厳島神社ゆかりの建築物をご紹介しておりますが、本日は「厳島神社宝蔵」のご案内です。名前の通り、宝物を納めていた倉庫です。一般の寺社にはさまざまな名前で、貴重品を納める場所が必ず附随しております。厳島神社でも、長いことこの建物に宝物を納めて管理していたわけです。現在は宝物殿がその役割を果たしておりますので、こちらは過去の遺産となります。しかし、重要文化財指定を受けた貴重な建物です。案外と、脇を通っていても見落としている方が多いと思われますが、これを機会に宮島での思いでの場所をひとつ増やしてしまいましょう。(訪問回数3回)
広島県廿日市市宮島町の厳島神社宝蔵とは?
かつて厳島神社の宝物を納めていた倉庫です。現在は使われていません。創建は平清盛たちが現在の本社を再建した頃に遡ります。その後幾度もの再建を繰り返したはずで、現在の建物は室町時代初期のものであると考えられています。むろん、その後も増改築は行なわれ、江戸時代には拝見所という付属建物を作って宝物を一般公開していました。昭和期の解体修復工事にあたり、拝見所は撤去され、現在はなくなっています。
貴重な宝物を守るため、校倉造りの高床式という建築様式が取られています。その歴史的意義などから、重要文化財指定を受けています。
厳島神社宝蔵・基本情報
所在地 廿日市市宮島町
(参照:Googlemap に記載がありません)
厳島神社の宝物を納めていた倉庫で、現在の宝物殿の前身ともいうべき建物
厳島神社宝蔵・歴史と概観
なんと、Googlemap に記載なし
以前、「厳島神社 ○○ となっている建築物」として項目を立てていた際には、宝蔵が載っていたものと思われますが、20250202 現在、地図上に「存在しません」。ユーザーの協力によって作成されている地図である、という性格上、どなたも情報をアップしない状況が続いたために削除されたのでしょうか。
これつまり、どなたも見落としている可能性が非常に高い、ということになります。極めて貴重な建築物である上、厳島神社よりほど近い場所にございますので、見落としがないようにお願いします。
気を付けて確認していないと、そのうちまた掲載されたりしますから、ココ間違ったことを書いているよ、とならぬように、日々の確認を怠らないと(面倒です……)。
名前の通り厳島神社の宝物を納めていた宝物庫
現在「厳島神社宝物館」に納められている貴重な文化財(平安時代の『平家納経』、『古神宝類』、鎌倉時代の甲冑や太刀、江戸時代の絵馬などなど)は、宝物館ができるまではコチラで保管されておりました。それゆえに、建物はとても古く、これじたいが国指定の重要文化財となっています。つまり、現在は宝物庫としての役割を終え、長い歴史をもつ建物として大切にされています。
創建年代ですが、仁安三年 (1168)の「造営記録」にその名前が出ていることから、この時点ですでに存在していた確認が取れております(参照:『宮島本』)。その頃から伝えられている宝物は、じゃんじゃんこの宝蔵に納められていたというわけです。とはいえ、当然のごとく、現在の建物は仁安年間そのままではなく、何度も修繕を繰り返されております。
建長二年 (1250) 、なんと、宝蔵に泥棒が入りました。「床を焼いて」(『宮島本』)侵入するという神をも畏れぬ手口でして、宝蔵の床をダメにしてしまった上、宝物も奪われてしまいました。具体的に何が盗み出されたのかは、わかりませんが、『平家納経』とか持ち去らなくて幸いでした。当時的には盗んでもお金にならないか、文化財の価値がわからない連中だったのかも。泥棒被害に遭った宝蔵がきちんと修繕されたことはいうまでもありません。
現在の建物は基本、室町時代初期のものとなります。けれども、これもびっくりですが、江戸時代には「拝見所」というものを取り付けて、一般参詣者に宝物を公開していました。ほかの神社さまの事情がよくわからないので、何ともいえませんが、社宝の一般公開なんてことが江戸時代から行なわれていたなんて……。この「拝見所」は昭和二十七年 (1952) の解体修理にあたって撤去され、現在は創建された時のままの姿に戻されています。
校倉造り
この宝蔵には、「校倉造り」という建築様式が用いられています。受験参考書に必ず出ている正倉院のアレです。ついでに校倉造りって何なのか具体的に書いてくれてあればいいのに、書いてなかった……。要するに高温多湿の日本において、大切なものを保管するのに適した建築様式で、何やら弥生時代を思い出しますが、いわゆる「高床式倉庫」みたいなものです。
校倉造りとは、校木とよばれる三角材を井桁に組んで積み重ね(井楼組)、これを四方の壁体として、その上に屋根をのせた高床式の倉庫である。
出典:山川出版社『図説 歴史散歩事典』138ページ
説明見ても、よくわかりませでした。ちなみに「校木」は「あぜき」と読むので、「あぜくらづくり」という呼び名はそんなところから来ているのでしょう(多分)。
厳島神社宝蔵・みどころ
現在は中に宝物があるわけではないですので、建物自体がみどころです。しかし、残念ながらその存在をまったくアピールしておられないため、見落としている方だらけです。
宝蔵
ご覧の通り、いかにも奥ゆかしい建物です。
外から拝見した図
このように、周辺には樹木が多いため、埋もれてしまう可能性も高いです。ご訪問時期にもよりますが、そもそも内部に入ることができないため、記念写真撮影大好きな観光客からすると被写体になりにくい建物です。
厳島神社宝蔵(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 廿日市市宮島町(所番地不明)
※Googlemap に『宝蔵』が載っておりませんため、付近の御綾橋 MAP を掲載しております。
アクセス
厳島神社の社務所前の道を右折して、御綾橋を渡って右手にあります。MAP の中で、橋がある道路を含め、道路で囲まれた中にある小さな建物がそれです。
参考文献:『宮島本』、『新版図説歴史散歩事典』
厳島神社宝蔵(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想
厳島神社宝蔵(廿日市市宮島町)・まとめ
- 厳島神社のかつての宝物庫。現在は使われていない
- 仁安三年 (1168)の「造営記録」に名前が現われていることから、起源はこの頃と推定される。しかし、何度も修築が行なわれ、現在の建物は室町時代初期のものと考えられている
- 建長二年 (1250)、宝蔵に泥棒が入ったという記録が残っている(参照:『宮島本』)。宝蔵の床を焼いて侵入するという手口だったという
- 江戸時代には、「拝見所」を設け、一般の参詣者に宝物が公開されていたという。「拝見所」は昭和二十七年(1952)の解体修理の際に取り壊され、現在はより古い時代の姿に近いものとなっている
- 建築様式は校倉造りが用いられ、貴重な宝物を保管するための配慮がなされていた
- 宝蔵に収められていた宝物は、現在は宝物殿に移され、宝物の一部が一般公開されている。
- 役目を終えた宝蔵だが、建物自体に歴史があり、貴重であることから、国指定重要文化財として大切にされている
宝蔵の脇を通り過ぎている方はかなりの数おられると思います。けれども、一つには中に入ることはできないこと、もう一つは周囲に樹木があって埋もれてしまう時期もあることなどから、貴重な建物であることに気付きにくいです。執筆者は訪問二回目にして、地元のガイドさんからご説明を受けたのでその存在を知りました。
正直なところ、外から建物の外観を見ることができるだけですので、ほかにも見るべきところが目白押しである宮島においては、忘れ去られていても仕方ない部分があります。宝物殿は立派な建物があり、宝物の見学はそちらで行なわれておりますし。コレ何? と思う方も少ないかと。知人・友人のご案内をしていても、「ふうん」という反応にしかなりません。多宝塔や五重塔に比べて見た目も地味ですし。
しかし、『宮島本』にある泥棒の逸話や、江戸時代にも宝物を公開していたことなど、その歴史にはなかなかに興味深いものがあります。現在急ピッチで新しい案内看板の設置などが進んでいる宮島ですので、現在は立派なご案内が完成しているかもしれません。
こんな方におすすめ
- 厳島神社ゆかりの建物はすべて見てみたい方
- 歴史ある建造物に関心がある方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
確かにここは通過するだけの場所だねぇ。でも、よく分からずに写真撮っている人はいるんじゃないかな?
いや、それはね、君。Googlemap に記載がないという点が大きいと思うよ。なんで消えたのだろうか……。載っていないとナビゲーション起動しても辿り着けませんからね。
この記事のおかげで見学の人が増えるほどの影響力は 1 ミリもないからなぁ。
……。
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みやじま・えりゅしおん
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