厳島神主家

厳島神主家とは?
厳島神社の神主家は、神社を創建した佐伯鞍職の一族が代々勤めていました。佐伯景弘の代に、平清盛と結んで、厳島神社の社殿を現在のような姿に再建。そこまではよかったものの、平家との関係浅からざるによって平家滅亡後は危機に。しかし、海に沈んだ三種の神器・宝剣を探索したりして協力。源頼朝が厳島神社(安芸国のではありませんが)を信仰していたお陰もありお咎めなしに。しかし、承久の乱で後鳥羽上皇方についたために、神主を交代させられてしまいます。
新しく神主となったのが藤原親実という人で、以来、大内氏によって滅ぼされるまで藤原姓神主家が続きました。
安芸の豪族・佐伯氏
佐伯氏は安芸国・佐伯郡を支配する豪族で、郡司の地位にありました。書物によっては在庁官人と記されております。郡司 ⇒ 在庁官人という流れと思います。地方から派遣されてきた国司の配下で実務を執り行っていた地元の有力者というわけです。このあたり、大内氏と似てますね。吾妻鏡では「安芸介」と記されているようです。
佐伯氏の人々は、現在の厳島神社の神主を務めていました。厳島神社を愛する方ならば知らない人はいないと思われる同社の創建者・佐伯鞍職の子孫にあたる方々でしょう。この辺りは神社の縁起めいておりますけれども。
厳島神社が今のような海上に浮かぶ麗しいお姿になるにあたり、活躍したのが、平安時代末期の佐伯氏のリーダー・佐伯景弘という人物でした。日本が世界に誇る文化遺産でもある厳島神社は、平清盛と佐伯景弘の共同制作と言えます。この辺りの事情を含め、松岡久人先生のご著作が詳しいです。そのものズバリ『安芸厳島社』というご本以外にも、大内義弘の伝記に至るまでこの点は触れられております。先生のご研究は、平清盛ではなく、佐伯景弘を絶賛しておられるとみておりますが。
宮島で平清盛に感謝するのも結構ですが ―中略― 景弘の功績のほうももっと感謝されてよいのではないでしょうか。
出典:『安芸厳島社』松岡久人 10ページ
一地方のごく普通の神社にすぎなかった厳島神社は、平清盛という時の権力者の崇敬を得ることで「世のおぼえ、時のきら、めでたかりき」を享受することに。清盛と景弘との縁が結ばれたのは、清盛が安芸守だった時だろうとされていますけれども、二人して神社を荘厳にするプロジェクトに取り組むに至るまでには、景弘側からの積極的なアプローチがあったことは想像に難くありません。してみると、景弘というお方の着眼点は鋭いという高評価になるわけですが……。想定外だったのは、平家の栄華が長くは続かなかったことです。
景弘が壇ノ浦で平家の傍らにいたとか、その縁で二位尼とともに海中に沈んだ草薙の剣の探索を命じられたなどの逸話も有名ですね。要は、清盛と懇意にしていたせいで、佐伯氏や厳島神社が源氏方に敵視されて不利益を被るようなことはなく、神社も神主の地位も無事だったのです。ということならば、のちに安芸武田や大内などの勢力と抗争を繰り広げたのは、雅やかな佐伯氏の皆さま方だったのでしょうか? 答えはノーです。神官としての佐伯氏の方々はその後も繁栄しましたが、「神主家」は交代しました。なかば(というより完全に?)武家化して戦国期まで活躍していたのは「藤原姓神主家」です。
厳島神社には、佐伯鞍職の子孫・佐伯氏の者以外が、神主になってはならないというしきたりのようなものがあったようです。平家政権とべったりだった景弘すら何のお咎めもなかったのに、なにゆえ、異姓他人が神主の地位に就いたりしたのでしょうか? それは、承久の乱に際して、厳島神主家が上皇側に味方したことによります。
もとより、西国には平家の勢力が根付いていましたので、滅亡後は多くの元所領が頼朝政権によって吸い取られました。そこへ東国から荒くれ者の地頭たちがどっと押し寄せた……そんなイメージですが。実際には、領地を貰っても自らは現地に赴かないケースもあり、いきなり見知らぬ人だらけともならなかったようです。ところが、源家三代が滅び、北条氏が天下の実験を握らんとする頃。平家目障りだったし、追い出してくれた頼朝にはいちおう感謝しているが(?)、子孫絶えて家臣が武家政権継ぐとかないよなと潰しにかかった朝廷は無残にも返り討ちに遭ってしまったわけで……。
穏やかな西国の人々は多くが朝廷に味方しましたが、それがあだとなり、平家滅亡後も残されていた土地なども東国武者たちに取り上げられてしまうことに。さらには、荒くれ武者どものほうでも、分家してあぶれたとか、いつまでも領国赴任しないのもなんだし、新天地で独立しようと続々と西国へ。民族大移動みたいですね……。現地はどんだけカルチャーショックになったろうと考えると目が点になります。今と違って、東西の雰囲気の違いってくっきりしていたと想像するので。
そんな中で、同じく朝廷側についた佐伯姓厳島神主家も「けしからん」と神主交代劇とあいなりました。ただし、任命された新しい神主は神事に疎い。よくわからないから引き続きお願いってことで、佐伯姓の神官たちが神事を執り行うことに変化はありませんでした。トップの座だけ変わったにすぎません。何ともややこしいことです。そもそも、当初は神社に赴きもしなかったんです……。
藤原姓厳島神主家
京下の輩・中原氏
源頼朝が鎌倉で幕府を開くにあたり、荒くれ武者だらけで政務に向いている人が少ない……ってことで、都から知識ある公家の方々をスカウトしてきました。これらの方々を「京下の輩」といいますが、荒くれ武者たちと比較すると雅やかな雰囲気ですね。受験参考書には載っていませんでしたが、藤原姓神主家の祖は、これら都から招かれた公家のひとりです。中原親能といい、法律家でした。
この中原さんが、武家政権に加わるにあたり「藤原」と名乗ったようです。そもそも、摂関家の一類なのか無関係なのかとか、気になりますけど、今手元にある面白い古書には「藤原道長の子孫」って書いてあります。残念ながら出典不明であること、『安芸厳島社』で今読んでいる範囲には明記されていないことから保留とします。いずれにせよ、中原改め藤原親能さんの御子息(養子とも)・親実という人が厳島神主家を継ぐことになりました。兄弟に「豊後守護となった大友能直」さんがおられると。なんか繋がってます……。
とはいえ、この親実という方は、神主になっても厳島神社に行こうともしません。神事は佐伯氏の方々がやっているから、来なくても大丈夫ということもありますが、自身は幕府の役人として仕えているわけです。あららという感じですね。ちなみにですが、この頃、安芸守護に任命されていたのは武田信光です。これも、前任者が朝廷側に味方して交代した組です。けれども、守護も神主も現地には来ない……。その頃の厳島神社では、落雷による火災で社殿が大打撃を被り、修繕が必要なのに差配すべき神主がいないという事態に。漸く重い腰をあげた藤原親実でしたが、修繕が終わると帰国。この間、安芸守護も兼任して頑張っておられたようですが、のちのことは、子息・親光に託した模様です。ちなみに、修繕時に任官した安芸守護は再び武田氏に戻りますが、なおも守護本人の赴任はなかったとか。
先に荒くれ武者西国へ大移動みたいなことを書いてしまいましたけど、鎌倉時代はまだおおらかな時代だったようで、下向ラッシュや権門勢家の所領もおかまいなしに切り取るという事態に陥るのは、やや先のことのようです。
いまさらですが「神主」って?
じつは以前どこかに、神主とは神職全般を指すみたいなことを書いた記憶があります。典拠は日本史事典だったような。事典が間違っているはずはないですが、これはあくまでも「現代のわれわれ向け」の解説だったみたいで。つまり、「厳島神主家」といった時、それは単なる神官という意味ではなく、神社全体のトップといった意味を表しています。というようなことが、宮島町から出ている『棚守房顕覚書』の注釈にあります。
「厳島神主は、神社の重要な祭祀を主宰し広範囲に渡る神領管理の為め、守護職を兼ねていた。後には兵力をもつようになった。廿日市の館に住み、桜尾城主になった。厳島の祭礼の時のみ渡海したのであろうという」(14ページ)
『安芸厳島社』によれば、藤原姓神主は社領支配、神官任命などの「政治面」を、いっぽう「祭祀の具体面」は従前どおり佐伯姓の方々が担当と共存していた模様です。それゆえに、佐伯姓の神官の方々は、藤原姓神主家の滅亡とは無縁に、その後も脈々と今に続いておられるのでしょう。その裏側にどれだけの苦難があったかは推して知るべしですけど。
南北朝の動乱と厳島神主家
鎌倉時代も終焉を迎え、世の中荒れ放題の大混乱に突入すると、武家方・宮方に分かれて争う南北朝期が到来します。福成寺には寺社領横領するのはやめてね、という後醍醐天皇さまの綸旨があったりしましたが。そんな言葉に耳を傾ける人もなく。いよいよ、切り取り放題の乱暴狼藉が罷り通る世の中となってしまいます。何せ、南北だろうと東西だろうと、二つ以上に分かれていれば、いずこかに属して大義名分を振りかざせます。なんでも配っちゃう足利尊氏は武働き目覚ましい味方勢力には気前よく土地を分け与えましたが、昨日の味方は今日の敵状態。土地を巡る争奪戦は俄然激しくなります。そんな中で、厳島神社の神領が平穏無事ですむはずがありません。どんな具合だったのでしょうか?
横領されちゃいましたが、自らも横領しました
このタイトル、びっくりですよね。まあ、神社や寺院が武装していても驚きはしませんけど。ただ、それはあくまで、自らの大切な領地を守るために仕方なくだったりと想像します。全国の神社についてどうだったかなど知りませんけど、少なくとも厳島神社は謎の二重構造になっておりますので、神事を執り行う方々と政治・軍事部門は別物です。だからかどうか不明ながら、神主家の方々が、目茶苦茶戦っています。しかも、強い。じつは少し前まで、藤原姓神主家の出自は単に関東御家人と思っていました。だから荒くれ武者なんだろうって。でも、京下の輩の末裔ですよ。毛利家もそうだって? 確かに。でも、神主ではないのでね。神社が武家に横領されて迷惑してます、助けてください、って有力な守護などに泣きつくのは想像できますが、神社側が横領主体になっているなんてびっくりでした。普通にあることだ? 申し訳ございません。
神主家に横領されちゃうなんてなんて弱々しい武家なんだ……。そう思いました? いいえ。横領したのは、国衙領です。この頃、世間一般の武家が普通にやっていたことです。ほかの神主家もやっていたかどうかは知りませんけど。
南北朝時代真っ只中と思われる頃、足利尊氏は「造果保」なる賀茂郡内の土地を厳島神社に寄進していました。ところが、義詮代に同じ土地を小泉なる人々(小早川氏の一族)にあげてしまいます。こういう「二重譲渡」みたいなこと、この先もたびたびあったようなないようなで。足利将軍家ってなんでこうもいい加減なんでしょう。過去に別の人にあげた土地について、きちんとメモっておいてください。厳島神主家も鷹揚に構えてはおりませんので、「ここは我々の土地だ!」と長らく小泉さんたちと争い続けました。
ほかにも、土地絡みで安芸武田氏と揉め続けたことはよく知られています。ひとまず、ここまでの流れをまとめておきましょう。
- 己斐、八幡川流域を国衙領より「横領」するなどして取得
- 阿佐北・南方面の神領・免田をめぐる安芸武田氏との紛争に勝利
- 神領衆養成に尽力 ※神領衆:一族、家臣団
松岡先生はこの頃の神主家について、「安芸国内でもなかなか羽振りのよい豪族」と評しておられます(『安芸厳島社』25ページ)が、それについて、大内氏との関係深かりしことが幸いしたと結んでおられます。
社領支配の上で、神領衆とよばれる一族や家臣の養成につとめたことで、自らの勢力が増大したことにもよりますが、他面隣国周防を本拠地として大勢力を築いていた大内氏と結び、その援助後押しが大きな力となっていた点も見逃せないところです。
出典:『安芸厳島社』松岡久人、25ページ
大内氏と厳島神主家
厳島神主家は長期にわたり、大内氏と深い関係にありました。系図を見れば、神主家に嫁いだ女性もおり、親戚縁者となった時もあります。大内氏によって滅ぼされたという印象が強すぎるため、敵対関係と誤認しますが、長期にわたり友好的でした。
義弘期の応永の乱にも、大内氏に味方して参陣。『大内氏実録』には単に「厳島神主」としか書かれていませんが、れっきとした当主が付き従っていたことがわかっています(後述)。足利義稙を復職させるべく、義興が上洛した際にも軍勢の中におりました。運命の分かれ道となる当主・興親の客死と神主家の分裂に至るまでは長い長い蜜月状態だったのです。
大きな勢力に従っておけば、いざというときに守ってもらえます。ただし、いったん敵対すれば、その庇護下を離れることに。長らく争いが絶えなかった安芸武田氏や台頭してきた出雲の尼子氏が大内氏に代わり、神主家の味方勢力となるのでした。
「厳島神領争奪戦」
安芸武田氏と厳島神主家
永享一二年(1440)五月、銀山城主・武田信賢は、幕命により、一色直信を討伐。その恩賞として、嘉吉元年(1441)正月、幕府から佐西郡の地を賜ります。喜び勇んだ信賢は早速、彼の地に入ろうとしましたが、そこには、神聖不可侵な厳島社神領が多く含まれていました。当然、厳島神主家はこれを拒みます。かくして、厳島神主家と安芸武田氏の間に、数度に渡る「神領争奪戦」の火蓋が切って落とされました。
この「神領争奪戦」なる呼称は、古い郷土史の本などに続出しています。学術的にはどうなのか今ひとつ分かりませんが、どうやら近世以降の軍記物の類の影響を色濃く受けている面もあるように思われます。いずれにせよ、安芸武田氏と神主家が神領地を巡って争ったことは事実です。呼び方などどうでもいいことですが、『佐伯郡誌』にも書いてありますので、そのまま使います。
この、「神領争奪戦」で活躍する人物に、「佐伯左近将監親春」という人が登場します。うっかり「神主」と書いているご本もあるのですが、ここ、要注意です。なぜなら、厳島神社には、政務を司る「藤原姓神主家」と、推古天皇の御代以来、ずっと神事を執り行ってきた佐伯姓の方々とがおられたからです。要するに、佐伯親春なるお方が存在しても、なんら問題はないわけです。ですけど、「神主」とつけたらややこしくなります。実際、藤原姓神主家の系図に「親春」なる方はおられません。どうとらえるべきか、ということになりますけれど、どうやらこの方、「神官」です。普通に佐伯姓の方として存在し得ます。実のところ、意見が分れている部分とはなりますが、「神官」で通します。
嘉吉元年(1441)三月、武田信賢は、三〇〇〇余騎の軍勢を率いて桜尾城に押寄せます。対する神主家側は、社僧等七〇〇余人が桜尾城に立て籠りました。武田軍は周辺諸城に陣取り、互いに攻防が続きましたが、城を落とすことはできませんでした。五月中頃、武田方は敗退したといいます。
元号が嘉吉であることから、あ、将軍・義教は……ってなりますけど、武田信賢は、義教を弑逆した赤松満祐討伐にも参加。嘉吉三年(1443)七月に、つぎの将軍義勝からも、同じく神領を賜りますが、この時は義勝が亡くなったため、返上したとか。
文安二年(1445)、今度は将軍・義政が、神領を武田信賢に与えようとします。当たり前ですが、神主教親はこれを拒否。けれども、信賢はまたしても、康正二年(1456)に、義政から神領を賜ります。なにゆえ、将軍家がどこまでも安芸武田氏に甘いのか、理解に苦しみます。
神主教親は五日市城を築いて対抗。神官、僧侶は前回同様、六〇〇余騎(百人減ってますが)で桜尾城に立て籠りました。武田勢は、信賢、国信が総勢五〇〇〇余騎、兵船数百艘も伴って陸海二手から、攻撃を仕掛けます。
長禄元年(1457)三月、武田信賢は、石道に城を築き、佐伯親春と戦いました。神主は五日市城にいたわけで、今回も、「神官」親春が桜尾城にいたのかなぁと思いますけれど、ちょっと資料がないです。流れ的にはそのようですが。桜尾城は大軍に囲まれ、古文書が焼けるなどの被害も出ており、今度ばかりは……と思いきや、親春の舅・大内教弘が大軍を率いて援軍として現れると、武田勢はこれは敵わないと撤退していきました。
史実としての、「神領争奪戦」はだいたいこんな具合です。安芸武田氏のしつこさ、将軍家のいい加減さ、何度も大軍を撃退した神主家のしぶとさが際立ちますが、正直なところどこにでもある普通の境目論争にすぎません。ところが、近世以降の軍記物の影響か、これらの物語は、実に楽しい合戦譚として脚色されてきたようです。
事実と創作が混乱するのを避けるため、これらの楽しい物語については、藤原姓神主家の居城・桜尾城の記事に書きました。気になる方はそちらをご覧くださればと思います。
最初の「神領争奪戦」に失敗し、捲土重来をはかるも大内氏に邪魔された安芸武田氏は、なおも厳島神領を手に入れることを諦めてはいませんでした。その後も、両者の抗争は続きますが、その「やり方」が変ります。つまり、いきなり大軍を率いて本城を攻め取ろうなどと考えずに、配下の在地勢力たちにより、各所に散らばる厳島神社の神領を直接掠め取っていくことにしたのです。最初からこうしていれば……と思わなくもないのですが、これも時代の流れでしょうね。かくして、厳島神社の神領は敵対する武家たちによって、だんだんと浸食されていったのでした。
はぁ。神をも恐れぬ輩だなぁ。厳島神社を愛する俺としては、寄進はしても横領はしないぞ。ちなみに、今回待望の『芸藩通志』を手に入れた。ミルに読みこなせるはずはないけど。「神領争奪戦」については、ほとんどの本に載っていたよ。その多くが「出典なし」だから困ってる。
典拠の確認が取れてから載せろ。……。一昔前の郷土史は、出典を載せないのが普通だったのか!? 本当に不明が多いな。
郷土史って、やたらボリュームが多いんだよ。通史と史料編で分かれていたりする。典拠は史料編で確認するんだよ。ただ、俺が確認した『佐伯郡誌』は大正時代の復刻版。古文で書いてあるとか言ってミルがぶっ倒れた。典拠はないけど、「厳島神領戦」から「厳島合戦」までノンストップですごいことに。最終的に、近代まで飛んでる。毛利家、山口から来てる話だ(←長州征伐なんたら)。
まさに密度が濃い書籍だ……。『広島県史(中世)』……。神社の話は古代からでは?
そ。佐伯鞍職からだもんな。資金が尽きたんだよ。そもそも流通量が少ない。全巻セットで二桁頼んだんだけどね。さすがに無理だった。山口県史も中世だけ流通してないだろ? 全巻セットはどえらいことになる。図書館行けばタダなんだけどね。
(図書館に並んでるのは、他の国の本ばかりですね。旧国名でね)
神官・佐伯親春と大内氏について
さて、歴史書類、郷土史類両面から、安芸武田氏と厳島神主家の「神領争奪戦」についてみてきました。いずれも活躍したのは「佐伯親春」なる人物であり、神主・教親ではないことになっております。上述の通り、普通に厳島神社の神官として、このようなお名前の方がおられても何ら不思議はありません。ただ、大内氏との関係について考える際にはちょっと注意が必要になります。
神主家と安芸武田氏の争い、第二回の時、大内教弘が援軍として神主家を助けました。これは、娘婿・佐伯親春からの要請に応えてのものです。『新撰大内氏系図』を見てみると、教弘娘の一人が、「神主・佐伯親春妻」となっていることがわかります。これ、大問題です。厳島神社側には、親春なる神主はおらず、そもそも、神主なら藤原姓のはずです。ということは、大内氏と婚姻関係を結んだのは、神主ではなく、配下の神官だったとなります。いかにも、佐伯親春が活躍し、しかも、舅として大内教弘が登場しますので、『系図』が「神官」を「神主」と誤ったものと感じます。
あるいは、もう一つの可能性として、教弘の娘は神主に嫁いでいたけれども、『系図』が名前を書き間違えたこともあり得ます。佐伯親春ではなく、神主・教親の舅であったとしても、援軍には当然来てくれるはずですから。どちらが正解なのかはわかりかねます。
東西引き分け
安芸武田氏との戦いに華々しく勝利したのが神領争奪戦第一部とすれば、大内氏との戦いは第二部であり、神主家滅亡への序曲です。そもそも、神主家は大内氏の勢力と結びつくことで、勢力圏を維持してきたように見えます。そのまま、庇護下にあることを続ければ、その後のことはなかったかと。ただし、安芸武田にしろ、大内にしろ、究極は「自らの勢力範囲を拡大したい」というのが本音だろうという点では同じという見方があります。神主家サイドからしたらそうでしょう。先の古い郷土史のご研究を引用した意味もそこにあります。
この庭園のあり方としては、どうしても歴代当主さまがたを贔屓にしてしまいますけれども、大内氏が安芸武田氏と勢力争いをしていたことも、勝つためには手段を選ばず、神主家なんてどうでもいい。安芸国を支配したいと考えていたであろうことも事実と思われます。ただ、だからといって一方的に大きい国だからって威張るなというような簡単な話では片付けられない側面もあるのです。安芸武田と仲が悪く争いが絶えなかったことは事実です。ぶっちゃけ滅ぼすまで戦い続けたといっても過言ではないかも知れません。ですけど、揉め事の種を潰して行くこと=治安維持、彼の地が平穏無事であることに繋がります。天下統一って概念はそもそもまだなかったと思われますが、尼子経久みたいなのが出て来て背後を脅かされている事態に、緩衝地帯になっている安芸国を「統一」しないとという思いくらいは芽生えていたでしょう。そもそも、守護として彼の地を統治してたんですから。そんな中で、相続争いが勃発。これは捨て置けません。どちらに味方したところで、「選ばれなかった方」は反抗するはずですので、喧嘩両成敗以外に道はなかったものかと。
大内氏の桜尾城摂取はそんな気持ちからと推測します。いや、単に虎視眈々と安芸国狙ってたんだと思う方はそれでもかまいません。ご本人に確認はできないですから。ただし、ことはそう簡単には進まなかったんですよ。昔であれば、大内氏が怒って桜尾城占拠されちゃったよ。ごめんなさい。仰せの通りに従いますから、神主やらせてくださいで終わりです。ですけど、周辺諸国(というか諸家)もバラバラ。守護が一喝したら大人しく撤退とかないですよ。だったら安芸武田と手を組もう。なんだったら尼子経久呼んでくるといくらでも道ができてしまっていました。ですので、神主家離反で騒然となる安芸国は、結局義興代には鎮められなかったんです。見た目上は落ち着きますが、後ほどまた叛きましたからね。順追って見ていきましょう。
藤原興親の死と神主家の分裂
そもそもの発端は、相続争いと書きました。兄弟姉妹……いえ、兄弟相争う、伯父と甥が争うなんてことはざらでしたから、ここでもか、となります。ですけど、大内氏の統率力が強ければ「跡継はお前だ!」で終わりです。終わらなかったのは、大内氏が弱くなったというよりも、周辺諸国が強くなったからと言っておきましょう。足利義稙の復職騒ぎで、義興が上洛。支配勢力下にある国々の人々もともに従いました。厳島神主家も例外ではありません。ところが、神主・興親は上洛中に病のため亡くなってしまいます。この人に立派な一人息子がいれば、恐らくなんの問題もなかったのです。しかし、実子に恵まれませんでした。となれば養子となりますが、生前、これと言った取り決めがなかったのか、元気だったお人が急に亡くなられたかで間に合わず。跡継は誰に? ということが問題となりました。この時、跡継候補になれそうだったと思しき甥二人もともに上洛しており、義興の傍にいました。そこで、「私にやらせてください」と申し出。「よかろう」と言えばそれまでだったのですが……。問題は、名乗り出た者が二人いたことだったりします。迂闊に選べませんよ。
なんと、前神主の死についてはすでに情報が漏れ伝わり、国許では早くも「跡を継ぐのはこの方以外ない」と思う人を擁立しての内輪揉めが始まってしまっていました。本人たちが帰国してもいないうちにです。この状況はかなりまずいですよね。足利義教がクジ引きで選ばれた逸話を思い出すたびに「最高じゃん」って思うのは執筆者だけでしょうか。ここで何者かを指名したところで、絶対に「否」という意見は出て来ます。「だったら厳島大明神の御前でくじを引くのだ!」と言わなかったところが凌雲寺さまのいいところ(?)なんですが。お前らどうせ揉めるだろうから今後は当家が直接支配することにするって、そんな雰囲気でいきなり本城摂取とか。そりゃ黙っていませんよね。「なんということか。だが仕方ない。長いものには巻かれよう」ってなったら、物語的にも面白くないです。
黙っていなかった藤原興藤は、大内氏に奪われた桜尾城を奪い返し、自ら「神主」を名乗りました。安芸武田もこれを熱烈に支持。神主家のためというより、大内と揉めてるところと手を組むという自然な流れです。でもって、神領衆からそのた国人衆も真っ二つ。元より、安芸武田家臣は当然のことながら、なんとなくどっち派。常に風見鶏。色々でしょう。乱れたら鎮めなければ! こうして、血戦七尾城どころではない大混乱が、義興・義隆二代にわたって続いたのでした。
東西二派分裂
「防芸引き分け」って有名ですが(陶と毛利が喧嘩別れしたあれです)、厳島神主家の分裂は「東西引き分け」といいます。呼び方などどうだっていいのですけども。では、東西両陣営はどんな感じだったんでしょうか。まとめておきます。
- 友田上野介興藤(神主興親の甥)
- 宍戸治部少輔(五日市、光明寺城)
- 厳島の島中ノ衆 ⇒ 後、西陣営に鞍替え
- 羽仁美濃守(草津城主)⇒ 後、西陣営に鞍替え
- 大聖院座主⇒ 後、西陣営に鞍替え
- 児玉治部丞(島中之衆)⇒ 後、西陣営に鞍替え
- 小方衆(西陣営と紛らわしいが別物)
- 支持勢力:武田光和(安芸武田氏)
拠点:桜尾城
- 小方加賀守(神主家支族、もしくは興親甥)
- 新里若狭守(厳島の役人)
- 野間四郎
- 阿曽沼弘秀
拠点:藤懸城
東西に別れた神領衆は、数年間におよび抗争を続けますが、騒ぎが大きくなったのは、当然、大内&安芸武田など大勢力の介入によります。流れを追っていくと、以下の通りです。
- 永正五年(1508)十二月、上洛中の神主・興親客死
- 永正九年(1512))頃から、東西抗争開始
- 永正十二年(1515)二月、武田元繁都から帰国 ⇒ 大内への恭順をやめ、領土拡大開始(河内城を攻撃するも、撤退。己斐城を包囲するも、有田城の小田信忠が吉川基経に寝返ったために銀山城に戻る)
- 永正十五年(1518)正月十六日、島中ノ衆、草津城主羽仁美濃守が西方に鞍替え、大聖院座主、児玉治部丞等も同調し、東方・宍戸氏の役人は島外に撤退。⇒ 美濃守は厳島を前役人・新里に返還
- 三月三日、東方・五日市、廿日市、小方衆(小方加賀守とは別系統と思われる)等は、 小船七〇~八〇艘で厳島を奪回。西方・島中ノ衆は九日早朝、大野に渡る。
- 羽仁美濃守、野間四郎、阿曽沼弘秀等は、永明院宮崎山(五日市)築城。宍戸氏に対抗
- 大永元年(1521)正月十四日、東方・小方衆は小船七〇~八〇艘で、勝山城(厳島)に襲来、島中ノ衆・児玉治部丞が討死。東方は一夜陣を取ったが、翌日未明に敗退。
- 大永元年(1521)十月、大内義興帰国。神領直接支配を開始。
「直接支配」って何? ってことですけど、なんのことはない、自らの家臣を「城番」として配置したってことです。
- 石道本城(五日市町) 杉甲斐守
- 己斐城 内藤孫六
- 桜尾城 島田越中守 ⇒ 大藤加賀守、毛利下野守(前神主興親の縁類陶安守弘詮の家臣)
大内氏との争い
大内氏の桜尾城接収と興藤の抵抗
当たり前ですが、神主家からしたら、揉めている東西「どっちが神主か裁断お願い」って気持ちです。そこへきて、その件は無視され、いきなりの「直轄支配」。面白くないのは当然です。特に、友田興藤は怒り心頭で、大内氏と完全に断絶し、安芸武田、出雲尼子と結びました。内輪揉めは、大内氏という大勢力の介入に対する抵抗へと変化しました。興藤が難なく桜尾城を奪回してしまったため、以後はそれを取り戻さんとする大内氏との戦闘が始まりました。以下のような流れです。
- 大永三年(1523)三月二〇日、陶興房の命により、長崎元康が桜尾城に入り、大多和但馬守(陶隆満代)とともに興藤襲来に備える
- 四月十一日、友田興藤は、武田光和らの援助の下、 己斐城の内藤孫六、桜尾城の大藤加賀守、 毛利下野守ら大内氏が配置した城番を追放。このうち、石道本城の杉甲斐守は廿日市で討死。 興藤は、桜尾城に入り「神主」自称。
- 八月五日、陶興房、弘中下野守は、大軍を率い、門山城(大野)に陣を置き、友田で神領衆と戦闘。
- 十八日、大将・弘中武長率いる警固船が厳島を襲い、廿日市の島之衆と番衆は厳島から撤退。
- 十月三日、興藤方警固船が厳島を攻撃するも、敗退
- 十一月、佐東兵が石道城を攻撃。城主・木幡興行は防ぐことができず、和睦を願い出た。興行の親族八人に切腹させ、興行は城を出て、三宅の円明寺に入った。同じ日、弘中越後守が来て五日市を焼く。五日にもまた来て五日市を焼いた。弘中軍が撤退するのを攻撃し、野間刑部大輔等二十余人を斬る。
- 大永四年(1524)、陶興房が大野城を攻める。
- 五月十二日、武田光和、興藤らは、河内城を救援するため大野女瀧で大内勢(陶興房ら)と戦ったが、河内城主・大野弾正少弼が陶方に内応し城に火を放ったため、敗退。撤退する與藤と光和を陶兵が追撃して、七八十人が戦死。
- 六月、義興・義隆父子が大挙して厳島に出陣。
- 六月一日、大野陣の糸賀平左衛門尉ら神領衆は、嶺高で大内勢と戦闘
- 九日、同上、浅原で戦闘
- 大内義興、義隆父子は、厳島・勝山城に本営を、陶興房は岩戸山、吉見、杉、内藤氏は篠尾に陣を置き、桜尾城を包囲
- 七月三日、陶興房等が来て桜尾城を囲み、攻撃開始
- 七月二四日、陶衆が、桜尾城の二の丸まで切り入る。周防兵は車櫓を造り、北下りに押寄せて攻撃してきた。
- 二十五日、二十九日、八月十一日、二十三日、大内方は桜尾城を攻撃。城内は、野坂藤三、糸賀中務丞、糸賀平左衛門尉(中務丞)、同平左衛門尉、福田治部丞、三井右衛門尉等が活躍。矢・鑓・石などで防戦。陶興房配下の将兵らを、北面水之手の虎口、登小口の堀にて撃退(勝屋甚兵衛尉等十余人戦死)。いっぽう、大内勢は車櫓を造って、北側から攻撃をしかけ、対する城内は笛、太鼓で囃しながら防御したが、力尽きる。
和睦と興藤の引退
結局のところ、両者の勢力が拮抗していたとも思えませんが、桜尾城は難攻不落の堅城ゆえにか、容易には落とすことができず、ともに損害は甚大で疲弊するばかり。最後は、吉見頼興の調停で、和睦が結ばれました。その条件は、興藤の神主引退とその甥・藤太郎(兼藤)による神主職相続でした。
兼藤は病没して、神主職は興藤の弟・広就に移ります。ただし、実際には興藤が神主家の実権を握り続けており、一見すると長いゴタゴタの挙げ句、結局興藤がゴネ得して神主に落ち着いたじゃないかという感じがします。むろん、和睦といっても「大内氏に帰順する」というかたちをとって城の陥落を免れたような面もありますが、元をただせば神主家、大内氏の従属勢力だったような趣だったわけで、そんなことを考え合わせても、ますます、元の鞘的な感覚は否めません。
実際のところ、大内方の本音は安芸国まるっと支配ですが、大人しく恭順を続けてくれるならば、それはもう、味方勢力として安泰なわけですから放置もあり得ます。ただ、あれこれ考えておられなかった最大の理由は、当主・義興の体調が思わしくなかったことに尽きます。代替わりという一大イベントに直面し、火種は揉み消しておく必要があったんです。もしも、義興の寿命が許せば、この展開はどうなっていたのか、それは誰にもわかりません。
藤原姓神主家の滅亡
大永四年(1524)十月十日、新神主・藤太郎は、大内義興に対面して、恭順の意を表明。ほどなく、病死した藤太郎にかわって神主となった広就も、享禄元年(1528)八月二十日、同じく義興と対面して同様に挨拶。翌年、義興が病没し、大内氏の当主が義隆にかわります。「代替りの挨拶」として、享禄三年(1530)十二月十三日、広就は山口まで赴いて義隆に対面。見た目上は穏やかに友好関係が続いているように見えますが、実際はそんなものではありませんでした。
興藤引退で藤太郎(兼藤)⇒ 広就と移動した神主職ですが、義興存命中こそ、静かにしていた興藤は、その死去によって、完全に事実上の神主同様に振る舞い始めます。元より大人しく引退する気などなかったのでしょうが、代替わりのドサクサに紛れ完全に実権を取り戻した感じです。「名義」なんて、案外とどうでもいいものなんですね。
神主家として完全に独立したいと強く望んでいたらしき興藤は、どうやら、その機会をうかがっていたようです。興藤が大内氏に叛旗を翻したのは、天文九年(1540)でした。先に、一旦和睦して帰順の意を表明したのが、大永四年(1524)ですから、じつに十六年も待ち続けたことになります。
では、かくも長きに渡り、機会を待っていた興藤を突き動かすことになった出来事は何かと言えば、どうやら背後で出雲の尼子氏と繋がったようです。九月に尼子晴久が、吉田郡山城攻撃すると聞いた興藤と広就は、翌天文十年(1541)一月十二日能島、来島、因島村上水軍の警固船二〇~三〇艘で厳島を占領してしまいます。
しかし、わずかに三日後の一五日、黒川兵部少輔隆尚率いる大内氏の警固船二〇〇~三〇〇艘が厳島に襲来。大鳥居沖の海戦に敗れた興藤方は、再び厳島を大内氏に奪われ、桜尾城への撤退を余儀なくされました。
桜尾城に立籠った興藤方は、神領衆等わずかに五〇〇余騎。三月中に、小競り合いや、大内方の被害もあったものの、岩国、門山と移って来た大内義隆は、三月二十三日に、七尾に陣を置いて桜尾城を包囲。神領衆には、羽仁、野坂、熊野ら興藤を裏切る者もあり、四月五日の夜半に城を出てしまいます。城内には、なんと興藤ただ一人が残るという有り様でした。興藤は城に火を放った後自害し、果てます。いっぽうの、神主・広就のほうは、五日市城の宍戸弥七郎をたよっていましたが、こちらも、八日付けで、同じく自害して亡くなりました。
大内方は、六日に興藤の、九日に広就の死亡を確認(首実検ってやつですね。気持ち悪い)。桜尾城にて勝鬨を上げたと伝わります。ここに、藤原姓・厳島神主家は滅亡しました。
ここまで来て、いつも謎に思うのは、最初「東西引き分け」てた時の、小方加賀守さんはどうなったんだろうってことなんだけど……。どっかに書いてあるはずだけど、今のところそこまで調べられてなくて、ごめんなさい。ちなみに、子孫は毛利家臣となって続いた模様です。
藤原姓厳島神主家人物紹介
『大内氏実録』は当たり前ですが、大内氏と無関係な他勢力については記述が薄いか、そもそも言及されていないです(★の人だけでした)。あまりにもですから、広島県側の資料にもあたり、歴代神主についてまとめました。なお、佐伯姓まで広げる余裕は今のところないので、後ほどとさせてください。
中原親能—親実―親光―親宣(親定、親証)―親範―親顕―親直―親詮(親明、了親)―親胤(親頼、親弘)―親景―親藤―教親(教文)、□□※―宗親―興親=興藤(藤太郎)=兼藤―広就 (教文)
※―□□※※、興藤、兼藤
※※広就
(典拠:『棚守房顕覚書』、『桜尾城とその時代』ほか)
佐伯景弘
「従四位下安藝守佐伯朝臣景弘、治承四年十一月三日證文有之」
佐伯景信
「散位朝臣景信
壽永元年三月日安藝國高田郡内七箇所郷譲状有之」
佐伯清元
「建久七年十二月證文有之
鎌倉右大臣實朝公、承久三年当國佐西郡壱万六千貫御寄進有之、高倉院別当院次官親能子息周防前司親實神主職給、廿日市桜尾在城、親實ヨリ掃部頭廣就迄十七代、承久三年ヨリ天文十年迄三百拾五年神主相続、天文十年大内義隆ノ為亡、神主家断絶ト云々」
斎院次官 親能
「左馬守義朝養子
建久二年寅初而入武家」
中原親実
鎌倉幕府の重鎮の一人、京下りの輩・斎院の次官、中原親能の次男。承久三年(1221)、幕府から厳島社神主職を拝任。 元は周防守護。鎌倉に住まいし、現地には赴任しなかった(『棚守覚書』『芸藩通志』ともに桜尾に来たとしている)。文暦二年(1235))五月九日、安芸守護に補任。焼失に遭っていた、厳島神社を再建。任務完了後は、安芸守護職を解かれた。
「周防前司親實」
藤原親光
厳島社で祈祷実施。巻数を幕府に贈る。
「十五位上安藝守朝臣親光
八条院蔵人
建長七年十一月十八日
勅使御物證文有之」
藤原親宣
永仁二年(1294)、幕府より、神領桑原新庄、 志路原、平良庄預所職、井原村の領地を安堵される。
「一級内昇殿」
藤原親範
永仁六年(1298)、父・親宣より相続した「厳島神主職、社領等と京都地 (五条坊京極の榊殿)、六波羅地(六条車大路)、鎌倉地(東御門)の屋敷地」を幕府より安堵される。

この頃にはもう、安芸国に入っていたと思うけど、なおも、厳島神主家の家屋敷は鎌倉にもあったんだね。
現地入りして調査しましたよ。「東御門」というのは、鎌倉幕府の四つの門のうち、東の御門のことです。今も地名として残っているそうです。
「兵庫守 金剛寺殿
周防守 永仁正安年中」
藤原親顕
時すでに、南北朝の動乱期に入り、神主家は足利尊氏方に与した。正慶二年(1333)正月、六波羅から天王寺に派遣された親顕は、地頭、御家人五十余騎を率い、城郭を構えて、楠木正成の兵と戦う(十九日)。 建武二年(1335)正月十六日、小幡合戦で北畠顕家、新田義貞と戦い、戦死。
「蔵人太夫 下野守
小幡合戦討死
建武三年丙子二月十八日尊氏将軍當社御参詣、此時造化保幷己斐村御寄進御證文、神主下野守親顕戴之」
藤原親直
足利尊氏から、厳島社造営料所として、造果保(東広島市高屋町) 七〇〇貫、廻廊造営料として己斐村を寄進される。このうち、造果保は、義詮代に小泉氏平に与えられたことから、神主家と小泉氏にこの地を巡る争いが起きた。その後も、平賀氏らと抗争が絶えなかった。応安元年(1368)には、 造果保に要害を構えている。
親直は、周防から安芸に進出してきた大内氏と結んだ。大内弘世の娘が、厳島神主の妻となっていることは、『新撰大内氏系図』にも書いてあるが、単に「厳島神主妻」とだけあり、誰と婚姻関係にあったかまでは不明。ただし、弘世との関わりは、親直期なので、親直である可能性は高い。
応安四年(1371)十二月、大内弘世・義弘父子が今川了俊を助けて、九州で戦った際、親直も従軍した。永徳元年(1381)七月、大内義弘より、厳島社造営料所として、志芳庄二分方地頭職の寄進あり。
「掃部頭、下野守、龍翔寺殿、延文年中」
藤原親詮
至徳四年(1387)五月三〇日、七月二一日小早川春平に、神主親詮による己斐村押領等、安芸国衛領に対する違乱の停止と、東寺雑掌への打渡しの幕命がくだる。要するに、この頃、神主家による国衙領の横領が進んでいた模様。
嘉慶三年(1389)三月十日、将軍義満が、厳島・黒木の御旅所(義弘が将軍のために建設)に宿泊、翌十一日社参。
応永四年(1397)三月、義弘弟・満弘、盛見の少弐宗間討伐に従軍、小倉で陣没。
「左近太夫将監、掃部頭、親成寺殿、於豊前小倉逝去
嘉慶三年已巳三月十日、義満将軍當社御参詣、神主掃部部親詮御目見申上候」
藤原親胤(親弘、親頼)
応永四年(1397)七月二十五日、神主親胤は、武田信在と佐東郡内・己斐、今武、定順、利松、坪井、古河、 堀立、吉次等と諸免田以下の神領地で争う。安芸守護渋川満頼に、この地を親胤に宛がう旨幕命がくだる。同じく、八月十八日、武田遠江五郎は、杣村内大塚、久知両村に対する押妨を止め、厳島社家雑掌が知行すべきであるとされた。
応永六年(1399)十月、義弘が義満に叛くと、神主親胤も義弘に従い、杉重運と共に堺・南郭を守った。義弘、杉重運の討死後、親胤は義弘弟・弘茂と共に幕府方に降伏。許された後、「親頼」と改名。
「親頼トモ、左近太夫将監、安藝守、初親頼後二親弘ト改ム
応永十八年十二月十三日義満将軍ヨリ拝領太刀一腰、神主安藝守親弘寄進ノ証文有之」
藤原親景
「安藝守」
藤原親藤
親藤は永享七年(1435)頃、安芸守護山名氏の命で北九州に従軍。永享八年(1436)、宍戸安芸入道智元が押妨していた神領高田原を親藤の代官に渡すよう幕命がくだった。 なお、親藤は、「鷲図左近太夫」と名乗っていたらしく、『桜尾城とその時代』では、大内氏一族・鷲頭氏と、「何らか関係があったのではなかろうか」としている。
「永享五年癸丑三月一日丑尅、客人御前造営、神主掃部頭親藤勤之、百日百夜精進潔斎之事、」
藤原教親
教親は親藤の実子ではなく養子で、毛利氏の一族・長屋泰親の弟(長屋氏の祖は毛利元春の四男忠広)。
忠広―忠親―泰親
萩藩譜録長屋藤兵衛親之の系図に「鷲図下野守、初掃部助、母麻原広国女、 厳島神主鷲図左近太夫親藤家続」とあるという(参照:『桜尾城とその時代』)。
文安二年(1445)、将軍・義政が、神領を武田信賢に与えようとしたのを、拒否。信賢は康正二年(1456)にも、将軍家からお墨付きをいただいて、桜尾城に攻め寄せてきたが、教親は五日市城を築いて応戦。水陸両方面から攻めたてられた桜尾城は危機一髪と見えたが、大内教弘の援軍に救われた。
宝徳二年(1450)幕府に安堵されているはずの佐東、高田、賀茂各郡の厳島神領(将軍の御教書あり)が、周辺の武家(武田、毛利、宍戸、平賀、天野など)らによって押領されている窮状を訴えた。
応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が起こると、神主家は大内政弘とともに、山名宗全率いるの西軍に与した。大乱終結後の文明十年(1478)十月、大内政弘が、豊前、筑前平定のため渡海するのに従軍。
長享元年(1487)頃、平賀弘宗が造果保を押領。教親の訴えにより、将軍・義尚は、神主家が知行するよう命じた。同じ年、教親は、龍文寺の高僧・金岡用兼を招いて、洞雲寺を造営。長享二年(1488)には、鹿苑院で、前将軍・義政と対面。永正元年(1504)十二月七日、教親は没し、洞雲寺に葬られた。法名:洞雲寺徳叟教文
「寶徳二年言上証文有之(神領ヲ横領サレタコトにツイテノ訴状・秘寶厳島十五頁二在リ)長享二年甲戊八月廿日刀一腰銘宗近寄寄進証文有之
文明七年友成刀一腰寄進
文明十一年佐西郡平良庄速田社鐘御寄進、願主神主藤原教親」
藤原宗親
教親の嫡男。伯父・長屋泰親に跡継ぎがなかったため、娘婿として長屋氏を継ぎ、吉親、吉忠の二子がいた。『桜尾城とその時代』は、宗親が「長屋氏の相続と神主職を兼ねていた」と推測なさっている。
宗親の孫・僧良弁、曾孫僧・良政は、いずれも厳島座主(=大聖院の住職)となった。法名:円満寺殿円満順覚
「掃部頭、薬師院殿
藤原興親
永正五年(1508) 二月、大内義興が、前将軍義植を奉じて上洛すると、神主家もこれに従軍。十二月八日、神主興親在京中に病死、摂州兵庫浦・福厳寺に葬られた。 法名:洞雲寺殿江山禿叟
「又四郎、瑞光寺殿
永正五年戌辰今出河殿下向在テ帰洛ノトキ上京、在京ノ内辰十二月八日逝去、此時神主家断絶、小方加賀守友田上野介両人神主興親ノ甥ナラバ、東西與引分別在京在亭神主職願、此間東方ハ五日市宍戸治部少輔始め寺社桜尾城二立籠、西方ハ新里若狭守始め藤懸城二楯籠、数ヶ年合戦、其後大永弐年壬午年友田上野介神主家相続」
小方加賀守
神主家の一族とされる(『棚守房顕覚書』等書物によっては、興藤同様、興親の甥となっており、いずれが正しいのかは不明)。小方村(大竹)に住んでいたため、小方と称したと思われる。のち、毛利家に属した小方氏はその子孫ではないかと考えられている。前神主・興藤とともに、上洛していたとされ、興藤とともに断絶した神主家の相続を願いでた。神主職を安堵された形跡はないが、終始大内氏に属していたと思われる。
友田興藤★
『大内氏実録』には、「もとは佐伯氏」とあるが、典拠不明。友田村に住んでいたことから、友田と称したと考えられている。前神主・興親の甥。興親とともに、義興に従い上洛していたが、興親の死により神主家が断絶すると、小方加賀守とともに相続を願いでた。ところが、義興はこれを許さず、桜尾城始め、神領を直轄支配し、自らの城番を置いてしまった。これに憤った興藤は、武田光和らに援助を求め、大内氏の城番を追い出して桜尾城に入り、神主を自称した。
これを端緒に、大内氏との抗争が始まったが、興藤側は旗色悪く、吉見氏の仲介で和睦。大内方の条件を汲み、甥・藤太郎を義興に拝謁させて新しい神主とし、自らは引退した。藤太郎は程なく亡くなったため、弟・広就に神主を継がせ、なおも大内氏への恭順を続けたが、裏では虎視眈々と独立を狙う。
義興の死後、義隆代になると、出雲の尼子晴久と呼応し、再度叛旗を翻した。
義興亡き後、興藤は事実上の神主として実権を握っていたが、村上水軍の警固船を味方につけて厳島を襲うも奪取することはかなわず、桜尾城に籠もって抵抗するも、破れて自ら命を絶った。遺体は洞雲寺に葬られた。法名:東光寺玉叟長琳(洞雲寺過去帳には四月六日とある)。⇒ 関連記事:洞雲寺(友田興藤の墓)
厳島神社外宮を修築するなど、神主としての職務も執り行い、また、興藤は幾度となく連歌会を興行していた文芸の人でもあった。
興藤主催の連歌会
・永正十五年三月五日、京都、肖柏の発句で何人百韻を張行、七句詠
・永正十五年三月十八日、何船百韻、七句詠
・永正十五年年五月十四日、京都、何人百領興行
(参照:『戦国武士と文芸の研究』)
「兵庫少輔、上野介、天文九年庚子外宮御寶殿、神主藤藤下知、本願道本上人再興、同十年四月五日桜尾城於焼死、」
兼藤
「兼藤 藤太郎」
友田広就★
幼名:四郎、興藤の弟(『大内氏実録』では次男とする)。掃部頭広就と改名。
「桜尾城陥落後、大田兵栗栖某を従えて、五日市城にいきついた。城主・宍戸彌七郎が城の上から縄を下ろし、これを取って城に入らせた。栗栖は大田に還った。翌日、周防兵が来て五日市城を囲んだ。
八日、彌七郎は広就を自殺させた。広就は弓が強かった。そこで三本の矢を放ち、その弓を折って自殺したという」(『大内氏実録』原文文語文)
「同六日五日市城ニテ切腹、十七代亡」
※なお、藤原姓神主家の菩提寺は洞雲寺であるが、ほかに、歴代当主の御霊を祀るものとして、廿日市天満宮に相殿として「新八幡宮」がある。これは、元々、桜尾城の鎮護として城内にあった八幡宮が遷されたものとなる。
佐伯景教
大内氏が任命した神主。神主家の一族・小方加賀守の娘婿、杉刑部少輔隆真。名ばかりの人。能島在城。
「天文十三年辰六月廿九日地御前御宿院鐘神主佐伯景教ト有、神主と社家同輩二可仕旨、大内義隆公神主景教江被仰渡候証文有之」
大内氏支配下の厳島神主家
さて、厳島の神官たちは、周防長門のような「他所の国」から来た人たちよりも、地元の英雄・毛利元就公の御人徳に平伏した。当然だろう!! と思っていました。しかし、実際にはそのように簡単な話ではありませんでした。佐伯景弘が平家の庇護下から離れ、壇ノ浦で宝剣を探していたのも、「探すよう命じられた」と思い続けていました。ですが、「自ら名乗り出で必死で探していた」ようです。まあ、たいして重要事項ではなく、確たる典拠があるわけでもないですが。つまり、「機を見るに敏」である方々は、長い物にまかれることで、生き残りのために奔走します。厳島の人々にとって、大内義隆が倒された「国難」は「他所事」でしたが、毛利と陶が断絶し、陶方についていた神領衆の城が奪われていったことのほうが大激震となったのです。
この項目は長くなりそうですし、まだ調べもついていませんので、後の課題といたします。
この記事には続きがあります。もっと調査が必要と考えています。しばらくお時間ください。お待たせしてすみません。作業完了したらこの文言は消えます。
参考文献:『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『桜尾城とその時代』、『安芸厳島社』、『棚守房顕覚書』、『芸藩通志』、『佐伯郡誌』、『戦国武士と文芸の研究』
【更新履歴】20260126 藤原姓神主家についての部分を大幅にリライト。





