みやじま・えりゅしおん

青海苔浦神社(広島県廿日市市宮島町)

青海苔浦神社・遠景

厳島神社の摂社・末社はたくさんございますが、宮島の島内にある主な神社はすべて、厳島神社の管轄下にあります。厳島神社周辺や大聖院さま付近など、観光客の方々が赴きやすい場所にある神社もあれば、船に乗って行かなければ参詣できない神社もございます。どの神社さまもとても魅力的なところばかりなので、できたらすべてにご参詣いただきたいと切望しておりますが、時間の限られた旅の中では距離的に難しいこともあるでしょう。

今回はそれらの、ややご参詣が難しい神社のひとつとなる、青海苔浦神社さまをご案内します(訪問回数2回)。いちおう歩いて行くことができますので、宮島リピーターの皆さまにはいずれご参詣いただきたい神社さまです。この記事が何かのご参考になれば幸いです。

広島県廿日市市宮島町の青海苔浦神社とは?

厳島神社の摂社・末社の中で、いわゆる「七浦巡り」の参詣箇所のひとつとなっている神社さまです。七浦巡りとは、宮島の周囲に点在する小さな神社さまを船に乗って順番にお参りしていくことです。つまりは、青海苔浦神社さまも海辺に面してご鎮座されております。

しかしながら、やや(かなり)遠いものの、桟橋から歩いて行くことも可能です。その意味では、七浦巡りをする予定はないけれども、参詣できる神社はすべて網羅したい方でもご参詣できます。

なお、青海苔浦神社付近は厳島合戦で三浦越中守と吉川元春、小早川隆景の部隊とが激突した場所です。合戦跡地を回っている方にとっては外せない場所となります。

青海苔浦神社・基本情報

ご鎮座地 〒739-0588 廿日市市宮島町
御祭神 中筒男神 
主な建物 社殿、鳥居、灯籠
※御島巡りで上陸し、お祓いを受ける神社のひとつ 
(参照:『宮島本』、ご鎮座地は Googlemap 、建物は目視)

青海苔浦神社・歴史と概観

「御島巡り」でお祓いを受ける場所

「御島巡り」とは宮島にある浦々の神社を順番に参詣していく行事のことです。船を使わねば参詣できない神社も含め、合計七箇所の神社を巡ります。最後に大元神社に参詣し、厳島神社本社に戻ります。回る順番や、それぞれの神社で何をするかなど、細かな手順が定められています。

御島巡りにについては以下の記事にまとめました。ご参照くださいませ。

厳島神社・海から見た大鳥居(3)
浦々の神社(広島県廿日市市宮島町)

「七浦巡り」がやりたい~というわがままな願いが叶い、地元の方のご厚意により船で宮島をぐるりと一周。浦々の神社すべての写真をご紹介します。そこらのスマートフォンで素人が撮影していることだけが唯一惜しまれるところです。

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厳島合戦ゆかりの地としての青海苔浦

この神社が鎮座する青海苔浦付近は、厳島合戦の際、三浦越中守と吉川元春、小早川隆景の部隊とが合戦を行なった地点です。自治体さま案内看板などが立っていたりはしませんので、いちおう「非公式」の史跡としてご案内します。

厳島合戦は、毛利元就の博奕尾からの奇襲が成功した時点で、勝敗は決していました。勝った側は万々歳ですが、負けた側としては、退路を確保せねばなりません。一人でも犠牲者を少なくし、いったん無事に引き退くことができたならば、再起可能なケースもあります。実際、小さな勝敗が繰り返されたかたちの合戦というものも、歴史上にはたくさんあるでしょう。けれども、戦場が島という閉鎖的な空間であったことが災いし、負けた側には引き退くという選択肢がありませんでした。「船があれば」逃走は可能でしたが、なかったからです。

最近は、毛利元就の神がかりな奇襲物語や「囮の城」を造って島に誘い込んだ説にもあれこれと疑問符を呈しておられるご研究もあるようなないようなですが、調べれば調べるほど実に巧妙で緻密な作戦を練っていたのだなと逆に敬服することしきりです。戦場が島でなければ逃走はいくらでも可能であったこと、逃走経路が海路限定でも、船さえあれば逃れられたかも知れないことなどがその理由です。考えれば考えるほど、戦場が絶対に島でなければならなかった意味、逃走用の船を事前にすべて殲滅しておくという手際の良さなどが光ってくるからです(個人的見解です)。

合戦史跡(非公式)といっても、メインの戦場は博奕尾から塔の岡目がけて奇襲したあれですから、それ以外は退却する敗者の悪あがき的な小さな小競り合いとなります。それこそ至る所で展開されたと思われますので、すべてを網羅するのは困難かと。とりあえず、ここもそれらの小競り合いが行なわれた現場のひとつという認識でよろしいかと思います。しかし、悪あがき、小競り合いも最終末にあたり、悲壮感漂う場所です。

先ずは、この青海苔浦神社のご鎮座地「青海苔浦」の位置を確認しておきます。

青海苔浦は、青海苔川の河口で、この川を遡ると陶晴賢が自刃した髙安ヶ原がある。さらに登り尾根を越すと多々良潟に通じている。
出典:『宮島本』

総大将自刃の地については、軍記物などでも諸説あり、実際にどこがそうなのかなど不明です。しかし、著名な研究者の先生方があれこれを参照しつつ、恐らくはここではないのかというところに記念碑を建てました。この場所は、その地から近いということになります。

もちろん、「この川を遡ると」云々以降の道のりが、どのくらいあるのかは不明ですので、安易に近いなどと言ってはならないかもしれません。しかし、広い厳島全体の中では、最期の地にほど近いと言っても差し支えないのではなかろうかと思います。

※現在、「最期の地」の石碑がある場所に「行くことはできません」。立ち入り禁止区域となりますので、興味本位で探そうと山中に迷い込むようなことは、絶対におやめください。桟橋の観光案内所でこの件について問い合せると、お叱りを受けます。自己責任ではすまされないほど危険この上ないですし、多くの方にご迷惑をおかけすることになりますので、我儘な行為は慎みましょう。

最期の地に近いということは、総大将一行もかつて、船を求めてこの付近を通過したということになります。そう考えると何やら哀しくなります。そして、ここで一戦あったのであれば、それは他ならぬ最後の一戦ということになろうかと。むろん、時系列で見れば、どこが一番最後かなど分かろうはずもないですが。

小早川隆景危機一髪!? 三浦越中守、鬼神の如き活躍

毛利軍には元就はもちろん、隆元、元春、隆景という三人の優秀な息子がついています。三者三様に活躍した様は、数々の軍記物に書かれておりますので、どれを読んでも毛利家万歳の方々にとっては心躍るはずです。こういうときには、軍記物は誇張が多いなどと宣う研究者の先生方は無視して、思いっきり楽しんでしまいましょう。学者ではないのですから、たとえインチキであったとしても、創作という芸術作品を楽しんでいると考えれば問題なしです。

毛利軍の活躍は厳島合戦に留まらず、その後もずっと続いて行きますし、元就公亡き後もご子孫の活躍が語り継がれています。そう思えば、厳島合戦についての記述など、長い長い毛利家の歴史の中でほんの一瞬に過ぎなかったのかも。しかし、毛利家が名実ともに中国地方の大大名に羽ばたいていくきっかけとなった戦いという意義は大きく、多くの軍記物がこぞってその一部始終について書き記しています。こうなると、それぞれを比較検討して云々という作業は、それこそ、文学もしくは歴史学の先生方のご研究となります。なので、あれこれ読んで頭に残っている話をまとめます。どの本にどう書いてあってとか、具体的にどなたがという細かいことは置いておきます。いずれはきちんと整理したいのですが、時間がありません。単なる観光資源の案内と思ってお読みください。

塔の岡で奇襲を受けて大混乱となった時、総大将はもはやこれまでと諦めた模様です。そこは潔いと思って褒めてあげてください。本人の予想通り、この時点ですべては決していました。奇襲というのはそういうもの。相手が立ち直る隙を与えたら成功したとは申せません。実行したら必ず成功させねばなりませんし、万が一失敗したら生きて帰ることはできないでしょう。逆に、成功したのならば、相手は大混乱から敗北一直線です。そう考えれば、確かにこの時点で終わっております。ところが、いやいやまだ終わっていない、何とか無事に逃れて再起をはかってください、と進言した忠臣がおりました。それが三浦越中守房清さんでした。

結果を知っている我々からしたら、哀れとしか言いようがありませんが、そう簡単に諦めるな! まだまだ再起可能であると叱咤激励した物語は感動に値します。実際、多くの人々は塔の岡から逃げ出していました。まあ、どなたもご自身の命が大切ですので、総大将などほっぽり出して逃げて行ったところで非難するわけにも参りません。ただこれは、名もなき一兵卒だから可能なのであって、著名な人には難しいですね。現代の我々からしたら、武士という方々の思想は理解不能です。

総大将が撤退するとなれば、退路を確保し何とか無事に逃がさねばなりません。三浦さんは言い出しっぺですので、自らが殿(しんがり)となって、総大将の退却を援護する役に就きました。しかしながら、島から脱出するには船に乗る必要があるというのに、肝心の船がどこにもありません。稀に、船がなければ泳いでいけばよいではないか、という方がいらして困るのですが、それは「無理です」から。距離的には確かに最短距離を取れば、本州から宮島まで泳いで渡れそうな地点はございます。しかし、周囲は敵の監視の目が光っておりますし、そもそもそのような「みっともないこと」は「偉い方」には絶対にできません。

皆さまご存じの、船を探して島中を彷徨ったがとうとう見つけられず、島の中で最期を迎えたという物語で、この合戦は幕を閉じます。で、三浦越中守はどうしたかって? それが、この青海苔浦付近での小競り合いのお話しとなります。

至る所で敗北側の将兵との小競り合いが続いておりましたが、そんな中、小早川隆景は総大将の行方を追っていました。行く先々でも敗残兵たちの掃討は続きますが、そこはもはや問題にならないレベルです。毛利方的には、逃れようにも船はないことが分っていますから(つまりはそのように事前に処置していた。まさに隙のない完璧な策です)、総大将は島のどこかに潜んでいることは明白です。潜んでいるというよりは、ありもしない船を探していたわけですけど。やがては網にかかると分かっていても、やはり敵の大将をこの手で捕らえる栄誉は誰もが望むことです。この辺り、隆景さんがその役を担わされていたのか、それとも自らの意思で突出してしまっていたのかは不明です(書いている人が知らないだけです。どこかに書いてあったらすみません)。

総大将一行は、船を求めて彷徨い続けていたわけですが、殿の三浦さんは常に背後を気に掛けていました。そして、青海苔浦まで来たところで、一人その場に残り敵を食い止める役に徹しました。恐らくは、断崖絶壁のような守るに固そうな地形があったものかと(どこかの軍記物にもそう書かれていたように思います。記憶曖昧)。ゆえに、追う隆景さんと食い止める三浦さんが激突したのがココ、青海苔浦となったのです。

当然ながら、三浦さんも陶の配下中、百戦錬磨の強者の一人。配下にも手勢はおりますから、わずかになったとはいえ、それなりの人数で待ち受けていました。そこに到着したのが小早川勢だったわけです。隆景自身も槍を手にして向かって行ったようですから、まさに文武両道に長けた豪の者です。配下も強者揃い。しかしながら、やや突出していた感があったことと、既に失う物は何一つなくなっている死を覚悟した敵を相手にしたことにより、危機一髪という事態となります。

敵からしたら、配下の将兵などは目に入っておらず、隆景一人が目指す相手です。こうなると主の命を守ることが先決となりますから、小早川方はやや防戦一方となってしまいます。三浦越中守本人とその配下の猛攻の下、小早川方の忠義の家臣が何人も討ち取られてしまいます。しかし、これらの忠義のおかげで、隆景は何とか後方に引くことができます。そうこうしているうちに、弟が苦戦しているとの報を受けた兄・吉川元春の部隊が駆けつけます。何とも麗しい兄弟愛物語ですが、敵軍ゆえ感動している暇はなし。

吉川勢も駆けつけた当初は苦戦します。やはり、忠義の家臣が何人か討ち取られてしまいます。しかし、何と言っても勝者と敗者の差は歴然としております。相手は後がないわけですが、毛利勢のほうはいくらでも援軍が呼べる状態ですから。これ以上の援軍を待つまでもなく、三浦勢は越中守本人を残し、すべて討ち取られてしまいます。越中守は最後の一人になっても余裕綽々。配下の人たちもよく頑張ったと思います。

毛利方は、三浦さんと直接やり合うのは危険と考えたのか、弓矢を使います。二本の矢が命中しましたが、急所は外れたようです。事ここに至っても、三浦さんは平然としておられたようです。なおも槍を手にして、毛利勢に立ち向かって行きました。まさに鬼神のような戦いぶりです。とはいえ、悲しい哉、最後の一人が持ち堪えられる時間は限られています。最後は毛利方の豪の者たちにより、遂に討ち取られました。

最後の瞬間、三浦さんの脳裡にはどんな光景が浮かんだのでしょうか。自らが時間稼ぎをしている間に、無事船を見つけて、周防に向けて逃れて行く総大将の姿か。あるいは、自らが楯となっている隙に、今はこうと立派に最期を遂げた主の姿だったのでしょうか。誰もそのことを教えてはくれません。好きなようにご想像ください、そういうことでしょうね。

青海苔浦神社・みどころ

御島巡りで上陸して参拝する神社ですので、立派な拝殿がついております。浦々の神社は、本当に小さなお社が多い中、とても豪勢な感じです。朱色をベースとした社殿が、やはり厳島神社の摂社・末社だ! と思わせます。

社号額

青海苔浦神社・社号額

達筆です!

社殿

浦々の神社・青海苔浦神社

「上陸して参拝」するところは社殿が大きいようです。浦々の神社には小さなお社だけというところが多いのですが。青海苔浦神社はこんなにも立派です。

浦々の神社・青海苔浦神社

ご本殿の賽銭箱がやや遠く(手前に柵がありました)、お金を投げ入れるような無礼なことになり、しかも届くかどうか不安となりました。

青海苔浦付近の海

青海苔浦神社・付近の海

数百年の時を超えて。かつて、総大将や三浦さんたちが目にしたかもしれない海です。神社はこの海に向かってご鎮座なさっています。遙か昔の大合戦など想像できない、静かで穏やかな海でした。

青海苔浦神社(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒739-0588 廿日市市宮島町

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

桟橋から、杉之浦神社 ⇒ 包ヶ浦 ⇒ 鷹巣浦神社 ⇒ 腰少浦神社と行く道中は車道がついております。それ以降は車道が途切れ、山道となります。この神社だけを目指すのであれば、車道がついていることを利用して途中まではタクシーで向かうことも可能です。当然、それより手前の神社でしたら、まとめて参詣できます。しかし、タクシーで行くことが出来るのは途中までです。山道の部分は、お一人で向かうことは推奨できません。この辺り、ナビゲーションが効かないことも多く、山道は分かりづらいためです。何かあったときのためにも、お一人で向かうべきではありません。必ず観光案内所にて、現状や行き方についてご案内を受けてください。なお、仮に歩いて行った場合ですが、とんでもない時間がかかります。道中の風景は美しいのですが、行って帰ってくるだけで一日を費やす覚悟が必要です。

参照文献:『宮島本』、軍記物色々(※出典整理中)

青海苔浦神社(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想

青海苔浦神社(廿日市市宮島町)・まとめ

  1. 厳島神社の末社。いわゆる浦々の神社のひとつで、御島巡りのルートに入っている
  2. 御島巡りの第四拝所となっており、上陸してお祓いを受ける
  3. 船を使わず、桟橋から徒歩で来ることも不可能ではないが、途方もない時間がかかる。ひとつ手前の腰少浦神社までは車道がついているが、この神社に行くためには山道を行くことになるため、山道を歩ける人でないと参詣は難しい
  4. 神社が鎮座する青海苔浦は、厳島合戦の総大将自刃の地に近い。かつてこの地では、殿をつとめた三浦越中守が吉川元春、小早川隆景兄弟の部隊を食い止め、壮絶な戦いの末に亡くなった

青海苔浦神社には、ご覧のように大きな賽銭箱がございますが、手前が柵で近付けません。お賽銭は投げ込むものではなく、お入れするもの。信心深い友人などは、硬貨をそのまま投げ込むなどもってのほかである、との考えから、毎回小さなポチ袋にお包みして、丁寧に入れています。しかし、この場合、それを見習って丁寧にお入れすることは無理です。若い方々がかなり遠くから、ものの見事に「投げ込み」、やったぜ! とポーズを決めている光景は、友人からしたら無礼極まりないってなりますが、ここは無礼でも投げ込む以外ないです。器用な若者と違い、手前に落ちたら……とか、ケチなことを考えていましたが、神さまにはきちんと思いが通じたようで、しっかりと賽銭箱の中に落ちていきました。

眼前には長閑で静かな美しい海が広がっています。本当に心地良く、時が経つのを忘れます。こんなところで、かつて壮絶な戦いがあったとは、とても想像できません。平和だなぁと感慨深いものを感じます。それと同時に、どことなく悲哀漂う気分にも。目の前にある綺麗な海だけを享受して生きていけばいいのだと分かってはおりますが、どうしても合戦のことに思い至る日々でした。そう考えると、宮島もなんとなく悲しい場所になってしまいます。ゆえに、最近は合戦の話は捨て去り、厳島神社再建の物語にシフトしています。先祖が平姓なら、厳島神社はゆかりの神社となります。厳島は文字通り、厳島神社の島であり、厳島合戦の島ではありません。そう考えると、ひたすらに美しい光景を満喫できます。

なお、青海苔浦神社には合計二回しか、参詣できておりません。二回とも、海より深く山より高い御恩のある大切な方々のご案内で陸からと海からの二回に分けて訪問しました。したがいまして、一人で山道を歩くことはしておりません。この場を借りて、ご案内くださった大切な方々に心より御礼申し上げるとともに、自らの足では辿り着いていないことを注記しておきます。三回目の参詣を行なおうとしました(桟橋から徒歩)が、途中で日暮れ近くになって引返したことを申し添えます。歩いて行くと、そのくらい大変です(ただし、朝一ではなく、午後近くなってから宮島入りしました)。

こんな方におすすめ

  • 厳島神社の摂社・末社を回っている方
  • 厳島合戦ゆかりの地を回っている方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

殿って大変だよね……。命がけで守った人が無事に逃れられなかったなんて悲しすぎる。最期の瞬間、越中守の脳裡に浮かんだのはきっと、周防国で再起をはかる総大将の姿だったと俺は思う。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

どうだかな。しかし、兄弟助け合う隆景公と元春公のお姿は本当に絵になる。麗しい物語だ。

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

どうとでも言えばいいさ。この長閑な海を見ていたら、嫌なことはすべて忘れた。船を探して彷徨ったわけじゃなく、親切なガイドさんたちにお連れいただいた俺たちって、最高に幸せだよね?

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

そうだね。海からと陸から、二つの方面からご参詣できた。すごいことだよ(嫌なことは忘れていいんだよ)。

腰少浦神社付近での記念写真
みやじま・えりゅしおん

宮島旅日記のまとめページ(目次)です。厳島神社とロープーウエーで弥山頂上は当たり前。けっしてそれだけではない、宮島の魅力をご紹介。海からしか行けない場所以外は、とにかく隅々歩き回りました。宮島の魅力は尽きることなく、旅はなおも続きます。

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鶴千代イメージ画像(仕官)
『厳島合戦記』

宮島にある厳島合戦関連史跡をすべて見て回ることが究極の目標。主な史跡には案内看板が立っているが、島内すべての看板はコンプリートしたので、看板もない関連史跡を隅々調査しているところ。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
大内氏歴代当主さまとゆかりの地をご紹介するサイトを運営しています

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