山口県周南市の若山城跡とは?
大内氏の一門にして、重臣だった陶氏の拠点だった山城跡です。築城したのは、応仁文明の乱で分国の危機を救った英雄・陶弘護、築城時期は文明二年(1470)頃であるといわれています。しかし、名字の地「陶」からこの地に拠点を移した、二代目当主・弘政による築城とする説もあり、はっきりしません。世間一般の人にとっては、受験参考書などに「下克上」をして主の大内義隆を倒し、大内氏の実権を握った陶晴賢の居城だった、というイメージのほうが強いことでしょう。最近では、晴賢の行いは単なる主殺しの「下克上」などではなく、主家の将来を案じてのことであった、という説が優勢となっています。
「地元の英雄」としての晴賢を再評価しようという、地元の方々の篤い思いによって、たいへん整備が行き届いた観光資源となっています。城の頂上までは車道が開通しており、山登りは苦手だが山頂には行ってみたいという方への配慮も完璧です。
若山城跡・基本情報
名称 若山城
形態 連郭式城郭(中世山城)
標高(比高) 標高217メートル
面積
築城・着工開始 南北朝期説、応仁文明の乱期説がある
廃城年 文明二年(1470)頃?
築城者 陶弘護(陶弘政?)
廃城主 毛利氏
改修者 陶隆房
遺構 本丸、二の丸、三の丸、西の丸、蔵屋敷跡、階段状地形、空堀、堅堀
文化財指定 山口県史跡
(参照データ:現地案内看板ほか)
若山城跡・歴史
初代・弘政富田保に入る
陶一族が「名字の地」陶を離れてこの富田の地に移ってきたのは、二代・弘政の時です。時は南北朝期で、主の大内弘世が、鷲頭家と争ってこれを倒そうと考えていた頃にあたります。鷲頭への抑えのため、また、彼らとの合戦に際して活躍してもらうために、弘世が有能で信頼できる弘政をこの地に配置した、というのが研究者や地元郷土史の先生方のご意見です。
そうでなくとも全国的な戦乱の最中、新しい本拠地となったこの地に、防御にも勝れた拠点を築くことは急務と思われます。弘政は、現在も残る土塁で有名な勝栄寺(その当時は地元の豪族屋敷だった)に居住し、鷲頭への備えのために「とおの山城」を築いたといいます。鷲頭氏は現在の下松辺りを牙城とする勢力であり、それに対抗するためにはこの場所が相応しかったのでしょう。
地図を見ると、「とおの山城」が下松に近かったことがわかりますね。
七代・弘護、若山城を築く
そんなわけで、陶氏の富田保入部即若山城が拠点となったわけではありません。若山城の築城は、七代目当主・弘護の時という考えが一般的です。弘護は応仁文明の乱の頃の当主で、主の政弘が上洛して留守となった間、分国を守った英雄として有名な人です。主不在の時代は十年余も続き、細川勝元の遠隔地攪乱戦法により、政弘の伯父・教幸が分国で叛旗を翻したりしました。
家中を二分する内訌の危機から分国を救ったのは弘護でした。弘護の活躍によって大内氏の主権を政弘から奪い取ろうという教幸の企みは脆くも崩れ、九州に逃れて自害したとされています。この時、教幸を助けて弘護らと戦ったのが石見国人・吉見氏でした。若山城は、この吉見氏への備えとして築城された、というのが通説です。
合戦では吉見氏や教幸のような叛乱者に敗れたことがなかった弘護でしたが、のちに帰国した政弘に帰順した吉見信頼の騙し討ちにあって、宴会の席でいきなり刺殺されるという悲劇に見舞われます。その後を継いだ嫡男の武護はまだ幼く、弘護の弟・右田弘詮の後見を受けました。しかし、主の跡継を義興からその兄弟・大護院尊光にしようと目論む老臣たちの企みに巻き込まれるなど不幸な出来事が重なり、武護も、その弟の興明もともに亡くなってしまいます。
興房、隆房の家督相続
それゆえに、陶家の当主の地位は弘護の三男だった興房に引き継がれ、そして、その子・隆房へと相続されます。興房も、嫡男だった興昌を安芸国での合戦で亡くしています(合戦中に得た病がもとで亡くなりました)ので、本来でしたら、隆房は当主の弟という身分になるはずの人でした。若山城が築城されてからの陶家の歴史は、嫡男、嫡孫と順当に家督継承が行なわれないという異常事態が相継ぐという、まさに災難続きだったとも言えます。
順当にいけば就くはずのなかった当主の地位に就いた隆房でしたが、主の大内義隆は公家の宴会に現を抜かし、政務を疎かにしていました。時は戦国乱世です。富国強兵につとめず、無駄な宴会に興じていてはとうてい生き残れません。隆房は、当主としての務めをきちんとはたさない義隆を倒し、新たな主(義隆の甥・大友晴英を擁立)の下で新政権の樹立を目指しました。そんな彼が、義務教育の現場で主を倒してその地位に取って代わる「下克上」の例として取り上げられ、教科書や参考書にも太字や赤文字で名前が出てくる陶家一有名な人物となったことは、何とも皮肉な話です。また、厳島合戦で毛利元就に敗れたことも、毛利元就を名将として有名にし、いっぽう敗れた陶は「愚将」である、などという誤った「通説」の中に語られることになり、本当に気の毒な限りです。なお、これらの話題に取り上げられる際、隆房は政変後に改名した「晴賢」という名前のほうで呼ばれることが普通です。受験生が知っているのもそっちです。
若山城に関して言えば、大内義隆を倒すに辺り、その事前準備として若山城を大々的に補修工事したと言われています。それが事実なら、現在我々が発掘調査の結果などで知る若山城の姿は、隆房によって拡張されたものである、ということになります。
最後の当主・長房の死とその後の若山城
厳島合戦での敗戦、それに続く毛利家の防長経略などで大内家そのものが滅ぼされて歴史上から消えてしまいますが、隆房の忘れ形見・長房は父の死に動揺しつつも気丈にも若い身で陶家を支えて行こうと覚悟を決めていました。けれども、隆房を父の仇と恨む杉重輔らによって若山城を襲撃され、城を棄てて菩提寺の龍文寺に逃れます。なにゆえに、城を棄てて寺院に逃れるのか不可思議ですが、龍文寺は天然の要害のような地理的条件を備えていたこと、「味方」であるはずの杉氏が突然「敵として」襲撃してきたため、城の防御が間に合わなかったことなどがその理由でしょう。
城から逃れて、龍文寺に入った長房でしたが、杉らの追撃は激しく結局は菩提寺で亡くなります。陶氏の嫡流はここで絶えてしまいます。長房の遺児とも、隆房の末子とも言われている鶴寿丸という幼子がまだ残っていましたが、その子どもものちに大内義長が長府で自害した際に運命をともにしています。
若山城は主がいなくなった後、毛利元就が接収し城番を置きました。一度は陶家の遺臣という人たちが叛旗を翻したりしたようですが、それで何かを変えられるわけでもなく、すぐに鎮圧されます。防長の地をすべて手に入れた毛利家にとってはもはや不要のものですので、若山城は廃城とされその生命を終えました。
若山城・概観
大内氏歴代は城に入るということをしなかった方々で、ずっと優雅な守護屋敷で過ごしておられました。むろん、領国内に城はいくつもありましたが、それは家臣が詰めるものです。大内氏の勢力が、他の追随を許さないほどだったために、「敵に襲われる」ということがなく、城を造って防御するという概念がなかったんではないかとすら思います。
事実、隆房らの叛乱で義隆が守護館を追われた以外、外敵の侵入などいっさいありませんでしたので(のちの毛利家の侵攻を除く)、それでも何の不自由もなかったわけですね。最後の義長が慌てふためいて高嶺城を築城するも、完成を待たずして逃亡することになりましたが、そもそも最初から詰めの城くらい造って置いてしかるべきです。それに気付かぬ歴代当主が愚かだったのではなく、本当にそんなもの不要なほど勢力が安定していたのでしょう。
むろん、分国内要所要所には城を築き、万が一に備えていましたが、それらの城には家臣たちが入るのであって、歴代当主とは無縁のものです。そうした要所要所の城の中で、圧倒的に大規模かつ著名なのがこの若山城でしょう。けれども、そもそも、陶一族とて、常に城に詰めていたわけではなく、中世山城の特色として、平時は麓の屋敷に住み、万が一の際には楯籠もるというような場所でした。
若山城縄張り図
現地案内看板から「縄張り図」部分だけを抜き出したものです。山頂の本丸跡のほかに、「西の丸跡」「二の丸跡」「三の丸跡」「蔵屋敷跡」「畝状竪堀群」などを見ることができます。
若山城の地理的位置と防御
城が築かれている「若山」は福川と夜市にまたがっている、標高217メートルの山です。西側には、的場川(夜市川の支流)が流れ、上村盆地を経由して山口に続いています。城の大手口(正面)にあたるのは福川で、富田川、富田古市港、西側の富海港にも睨みをきかせていたと思われます。
発掘調査の結果、城には以下のような構造が認められています。
本丸周辺 削崖や階段状の平坦地、空堀
東側 畝状竪堀群
西側 直下に三段の削崖
南側 岩が露出した天然の要害
北側 畝状竪堀群
ことに北側の防御が強固だったと見られ、これはこの城が石見の吉見氏に対する備えのため、という目的で築かれたことに由来すると思われます。
城の現状
ほかの山城同様、防御施設などは専門家でもない限り、すべてを目視で確認できるものではありません。本丸は樹木が伐採されて、きちんと整備されていますが、それ以外の場所は樹木に覆われています。もちろん、地元の方々によって、日々整備活動が続けられておりますので、いつでもすっきりとした山頂を満喫することができます。
とはいえ、たいていの山城跡地に共通していますが、山道以外の樹木もすべて伐採するようなことは無理です。観光資源化するのに重要な主郭や、登山ルートの木々などは伐採せざるを得ませんが、それすらも並大抵なことではないのです。整備してくださっている地元の皆さまに感謝しつつ樹木に埋もれた廃墟の中から、かつての遺構を必死で探すよりほかありません。
若山城跡・みどころ
車道が整備されており、なんと本丸まで車で行けてしまうことから、あっけなくも物足りない感じです。そう思うなら歩いて登るべきですが、車道がついているのに歩くというのは、何事もメンドーなイマドキの民には難しい選択です。素直に車で行ってしまい、山頂からの絶景を楽しむのがいいと思います。
福川駅
JR 山陽線「福川駅」です。山口方面から来ると徳山よりちょい手前となります。なんと無人駅だったんですが、現在は自動改札機になっております。若山城跡を目指す人の起点となる重要な駅です。
登山道入口
登山道入口です。これを見て、ここが若山城跡だと気付かない人はおられないでしょう。こちらから入っていけば道に迷うことはないですね。
登山道入口でひときわ目を引く看板です。陶晴賢の生誕490年記念として立てられたもののようです。なお、『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』によりますと、この看板をはじめとして、登山道や山頂に数多くある流麗な文字の看板類はすべて、「陶の路を発展させる会」の方々がお書きになったものだそうです。
顕彰碑類
毛利元就さんの吉田郡山城跡とか、尼子経久さんの月山富田城跡とかご訪問した際にもこれほど多くの記念碑はお見かけしなかった気がします。地元の方々が、どれだけ陶晴賢に入れ上げているかがわかろうというものです(そういえば、お二人には銅像がありましたが、ここには唯一それだけはないですね)。
ちなみに「義をみてせざるは勇なきなり」というのは『陰徳太平記』の中にある言葉でして、毛利元就の吉田郡山城が尼子の大軍に囲まれてしまった時、このカッコいい台詞とともに、援軍をだすべきですーと意見したことを言っているようです。この右側にある看板に説明があります。
「陶晴賢公の武勇伝
守護大名・大内氏の筆頭重臣だった若山城主・「晴賢公」は、大内氏の傘下にあった安芸国の毛利元就が出雲国の尼子晴久に本拠地・吉田郡山を包囲され、絶体絶命の時「義をみてせざるは勇なきなり」と、「晴賢公」一万の援軍を率いて尼子軍を撤退させ、元就を救う(一五四〇年十二月)晴賢二〇歳 元就四十四歳」
(看板説明文)
こちらのど真ん中にある大きい石碑は吉田松陰の言葉となります。誰からも尊敬されている吉田松陰先生までもが、若山城について触れていることをアピールしておられます。
「福川に若山あり、陶 晴賢の拠りし所と云う
山址連続す けだし大兵を擁するに非ずんば
以て 守りを為し難し
一八五一年三月七日 吉田松陰の東遊日記」
(石碑説明文)
ついでに、松陰先生碑の右隣にもスゴいことが書いてあります。
「陶晴賢公賛歌
西国無双の侍大将
智も勇も
人を越えたり
陰徳太平記」
(石碑説明文)
『陰徳太平記』はけっして陶隆房を礼賛した書物ではないですし、よく見ると、吉田松陰、毛利元就、尼子晴久と呼び捨てなのに、晴賢「公」と。コレ、例えば、毛利元就さん贔屓の方が、戦績跡の一つとしてご訪問なさった場合、ブチ切れてしまうかもしれないです(自分が元就さん贔屓だったとすればそうなります)。
地元の方々はどんだけ陶晴賢(平然と呼び捨てしてすみません)を愛しておられるのでしょうか。ここまで大切にしてもらえたら、晴賢氏も本望でしょう。
なごみ地蔵
大量の顕彰碑に混じって、お地蔵様がおられました。「なごみ地蔵」さまとお呼びし、これから若山城跡を登山に向かおうとする人たちの安全を守ってくださっておられます。
年表看板
登山道入口にあった略年表看板です。これを見て驚いたのは、陶氏が滅び、城も廃城となって久しい、現代の記事が大量に書かれていることです。普通、この類の看板はその一族の滅亡とか、城が使われなくなったところで終わっています。その後のことは、何年何月に文化財指定された、のようにさらっと書いてある程度です。
これは、文字通り「陶の道を発展させる会」の歴史であり、地元の方々が若山城跡を現在のようなかたちに整備し、我々観光客が楽しめる場所となるよう、努力を重ねてこられた道程を学べる稀有なものです。たの観光資源もかくあるべしと思いますが、通りすがりの観光客というよりは、地元の将来を担っていく若い世代、子どもたちなどが学ぶべき分野ですね。
幟旗
最近、このような幟旗が流行しているのでしょうか。吉田郡山にも月山富田にも幟旗はありました。数年前に訪れた際にはここにはなかったと記憶していますが、ついに、幟旗まで誕生してしまったのですね。地元の方々の「陶晴賢愛」には、本当に驚かされます。
コチラは登山道(車道)にあった幟旗です。数的には月山富田に負けてますが、あれは単なる装飾的要素が強いもの(郭に尼子氏の家紋が入った幟旗がズラッと並んでいて、数えきれません。中世当時の再現かと思います。むろん、尼子氏を愛する地元の方々がお作りになった、若山城同様の崇敬用幟旗もあります)。吉田郡山のものは、同じく毛利元就さんへの崇敬の念に溢れたものですが、これほど数たくさんあったかな? 当然ですが、すべての幟旗をここにご紹介しているわけではありません。ほかにもまだまだあるのです。
「林道若山線」
「林道」って山道のことではありません。最初「終点」のほうの標識を見付けたため、歩いてきた人はここが終点って目印か、と思いましたが、さにあらずです。山を管理するために造られた車道のことを林道というのです。つまりは、若山城跡頂上を目指す観光客の人たちが車で行く道が、この「林道若山線」となります。
つまりはこの車道ということになります。
林道が終点となる地点の標識です。ということは、この先は徒歩で、ということになります。
二の丸
現在地をご確認ください。コチラ、「二の丸跡」となります。
二の丸跡には、つぎのような看板がありました。「ようこそ若山城へ」。前述の通り、「陶の道を発展させる会」の会長さんが手作りで設置してくださったものと思われますが、拝見していてなんともほっこりと暖かい気分になります。お人柄と若山城への深い愛情が伝わってきますね。
二の丸跡からの展望
山頂(本丸)ではないですが、二の丸跡からの展望も素晴らしいです。それを証拠に、どんな景色が見えていますよ、という説明プレートもありました。
本丸跡入口への道
本丸・西の丸・蔵屋敷入口
この先に、本丸跡、西の丸跡、蔵屋敷跡などがあるということになります。注意事項として、「林道若山線」で来た人たちは普通に先をめざしますので、ここより手前にある二の丸と三の丸を見落としてしまうことです。じつは、二の丸は現在駐車場となっているところですので、皆さま目にしておられるわけなんですけど、「駐車場だ-」と車を置いて先に進んでしまいますと、記念撮影などはしなかった、ということになります。
エラそうに書いていますが、じつはまったく同じことになっております。二の丸は駐車場がそのものズバリ二の丸ですし、展望プレートや案内看板などもありますので(看板に『現在地』として二の丸が示されているので、そこにいることは間違いないです)、いちおう通ってはいるわけですが、案内版を見れば分る通り、「現在地」はそのほんの先端部分です。ほとんどの面積が駐車場と化してしまっている可能性もありますが、三の丸の件とあわせて、本丸とは反対方向に進んでみることを忘れないように、お気を付けくださいませ。
本丸跡への道
本丸跡
史跡指定を受けている城跡の山頂にはこのように自治体さまが設置した看板がございます。どこにでもあるものかと思っていましたが、史跡指定されていない山城にはないんです……。ここは車ですいっと来られるので何の感慨もないですが、ヘトヘトになるまで歩いて山頂に何もないと、その場で卒倒してしまいます。史跡指定されていてよかった。
本丸跡はこのように、きちんと整備されています。この写真からはわかりにくいですが、かなり広大な場所です。以下の写真は、削平地が見えていることから本丸の周辺部だと思われますが、境目がわからないので、何とも言えず、次回確認したいと思います。
基本的に「本丸跡」は綺麗に整備された部分となります。
本丸跡周辺
縄張り図を見ると、本丸の手前には何段もの段差があり、右手方向を見下ろせば畝状竪堀群が大量にあるはずです。ですけど、樹木に覆われてしまい、竪堀は埋もれてしまっています。段差もよくわかりません。郷土史の先生からあれがそうです、とご教授いただき、その場でははぁ、なるほど……というような感じがしなくもないんですが、帰宅するとさっぱりわからなくなっています。
先生曰く、そうした遺構は写真撮影をしたものを見てもわからないのが普通みたいです。よほど撮影技術が高く、かつ、城跡史跡研究者の方でないと写真に収めて持ち帰ろうなどと考えるのは無理なのかもしれません。まれに、すべての木々を伐採し、素人にもわかりやすい状態にしてくださっているケースもありますが、それはその山城跡をその自治体の主要観光資源として売り出す必要がある場所だけです(全国各地から山ほど観光客が訪れる、よほど重要な山城跡だったりする場合ですね。若山城跡にその価値がないと見なされている、という意味ではなく、周南市にはほかにも大量に観光資源がございますので、ここだけに一極集中する余裕はないと思います。それはほかのどの自治体さまでも同じです。スッキリと伐採管理されている城跡のほうが稀有な例です)。
というようなわけなので、これが削壁とか、これが竪堀とかご案内できないのですが、先生がこれですと仰り、それゆえにシャッターを切ったはずの場所を載せます。
要は木に埋もれてしまっていますが、これらの崖(?)はずっと下まで続いていて、そこには竪堀になっているところも大量にあるということをお伝えしたいのですが、ホント埋もれてしまっていてこんな写真からはわからないです……。どうすりゃいいんだろうね。(よく見たらココ、「若山城は宝物」看板のある木のところでした……)。
本丸跡石碑
山城跡頂上石碑も史跡指定されていない場所にはないことも多いですが、こちらはこんなに立派なものがございました。もちろん、若山城跡は県指定史跡ですが、おそらくこれは、地元の方々の「若山城愛」からこのようにスゴい城跡石碑になったものと想像します。
石鎚神社
城の頂上に神社がある! と、初回訪問時に驚いたのですが、コレ、全然珍しくないことでした。「武田神社」とか「尼子神社」とか普通にあるもんね。ですけど、あとから城主を神格化して、後世の方が建てたものなのか、最初からあったものなのか、という区別は大事です。月山富田城の山頂にも神社がありましたが、それは尼子神社とは別で、もともと城内にあった由緒ある神社でした。
コチラの石鎚神社は神社というより、小祠みたいですが、付近に解説文などはなかったのでいつ頃から鎮座しているものなのかはわかりませんでした。ですけど、こんなに大きな鳥居がありました。
本丸からの眺望
山頂からの眺めは素晴らしいものでした。眼下の町並みも見渡せると同時に、遠くに海も見えます。天気のよい日には遠く九州まで望めるのだとか。じつはこの日も、九州まで見えていたのですが、さすがに遠いですので、見えるといっても蜃気楼みたいな感じです。肉眼では辛うじて見えても、写真には写らないですね……。
附・若山城御城印
若山城の「御城印」です。御朱印などを集める趣味がまったくないため(本当は集めたくて仕方ないのですが、それやり始めたら多分破産するので。だって、全国各地は無理でも、山口県すべてのものが欲しくなるに違いないから)、通常は御城印も同じく入手しないことにしています。でもやっぱり、若山城のだけは欲しいよね、ということで購入しました。
御城印は新南陽駅からほど近い商工会議所さまで入手可能です。また、観光協会さまでもお取り扱いがありました(202212時点)。若山城の御城印には期間限定特別バージョンなども存在します。本来ですと、お城の名前と家紋、城主さまのお名前だけが記されたものとなります。
御城印をインターネットという場所に公開してよいものかどうか、とても悩んだのですが、チラ見したら御朱印とかスゴいことになってますよね……。皆さん、寺社さまに参詣した記念(というか確かに行ってきたという『証』?)として、山とアップされておられます。問題はその画像を再配布したり、まがいものを作って販売したりすることだと思われるので、敢えてぼかし、キャラ画像を入れてそういう悪い方たちから、こんなダサいの使えねーじゃん、と思われるようにしました。実物はもっと素晴らしいので、皆さまだけの一枚をぜひとも手に入れてくださいませ。
若山城(山口県周南市)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 山口県周南市福川
※Googlemap に載っている住所です
アクセス
自治体さま公式アナウンスによりますと、最寄り駅は「福川駅」、登山口までは徒歩 20 分です。じつは、常にタクシーなどの車に頼ってしまうため、歩いて行く行き方をお伝えできないのですが、地図を見ても道じたいは複雑ではありませんし、ナビゲーション起動で問題ないと思います。
本来ですと、登山の前には体力を温存しておくべきなので、20 分も歩くのはやめたほうがよく、レンタカーもしくはタクシーをオススメしていますが、この城跡の場合、山頂まで車で行けてしまうので、体力温存の必要はない、ということになります。でも……登山口まで歩いてそこから車というのも妙な話ですし、どうせなら全行程車となってしまうのではないかな、と思います。ちなみに、登山口案内看板によりますと、歩いた場合、「30分」かかる、となっています。
車を使った場合ですが、登山道入口まで5分、山頂までも5分とのことです(自治体アナウンス)。
まだ調べがついていないのが、歩いて行く場合、それ用の山道などがあるのかどうかです。わかり次第ご案内します。なぜかなら、車道を歩いたところで何もないわけなので、そうならば歩いて行く意味はまったくないからです。ただし、本文中でもご案内したとおり、二の丸と三の丸は駐車場より手前にありますので、見落としには注意が必要です。
また、202003 に初めて登頂した際には、旅行会社の社員さんもタクシーの運転手さん(地元の方ではない)もこの城の存在(タクシーの運転手さんのほうは『登山口への行き方』)をご存じありませんでした。旅行会社では、そもそも無人駅なのでタクシーの手配は難しいし、レンタカーを置くスペースもないかもしれないので、徳山などの大きな駅でタクシーを拾って云々と言われました。悲しいことに、全国区的に見てその程度の認知度なので、遠くから行かれる方は念のため、事前に観光協会の方にお問い合わせをしておくのがいいと思います。タクシーが駅前で拾えるかどうかについては未確認なので、やや自信がないです(徳山から山口のタクシー会社さまのタクシー使ってましたので。汗)。
20231001 追記:観光協会さまにお問い合わせをして確認をしたところ、どうやら登山道入口まで徒歩で向かうことは、非推奨のご様子でした。また、登山についても、やはり車道をそのまま車に乗らずに歩くことになるだけのようでして。観光客が観光目的で楽しめるよう車道をつけてくださったくらいなので、山道をよじ登るためというよりは、見るための城跡、完全なる観光資源です。この辺り、駅から 20 分という登山口まで歩いた場合の時間をどう感じるか、にも大きく左右されますが、どうせ登山道まで車で行くのならば、駅から山頂まで全行程を乗せていただいたほうがよろしいかと。
鎖にぶら下がりながら登っていくような恐怖を味わうことなく、安全に頂上に着けるのは、素晴らしいことですが、山城マニアでもないくせに、しかし、登ってみたいという中途半端な観光客には物足りない点ともなり得ます(山城マニアの方ならば、登山道までも自家用車やバイクを使うなど、全国制覇用に装備万全です。でも、この城跡の場合、それらの方々も上まで車でという行き方を選択なさるのでしょうか。ちょっとお伺いしてみたくなりました)。いっぽう、有難くも楽々頂上に着いた後は、多くの遺構がお出迎えとなります。そこらは、マニアの方以外は見てもわかりませんから、ガイドさんに解説をお願いしたい、と考えたりします。ところが……。基本、ガイドさん方とは、現地集合となることが多い(現地にお住まいのガイドさんは自家用車でおいでになるのでしょう)ため、駅からご一緒に歩いてくださるとかはありません。集合も解散も現地となる模様です。要相談とはなると思いますが。
他所のことをいえない田舎町にいるので、通勤駅へ向かう以外の公共交通機関はどんどん減らされていることはいずこも同じです。最寄り駅前にバス乗り場があり、城跡前バス停なるものがある、そんな山城のほうが少ないのが現状。山城のみならず、菩提寺などに行くのもたいへんですから、なかなかに聖地巡礼者には辛い元陶のくに関連遺跡の数々であることを、思い知らされました。てか、車の免許持ってないのって、イマドキ生きた化石って言われて久しい。だって、車は常に助手席の女になればいいだけじゃん(嘘です)。
参照文献:『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』、自治体さまHP、自治体さま発行郷土史
※すでに覚えてしまっているので、そうなるまでに使った文献は数え切れないため、すぐには処理しきれません。すみません。
若山城(山口県周南市)について:まとめ & 感想
若山城(山口県周南市)・まとめ
- 大内氏の本家から分家した一門で、代々重臣を務めた陶氏の拠点だった山城
- 七代当主・弘護が石見の吉見氏に備えて築城したとされる。しかし、初めて富田保に入部した二代・弘政が築いたとする説もあり、正確なところはわからない
- 世間一般には、主君の大内義隆を倒した「逆臣」、厳島合戦で敗北した「愚将」陶晴賢の城として有名だが、晴賢という人に対する評価はそんな単純なものではないし、そもそも、ここは「陶氏の拠点」であって、「晴賢だけの城」ではない
- 地元の方の陶晴賢への評価は上記「3」とはまるで違うものであり、むしろ愚かな主君のために崩壊寸前であった主家・大内氏を救おうとした人物、ということらしい。この高評価ゆえにか、若山城登山道入口は、晴賢を賛美する顕彰碑で溢れている
- 厳島合戦で晴賢が敗れた後、嫡子の長房は晴賢を父の仇と逆恨みしていた杉重輔らに急襲されて城を脱出。菩提寺龍文寺に逃れたが、防ぎきれずに亡くなった
- 主のいなくなった若山城は、防長に侵攻した毛利家によって接収され、城番が置かれるなどしていたが、彼らの防長経略が終わると、必要のないものとして廃城とされた
- 地元では知らない人などいない若山城だが、いきなり東京の旅行会社などで「行きたい」と言っても、「それって、和歌山県にあるってことでしょうか?」となるのが悲しい現実なので、周南市の観光協会さまに問い合わせをし、自ら事前にリサーチをした上で旅行会社に行く必要があると思われる
とにかくあらゆる意味でスゴい城跡です。といっても、全国すべての城跡巡りなんてしていませんし、だいたい、する気もないですが。何しろ、城跡には興味ないので。所謂城跡マニアではけっしてないです。城跡に行く理由は、そこにまつわる人物や歴史に関心があるからであり、興味のない人物の城跡などには生涯いくことはないと思います。
で、ここへ来ているのは、それが陶さまゆかりの城跡だからなんですが……。正直、かなりの衝撃を受けました。地元の方々の陶晴賢愛の深さには脱帽ですが、正直あまりの愛情の深さに、ついていくことができませんでした。武田信玄とか上杉謙信とか、神社になってる大人気の戦国武将とか1ミリも興味ないので、そのような方々のところをご訪問したら、こんなものではないかもしれません。己が行った中では、最も人気があり尊敬されていて、地元自治体も力を入れてアピールしているのは、毛利元就さんと吉田郡山城だと思っていました。むろん、吉田郡山では毛利元就さんへの、月山富田城では尼子氏や山中鹿之助さんなどへの、地元の方々の深い愛情を感じました。
でも、どちらもココほどすごくはなかったですよ! (一瞬、日本全国で一番人気ある武将って陶晴賢なのかと錯覚した)
まあ、城跡に対する興味って、
一、城跡巡り(という行為)そのものが好きなので、そこに関連する人物や歴史はそこそこわかればいい、って人
二、人物と歴史に関心があるので関連箇所として城跡も回っている人
とで、感じ方などもそれぞれまったく違うと思うのですよね。なので、前者ならば、入口の顕彰碑はテキトーに眺めて記念撮影で終わりでしょうし、後者ならば感激の嵐となると思います。
だけど、城主さま(陶弘護)が好きでここへ来ている私みたいな人間はどうすればいいのでしょうか? 登山道入口のあれこれは、陶弘護って誰? ってくらい関心なさげで、いや、陶晴賢をそれほど愛しておられるのなら、芋蔓式に、お父上やお祖父上にも関心いかないですか? ってものすごく当惑しました。はっきり言って、完全に無視されていますよね。申し訳な程度に築城者として名前載っているだけだし。
お城の歴史というより、陶晴賢への愛が深すぎる地元の方々(地元の方々全員ではなく、文字通り陶晴賢が好きな地元の方々という意味です。ほかの地元出身者が好きな方だっておられるだろうし、そもそも他県の人物に関心をお持ちの方とて普通にありでしょう)によって整備されたのだな、と感じました。だけど、御城印を頂戴した時、そこには陶晴賢の名はなくて、ちゃんと「弘護」とあったので、涙が出そうになりましたよ。陶晴賢は埋もれた英雄でもなんでもなく、普通に義務教育の教科書にも載っています。真の意味で埋もれているのは城主さまです。ほかの歴代だってそうでしょう。その意味では、地元の方々の深い愛情には崇敬の念を禁じ得ないものの、それでも完璧に掬い上げてくださるのは難しいのだな、と感じた次第です。
また、山城登頂は滑落死の危険性と隣り合わせみたいになりながら、汗だくになって登るのが生きててよかった、って思える瞬間です。富士山の五合目まで道路がついていると知った幼い頃、あんな綺麗な富士山に、道路をつけるなんて! ってちょっとショックでした。道路なかったら山頂の気象観測の方々などが、どんだけたいへんなことになるかなどには思い至らなかったし、富士山というのは遠くから眺める美しいもの、という認識だったので(遠くからも五合目までの道路が見えて、景観を損なうはずないのにね)。
やはり幼き頃、宅地化で昔懐かしい名もなき山が崩されてマンション建ったりするのを見るとき、お山が傷つけられた……ってよく泣いてました。山道がなくなって、車も通れる舗装道路ができることに対してもそうでした。便利になるということは素晴らしいことなんですが、自然に手を加えることで、元々の姿を壊してしまう、ということでもあります。便利さと自然景観の変容と、どちらを優先すべきか、といえば前者なんだと思います。宮島でも舗装道路がついていると、おおお、ここならば迷子にならなくてすむ、と目茶苦茶ラッキーな気分になりますし、まんま山道のところは本当になんども遭難しかけましたので、舗装路がついてるということはどれだけありがたいことか。でも、なおも思うんですよね。舗装道路のせいで、山は壊されちゃったんだ、って。感謝しつつも、山は気の毒だな、って。
その意味で、林道若山線の存在に対して、複雑な思いが交錯しています。ここは車で一瞬。何度も来るところではないな、というのが素直な感想です。でも、二の丸と三の丸、蔵屋敷と西の丸と、あまりにも見落としが多すぎます。タクシー利用で一時に大量の観光地を回ったことが災いしてはいるのですが、山頂まで車で楽チンだと、なんかそれだけですべて完結したみたいになってしまうんですよね。今度は歩いてこよう、そう思いつつ果たせない。つぎはガイドさん協会にお問い合わせしてみようかな……。
こんな方におすすめ
- 城跡巡りが好きな人
- 城跡巡りは好きだけど、近世ゴージャス天守閣の城じゃないと嫌だ。山城は歩くのがたいへん(車で行けてしまうので、一度おためしくださいませ)
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
なんで家潰した陶入道が英雄になってんの? 俺が言ってるのはもちろん陶の家のほう。あんなトロい殿様はどーでもいい。あと、道路がつくと、山が壊されるってどういう意味? 俺の先祖の城も壊されちゃったの?
最初に。道路をつけてくださったのは、観光客の皆さんへのご配慮のためです。おかげで楽チンに登れるのですから、壊したとか言ったらダメです。それから、「陶入道」でもなんでもいいから、身内から「英雄」が出たことを喜びなさい。
……(父上、私は毛利家に仕官して子孫を守りました。彼ら(↑)のことはけっして好きになれませんが、家が滅んでしまったことは気の毒に思います)。
※この記事は20230719に改訂されました。なおもリライト中です。