広島県東広島市西条下見の築地神社とは?
高皇産日神をお祀りする神社。東広島市内に点在する「菖蒲の前・水戸新四郎頼興」ゆかりの史跡の一つであると伝えられています。水戸新四郎は厳島神主家の女性を妻に迎えていました。この神社は、彼の妻女が氏神として建立したものとされています。
水戸新四郎の時代なので、鎌倉時代の創建となります。以来現在にいたるまで、地元の方々に深く崇敬されて今日に至ります。
築地神社・基本情報
ご鎮座地 東広島市西条下見
御祭神 高皇産日神
例祭 十月十一日
主な建物 社殿(本殿、弊殿、拝殿)、鳥居、狛犬、手水鉢など
(参照:由緒看板、『広島県神社誌』、建物には目視確認を含む)
築地神社・歴史
水戸新四郎頼興の妻の氏神社
これまた「菖蒲の前・水戸新四郎頼興伝説」ゆかりの史跡の一つです。しかし、ここには菖蒲の前さんのお名前は出てきません。かわりに、水戸新四郎さんの奥方が登場します。もう、これほど聞かされると、水戸新四郎さんが実在しないなどあり得ないのではないかと思えて来ます。
伝承では、二神山城は水戸新四郎さんが築いた居城ということでした。神社のご鎮座地は、まさに二神山の麓にあたります。奥方さまがこの地に、氏神を祀ったのがこの神社の起源です。以来、現在に至るまで、地元の方々の信仰を集めてきたとされています。
水戸新四郎さんが活躍したのは鎌倉時代ですので、延喜式云々からの由緒をもついにしえの社とは申せませんが、中世より延々と続くというのも極めて立派なことです。
祭神・「高皇産日神」
神社さまの御由緒看板には、上記のように書かれており、「たかみむすびのかみ」とふりがながふってあります。ん? 造化三神じゃなかったかな? と思いまして、『古事記』を紐解きましたところ、以下のようにありました。
天地初めて発くる時に、天原に成りませる神の名は、天之御中主神。 次に御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神 は、みな独神と成り坐して、身を隠し た ま ふ。
中村啓信. 新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.630-639). 角川学芸出版. Kindle 版.
ためしに、上の「高皇産日神」で適当に検索してみてください。出てきませんよね。ただし、『日本書紀』のほうには、「高皇産霊尊」なる神さまがおられ、これならば似ているな……と思いました。もちろん、神さま方のお名前はとても難解でして、幾通りもの読み方・書き方がございますので、神社さまの由緒看板が間違っていると疑っているのでは決してございません。こちらの知識が薄いため、神さまの名前からどのような神さまなのか調べようとしたところ、メジャーな呼び方ではないものが書かれていたらしい、という意味です。
天と地とがはじめて分かれたとき、 はじめてともに生まれた二はしらの神がある。これを国常立尊、 つぎに国狭槌尊と いう。 また別の伝ではつぎのようにいっている。 高天原に生まれた神の名を天御中主尊、つぎに高皇産霊尊、つぎに神皇産霊尊 と いう。
井上光貞. 日本書紀(上) (中公文庫) (Kindle の位置No.1244-1250). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.
なにゆえ、ご祭神にこのようにこだわるのかと言えば、理由は大有りなのです(後述)。氏神社にお祀りするとなれば、当然、その一族に深く関わる神さまであったり、あるいは、心から崇敬している神さまであったりするかと思います。ゆえに、水戸新四郎の奥方が、どのような神さまを信仰されていたのかを知りたいと思いました。
また、神さまは神仏習合の時代、ペアにある仏といっしょくたにされており、のちに近代になって分かたれた、という歴史があります。造化三神の筆頭・天御中主神は、妙見菩薩と習合しており、神仏分離の際、妙見を祀っていた社は天御中主を祀る神社に置き換えられました。
このような置き換えが行なわれていた可能性も考慮する必要があるからです。しかし、この高皇産霊尊については、とくに習合していた仏はいなかったようで、何も書かれていませんでした(参照:『日本の神様辞典』)
水戸新四郎頼興の岳母・大内長門守の娘
由緒看板によれば、水戸新四郎頼興の夫人となった女性は、「厳島佐伯氏の娘」。生来身体が弱く、幼年期には歩行もままならなかったとされます。その母は、「大内長門守の娘」であったことから、氷上山興隆寺の妙見社を深く信仰していました。そこで、娘の病が癒え、健康となるよう祈願したところ、歩けるようになりました。
こうして健康になった女性が、水戸頼興の許に妻として嫁いできたのです。建久年間(1190~9)のことだといいます。そして、建仁二年(1202)八月十日、この地に社を建立して氏神としたのです。年代まで明らかになっているところをみると、神社に古文書でも残されていたのでしょうか。
そこで、疑問が湧くのです。夫人の病を治したのは、氷上山の妙見社を深く信仰していたその母のお陰。でもって、その母は「大内長門守」なる人物から「厳島佐伯氏」に嫁いだ、と。まず、大内氏ゆかりの女性であれば、妙見を深く信仰していたことも頷けます。ここまでは何の問題もないのです。さらにいうと、弘世期以降、厳島神主家に嫁いだ女性は存在します。なので、そこも頷けます。しかし、弘世期以前のことは、ほとんど記録がなく、まして、女性についてなど、系図にも出てきません。
郷土史の先生(お名前は伏せます)曰く、これって、大内教弘の娘が厳島神主家に嫁いだ話を、地元の方が大好きな水戸新四郎伝説と結びつけてしまっている可能性はなかろうか、と。で、調べておいてね……って、ミルたちに調べられるはずが……。築山大明神さまの娘が厳島神主家に嫁いでいたことは有名です。だから、安芸武田と厳島神主家との神領争奪戦に介入したのでした。遡れば、弘世の娘も嫁いでいますし、系図に出て来ない女性が、ほかにも何人か嫁いでいても不思議はありません。しかし、悲しいくらい女性については史料がない。しかも、これ、建久年間とか建仁二年とか、鎌倉時代初期の話です。ますます史料はないです。およそ調べられないよなぁ、という感じです。
念のため、この年代頃、当主は誰だったのか見てみます。十六代・盛房、十七代・弘盛、十八代・満盛の頃でした(参照:『大内文化研究要覧』)。十六代・盛房は初めて「大内」姓を名乗った人として有名。同じく、周防権介、大内介として史料に名前が出始めるのがこの頃です。何しろ、彼も、十七代・弘盛も治承二年(1178)に恩赦によって島流しから帰国したというのが、文字史料にこの一族が現われる最初です。十七代・弘盛のところに「支配地」として「長門国一部」とあります。これは、源平合戦で、源氏方に味方したためにもらえた土地のことをいうようでして、のちに大内弘世が周防長門を統一し云々の頃とは次元が違うお話です。
文字史料に初めて現われたのが恩赦の書類というのも、なんだかなぁという感じですが、古い研究者の先生はすぐさまこれを、恐らくは驕り高ぶる平氏政権の横暴に反対して流されたのだろうなんて書いていて読むに耐えません(それこそ、どこにそんな証拠が? 単に平清盛嫌いなだけだろうと推察します。ワルモノに物申す、カッコいい構図ですからね)。しかし、最近、松岡久人先生のご本を読んでいた時、この「流刑」の理由として、あくまで推測ですが、平清盛と佐伯景弘の関係を挙げ、いきなり平清盛に陥れられるなんてことはあり得ず、むしろ、周防国とほど近い位置にあった、佐伯氏がなんとなく肥大化してきた大内の先祖たちが目障りで清盛に頼んで消えてもらったのでは(こんな書き方はなさっていませんよ。意味的にはってことです)というようなことを書いておられ、目から鱗だったんです。
そういう新しいご意見を小耳に挟んでから、この神社の由緒を良く見て見ると、大内氏の娘が嫁いだ先は、我々が厳島神主家=藤原となる以前の話なので、当然佐伯姓です(全然気付いてなかったよ)。源平合戦の源氏勝利で、平家のシンパだった厳島神主家・佐伯氏の運命が気掛かりとなりましたが、源頼朝が厳島神社(安芸国のではなく、地元にあったそれらしい)の信者であったため、お咎めは特になかったんです。藤原姓神主と交代させられたのは、承久の乱(1221)で上皇方についたせい。つまりこの時点では、厳島神社の神主家は佐伯氏が堂々と務めていました。平清盛の政権下であれほど栄えていた神社です。大内氏一族が、鎌倉時代にはすでに、在庁官人の中で抜きん出た存在として、侮れぬ者となってきていたことは確かです。さもなくば、佐伯氏に陥れられる対象ともならなかったわけで。ただし、婚姻関係を結んだかどうかについては、悲しいかな、系図や国衙文書からはわかりません(この問題、厳島神主側の史料見たら一時に解決しないだろうか)。
あとは、「大内長門守」という名称ですが、この名乗りが書き込まれていた人物も系図上にはまだ見付けられておりません。この時点では、長門国には一部分をもっていた程度とのことです。ただそのことはクローズアップされてはいるので、そこを掛けて「長門云々」となっているのでしょうか。
強いて言えばですが、松岡先生のご推察が正しければ(先生のご推察が間違っているはずはないです)、佐伯氏は大内というか多々良氏の連中を島流しにしてしまいたいほど、鬱陶しいと思っていた。このような場合、それこそ流れて行って一生戻って来なければうれしいですが、そうもいかないとなると、衝突するか、反対に手を組むかです。ちょうど、パトロンだった平清盛を失ったところです。お咎めなしとはいえ、佐伯氏をめぐる状況は以前とは比較にならないでしょう。ならば、むしろ、手を組むのもありです。そんなところで、婚姻関係を結んだ可能性はゼロではないです。しかし、系図くらいしか存在しない史料からは、大内氏の娘が佐伯氏に嫁いだことは証明できません。
調べようがないことは無視をして、果たしてこの一件は、大内教弘か弘世の娘が厳島神主家に嫁いだことを言っているのでしょうか。だとしたら、年代が全くあいません。弘世は南北朝、教弘は応仁の乱勃発前の頃の人です。ただし、婚姻関係は系図から裏付けがとれています。でもそうなると、大内氏を「長門守」と呼んでいるのが妙ですし(これは鎌倉時代も同じ)、そもそも彼らの娘の嫁ぎ先は藤原姓神主家で、佐伯氏ではありません。
要するに、年代だけをずらして、水戸新四郎伝説に強引に結びつけたとしても、謎すぎる展開なんです。むろん、伝承に彩りを添えるために、異なる時代の出来事を都合良く合体させた位なのですから、細かいところは気にしないのでしょう。「厳島佐伯氏」は神官に大勢いたでしょうし、大内氏は長門国と関わり深いです。
というようなわけで、神社のご由緒通りのことがあったのか、なかったのかを証明するのは難しく、違うんじゃなかろうかという個人的見解は言えても、史実は語れません。いっぽう、なんでもかんでも水戸新四郎なので、時代も人も違う頃の話を持って来て、強引に結びつけたというのはさもありなんですが、由緒が間違っていることを証明する決定打がない以上、どうとも申せません。
行き着くところ、水戸新四郎さんって、本当に存在したの!? ってことになってしまいますが、そこまでいくと、何もかもがあり得ない伝承だらけで埋め尽くされていることになり、寂しく思われる地元の方は多いかと。水戸新四郎さんは実在したと思いますよ。むろん、菖蒲の前さんも。そして、多々良氏の一門が、大内と名乗り始め、長門にもわずかな土地をもらった。史料に現われ始めたばかりですべては謎だけれども、在庁官人としては、すでに名の知れた勢力となっていた。そんな一族の娘が、平清盛から源頼朝への政権交替で将来を危ぶむ厳島神主家(佐伯姓)に嫁いで行った、あり得ぬこととは言い切れないと思います。それが事実ならば、またしても新たな発見です。逆に、これまた、現在の厳島神社を知っている我々の錯覚で、厳島神社の神主家などと聞くと、ものすごい大勢力、名門を想像しがちですが、同じく「在庁官人」でもあった点では、所変れど佐伯氏も大内氏も同格。さらに、景弘が目障りに感じたことから分る通り、史料に現われるあたりから、在庁官人としての大内氏(多々良氏)の勢力は、次第に周防国衙の中で、最高位を占めるようになっていきます。大神社の神主家と婚姻関係を結ぶこともあり得ることになりつつありました。ただ、まだやや早いかな、と思う次第です。
最後に、先にご祭神のことを書きましたが、これまでダラダラと書いてきて結論が出なかったお話で、唯一いかにも大内氏の誰かの話に違いないと思われたのは、妙見信仰の部分です。だとしたら、この神社にお祀りされていたのは当然、妙見だったのではないか、そう思うんです。だって、奥方はお母上の妙見信仰のお陰でお元気になられたのですから。となると、ここは元妙見社、現在、天御中主神が祀られていたらやっぱり、となるところ、なんで、高皇産霊尊なんだろうな、と。
造化三神のうち、一番目と二番目は天を司る神、三番目は地を司る神です。天御中主神は宇宙を司る、まさに、最高神なんです。妙見さまはそんなものすごい神さまと習合しておられたわけ。自らも、北極星の神として、星つまりは天にゆかりがありますからね。
水戸新四郎さんの奥方はなにゆえ、妙見さまではなく、高皇産霊尊をお祀りになったのか。あるいは……妙見菩薩を神社から排除する時に、同じ天の神として、高皇産霊尊に置き換えたのでしょうか。そこも知りたいと思いました。だって、あれこれと証明できずに気持ち悪い中、大内氏出身の母上が、娘のために妙見さまにお願いをしたところ、娘の病は治り、歩くこともできなかった状態から、歩けるようになったんです。ここだけは、ほかのどこよりも、真実のように感じられたのです。なので、郷土史の先生のご説明を拝聴しながら、ご祭神が何か、という重大な問題を当たり前にそうと思い込んで見落としたのです。気が付けば、その場でお伺いできたのに。
次回までの宿題がまた増えました。
なんと、こちらも明現社だった!
これからは山口だけでなく、広島県の神社についても真剣に調査したい、と思いつつ。そのためには絶対に必要な『広島県神社誌』が手に入らなかったんです。山口県のそれが、至れり尽くせりの一家に一冊なくてはならない本なので、広島でも個々の神社について学ぶためには絶対に必要。しかし、意外にも流通していないこと、山口だけで手一杯だろうが……という思いもあり、なかなか出逢えませんでした。この度、漸く入手が叶い(ものすごい出費となりました……)ましたので、これから以前の記事にもより正確な情報や、きちんとした出典が明記できます(=リライト)。
というようなことで、早速トップバッターとして、築地神社さまについて確認しましたら、意外にも山口県のそれとは、微妙に編集方法が違うようでして。山口のものには存在した「境内図」がない。神社にもよるものの、一社あたりの由緒説明が簡潔。そのかわり、県内の神さま一覧や、県内特有の神社建築についての全体的な解説が極めて詳細で、神さまや神社建築について学びたい方にも最適な解説ページがとんでもなく充実していました(山口のものには、それらの解説はなし。各神社の項目の中で解説されているためかと思います)。
現地由緒看板以外のことが書かれていなかったらどうしよう? という思いがありましたが……。なんと、この神社さまが旧称「明現社」と呼ばれていたことが明記されていました。明顕寺のところで、郷土史の先生が、明顕=かつては妙見だった、というご推察をなさっており、明「現」社はみょう「げ」んと読むとすれば、微妙に異なるものの、神社であるだけに、かつては妙見社であった可能性は極めて高いと感じました。それは、ここまでにダラダラと書いてきた大内氏から神主家に嫁いだ女性由来であることは間違いありません。
ただ、こちらがかつて妙見社であったならば、現在のご祭神が天御中主神となっていないことが腑に落ちません(前述)。地理的位置関係から見ても、いずれも水戸新四郎関係であるという共通項から考えても、明顕寺と築地神社には神仏習合時代に何らかの関連性があったように思えてなりません。
築地神社・みどころ
町中に佇む、こぢんまりとしたお社です。あれこれのゆかりに思いを馳せつつ、周囲の木々を眺めてください。時の経つのを忘れるはずです。
鳥居
堂々とした石鳥居です。背後に狛犬が陣取っております。
社殿
本殿は三間社流造、銅板葺き(参照:『広島県神社誌』)。拝殿は瓦葺きです。右は麗しい神社の森ですが、左は町中が見えています。ご鎮座地の様子がわかろうというもの。近代化の波に飲み込まれずに、今の今まで無事に残っていてくださってありがとう、という気分です。
何時如何なる時も、脇からも拝見します。山口の友人にもその癖があると知り、二人して笑ってしまいました。お、ご本殿の千木と鰹木がよくわかりますね。
御由緒看板
郷土史の先生とミルたちをブラックホールに突き落とした御由緒看板。これの前で何時間も悩み続けていたら、地元の方々に笑われてしまいそうです。書いてある通りじゃないんですか、って。
「築地神社
祭神 高皇産日神(たかみむすびのかみ)由緒
二神山城主、水戸新四郎の室は厳島佐伯氏の娘であったが、生来多病にして7~8才頃まで歩けなかった。その母は周防の大内長門守の娘であったので、周防国の氷上山妙見社に祈願したところ、歩くことが出来るようになった。 この娘が建久年中(1190~9)に水戸新四郎の室となり、建仁2年(1202)8月10日、二神山の麓なる字鴻巣に地を築き、一社を建立して室方の氏神とす。
故に今に至るも「築地神社」と称して字鴻巣の鎮守と崇敬されている。
下見の歴史散歩道 下見地域振興協議会」
(看板説明文)
築地神社(市)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 東広島市西条下見
※Googlemap には正確な住所が載っていません。このような場合ゼンリンの地図も参考にしますが、なんと、神社そのものが登録されておりませんでした。したがいまして、無念ながらご鎮座地の詳細な所番地は掲載不能です。『広島県神社誌』によれば、西条町下見二、一五一とありますが、出版年が古いため、住所表記が現在とは違う可能性もあります。
アクセス
地図下方にブールパールが見えております。西条方面から来た場合、そこから右折し、ほぼ道なりです。細道などがあるかもしれませんので、ナビゲーションで時折確認しましょう。公共交通機関利用の場合、西条駅から下見線で「鴻巣」下車となり、徒歩五分との公式アナウンスです。
参照文献:現地由緒看板、『広島県神社誌』、『大内文化研究要覧』ほか
築地神社(東広島市西条下見)について:まとめ & 感想
築地神社(東広島市西条下見)・まとめ
- 菖蒲の前と水戸新四郎頼興伝説の史跡の一つ
- 水戸新四郎は厳島佐伯氏の娘を妻に迎えた。その妻が、居城・二神山城の麓に建立した氏神神社である
- 新四郎の妻は、厳島佐伯氏の娘だった。生まれ落ちてから病弱で、歩くこともままならなかった。その母は、大内長門守から嫁いでいたので、氏神にあたる氷上山妙見社を深く崇拝しており、娘の病気平癒を祈願したところ、祈願成就して歩くことができるようになった
- 由緒から、大内氏と厳島神主家との婚姻関係などが分るが、歴史上有名なのは、大内氏が大勢力となってのち、藤原姓神主家との婚姻関係である。時代的にも由緒は鎌倉時代初期、史実は室町期と大きな開きがある
- これをもって、地元に根強い水戸新四郎頼興伝説と、大内氏と厳島神主家の婚姻関係という事実を合体させたかのようにも思えるが、鎌倉時代初期の大内氏の勢力はそこまで大きくなく、史料も乏しいため、真実か作為的なものかの見極めは難しい
- そもそも論として、水戸新四郎頼興が実在した人物なのかが不明なのだが、それにしてはこの地域には彼に対する伝承があまりにも多い
一応、今回の西条の旅に関しては、一区切りです。あとは槌山城の記事を完成させないと。福成寺にももう一度参詣したので、リライトが必要ですね。というような無関係な私事は置いておいて、水戸新四郎さんて、本当に大活躍ですね。これで、架空の人物とかなったら、それこそすごいことになるような。
かつて某観光地で、地元の観光資源となっているとある「木」について、地元の郷土史の先生がやはりあれこれとおっしゃっていたのですよね。その「木」は駅近にあり、徒歩数分というロケーションなので、自治体では石碑を置いたり、看板を立てたり、それこそ、観光協会のキャッチフレーズにも結びつけて大々的に宣伝。かく言うミルたちも、こんな便利なところに、こんなすごい観光資源があるなんて、なんて素敵なんだろう! と思ったものです。
ところが、先生曰く、古地図を見る限り、「木」はその場所ではなく、もっとこちらのほうに云々と。拝見しましたが、仰る通りでした。だとしたら、駅近のあれは何!? ってなるじゃないですか。郷土史の先生というご身分では、その事実を大声で唱えることは憚られると。だって、これまであまりにも多くの人が、あそこの観光資源のあの「木」は云々と喜んだり悲しんだりしてきたわけです。自治体的にも、いきなり新たな説など出てくると、あれもこれも書き換えなければならず、しかも、本来の場所は駅近どころか、バスも通っていない場所だった、などとなろうものなら、わざわざ行ってみようと考える観光客は半減するはずです。
そのような状況をはかりにかけると、何か違っていると思うけど言い出せない……という悩ましいことになってしまわれます。これが、郷土には何ら関係のない、そこらの大学教授とかに偉そうに論文書かれたりすると、自治体は真っ青ってなるんですけど。教授先生も地元にお住まいだったりすると、郷土史の先生と同じ対応をとられると思うんですけどね。いやはや、郷土の歴史を守って行くって、本当にたいへんですね。あれやこれやと気に掛けねばなりません。その点、部外者はお気楽でいいのですが、現地に住まいしていないということは、やはり圧倒的に不利なので、どうにかならんかね、と思うのです。我が地元も観光地ゆえ、遙かに遠くから通い詰めている歴史マニアの人を知っていますが、地元に住んでいて羨ましいーーと常に言われます。いや、しかし、地元に住みながら研究できるということは、上記のような弊害も伴うのですよ。難しいですね。
こんな方におすすめ
- 神社巡りが好きなすべての人
- 菖蒲の前と水戸新四郎伝説を信じている人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
ここまで有名なのに、実在しない人物とか、あり得ないよなぁ。
でもそれをなんでも菖蒲の前に引っ付けちゃうって説く、郷土史の先生も素敵
水戸新四郎ファンの歴女とかいうのに、先生が絡まれでもしたらどうしよう……。
そんな人いるわけないから大丈夫。
よくそこまで断言できるな。
だって、イケメン伝説がどこにもないもん。
はぁ?
ふざけるな。まともに案内に集中しろ(水戸新四郎とやらの子孫は我が毛利家に仕えたのだろうか?)
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安芸紀行
#hitひろしま観光大使に任命された五郎が、ミルと一緒に旅した安芸国の旅(目次ページ)
宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。続きを見る