陶氏の起源
周防長門の有力氏族・多々良氏の一門で、「大内」を名乗った惣領家から分出した「右田」一族のそのまた分家。右田家の始祖・盛長は大内家十五代当主・貞成の子で十六代当主・盛房の弟・盛長。陶氏の始祖は弘賢で、右田家の出身。ただし、右田家当主・盛俊の子で弘俊の弟なのか、あるいは、弘俊の子なのか、意見が分れていて判然としない。
陶の名乗りは、弘賢の領地だった「陶」の地から来ている。
系図
家督の流れ
弘賢 ⇒ 弘政 ⇒ 弘長 ⇒ 盛長 ⇒ 盛政 ⇒ 弘正 ⇒ 弘房 ⇒ 弘護 ⇒ 武護 ⇒ 興明 ⇒ 興房 ⇒ 晴賢 ⇒ 長房
※興明は系図上で武護の子となっているが、実際には弟で、武護・弟、興房・兄の「某」となっている人物と同一。
始祖・弘賢
陶氏の始祖は弘賢という(あるいは弘景とも)。陶六郎。右田弘俊の弟である。吉敷郡陶村を領有し、地名をもって氏とした。法名:海印寺道意。
『実録』附録・系図によれば、弘賢の子として、弘政、又三郎、僧(方山)、弘綱(宮内少輔、長門守護代)。
弘綱の子は弘宣(兵部少輔、紀州で自害)、宣顕(宮内少輔)、盛長(三郎)。
宣顕の子が宣輔(遠江守、豊前篠崎で戦死)
弘政、弘長
弘政は弘賢の子である。五郎。都濃郡富田保に移った。越前権守となった。法名:春林道栄。
同上、弘政の子は弘長、僧(正受)、某(遠江守)、某(和泉守)、某(余一)、僧(蘭室)。
某(和泉守)の子は僧(通隣)
弘長は弘政の子である。三郎。尾張守となった。剃髪し、尾張入道道琳と号した。大内盛見の時、長門守護代となった。実子がなく、叔父・弘綱の三男・三郎盛長を養子とした。豊前国猪岳の戦いで戦死。
※「弘護肖像賛」では盛長を弘長の子としている。
盛長、盛政、弘正
盛長は、治部少輔、中務少輔となった。三郎。はじめ、養父・道琳の小守護代となり、のちに守護代となった。
盛政は盛長の子である。幼名:徳房。五郎。父の職を継ぎ、盛見の長門守護代であった。のちに、越前守となった。大内持盛の時、また長門守護代となった。永享四年罷免された。大内持世の時、周防守護代となり、これ以後、周防守護代を世襲した。文安二年十一月二十一日死去。法名:龍門寺殿大造釣公大居士。妻、宝徳三年六月三日死去。法名:定窓妙観大姉。二子があり、長男は弘正、次男が弘房である。弘正が家督を継ぎ、弘房は大内教弘の命により、親族・右田家の遺跡を継いだ(同上系図には盛政の子としてさらに、某、法名:元禅童公がある)。
弘正、越前太郎。寛政六年八月廿六日、安芸にて戦死、二十六歳だった。
一族は相談し、弘正の跡を、弘房に継がせたいと願い出、大内政弘から許可を得る。
関連記事:陶弘房
その他
『実録』附録系図にまとめられている、史料に名前が出て来るけれども、どこにつづけるべきか分かっていない陶姓の人々です。その後素性が明らかになった人もいるかもですが、とりあえずは全員ここに置いておきます。
これらはこの後に続けるべき項目のような気もするけど、まとめてここに挙げておきます。
俺の名前が出ているじゃないか!
明治時代の時点では不明だったのであろうな。
陶式部大輔(明応六年文書)
陶中務入道宗景(年号不明、大内義興文書)
陶光長(但馬守、天文十年二月十六日、吉見三郎隆頼に刺されて死ぬ、吉見記、阿武郡徳佐上村本国寺伝では九年二月十六日野坂峠で、とする)
春団英公大居士(龍門寺日牌、十三日、年月不詳)
大義院観室永嘉大姉(同上および年号不詳道麒文書)
陶長鶴丸(年紀不詳道麒文書)
参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」、附録系図
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元ドメインでの公開日:2022年3月28日 11:52 AM