陶のくにの人々

先祖 弘房一家以前の人々

2022-04-17

城主さま

陶氏の起源

周防長門の有力氏族・多々良氏の一門で、「大内」を名乗った惣領家から分出した「右田」一族のそのまた分家。右田家の始祖・盛長は大内家十五代当主・貞成の子で十六代当主・盛房の弟・盛長。陶氏の始祖は弘賢で、右田家の出身。ただし、右田家当主・盛俊の子で弘俊の弟なのか、あるいは、弘俊の子なのか、意見が分れていて判然としない。
陶の名乗りは、弘賢の領地だった「陶」の地から来ている。

系図

系図

家督の流れ

弘賢 ⇒ 弘政 ⇒ 弘長 ⇒ 盛長 ⇒ 盛政 ⇒ 弘正 ⇒ 弘房 ⇒ 弘護 ⇒ 武護 ⇒ 興明 ⇒ 興房 ⇒ 晴賢 ⇒ 長房
※興明は系図上で武護の子となっているが、実際には弟で、武護・弟、興房・兄の「某」となっている人物と同一。

始祖・弘賢

陶氏の始祖は弘賢という(あるいは弘景とも)。陶六郎。右田弘俊の弟である。吉敷郡陶村を領有し、地名をもって氏とした。法名:海印寺道意。
『実録』附録・系図によれば、弘賢の子として、弘政、又三郎、僧(方山)、弘綱(宮内少輔、長門守護代)。
弘綱の子は弘宣(兵部少輔、紀州で自害)、宣顕(宮内少輔)、盛長(三郎)。
宣顕の子が宣輔(遠江守、豊前篠崎で戦死)

弘政、弘長

弘政は弘賢の子である。五郎。都濃郡富田保に移った。越前権守となった。法名:春林道栄。
同上、弘政の子は弘長、僧(正受)、某(遠江守)、某(和泉守)、某(余一)、僧(蘭室)。
某(和泉守)の子は僧(通隣)

弘長は弘政の子である。三郎。尾張守となった。剃髪し、尾張入道道琳と号した。大内盛見の時、長門守護代となった。実子がなく、叔父・弘綱の三男・三郎盛長を養子とした。豊前国猪岳の戦いで戦死。
※「弘護肖像賛」では盛長を弘長の子としている。

盛長、盛政、弘正

盛長は、治部少輔、中務少輔となった。三郎。はじめ、養父・道琳の小守護代となり、のちに守護代となった。

盛政は盛長の子である。幼名:徳房。五郎。父の職を継ぎ、盛見の長門守護代であった。のちに、越前守となった。大内持盛の時、また長門守護代となった。永享四年罷免された。大内持世の時、周防守護代となり、これ以後、周防守護代を世襲した。文安二年十一月二十一日死去。法名:龍門寺殿大造釣公大居士。妻、宝徳三年六月三日死去。法名:定窓妙観大姉。二子があり、長男は弘正、次男が弘房である。弘正が家督を継ぎ、弘房は大内教弘の命により、親族・右田家の遺跡を継いだ(同上系図には盛政の子としてさらに、某、法名:元禅童公がある)。

弘正、越前太郎。寛政六年八月廿六日、安芸にて戦死、二十六歳だった。
一族は相談し、弘正の跡を、弘房に継がせたいと願い出、大内政弘から許可を得る。

関連記事:陶弘房

その他

『実録』附録系図にまとめられている、史料に名前が出て来るけれども、どこにつづけるべきか分かっていない陶姓の人々です。その後素性が明らかになった人もいるかもですが、とりあえずは全員ここに置いておきます。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

これらはこの後に続けるべき項目のような気もするけど、まとめてここに挙げておきます。

宗景吹き出し用イメージ画像
宗景

俺の名前が出ているじゃないか!

右田弘詮吹き出し用イメージ画像
外祖父さま

明治時代の時点では不明だったのであろうな。

陶式部大輔(明応六年文書)
陶中務入道宗景(年号不明、大内義興文書)
陶光長(但馬守、天文十年二月十六日、吉見三郎隆頼に刺されて死ぬ、吉見記、阿武郡徳佐上村本国寺伝では九年二月十六日野坂峠で、とする)
春団英公大居士(龍門寺日牌、十三日、年月不詳)
大義院観室永嘉大姉(同上および年号不詳道麒文書)
陶長鶴丸(年紀不詳道麒文書)

参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」、附録系図

※この記事はサイトの統廃合により、「陶の城」サイトから移されました。
元ドメインでの公開日:2022年3月28日 11:52 AM

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ミル@周防山口館

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1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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【宮島渡海歴三十回越え】
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