『新撰大内氏系図』に名前が出てくる方々を家ごとにご紹介しています。今回は、仁戸田氏についてです。『大内村誌』には、途中から改姓した可能性が書かれておりまして、系図上に存在するのは本当に短い期間となります。記事ボリュームがまったく足りませんが、こればかりは仕方ありません。
仁戸田氏概説
仁戸田氏の起源
『新撰大内氏系図』では、分家の祖となった方に「○○祖」と書き添えてくださってあります。ただし、中には単に「○○」と地名らしきものが書き添えられているだけのケースもあります。恐らくはここも分家なのだろうと思いつつ拝見していましたが、「祖」がついていないケース、じつはかなりございます。
仁戸田氏についても同じです。ただし、『大内村誌』でわざわざ項目を作って解説をしてくださっているおかげで、やはり分家した一族であることがはっきりします。
仁戸田氏は矢田令内仁戸田保に居住していた大内氏の庶流である。十五代貞成の弟盛実の孫に仁戸田法師成高と称する人が系図に見えている。又十八代満盛の弟盛家は鰐石の地名により鰐石小太夫と称し、又仁戸田盛家とも号していたようである。
出典:『大内村誌』
十五代・貞成の兄弟にはほかに、宇野氏祖となった清致もいます。この世代の孫にあたる人が仁戸田氏の祖ということは、普通に考えれば、史料に名前が現われた十六代・盛房期より後なのだろうかと感じます。しかし、系図には生没年なども一切書かれておりませんので、時代感覚がまったくつかめません。
二流ある仁戸田氏だがともに途中消滅
先の『大内村誌』の引用文にある通り、仁戸田と名乗った人々には二つの流れがあります。両者に何らかの繋がりがあったのか、単に同じ地名に紐付いていたというだけなのかは、系図からは全く不明です。
一、十四代貞長の子・盛実の子孫
二、十七代弘盛の子・盛家 ⇒ 鰐石小太夫と名乗ったが、仁戸田とも称した
これら二流あるのですが、ともに系図上では早々と途切れてしまい、断絶したのか否かも不明となっております。何とも悩ましいですが、適当に推測することはできませんので、系図に載っているわずかばかりの方々についてのみ書き出す作業となります。
『新撰大内氏系図』全コメント
(盛実―成実)ー成高―盛季
盛直
成高 仁戸田、法師
盛季 四郎
盛直 三郎
盛家―貞盛―貞元―貞信―助貞
貞行
盛清―盛忠―盛正―盛頼―盛資
盛義―盛親
盛長―資盛―広盛―盛貞
盛家 鰐石小太夫、又号仁戸田
貞盛 四郎、豊前守
盛清 七郎、肥前佐留志地頭
盛長 十郎、佐渡守、肥前小木本主
盛資 新太郎
盛親 太郎
貞信 三郎右衛門
助貞 三郎兵衛
貞行 四郎
『大内村誌』による補足
『大内村誌』では、関連する史料を調査し、興隆寺への寄進状そのたに現われる仁戸田姓の方々を書き出してくださっています。じつは興隆寺文書の解説本を持っているのですが、二冊あるうち一冊欠けておりまして、直接原典にあたることができません。古書店に出回るとすぐに売り切れてしまいます。次の機会までの宿題とさせてください。今は、『大内村誌』のご研究を拝見して書いています。
とは言え、このような文書に載っているのは、誰それがいつ、何かを寄進したという類の内容です。つまりは、人名の確認くらいしかできない、となります。『大内氏実録』などに、何者か不明の人々として記載されているのは、こうした文書から来ていたりします。昔の人々は、様々な名乗りがあり、役職がかわることもまたあるため、○○守、○○入道などとあっても、誰のことなのか正確なところはわからない人が出てくるのです。今後の研究成果に期待、としながらも永遠に明らかにならなかったり、現在は判明していたり。
正直、『新撰大内氏系図』には名前が載っていない方々ばかりです。だからと言って、系図に載っている方々と別人とも言い切れないのです。
まずは、『大内村誌』によれば、「仁戸田土與一丸・仁戸田孫太郎入道・仁戸田右衛門尉幸義」という方々が存在していたことが確認されています。
・康永三年(興国五、1344)閏二月二十一日付妙嚴(=弘幸)寄進状に、「矢田令内仁戸田保地頭職」を興隆寺の造営料として、三年間寄附することが書かれています。そこに、「仁戸田土与一丸分の一町の地を除いて」という但書があります。
・応安二年(正平二四、1369)八月二十五日、「仁戸田右衛門尉幸義(=仁戸田孫太郎入道の子)」が、仁戸田保内幸義名と武光名という相伝の地を弘幸の菩提を弔うため、また、「亡父・妙果禅門(=仁戸田孫太郎入道『か』)」と「伯父・祐暹律師(=興隆寺別当)」の仏道のために、興隆寺法花堂に寄進したという寄進状もあります。
これら二点は、ともに「興隆寺文書」が典拠です。さらに、弘幸宛行状として以下があります。
・貞和四年(正平三、1348)十月二十三日妙厳(弘幸)の宛行状「大内村仁戸田保内武光名を仁戸田孫太郎入道が永く相伝することを領掌」
年代順に並べると、宛行状は上二つの「興隆寺文書」寄進状の中間に入ります。弘幸から永年相伝を認められた土地を、弘幸および、父や伯父のために興隆寺に寄進したのですね。これだけの中に、三名の仁戸田○○さんが確認できるわけです。しかし、系図上には見当たらない名前です。また、伯父の興隆寺別当という人も、仁戸田姓である可能性が高いでしょう。土與一丸はどなたかの幼名であり、孫太郎入道は出家したために俗名が分からないとしても、仁戸田右衛門尉幸義さんに至っては、ここまではっきりしているのに、系図にはやはりおられません。なんともですね。
『大内村誌』ではほかの村ゆかりの方々についても、詳細な考察をなさっておられますから、仁戸田氏についても同様と思います。にもかかわらず、これだけの史料しか出て来なかったのです。これらの調査を終え、『大内村誌』は以下のように結んでおられます。
「その後、仁戸田氏を名乗った人の名は見えない。恐らくは他氏名に改ったものであろう。」
いったい、どのような姓にかわったものか、それについては不明のようです。分かることならば、その旨、ご紹介があるでしょう。
参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内村誌』
こんだけ何もわからない人たちについて、記事にすることに何か意味があるの?
ミルたちの現時点でのリサーチ能力に見合った内容となっております。つまりは、今後の(ミルたちの)研究成果の発展により、充実していく可能性があるということです。
ミル「たち」って、俺含まれてないよね? 無関係だから。
(あんまりじゃん……)
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