖像画(掛け軸)だよ。現物は龍豊寺にあったんだけど、今は「ここにあったんです」って看板しか残ってない。今は、周南市の美術博物館に移されて管理されてるよ。

 

国指定重要文化財(絵画) 絹本著色陶弘護像一幅
龍豐寺藏
昭和四十九年六月八日 龍豊寺に代々伝わる本図は、室町時代の中期、 大内氏の重臣として徳山・新南陽地域を領 した陶弘護[康正元年(一四五五年) ~ 文明十四年 (一四八二年)]の肖像画で、雪舟の筆といわれ ています。
絵の寸法は縦81.8cm 横39.2cm。総縦180cm に表装され、製作は弘護の三回忌にあたる文明 十六年(一四八四年)。 雪舟とも親交のあった 禅僧以参周省の著賛 あり、陶氏の起こりと弘護の事績等が記されて います。
折烏帽子に直垂を着し、向かってやや右方を 向いて端坐している弘護が描かれ、安定した構図、伸びやかな描線は天性俊邁といわれた弘護の剛気な人柄を巧みにとらえています。
室町時代の武将の肖像画として、また歴史資料としても意義の高い貴重な文化財です。(現周南市美術博物館寄託)
平成十五年 四月二十一日
周南市教育委員会
※龍豊寺説明板より

現物は、普段は見ることができないけど、美術博物館には、そのレプリカが常設されてるから、それでよければいつでも見れるよ。あ、もちろん、休館日には気を付けてね。

さらに、やや見にくい(暗く、小さいため)ものにはなるけど、美術博物館のホームページなどでも紹介されているから、web上で見ることも可能。周南まで来るのがたいへんな人は調べて見てね。

正直、昔の絵はインチキでありますね。ま。ああいうのが、当時的には、カッコいい絵なんですよね。飛鳥時代の美人画とかもそうだけど。こんなぷっくりしたおっさんが、二十八歳の若さで亡くなられた英姿颯爽なお方とはとても思えないよ。
ミルは面食いだから困るよ。大事な文化財に何文句つけてんのかな?

なお、この肖像画と同時に、ここに添えられた記述、つまり、惟参周省という人が書いた「賛」もまた、極めて貴重。

播磨定男先生の論文によれば、「良質なものの少ない陶氏関連史料の中にあって、識者が信頼できるものの第一に挙げる」ものとあったよ。

周省は山口の保壽寺梵頴凝鈍の鉗鎚を受けて師跡を継ぎ、岩国の永興寺住職なども務めた高僧である。 大内氏の信任帰依極めて篤く、主従との交流も頻繁であったことから、彼の記した「陶弘護肖像賛」は信憑性の高い同時代史料と言えるのである。
播磨定男『山口県の歴史と文化』4ページ

こんな超一級の史料を「識者」ではない、僕たちみたいな下々のものまでが、目にすることができるってある意味すごいね。
うう、字が小さすぎて読めないよ……
たしかに、ただのマニアでは、実際に肖像画から読み下すことはほ不可能だね。文字は小さいですし、手書きゆえ、活字になったものと違い、古文書読解能力が必要とされる。……って、君は五百年前の教養ある子どものはずでは……?

ええ、よって、『戦国遺文 大内氏編』をお読みになるのが良いです。そのまま載っています。

「肖像賛」抄訳をここに載せていましたが、正直、年譜と内容がそっくり同じ。
恐らくは、一級の史料として皆さんが用いておられるので、『実録』でもこれを参照なさったのでしょう。当然重複しますよね。
そこで、ページを改めました。サイト内重複ページになるかもですが。

それから……イマドキの用語に精通していない僕たちに正確な現代語訳は求めないでね。

 

陶弘護謀殺の嘘ホント

さて、五郎のおじいさまは強い、賢い、イケメンと三拍子そろったとんでもないお方であられましたが、え? イケメンかどうかはわからないではないか、ですと? いいんですよ。

ファンサイトである以上、浪漫は最大限追求しましょう。
二十八歳という若さで刺殺されてしまう、という悲劇的な死によってますますもって萌え萌え要素爆裂……。
……(軽蔑)

「山口事件」とは

具体的に、この刺殺事件(通称:山口事件)はどんなものであったかということですが、先に挙げた最も信頼できそうな『陶弘護肖像賛』では、さらりと流されており、当たり障りがないよう逃げているようですね……。

こちらの年譜でご紹介したように、主君・政弘様が設けた宴の席で、吉見が弘護様を刺し、その後、吉見は、内藤弘矩によって成敗されたのであります。播磨定男先生によれば、「通説」では、先に弘護様が吉見を刺し、その後、吉見も弘護様を刺した、となっていたようです。そして、上の、先に吉見が弘護様殺害におよび、その後内藤によって成敗された、というのは寺社日記『蔭涼軒日録』の長享三年(1489)正月三十日の条に書かれています(播磨定男『山口県の歴史と文化』6ページ)。

ただ……どちらが先かどうかは、置いておいたとしても、見方によっては、何ともアホな終わり方ともいえなくはないのであります。これほどの、武勇に優れたるお方が、いきなり、吉見だかなんだかわからん人物にやられちゃうとか、ありえんでしょう? てなことで、このお方の死に関しては、どうも闇に葬られた謎的なイメージが拭い去れません。

「謀殺」説

そんな弘護様の死について、実は主君・政弘様の陰謀だったのである、という恐ろしい説をぶち上げたのが、藤井崇先生であります。でもって、このお説が、ウィキペディアなんぞに書き加えられたものですから、もう、知らない人がいないくらい、というよりも、これが「事実」であるがごとくなってしまっておりますね。

しかし、藤井先生ご自身が仰っておられるとおり、これは「推測」「推理」であって、「史実」かどうかはわからないのですよ。おそらく、歴史学の先生方は、何らかのこれだと確定される「史料」が出て来ないうちは「真実」であるとはお認めにはなられませんので、現状は「推論」なのでしょう。

で、藤井先生によるとですね、政弘様は、弘護様の力が大きくなりすぎていたことを煙たいと思い、日頃から、犬猿の仲であった吉見信頼を焚き付けて殿中での刺殺、という恐ろしいことをやらせ、しかも、その殺人者吉見を殿中にて、同じく腹心の内藤弘矩に成敗させて口封じを行ってしまう、という念の入れよう。で、この仮説に基づけば、後に、内藤弘矩・弘和父子が義興様の代に造反した話までも、政弘様が自邸にて直接この内藤弘矩を刺殺して口封じしてしまったのだという……(藤井崇『大内義興』、『室町幕府大名権力論』など)。

いやはや……。もはや、歴史読み物というより、研究書であるご本がミステリー小説のようでして。ん? そうです、本サイト・伊東愛の創作は、すべて、先生のこのご説によっておりますが。

ただですね、ここで。藤井先生の大胆な仮説を置いておいて、普通に考えると、これは不幸な事故であり、運が悪かった。政弘様は心から悲しんでおられたし、それ以上でも以下でもない……と。

吉見家との対立

吉見という人(家)は、陶家からみたらとんでもないワルでして、ダニだかヒルだかわかりませんが、怨念数百年の犬猿の仲の連中ですわな。ですので、個人的な怨恨から、口論に至り、やがて刃傷沙汰に……てなことも、考えられなくはないのです。それこそ忠臣蔵の「松の廊下」ですわな(忠臣蔵よく知らんけど)。

で、このダニは、弘護様を死に至らしめたのみならず、後にその子孫が、隆房様とも揉めており、というよりも、この時の恨みが延々と続いていた、とも言えます。もはや、先祖代々「あいつらだけは許せん」の間柄だったんでしょう……。

※あくまで、「陶側の視点」からの記述ですので、関係者の方はお怒りをお鎮めください。我々如きに名門同士の仲違いなど無関係な次元です。
それでは、陶・吉見両名はなにゆえに、そこまで、仲が険悪化したのか、を考えてみようと思います。

まずですね、文献無視で我々マニアの間に流布する噂によれば、弘護様と吉見信頼の間には、以下の二つの恨み骨髄があったそうです。

一、領地関係の揉め事があった(陶家そのもの、および、婚姻関係にある益田家と吉見家間でも揉めていた)

二、大内道頓反乱の際に、(吉見が弘護様に)騙された、という恨みがあった

で、これまでいい加減でしたが、この話の出所について調べてみました(文献については、リライトするたびに増えていくと思います)。

まず、最初の領地問題から。これについては、地図を見てもなんとなくわかります。吉見の領地と陶家の領地は引っ付いています。そして、益田家と陶家、吉見家も引っ付いています。

当たり前だろう、馬鹿。と思う方は、こんなところをお読みになってはいないはずです。世の中、周防だ、長門だと言っても、読めないからかな振ってくれ、現在の何県なのか括弧書きしてくれないとどこだか分からない、という方が多いです。特に、何もかもネットで片付けようとしているような方々の間に顕著なのです。

これは、長いこと、中高生相手に駄文を書いていた経験から唯一得られた「世の中がわかった」と言える事象であります。さっぱりわからん、馬鹿野郎、という苦情が大量に押し寄せ、もはや織田信長以外のすべての人物にふりがなをふらなくてはならなくなりました。と、同時に、毛利元就に仮名がふってあるのは、読者を馬鹿にしているのか? という苦情も寄せられるようになりました……。もう、どちらにシフトすべきかわからないですよね……。

横道に逸れましたが、しげしげと地図を眺めますと、島根県益田市というのが、山口県に引っ付いていることを改めてひしひしと感じたわけです。まあ、隣の国なわけなんですが、本当に近いんですね。案外と、地図を見ずに生きていると、このような馬鹿らしいことに気付いていません。

同様に、吉見がいた津和野が、現在、山口県と言ったら萩・津和野なんていうほど、有名な観光スポットですから、当然、引っ付いております。

隣り合っている者どうし、境界線で揉めるのは、洋の東西を問わず、古来からそうでして。現在でも、隣の家との境界線が、実は両家を隔てるフェンスとは微妙にズレていた、なんてことで裁判沙汰になっております。

それで、当然、境を接している者どうしは、緊迫した関係となることが予想できます。無論、人間ですから、性格的に合う合わないということもございます。陶家と境を接していたのは、何も吉見家だけではないでしょう。しかし、ここでは、揉め事になってしまった。

播磨先生の上掲論文では、弘護様が吉見に刺殺された事件は「陶氏と吉見氏との長年に渡る所領争いが原因であった」としておられます(上掲書、6ページ)。

さて、この所領争いとは具体的になんぞや? と言いますと、陶家が本拠地を陶の地から、富田保に移した後、やがて勢力範囲が次第に広まるにつれ、つまり、周辺の土地を自分の支配下に入れて行くということですが、その過程において、吉見の領地である佐波郡得地付近で衝突したようですね(上掲書、7ページ)。

続いて、吉見家と益田家の領地争いですが、こちらについてですが、言うまでもなく、益田家は弘護様の舅筋。夫婦仲睦まじく、舅や義兄弟らとの仲も良好であれば、互いに肩を持つのは当然のことです。吉見と益田家の揉め事では、弘護様は、当然、吉見なんぞより、益田家を擁護します。

応仁の乱の際、弘護様は、益田家の援助を求めるために奔走しますが(そこまでしなくても、感情的には婿のために一肌脱いでくれそうですが、そこは色々の事情がございますのでね)、政弘様および分国を預かる弘護様らに味方してくれる見返りとして、益田・吉見両家の揉め事に対して、益田家側に全面的に協力する旨を約束しました(藤井崇『室町期大名権力論』282ページ)。

当然のことながら、当事者である吉見にとっては、何とも面白くない話です。

さらに、これまた応仁の乱に関してですが、弘護様は、元々は反乱者側の政弘様の伯父・教幸につく、と言っていました。これは、反乱者たちを騙して安心させるために敢えて嘘をついた、という弘護様流の「策」であり、戦闘が始まると翻って政弘様側として活躍したことは周知のとおりです。

ですが、この「策」を成功させるにあたって、弘護様は、敵側についていた吉見成頼(信頼の父)宛に、味方になりたいので、将軍その他へのとりなしをお願い~という書状を書いていました。それを信じてしまっていた吉見家は、その後の展開に驚きあきれ、「弘護の謀略の道具にされたという不快感が残ったのではなかろうか」と藤井先生は述べておられます(藤井崇『大内義興』27ページ。『室町期大名権力論』の中にも同様の記述あり)。

これらの、日頃から積もり積もっていた恨みが爆発した結果が、松の廊下ならぬ、大内氏館での刃傷沙汰におよんだものと思われます。むろん、ここは想像の域を出ませんが、個人的に虫が好かぬ相手であったのかもしれません。

さて、弘護様を失った政弘様は、深く悲しみ、弘護様の弟・弘詮様に、遺された幼子たちの後見を頼んだり、悲しみの思いをつづった書状を書いたりしておりますから、本心から、突然の出来事に呆然としていた、という風にとれますよね。

おそらく、政弘様陰謀説を唱えたのは藤井先生が初めなのではないだろうか。

たとえば、米原先生などは、弘護の死で、政弘は両翼をもがれたような思いであったのではなかろうか、と書いておられました(ここ、後で本を調べなければなりません。お待ちを)。

いずれにしても、弘護様がこの若さで、一国人風情に殺害されると言う大事件は、その後の大内家、そして、遺された三人のお子様方の運命を大きく変えることとなったのでした。

陶弘護と子ら(系図)

おじい様こそが、陶一門最強の人だった。なんで、聞いたこともないような弱っちな国人風情の騙し討ちなんかに遭ったんだろう……。
亡くなったおじい様そっくりの強い武将になったのが、将来の君だよ。国人風情の敵討ちはできなかったけど。僕がきっと、歴史を塗り替えてみせるよ。

 

『五郎とミルの部屋』的講評
統率:★5
武勇:★5
知略:★5
政治:★5
教養:★3
ルックス:英姿颯爽
性格:義理人情に厚いがやや自信過剰
総合評価:★5⁻
講評:いや、出来過ぎた人だ。主に嫉妬されるくらい出来過ぎた人。ただ、あまり「雅」なイメージがないのと、主が偉大過ぎて霞む。「俺に任せとけ」ってそこら中の女がメロメロになるだけでなく、「男が男に惚れてきた」っていう言葉で後ろに連なる人多数(誓ってそう言う意味ではないので、ご婦人方、勘違いなきよう)。

リニューアル前初出:2020年4月1日『周防山口館』陶家猛将伝 改編
「五郎とミルの部屋」転載日:2020年09月28日
更新日:現在の「投稿日」日時

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