正護寺&陶氏館跡(陶)

正護寺

山口市・陶にある寺院。

文字通り、陶家ゆかりの寺である。陶家は大内家傍流右田家からわかれており、弘賢の代に「陶」の地に移り、地名を姓とした。その「陶」の地がまさしくここ。当初は居館もこの地にあった。

寺の歴史は古く、開山は長府・功山寺の開山でも知られる傑山寂雄大和尚。また大内家滅亡後も、毛利家がメンテナンスをして用いていたが、大内輝弘の乱で戦火に遭い、焼失してしまった。
現在の寺院はその後再建されたもので、創建当時の建築物を目にすることはできない。寺院説明板によれば、寺の本堂は、戦火にあった後、陶家居館跡に移籍されたそうだ。そもそも寺じだいが居館近くに建てられたものだから、元々の場所からそんなに大きく離れてはいないだろう。
だが、大量にある供養塔にはゆかりの人物のものがあるし、寺院周辺が、そのままかつての「陶」氏の居館所在地であるから、当時を偲ぶには絶好の地であることに変わりはない。

現在は、のどかな田園風景の中にあり、地元の方々の墓地もあって、普通にご近所のお寺、という雰囲気である。

寺を建てたのは、二代目の弘政でここに開基塔と並んで、「正護寺殿」の名でその供養塔がある。
言うまでもなく、ここで最も大切なのは、隆房「分骨塔」である。

ところで……分骨塔、と軽く書いてあるものの、とてつもなく悩んでしまう。つまり、分骨塔というからには、遺骨の一部を祀ったものであろう。それはどこから来て、誰が作ったのか、それについての記述がないからである。

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隆房様の「遺骨」は、毛利元就によって、洞雲寺(廿日市市)で供養されたことになっている。ただし、そこにあるのは首級だけであって、要するにこの時代、そうなってしまった人のそれ以外の部分(首から下、つまり胴体ね)は、回収されない。
ということは、普通に考えれば、首級部分の遺骨から分けられた、となるが、いったい誰が?
あるいは、いや、首級は洞雲寺なんだから、ほかにはないよ、となれば、胴体の一部!! となるのだが、この場合、さらに謎が深まる……。敵方に必要なのは、「上だけ」であるし、「下」を持ち帰ってご丁寧に分骨したものがいるとは到底思えない。やるとしたら、ゆかりの人物、ということになるであろうが……。
そう考えると、これは、本当に分骨塔なのであろうか? という単純な疑問が湧く。
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何一人でブツブツ言ってんだよ? この陶晴賢って誰?
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……

絶対に外せないゆかりのスポットであることは間違いない。深く考えずに、普通にお祈りしよう。

無数に並ぶ石塔の数々

入り口付近に、「ゆかりの墓」について書かれた看板が建てられている。誰の墓があって、それはどれなのか(何番目のものか)が詳述されている。これに目を通したうえで、大切な供養塔を見落とさないようにするとよい。なにしろ、供養塔、墓らしきものの数が異常に多い。
有名なものは、陶隆房の分骨塔と呼ばれる供養塔。
さらに、開山者である傑山寂雄大和尚と、陶弘政のもの。弘政は「正護寺殿」と呼ばれており、開山塔と正護寺殿と書かれた二基がとなり合っている。

大内家滅亡後に起きた大内輝弘の乱の兵火で焼け落ちた寺院を再建した中興の祖・大円恵満禅師の墓もある。ほかにも多数ある墓碑は、いずれも歴代ご住職のものという。

三界万霊

説明看板によると、隆房様の二百五十年忌に地元「陶」の方たちが建ててくださった供養塚とのこと。有難いことである。

『ボウ虫墳』

さて、つぎが面白い。「多くの虫の死を悼みこれを供養したときの供養塚」(説明板)とのことで、『ボウ虫墳』という(説明板の文字、虫偏に方角の方で、ボウなのだが、変換できない。ごめんね)。

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だけど、多くの虫の死って……いったい何が?

木造薬師如来坐像

山口県有形文化財「木造薬師如来坐像」がある。平安時代初期の作品とされ、県内では最も古い木製の仏像だという。この像は、事前に寺院に連絡をすれば、見せてもらうことができる。木尊三尊佛と開山僧の木造は創建当時からのものという。

本堂の正面の門は、北川清助という人が、「小郡代官所の正門」を移してきたものである。もちろん、当時の代官所の門、という意味で価値はあろう。
たいへん貴重なものなので、訪問予定の方は、忘れずに事前に声をかけておきたい。

寺内にはほかにも、長州藩時代の由来も。維新の志士にもかかわりがあるから、興味がある人は要リサーチ。

陶氏居館跡(陶)

山口市・陶は、かつて陶氏の館があった辺り。
陶一門の先祖は、右田氏の傍流。ここ、陶の地を領地としたため、陶姓となった。
しかし、二代目弘政からは富田に移ったため、陶氏=富田のイメージが濃い。
さりとて、「陶」という響きに恋焦がれる人にとってここは永遠の憧れの地だ。
現在、館跡として史跡看板が立っているのは、周南市。
ここはそこに移る前の、元祖山口市・陶。かつて陶氏の館があった辺り。

始まりの地「陶」

陶氏の祖・弘賢は「陶」の地に住んでおり、そこで政務を執っていた。二代目・弘政が富田に館を移したため、それ以後現在に至るまで、陶氏=富田。館跡の説明板もそちらにある。
陶の元館前に、弘政は正護寺を建てた。なので、現在この寺がある付近が元々の館跡であろう。
正護寺は、毛利家の時代に焼失したものの、その後再建されて今に至る。

陶の風景

陶の地名は今もそのままである。のどかな田園地帯が広がっている。
付近には、一般の方々の墓所もある。
現在も、当時ここに館があったことを偲ばせる土塁の類が僅かに残るらしい。専門家に案内を頼めば、それらを目にすることができると思われる。
特に、案内板の類は見つけられなかった。

 

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