陶のくに風土記

海印寺(周南市下上横矢)

2022-10-19

海印寺「陶興明・陶興昌」供養塔説明看板

山口県周南市の海印寺とは?

海印寺は、周南市下上横矢にある曹洞宗寺院です。文和元年(1352)、陶弘政が父・弘賢の菩提を弔うために建立した寺院であったと考えられています。弘賢の法名が海印寺道意であったことや、陶氏の館跡からほど近い場所にあることなどからも陶氏ゆかりの寺院であったことは間違いありません。けれども、大内氏、陶氏の滅亡後、大内輝弘の反乱の際に、寺院も戦渦に遭い、古記録なども失われてしまいました。ゆえに、自治体郷土史などの記述もまちまちです。元亀年間、もしくは天正年間など、十六世紀の創建であると書かれていたりします。

寛正四年(1463)の防府普明寺本尊の体内修理銘に海印寺の名前が見られるなど、十五世紀の時点ですでに存在していたことが明らかとなっており、やはり陶弘賢の菩提寺であり、十六世紀に建てられた寺院は、その「跡地」に再建されたものでしょう。遅くとも文禄年間までには、現在の地に寺院が再建され、その開山は龍文寺十世・海翁玄巨大和尚、中興開山は湛海了春大和尚であるという記録はどの書物も一致しています。

陶一族の、興明、興昌の供養塔が安置されていること、十三年に一度開帳される「秘仏」五智如来があることで有名です。

海印寺・基本情報

住所 周南市下上横矢 1754
山号・寺号・本尊 密厳山・海印寺・釈迦如来
宗派 曹洞宗

海印寺・歴史

『都濃郡誌』では元亀年間(1570~1573)、『徳山市史』では天正年間(15731592)の創建とする。『山口県寺院沿革史』には古くは真言宗だった、とある。いずれにしても、陶氏滅亡後、大内輝弘が侵攻して来た際に焼失したため、由来を伝える文献がないという。文禄年間(1592~1596)までに、その跡地に曹洞宗寺院として再興され、開山が龍文寺第十世・海翁玄巨大和尚(慶長五年、1600、六月十五日寂)である点は同じ。中興開山・湛海了春大和尚以来、現代まで続いている。(参照:『都濃郡誌』、『徳山市史』、『山口県寺院沿革史』)

『周防国と陶氏』には「文和元年(1352)、陶弘政が父の菩提所として創建した」とある。寺号は弘賢の法名「海印寺道意」に由来する。同じく、「寛正四年(1463)の防府普明寺本尊の体内修理銘や、元亀三年(1572)の毛利輝元書状などに海印寺の名が見える」とあり、最新の研究によれば、資料が皆無ではないことがわかる。

海印寺・みどころ

十三年ごとに開帳される「五智如来」(鎌倉時代、文化財指定)と陶興昌、興明の供養塔がある。
※供養塔について、詳しくは陶興明の項目で(⇒ 関連記事:陶興明

寺号碑

海印寺・寺号碑

寺号碑の文字がとってもポップで素敵なのです。

山門

海印寺・山門

本堂

海印寺・本堂

陶興明&陶興昌の供養塔

海印寺・陶興昌、興明供養塔

境内には、陶興昌と陶興明の供養塔がある。
陶興昌は、興房の子、晴賢の兄で、亨禄二年(1529)に亡くなり、海印寺に葬られた。

五智如来(普賢、文殊、弥勒、迦葉、阿難)

海印寺の懸仏。厨子の中に納められた五躯の小さな金銅仏で、鎌倉時代の作と考えられている。「懸仏」というのは円い板に仏像を浮き彫りにしたもので、神仏習合していた時代、神社の社殿に懸けて拝んだことからこの呼び名がある。以下の縁起でも、八幡宮に参詣していて本地仏を掘り出すという、文字通り神仏習合の逸話が描かれている。

『五智如来縁起』:(宝暦十年(1760)、海印寺住職・全了記)

上村に時高利右衛門という正直者が住んでいた。神仏を信じ、上野八幡宮への日参を怠らなかった。宝永八年(1711辛卯正月二十五日に霊夢を見た。西方に紫雲がたなびき、音楽の中、五体の如来が来迎した。「吾は五智如来である。八幡大菩薩の本地で、昔は社坊の本尊であった。伽藍焼失ののち、社殿の後ろの岩間に納められていたが、長い年月を経て土中に埋もれ、今は知る人もいない。衆生済度の因縁も絶えそうである。汝の信心の力を感じて出現したのである」と告げて雲井遙かに登っていかれた。

夢から覚めると、利右衛門の信仰心はいよいよ深くなった。春の夜が明けるのを待ちかねて八幡宮に参詣し、教えられたように社殿の後ろに行って岩間を見ると、ほのかな光がぼんやりと見えた。人を集めて掘ってみると、光り輝く金色の尊像を得た。弘法大師が自ら鋳させなさったとも、行基菩薩の念仏とも言い伝える。利右衛門は歓喜のあまり恭敬して当山に移して安置した。その霊験あらたかたにして遠近の男女が崇敬したので、藩によって秘仏の沙汰があった。以来十三年に一度、藩の許可を得て開帳し、現在に至る。(参照:『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』)

※現在も、十三年に一度、巳年に開帳される。

お地蔵さまがいっぱい!

海印寺・地蔵

じつにたくさんのお地蔵さまがおられる寺院さまでした。五智如来の開帳は待っておられませんが、お地蔵さまにはいつでもお目にかかれます。「合掌地蔵尊」さまというのがおられるようなのですが、どのお地蔵さまなのかわかりませんでした。

海印寺「合掌地蔵尊」説明看板

合掌と書いて、こえかけと読むのですね。

海印寺(山口県周南市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 周南市下上横矢 1754

アクセス

徳山駅からタクシーを使いました。けれども、じつは新南陽駅から歩けます。かなり距離はありますが、陶氏館跡からほど近く、建咲院や上野八幡宮などそこら中の史跡をすべて見るつもりで町歩きするのがおすすめです。じつはまだやったことがないので、後日、詳しい歩き方をご紹介します。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』、『都濃郡誌』、『周防国と陶氏』

海院寺(山口県周南市)について:まとめ & 感想

海院寺(山口県周南市)・まとめ

  1. 陶弘政が父・弘賢の菩提を弔うために建立した寺院と思われる
  2. 大内輝弘の乱で寺院は焼失、記録も失われたが、他の寺院などから見付かった史料、陶氏館跡からほど近い場所にあること、などからゆかりの寺院であることは疑いない
  3. 江戸時代になって、跡地(=現在地)に再興されて現在に至る
  4. 陶弘護の次男・興明、孫・興昌の供養塔が安置されている
  5. 五智如来の懸仏が有名で、神仏習合時代の逸話を現代に伝えている。「秘仏」ゆえ、十三年ごとに一度しか拝むことができない

何はなくとも供養塔の寺院だ! と思ってお参りしましたが、普通の人は(地元の方ではなく、観光客)「あ、こんなところに寺あった。レアかも。御朱印あるかな?」となるようです……。陶氏館跡がなに一つない悲惨な状態となっている上、タクシー貸切りで回るというとんでもない訪問の仕方をしてしまったため、初回は位置関係などがまるでわからず。しかし、勝栄寺、陶氏館跡と建咲院、海印寺はセットで回るように設定すべきです。

この寺院が陶氏館跡のすぐ近くにあることや(すぐ、と感じるかどうかには個人差があります)、館付近で武護、興明兄弟の戦闘があったこと、海印寺が陶氏の始祖・弘賢の菩提寺であることなどを考えたらこの界隈を歩き尽す必要性に迫られるはず。何も知らずにタクシーで一箇所ずつ回っていると、楽チンでいいのですが、一つ一つの点は、いつまでたっても線で繋がることがありません。それにつけても、出発点となる館跡に何一つ残されていないこと、海印寺も大内輝弘のせいで焼失してしまったことなどが悔やまれます。

お家再興とか大友宗麟に焚付けられて、どんだけ貴重な文化財燃やしてんだよ、あんたは? と、大内輝弘なる人物に言いたい。貴重な文化財を燃やしたのは、陶入道らの政変でも、毛利家の防長経略でもなく、杉重輔と内藤隆世の同士討ちと、大内輝弘の犯罪です(だと思ってます)。どうやって責任をとるつもりだい?

こんな方におすすめ

  • 供養塔とかに興味あります(このような方、『墓マイラー』とかお呼びするのでしょうかね?)
  • 「秘仏」とか垂涎ものです……。

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(怒)
五郎

何なんだ、この「おすすめ」。どっちも意味分らん。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

(兄上や叔父上の供養塔のこと、あまり前面に出したくなかったから)

五郎の兄イメージ画像
五郎の兄

私は気にしていない。どうせ「叔父上の」供養塔のほうが有名だ。弟のほうが有名だし。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

(それって、じつは、ものすご~く、気にしてる、ってことですよね?)

龍文寺山門(常楽門)前記念撮影
周南旅日記(陶氏ゆかりの地)

陶のくに関連史跡総合案内。要するに目次ページです。

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