
今回は歴代当主の中で、最も偉大なお方についてご紹介します。応仁の乱で、主不在の分国を守った英雄として、今に至るまでその功績が語り継がれている「陶の城」城主・弘護さまです。主君・政弘の留守に、当主の地位を簒奪しようとしたその伯父・教幸の陰謀を鮮やかな手並みで粉砕しました。京都で戦死した父・弘房の後を継いだばかり。漸く政務に参画できるようになった十六歳という年頃(当時は数え年なので実年齢は、十五歳でしょう)。イマドキの感覚ですと、中学生か高校生くらいの青少年です。その傑物ぶりが想像できようというものです。早速、その活躍ぶりについて見て参りましょう。
陶弘護とは?
陶弘房の嫡男で、父の戦死により幼くして後を継ぎました。当時は、応仁・文明の乱の最中のことで、弘房も大乱の中で命を落としています。主君・政弘は西軍の将として在京中。代々主の傍近くあって、活躍してきた家柄ゆえ、年少ながら留守分国では重要な地位を占めていました。東軍の親玉・細川勝元の「遠隔地撹乱戦法」に乗せられた、政弘の伯父・教幸は東軍に寝返って挙兵。あろうことか、ともに寝返る者も現われる事態に、分国内は動揺します。弘護は知略を用いて教幸を欺きつつ、見事な手並みで叛乱を鎮圧します。
十年も続いた大乱が漸くおさまり、帰国した政弘は、国が守られたのは偏に弘護の功績と褒めたたえます。以来、当主の右腕として、なくてはならない存在となります。留守中に火種燻る状況に陥っていた九州平定でも、主を助けて縦横無尽の働きをみせ、筑前、周防守護代として、政務の面でも主を補佐しました。
教幸の叛乱時、与力していた石見国人・吉見信頼は、所領が隣り合う益田氏と境目紛争が絶えませんでした。益田氏から妻を迎えていた縁で、親しい関係にあった弘護は何かにつけて益田氏に肩入れ。このことから、信頼の恨みを買っていました。当主主催の宴席の場で、信頼はいきなり弘護を刺殺。まだ、二十八歳、これからという時に起こった悲劇でした。
陶弘護・基本データ
生没年 1455~14820527
父 陶弘房
母 仁保盛郷女
子 武護、興明、興房
妻 益田越中守兼堯息女
幼名 鶴寿丸、五郎
官職等 尾張守、筑前守、周防・筑前守護代
法名 昌龍院殿建忠孝勲大居士
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『文化財探訪必携』、陶弘護肖像画賛)
五分で知りたい人用まとめ
陶弘護・まとめ
- 陶弘房の嫡男。鶴寿丸。父の戦死により家督を継ぐ
- 十三歳で、龍文寺・器之為璠に師事し、法衣を授かる。幼い頃から賢い子だった
- 元服し、主・政弘から偏諱を賜り、弘護と名乗る
- 文明二年、周防守護代として、大内氏家中の中枢に座る(十六歳)
- 同じ年、当主の伯父・教幸が叛乱を起こす。玖珂郡鞍懸山で撃退する。教幸は石見の吉見信頼の援助を得て、再度挙兵するが、その度に撃退され、最後は九州・馬嶽で亡くなったとされる
- 文明七年冬、吉見信頼が阿武郡得佐城を攻撃。弘護は信頼を打ち破り、その所領吉賀長野の地を奪う。吉見家は弘護の妻の実家・益田家と犬猿の仲。教幸との一件もあり、陶家とも険悪になる
- 政弘が帰国すると、分国の危機(教幸の叛乱)を救ってくれたことを感謝され、以降は兄弟同様に親しく交流しようとねぎらわれる
- 文明十年、筑前守護代となり(周防守護代と兼任)、九州平定に尽力。大宰府から少弐家を追い出すと、守護代の職を弟・弘詮と交代。周防に帰国する
- 平穏になった分国で、主の右腕として活躍していたが、吉見信頼によって謀殺される。二十八歳の若さだった
- 菩提寺も墓所も所在不明だが、菩提寺は現在夫人のものとされているものと共通であった可能性があり、陶一族の菩提寺・龍文寺にある大量の身元不明古墓のどれかが弘護のものである可能性は残る
- 現在、龍豊寺に、地元の皆さんが作ってくださった立派な供養塔がある。この寺院は、弘護の肖像画が見つかったことで有名。肖像画そのものはもちろんのこと、書き込まれた画賛もきわめて貴重な史料たりうる重要文化財
- 吉見信頼による刺殺事件について、あれこれの憶測が流れているが、「確たる史料はない」。憶測にすぎないのだから、深入りはしないほうがいい(個人的見解です)
父の戦死により家督を継ぐ
弘護の父・弘房は、主君・政弘とともに上洛。応仁の乱で、政弘の祖父・山名宗全(政弘の生母は宗全の養女)に与力するためでした。父を見送り、留守を預かる鶴寿丸(弘護の幼名)は、将来に備えて勉学に励みます。まだ十幾つの子どもですから、当時の武家の子弟が寺院に入って学ぶことはごく普通のことだったでしょう。菩提寺龍文寺の和尚について修行し、その弟子と認められます。
史上に名高い大乱は、大内軍の参陣で敵方(東軍)優位だった状況が覆されます。しかし、完全な勝利をおさめるまでには至りませんでした。父・弘房は、応仁の乱最大の激戦ともいわれる相国寺の戦いで戦死。弘護は十三歳にして、父を失います。しかし、悲しんでいる暇などありませんでした。これからは、自らが当主として、家を守っていかねばならない立場となったからです。
政弘は元服した鶴寿丸に、自らの偏諱を与え、弘護と名乗らせます。代々、大内氏のために尽してきた陶家の新たな当主への、さらなる期待を込めた贈物と言えましょう。
元服といえば、成人式ですが、じつは現在のように二十歳で行なう、というような決まりはありませんでした。やたらに早い人もいれば、何とも遅い人もいたようです。幼くして成人するのは、家督を継がねばならなかったという理由が多いようです。ただし、将軍家などを見てもお分かりの通り、十五歳になるまでは管領が後見したりします。逆に言うと、十五歳を過ぎれば、もう大人と見なされるわけです。当時は数え年だったと考えると、十四歳ですから、中学二年生にして政務を執らねばならないとなります。ご両親には元気で長生きしてもらいたいものですね。
ともかくも、名もない下級家臣ではなく、陶家という重臣の家に生まれた以上、十代半ばにして大内氏家臣団の中枢に席を置くことになったわけです。『大内氏実録』には、「十六歳」で「大内氏家臣団の中枢」に加わったと書いてあります。一年の猶予期間があったのですね。これは、この年に周防守護代の地位に就いたことを以て「中枢」に至ったと見なしておいでのようです。
略年表
・康正元年(1455)九月三日、山口の私邸に生まれる
・応仁元年、父・弘房が政弘に従って京師に出陣(十三歳)。
・八月二十二日、龍文寺・器之から受衣、法名を孝勲、号を建忠と授かる。
・文明元年(1469)、十五歳で元服。 政弘から偏諱を賜り、弘護と名づけられる。
・文明二年、周防守護代(十六歳)
春、政弘の伯父・教幸が挙兵。
十一月、勝元が備後に合力するよう要請があり、教幸は兵を安芸国廿日市に出す
十二月、教幸自らも安芸に赴く
二十二日、弘護は玖珂郡鞍掛山で教幸を迎え撃つ。教幸は安芸に逃れ、石見に入って吉見信頼を頼る
二十八日、弘護は江良城で教幸の残党を掃討、政弘の母妙喜寺殿の命を奉じて国内を鎮める。吉見信頼が教幸に合力して、阿武郡賀年に兵を集め西長門を攻めていたが、弘護は砦を堅めてこれを防ぐ。教幸軍敗走
・文明三年正月、教幸は兵を集めて再度挑んだが、弘護の攻撃により潰走。教幸は終に馬嶽で亡くなった
・文明六年、勲績(手柄、功績)により尾張権守となる
・文明七年冬、吉見信頼が阿武郡得佐城を攻撃。弘護は進軍して、信頼を打ち破り、その所領吉賀長野の地を奪った
・文明九年、政弘が帰国。弘護は玖珂郡楊井津で主を出迎え、また富田の私宅でもてなす
・文明十年、筑前守護代となる
七月、政弘は豊筑を攻撃。弘護は先駆けとなって少弐と戦い、九月二十五日、大宰府で大勝利。少弐の兵潰走し、豊筑が平定される
十一年、筥崎宮の洪鐘を鋳て功を刻し、筑前守護代の職を辞して帰国
十三年、伊勢神宮に参詣
・文明十四年春、石見の小笠原民部少輔元長が来て政弘に拝謁。弘護は元長に師事して「弓矢の道」の奥義をきわめた。
五月、吉見信頼も来て政弘に拝謁した。二十八日、政弘は宴を設け諸将をもてなす。弘護はその席上で信頼を刺した。自らもまた信頼に刺れて亡くなった。二十八歳だった。
(参照:『大内氏実録』)
救国の摩利支天
亡き父との約束
父・弘房は、出陣にあたり、幼い我が子に留守のことを頼んでいました。よくできた賢い子どもゆえ、たとえ自らに万が一のことがあっても、心配は要らないと確信していたようです。留守を頼むという言葉には、陶の家を守ることと同時に、大内宗家=領国を守るという意味も含まれています。
後世、龍豊寺から発見された弘護の肖像画には、画賛が書かれています。内容にはかなりの信憑性があると見なされているようで、研究者の先生方も高く評価しておられます(美術品研究者ではなく、歴史学を言ってます)。要するに、「史料」として使えるとおっしゃるんですよね。
確かに、教幸の叛乱を鎮圧した云々などは、史実であろうと思われます。しかし、画賛ですので、悪いことが書かれているはずはないですので、すべてを鵜呑みにするわけにもいかない気がしますよね。この画賛は至るところで典拠として引用され、自治体郷土史に全文訳まで載っていたりもしますから、図書館に行けば、活字化されたものを、誰でも目にすることが可能です。
その中で、『実録』の近藤先生が意味深なことを書いておられ、とても興味深いです。およそつぎのような内容です。
「『弘護肖像賛』には、『庚寅の春、今八幡宮の神職某は、国が将に傾かんとしている事態を憂い、毎日夜半に神殿に詣でて、密かに祈りを捧げていた。百日目の夜、寝ているのか起きているのか分からない頃、宮殿の扉が勝手に開いて、中から一人の人物が出てきた。厳めしい冠を被り、手には何かを持っている。それを、指示して、神職に向うと『私は長いこと国を守ってきた。今太守は京にあって、国は危急存亡の秋(とき)である。この掛け軸を太守に届けて欲しい。私は太刀に姿を変えて弘護の身について国を守ろう』と言った。神職は掛け軸を太守に、太刀を弘護に渡した。神職が、京で太守に掛け軸を渡した時、太守が中を見てみると、摩利支天の像であった。その頃、太守の伯父・南栄道頓は云々』とある。これは、弘護が国内の民心を鎮めるために、神職を仲間に引き入れて行った計略であって、弘房が託したのはこれらのことであろうと思われる。」
古代や中世の物語には、非科学的なものが数多くありますが、これなどもまさにそうです。ただし、当時の人がそれらを真に受けてしまう人たちだったことも事実です。そのような心理を利用して、民心掌握を図ったのだとするご研究も数えきれません。これも一種のそのような「計略」ですね。
摩利支天の太刀に守られた弘護は、まさに軍神に選ばれし者であり、人々を救ってくれる英雄そのものです。これだけで十分と思われますが、主に国の危急を知らせるのに摩利支天の像を添えるという演出まで。それを見た政弘がどのような感想を抱いたかについてはどこにも書かれていないため、推し量ることはできません。そもそも、すべてが作り話の可能性もあります。
しかし、近藤先生は、万が一の時にはこれらの演出をするように、と弘房があらかじめ「計略」を授けていたというお考えなんです。具体的にどうしろとまで言ったかどうかはわかりません。しかし、父に教えられた通りに一芝居打ってでも自らの正統性をアピールした。今八幡宮の神職もそれに協力している、というわけです。
「内通工作」
画賛には悪いことは書いていない、と書きました。教幸は叛乱を起こすにあたり、留守居の家臣たちに密かに声をかけます。単に甥が留守であるのをいいことに好き勝手するだけではだめなのであり、叛乱を起こす以上、成功裡に終えなければなりません。さもなくば、命はないでしょう。元より、教幸という人は、先代当主・教弘の兄とされています(弟となっている例もわずかながらあり。この辺り、決定打はないのかもしれません)。弟が家督を継いでいるという状態には不満タラタラだったのでしょう。そのような不満分子を炙り出し、味方に引き入れるのが、管領の策です。当主は京都に釘付け状態ですので、駆けつけて鎮圧するわけにはいきません。上手いこと分国を手に入れてくれれば、敵は帰る国がなくなり、味方勢力の版図が広がります。これは本当にこれ以上ないほど効果的な策でして、そのために混乱に陥った国は何も周防だけではありませんでした。
教幸は初期の頃、教弘の家督相続に異議を唱えていたとするご研究もチラホラあるくらいですが、その後は大人しく臣従していたようで、当主の伯父という身分であることから、留守国では宗家の長老のような立ち位置です。しかも、東西の組み分けは、どう考えても将軍と天皇を頂いている東軍のほうが正統に見えます。逆らえば、賊軍扱いされかねません。当主が西軍に味方している限りでは従うほかありませんが。
このような状況下ですから、心が揺らぐ人が出てもおかしくありません。実際、国許で教幸への同心を決めたゆえ、上洛中の身内に帰国を促した例もあったのです。前線から戦線離脱していった者が少なからずいました。最前線で活躍中の者にいきなり去られたら、政弘にとっては大きな痛手です。しかも、国内では伯父が家督を乗っ取ろうとしている。まさに危機一髪といったところ。
教幸は、いわゆる「重臣」たちにも声をかけます。彼らを味方につければ鬼に金棒ですので。重臣たちは、どうすべきか、個別に話し合ったりした模様です。弘護にも教幸からの誘いはありました。画賛では「百計をつくして招いたけれども頑として応じなかった」とあります。ところが、実際には「応じた」ようです。十幾つの子どもなどどうでもいいことですが、重臣として名を連ねている以上、味方にしておくべきです。了承の返答をもらい、教幸はほくそ笑んだようです。なぜなら、それを境にほかにも同調する者が出て来たからです。
どうやら、相手を子どもと思い、見くびっていたようです。「内通工作」に乗ったと見せかけたこと自体が「工作」だったことに、教幸は思いもよりませんでした。
なにゆえに、内通したふりをしたのかと言えば、当然相手を油断させるためです。ただし、この件は、ずっと後になって、ちょっとした議論を呼びました。政弘から弘護が内通した「ふり」をしたのは本当か、ということを問い質された重臣たちが「相手を油断させるためにとった計略でした」と証言しているのです。主にはどこか、腑に落ちない点でもあったのでしょうか。
十六歳の鮮やかな勝利
結局、事態は教幸が望んだようには運ばず、たかが十代の子ども相手に完膚なきまでにやられてしまいます。こんなことなら、叛かなければよかった……と思ったかもしれません。
文明二年、教幸は赤間関で兵を挙げ、年の暮れには安芸国まで進軍しようとしました。しかし、玖珂郡鞍懸山で迎え撃った弘護にコテンパンにやられてしまいます。何とか命だけは助かった教幸は石見の吉見信頼を頼ります。
とはいえ、やはり分国内には動揺が走りました。弘護はここでも策を巡らせ、政弘の母・妙喜寺殿に頼んで号令してもらいます。なんだか尼将軍みたいですね。当主の伯父が叛いたという事実を、当主の母が皆を勇気づけるというかたちで動揺を打ち消したのです。
なおも諦めきれない教幸は、吉見信頼とともに再起しますが、これまた、防御を固めていた弘護の前には歯が立たず、壊滅します。
本当に諦めが悪いというか、叛乱は起こした以上、打ち勝つか誅殺されるかですので、命懸けです。年が明けて、再度挑戦した教幸でしたが、またしても完膚なきまでにやられてしまい、九州に落ち延びます。最後は馬嶽というところで自刃したようです(じつはここでは亡くなっていないというご研究もあります)。
教幸の陰謀は潰えました。しかし、これまた、厄介な痼りを生んでしまったようです。教幸に与力した吉見信頼との関係が険悪になったのです。教幸の件とは無関係に、阿武郡徳佐城を攻撃してくるという事件がありました。弘護はこれも撃退し、逆に、信頼の所領を手に入れました(吉賀長野の地)。
金蘭の契り
当主の帰国
文明九年、政弘が京都から帰国します。弘護は玖珂郡楊井津で出迎え、また富田の私宅で主をもてなしました。国を離れる際には、ほんの子どもだった鶴寿丸が、立派な青年となっていました。十年もの歳月が流れていたのです。弘護は二人の男児に恵まれており、政弘の妻も京都で生まれた待望の跡継を抱いていました(後の義興です)。
政弘は弘護に「国が平穏無事であったのは汝のおかげである」とその労をねぎらい、君臣は兄弟のように親しく交わることを誓ったといいます(なぜか『陳情令』を思い浮かべたりする……)。それ以後、弘護は、つねに政弘の傍近くに仕えることになります。(夜は政弘の寝所に控え、昼は皆が集まる席で世話を焼き、一日中倦むことがなかった云々とありますが、妙な想像をする方はご遠慮ください)。
帰国後の政弘は、留守中に混乱し切った分国に、一日も早く平穏が戻るようにと、休む暇もなく努めます。弘護もその右腕として、忙しい日々に埋没していくことになります。
九州平定
文明十年、弘護は筑前守護代となり、豊前・筑後の分国で暴れていた凶徒鎮圧に、主を助けて奔走します。大宰府から少弐家を追い出すことに成功したのは、弘護や弟・弘詮の貢献によるところが大きいかと。
九州の民が平穏な日々を取り戻したのを目に焼き付けた弘護は、筥崎宮の洪鐘を鋳て自らの功を刻みました。これを機に、弘護は筑前守護代の職を辞します。後任には、弟の弘詮が就きました。
束の間の平穏と突然の悲劇
伊勢神宮参詣と弓矢の奥義習得
文明十三年、政弘の分国整理も軌道に乗って来たものか、弘護は伊勢神宮に参詣する余裕もあったようです。翌年には、石見から小笠原民部少輔元長が政弘を訪ねてきます。弘護は「武門にある以上、武芸をきわめるのは当然であり、武は弓矢をもって要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以て規範とするものである」と話し、元長に師事して奥義をきわめたといいます。
同じ年の五月、吉見信頼もやって来て、政弘に拝謁します。教幸の叛乱に与したという経緯があるため、どうにか疑いを晴らしてもらい、今後は二心なく勤めるとでも言いに来たのでしょう。政弘からは特にお咎めもなかったようです。しかし、信頼はこの時、とんでもない企みを抱いていました。誰もが想像し得ないことです。
横死
二十八日、政弘は宴を設け諸将をもてなしました。その席上で信頼が突然、弘護を刺殺するという事件が起こったのです。当主主催の宴会に刃物を持ち込むなどもってのほか。信頼は、自らの遺跡を弟に継がせる準備をし、信頼の置ける豪の者を伴って凶行に及びました。すべては事前に計画されていたようです。
いきなり何事かと思う方は多いかと。これについては、一方的に信頼を悪人扱いすることもできません。さりとて、弘護がいきなり命を奪われなければならなかった理由も理解に苦しみます。信頼には、長年に渡る、益田家とその姻戚関係にある弘護への恨みが蓄積していたのです。このような行為に及べば、自らの命はないものと最初から覚悟していたのです。それゆえに、弟に跡目を継がせるなどの準備を万端に整えた上での、悲壮感漂う犯行でした。
ここまで恨まれているとは。少なくとも、命まで奪われねばならないほどのことをしたのでしょうか。どうやら、それは土地問題に起因するようです。当時は一所懸命などという言葉があるくらい、土地に対するいざこざは死活問題となり得ましたから。政弘の留守中、弘護はその名代として、国内の揉め事を仲裁する立場にいました。益田家と吉見家の境目論争は昨日・今日に始まったことではありません。けれども、主の留守ということもあり、弘護が妻の実家である益田家有利な裁定を行なっていたとしても、誰も文句は言えません。史料は後から添付しますが、弘護が、益田家有利な裁定を下し、この件で帰国後に政弘から苦情が出たりしても心配いらない。自分がなんとか解決する、などと書き送った書状も残されているくらいです。
揉めている相手は益田家なのだから、そちらに決闘でもなんでも挑めばいいではないか、そう思いますよね。実際、小競り合いは絶えなかったのではないでしょうか。けれども、信頼が危惧したのは、弘護が政弘の傍にあって、あれこれと吉見家に不利な讒言をする可能性でした。分家であり、重臣である弘護の言葉に騙された政弘が、吉見家に悪い印象を抱くようなことがあれば家の存続にかかわります。
加えて、教幸叛乱時、弘護と信頼は戦闘状態となり、その後も弘護に撃退されて領土を奪われています。具体的な怨恨もあったわけです。
主の酒宴の席で起こった刃傷沙汰です。前代未聞の大事ですが、信頼が想像していた通り、計画は成功したものの、信頼自身もその場で成敗されてしまいました。結果、犯人死亡の案件として、何となくうやむやなままに終わってしまいます。
英雄の死とその後
翌日、政弘は弘護の弟・右田弘詮(右田家に養子入りしていた)に、弘護が吉見とともに亡くなった件は、当家に対する忠義はいうまでもないことだから、思いもよらないことが起きてしまい、残念で無念であるというほかないという書状を与えています。世間の人はその驍雄(傑出した英雄)を慕い、その忠義に感動しない人はいませんでした。
弘護の子ら
弘護の妻は前述の通り、益田家の出身。益田越中守兼堯の娘です。三男一女がありました。『実録』には、「長男・武護が家督を継ぎ、中務少輔となった(系図に鶴寿丸、三郎の名があるがほかに所見はない)。次男は早死(わかじに)した。三男は興房で、娘は宗像大宮司氏定の妻となった」とあります。
しかし、その後の研究の成果により、長男と次男はともに弓矢のことに及んだ挙げ句、弟は戦死。兄は当主となっていた義興により討伐されたと上書きされています。二男については、彼を供養するための宝篋印塔が発見され、研究者の先生により恐らくは兄弟が弓矢のことにおよび、戦死したのを供養した物、と断定されています。しかし、嫡男については一切不明です。「討伐した」ようなことを記した義興の書状が残っているのみで、いつ、どのようなかたちで亡くなったのか、など不明な点が多く、解決されていません。
結局は、父の横死に兄たちの兄弟相争う悲劇の末、三男の興房が家督後継者となります。父親ゆずりの忠義の臣として、政弘期における弘護の如く、義興の右腕として、常に傍らにあり、なくてはならない活躍をしました。しかし、本来ならば、嫡男が継ぐのが順当である家督を三男が継いでいる時点で悲劇です。父親の悲劇的な死がなければ、幼い遺児たちが取り残されることはなかったのです。兄弟弓矢のことなどもなかったでしょう(この件は、単なる兄弟不和などではないのです。重臣間の権力争いなども絡んでおり複雑を極めます。弘護の若すぎる死によって、家中のパワーバランスが崩れたことに起因しているととらえれば、巻き込まれた遺児たちにとっても悲劇だったのです)。
菩提寺と墓所
弘護の法名は「昌龍院」ですので、そのような寺院があったものと考えられます。『実録』には以下のように書かれています。
「昌龍院については分からない。弘護の肖像は都濃郡大道理村龍豊寺におさめられていたので、龍豊寺がもと昌龍院ではないだろうか。妻益田氏は大永五年九月廿六日に亡くなって夫の菩提寺に葬られ、龍豊寺咲山妙听と法名した。一つの寺に二つの名前がある菩提所だったのが、古いものは忘れられていく習いで、昌龍院の名が自然に隠滅したのではないだろうか。なおよく考えるべきである。」
恐らくはそうであろうと信じて、龍豊寺に通っております。「が」墓所はありません。ほかの歴代当主の方々も、墓所があるケースは稀です。菩提寺龍文寺には大量の古墓があるというのに、どれが誰のものなのかわからない状態になっているためです。お名前と一致する寺院さまが現在も存在しているのであれば、そこにも墓所があった可能性は高いです。しかし、現在は「ありません」。
分かっているのは、興明、興昌、興房のものだけです。ほか大量にある古墓のどれかがそうなのだろうと信じて、まとめてお参りすることしかできないのです。
龍豊寺には、最近になって地元の心優しい方々が建立してくださった供養塔があります。そちらにお参りしたあと、龍文寺に行き、どれかがそうである、と念じながらお参りしてください。
参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『文化財探訪必携』(大内文化探訪会)、陶弘護肖像画賛
雑感
研究者の先生方から、巷の歴史愛好家の方々まで、弘護刺殺事件についてありとあらゆる憶測をよんでいるようです。しかし、関係者死亡のため、この件は永久にお蔵入りです。当主の陰謀説などもってのほかです。史料がないのに、憶測で物を言うのは、研究者の先生方にだけ許された特権です。ただし、それは先生方であっても「憶測」に過ぎません。それこそ、「史料がない」ことを、状況証拠だけで云々することは、一番やってはならないことではないでしょうか。やるとしたら、創作でもお書きください。
執筆者にも思うトコロはございますが、研究者の先生ではないこと、ファクトチェック厳しい現在、憶測で物を言うべきではないことから、敢えて個人的な意見は書きません。あと、吉見信頼さんのことも別に恨んではいません。いちおう、ここは感想文スペースなので、何を書いてもいいわけなんですが、それでもやめておきます。尊敬している人について(法泉寺さま)陰謀を企てる輩であるかのように書かれたら凹みます。動画の類は一切見ませんし、フリー百科事典もしかりです。
「好き」というフィルターで、何でもかんでも善人に想像する輩は罪悪だと書いているのを見かけてからSNSをやめました。怖いからです。好きならとことん好きでいいじゃないですか。苦情を言ってくる方は「史料」添付願います。でも、見ませんから。

祖父さまの事件は迷宮入り?

いえ、書いてある通りのことしか分かっていません。あとは「憶測」の山です。自分に都合のいい史料だけを拾い集めると、偏った意見のまま武装することは可能です。しかし、両方面とも、どっちともとれる史料しかないです。
※この記事は 20250105 に一度目のリライトを終えました。現在、古い記事を新しく書き直す作業を少しずつ行なっているところです。一回りしたらまた戻ります。