山口県山口市徳地八坂の妙寿院とは?
陶興房開基の大幻院が起源です。興房の法名は大幻院なので、ゆかりの寺院であったことは明白です。しかしながら、大内氏の滅亡後、毛利家臣・内藤隆春が姉・妙寿院(毛利隆元夫人)の位牌所と定めたことから、妙寿院と改名されました。
その後、三浦氏の元精が兄・元忠を供養するための寺院とし、性乾寺と名を改めました。けれども、のちに再び改名されたらしく、現在は妙寿院となっています。
妙寿院・基本情報
住所 山口市徳地八坂 1242
山号・寺号・本尊 竜宝山・妙寿院・釈迦牟尼仏
宗派 曹洞宗
妙寿院・歴史
天文年間、陶興房によって創建され、寺号を大幻院といった。開山は瑠璃光寺十世・享岩宗貞和尚。陶氏ゆかりの寺院として、新南陽郷土史会様の『周防国と陶氏』で紹介されている。興房の法名が「大幻院殿」なのだから、どれだけゆかりの深い寺なのか知れようというもの。陶氏滅亡後も、寺院は存続しているが、あれこれと変遷し、現在は妙寿院となっている。瑠璃光寺の末寺である。以下のような流れ。
陶興房開基の大幻院 ⇒ 内藤隆春が姉の位牌所・妙寿院と改める ⇒ 三浦元精が兄・元忠を供養するため性乾寺と改める ⇒ 再び妙寿院に戻る
こうなってしまうともう、陶氏とのかかわりなど地元の方もご存じない。ご案内くださった山口市のガイド様は「三重宝塔版木」を調査に来た研究者の方に同道なさった経験がおありだったが、タクシーの運転手様ともども、地元の方に道を尋ねつつやっとのことで到着。お二人とも市内観光の専門家中の専門家であられ、山口市内の事情に精通しておられる。それでも念のため確認しながら向かう。そのくらいこの目的地がレアな場所なのである。
寺院内には、「三重宝塔版木」の説明看板以外、由来説明文の類は一切ない。寺院の方にお話を伺うことができればもちろん、様々な由来をご教授くださると思うものの、そのようなお願いができる身分ではないので目に見えるものを見て帰るしかなかった。
妙寿院・みどころ
県指定有形文化財「三重宝塔版木」:三重塔、仏舎利、仏像などが彫られた版木で、重源上人自作といわれている。鎌倉時代のものと推定されていて、たいへんに貴重なものである。(参照:説明看板)
陶興房の宝篋印塔。
何なのこれ? 父上の墓石ってこと?
宝篋印塔は色々ある石塔の一種類。亡くなった後に供養のために造ることもあったし、生前に造ることもあったよ。
山門
このように、のどかな場所にそっと佇んでいる寺院。周囲の風景に完全に溶け込んでいるし、宝篋印塔目当てに彷徨う謎の旅行者が無事に辿り着くのは至難の業。ちなみに、地元の方といっても、少しでも距離が離れるとご存じないのが普通。そもそも、先祖代々この地に住んでおられる方々ばかりとは限らないのである。今回はプロのご案内の方がついてくださっていたからよかったものの、一人歩きならば無理だったろう。
本堂
陶興房の宝篋印塔
寺院裏手の墓地に紛れ込んで存在。「陶尾張守興房公之墓」と書かれた石碑が隣に置かれている。脇にも文字が刻されていたが、これ以上は近付けなかった。周辺にも似たような石塔が何基かあるが、一門の誰かのものだったりしないのであろうか?
20221026 追記:『陶村史』によれば、やはりこれらの石塔は一門のものらしい。ただし、研究が進んでいる龍文寺でさえ、それぞれの石塔が誰を供養したものなのか不明なのであるから、残念ながら特定は難しいと思われる。
妙寿院(山口市徳地八坂)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 山口市徳地八坂 1242
アクセス
歩いて行くことは無理だと考えられます。山口駅からタクシーもしくは、レンタカーが無難かと思います。場所はわかりづらいです。目印となる建物はサッカー広場かと。地元の方は、小学校の裏手にある、と教えてくださいました。
参照文献:『中世周防国と陶氏』、『陶村史』
妙寿院(山口市徳地八坂)について:まとめ & 感想
妙寿院(山口市徳地八坂)・まとめ
- 陶興房を開基、瑠璃光寺十世・享岩宗貞を開山とする曹洞宗寺院
- 大内氏滅亡後、内藤隆春が姉・妙寿院の位牌所としたため、妙寿院と改名される
- 三浦元精が兄・元忠を供養するため性乾寺と改める
- その後、再び妙寿院と改名されて現在に至る
- 県指定重要文化財として、重源上人自作と伝えられる「三重宝塔版木」がある
- 陶興房の宝篋印塔、ほかにも陶氏のものとされる石塔が残る
またしてもよく分らない寺院の変遷です。そもそも論として、菩提寺と位牌所というのは同じ意味なのでしょうか? 分りづらいことこの上なかった洞春寺の変遷。そこにかかわっていたのが、毛利隆元の菩提寺・常栄寺の変遷です。洞春寺は毛利元就の菩提寺として、何よりも重視されていました。安芸国から、藩主の居城がある萩に移されて大切にされていたのを、藩庁が山口に移る際に、ともに山口に移したのです。これはそれなりわかりやすいものです。
いっぽう、洞春寺が移ってきたことにより、場所を空けなければならなくなったのが、元々洞春寺が移ってきた場所にあった毛利隆元菩提寺・常栄寺です。毛利家が萩に拠点を移した時の当主・輝元にとって、元就は祖父、輝元は父、妙寿院は母ですから、いずれもとても大切な方々です。そこで、祖父の菩提寺は自らとともに、萩に移転。両親の菩提寺は山口の元・大内氏ゆかりの人々の菩提寺を以て新たな菩提寺充てました。隆元さんには大内盛見菩提寺・国清寺を、妙寿院さんには妙喜殿菩提寺・妙喜寺を。けれども山口に元就さんの菩提寺を移さなければならなくなってさあたいへん。移転先が隆元さん菩提寺になったため、はみ出した隆元さんは奥方妙寿院さんの菩提寺へ……と夫婦二人で今は常栄寺ではないの? ということでした。その後、二人で一つは嫌よ、ってことで、新たに妙寿院に移ったというのならば分るのですが(事実そうかもしれませんが)、問題は内藤隆春が姉の位牌所にしていた、という点なんですよ。菩提寺と位牌所は同時に存在するものなんでしょうかね? 妙喜寺に隆元夫人移されたのに、同時に大幻院まで位牌所として共存してたんでしょうか? 息子は息子で、弟は弟で別々に身内の供養をしてたってこと? 内藤さんは時代が古い人なので、隆元菩提寺が現在の常栄寺に移るまで生存なさってはいませんでした。姉の菩提寺が夫の引っ越しではみ出したらから云々ではないんですよ。そもそも、城主さま(弘護公)夫妻だって、普通に夫婦揃っての菩提寺あったわけで(建咲院、龍豊寺)。
まあ、言いたいことは、ここは大幻院さまのゆかりの寺院で、墓まであるのにさぁ、ってことです。単に陶興房の宝篋印塔一つがあるのみならば、何かの間違いだろうって思うことにするけど、周辺にゴチャゴチャと存在する石塔もすべて陶一族のものらしいとなれば、ここはかなり重要な寺院であったと考えられるわけで。素直に重源上人の何たらだけ見に行けば満足な研究者が羨ましい。
こんな方におすすめ
- 寺社巡りが好きな人
- 長閑な場所にある寺院で周囲の光景も楽しみたい人(交通機関がたいへんですが)
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
お墓を見付けるのがまた、一苦労だったよ(矢印など一切なし)。
父上……。父上のお寺が別の人のものになっちゃってるよ……。
寺院の名前などどうでもいい。お前の父はここにいる。そう思え。