陶のくにの人々

陶興昌 二十代半ばで早世・陶氏嫡流断絶か!?

2023-01-01

陶興昌イメージ画像

陶氏ゆかりの人々についてまとめています。今回は興昌さま。ご当主になることなく、若くして亡くなられたお方です。そのため、わずかばかりの記録が断片的に残されているだけで、お一人分の伝を立てるのは極めて困難です。どうやって文字数を埋めるべきか悩ましいところです。

陶興昌とは?

陶興房の子。父とともに安芸国に従軍中、病にかかり、二十代半ばにして亡くなりました。父の存命中に世を去っているため、当主として務めた記録が残るはずもなく、ほとんど史料はないのではなかろうかと思われます。それでも、『棚守房顕覚書』に記録があり、父とともに、厳島神主家との争いに従軍していたことがわかります。病死とはいえ、合戦の最中に得た病であり、合戦関連死と言えるかと思います。将来を託すつもりで大切に育ててきたであろう我が子に先立たれた父・興房の悲痛な思いが伝わってきます。海印寺(周南市)に興昌の供養塔が残されています。

興房は興昌以外に実子に恵まれなかったらしく、問田氏から養子を迎えました。長らく、興房の子であるとされていた隆房が、興昌の弟と見なされていました。しかし、令和四年に発表された和田秀作先生のご研究から、『新撰大内氏系図』の但書にある、実は養子だったという文言が事実であったらしきことが明らかになっています。

基本データ

生没年 ?~15290423(享禄二年、二十五歳)
父 興房
呼称 次郎、興次とも※
法名 信衣院春翁透初大禅定門
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『中世周防国と陶氏』)
※興次の表記は系図にもある。『大内氏実録』によれば、龍文寺の位牌は興昌、『棚守房顕覚書』での記述で興次とする、とある

略年表(生涯)

大永三年(1523) 父・興房に従い安芸国に出陣
大永五年(1525) 安芸国出陣中病にかかる(三月)、岩戸陣から帰国(三月十八日)
享禄二年(1529) 四月二十三日病死

おもな事蹟

忠臣興房唯一の息子

義興・義隆期に大内宗家を支えて忠義を尽した興房の息子として生まれます。系図には没年しか書かれておらず、『大内氏実録』にも父・興房に付属するようなかたちで、わずかに数行記述があるだけです。母親は誰なのか、いつどこで生まれたのか、すべてが不明です。没年と二十五歳で亡くなっているという事実から、生まれた年は逆算できますが、常にそれを怠っているのは、○○ 年生まれという記述はどこにもないからです。明確に記されている人物については書いています。

わずかな記述から判明するのは、興房の長子だったらしきこと、合戦中に病を得て亡くなったということわずかに二点だけです。母親についても不明であるため、嫡出かどうかもわかりません(どこかに書いてあったらすみません)。

本来ここには、もうひとつ、「陶隆房の兄」という項目を付け加えることができたのですが、その説は否定されたため、削除しました。現在は、隆房は興房の実子ではなく云々の系図にある但書が真実だという見解にかわっております。つい最近まで、郷土史の本などでもそれこそ完全に無視され、「俗本」から来ている見解で、信じるに値しないと書かれていたのですが(参照:『大内村誌』)。

ただし、実子ではないにせよ、隆房が興房の跡を継いだという事実は変りません。となれば、興房と隆房の間に養父・養子関係が生まれます。それゆえ、間接的ではありますが、興昌と隆房との間にも兄弟関係が生じます。その意味では、「隆房の兄」という呼び方も成立します。

興房には興昌以外に実子がいなかった(もしくはいても早世した)と思われ、それゆえに隆房が跡を継いだと思われます(実子でないならば養子として。最近出て来た説なので、今は何とも)。合戦続きの危うい時代ですから、息子がたった一人というのはかなり危なっかしいことになります。養子を迎えた時期などについても、興昌死去により慌てふためいてとは考えにくく、早々に迎え入れていた可能性も高いですが、そこもまだ不明です。

二十代半ばでの合戦関連死

長らく長男興昌戦死により、次男隆房が家督を継いだ、という認識が通説となっていました。いきなり降って湧いた新しい説に動揺した人は多かったかと思われます。それは興昌ではなく、隆房の項目でのテーマでは? と思われるかもしれません。しかし、決してそんなことはありません。長男がいて、次男もいたというのなら、万が一のことがあっても安心です。三男、四男といればなおのことですが。けれども、興昌が唯一の息子だとしたら、この点は極めて重要になります。陶氏はここで断絶することになるので。どこの家でもそのようなケースに遭遇し、どこぞから養子を迎えて家を存続させていたりしますから、普通のことではあります。しかし、誰しも、大切な我が子が立派に成長して家督を継ぐことを望むはずです。

跡継として、大切に育てられてきたはずの興昌が、二十代半ばという若さで亡くなってしまうなど、誰が想像できたでしょうか。武人たるもの、いつなんどき戦場に散ることになるかもわからないとはいえ。思えば、曾祖父・弘房の代にも右田氏の当主が戦死して養子に入ったり、ついで兄・弘正まで戦死したためまた陶の家にもどったりと、物騒なことが続いていました。その弘房までも戦死しています。何とも言えません。

父に従軍して安芸国に向かったのが大永三年。病を得たのが安芸国の陣中で、大永五年のことと書いてありますから、長らく続く合戦で調子を崩したものか、あるいは負傷でもしたものか、その辺りは書いていません。回復の見込みがないと判断し、帰国して療養したと考えられます。亡くなったのはその四年後、享禄二年ですから、長期に渡り病に冒された状態が続いていたのでしょう。これまた痛ましいことです。

岩戸陣からの帰国

『大内氏実録』にある興昌についての記録は、わずかに以下のようなものです。

「次郎と称す。大永三年父に安芸に従軍す。五年三月病に罹り、一八日岩戸陣より周防に還る。亨禄二年四月廿三日死す。享年二十三歳。信衣院春翁初□と法名す。」

この「岩戸陣」なる記述は、興房のところにも頻出ですが、出所はいずれも『棚守房顕覚書』とあります。つまり、龍文寺の位牌くらいしか調査できなかった近藤先生は、厳島神社神官の記録から、これらのやや詳細な事実を拾い出してこられたのです。というわけで、『棚守房顕覚書』を紐解いてみることにしました。

この書物は『群書類従』にも入っており、いずこの図書館でも閲覧可能ではありますが、難解なことこの上ないものとして知られています。そこで、宮島町から出ている解説付きの書物にあたります。「陶興次の歸國」(41~42ページ)として、わずかに五行ながら、ここにすべてが詰まっているというような一段落があります(『群書類従』だと、文字がギッシリなっているだけ)。

じつは、このくだり、とっくに見ていたはずなのですが、解説書が興昌と思しき人物を、疑問符つきながら、隆房としていたため特に気にも留めなかった次第です。古いご研究ですと、興昌の存在そのものが空白だったりするので、仕方ないことではあります。しかし、その注釈に、興房の子として「義清(父に殺される)、隆房(天文九家督相続)」とかかれており、それこそ「俗本」『陰徳太平記』に毒されておいででしたので、そっと本を閉じたことを覚えています(後述)。

この時、脚注の通りに興昌(興次となっている)=隆房のこと、ととらえたので、年齢的にずいぶんと幼い時の話だなぁと思い、父に面会に来ていた隆房が帰国するにあたり、幼いから父と離れるのを嫌がってだだをこねたかして、そんな姿を見守っていた同僚たちが涙したものとばかり。でもそうではなく、興昌の病状が芳しくないための戦線離脱とすれば、これが最後の別れと思って皆が悲しんだととれますので、全く別のストーリーとなってしまうわけです。

「サル間、陶ノ次郎興次(隆房晴賢カ)ハ、興房ト同前ニ在陣アリシガ、性氣ヲ養フ間、(大永五)三月十八日、先二歸陣アリ、岩戸ヨリ船ニテ興次下向アレバ興房モコノ沖マデ送リニ渡ラセ給フ、島ヨリハ弘中越後守、ソノ外警固衆各々、棚守房顕モ船中マデ参ル、時ニ陶父子ノ御別レ、弘中武長ヲ始メトシ落涙ス、アハレナリシ事ナリ」

『陰徳太平記』を嫌う近藤先生が、義清、隆房という兄弟関係を認めるはずがないですので、普通に興次=興昌と読まれたのでしょう。執筆者も、この辺り、山口県の研究者と広島県の研究者とで認識が違うなぁという感想を持ちつつ、そのまま隆房と読んでいたという……。きちんと確認すれば、『実録』本文にも系図にも「興次」という別名が明記されていたのに。

何はともあれ、何一つ記録がないと思われていた興昌についての記述は、ほぼすべて近藤先生がこの『棚守房顕覚書』によって調査されたことがわかりました。

ちなみに岩戸陣についてですが、七尾城の一つです。桜尾城含めて七つの城が連携して完璧な防衛網を強いて安芸武田の攻撃を撃退したというアレです。岩戸尾(尾は尾根=山で、岩戸山とも書いてある)城のことでした。そのうち七尾城を極めねばと思っていましたが早くやらないからこんなことに。

人物像と評価

父とともに安芸国の合戦に従軍

若くして亡くなった興昌には、陶氏の主として政務を執った記録はありません。まだ父が健在でしたから、傍らで手伝いながらあれこれを学んでいたところでしょう。亡くなったのは二十代半ば、四年ほどの病気療養期間を考慮しても、二十歳は過ぎていたのですから、父の片腕としてかなりのことをこなしていたと思われます。『棚守房顕覚書』には、興房の活躍が数多く記されていますが、存命中の間、その脇には常に興昌もいたはずです。

もっと長生きしていたら……と思うと気の毒でなりません。こればかりは仕方のないことですが。前述の岩戸陣から帰国する描写の中で、多くの同僚たちが涙していることからも、皆に慕われていた人柄が垣間見られます。無事に家督を継ぐことが出来たなら、歴代当主たちと同じように、宗家のため、領地の民のために尽す立派な人物になったに違いありません。想像にしかなりませんが。

『陰徳太平記』に描かれた隆房の兄

先に、岩戸陣のところで、『陰徳太平記』のことを記しましたが、じつはこの書物の中では、隆房の兄は義清という名前で登場します。しかし、これが『陰徳太平記』によって創作された人物であるかといえば、そうとも限らず、『新撰大内氏系図』にまで、義清の名前は記されています。ただし、系図の中の人物としてではなく、隆房(晴賢)の但書に出てくるのみです。

そこには、興房が、我が子である義清を毒殺し、かわりに問田紀伊守の子を養子にした、それが隆房である、と記されています。『新撰大内氏系図』では但書の中の人ですが、数ある系図の中には、義清が載っているものも存在します。『陰徳太平記』の作者はそれを元に創作をしたものと思われます。あるいは、事実そのような逸話が信じられており、それを書き留めたこともあり得ます。これらは当然、『陰徳太平記』のような俗書を参照した捏造であり、信じるに足らないとされてきました。しかし、隆房が問田氏から養子に来ていた可能性が浮上してしまった関係で、同じ箇所に書かれている興房の子殺しについても、あり得ないことと思えど「俗書」云々で読み飛ばせない事態となっています。

興昌が合戦関連死であることは疑いなく、興房に殺められたなどという事実はありません。しかし、ほかにも息子がおり云々という可能性は限りなくゼロに近くとも、現状否定もできないのです。

『陰徳太平記』では、明らかに興房と思しき人物を「持長」と表記しています。これまたややこしいのは、実際に、陶持長なる人物も存在していたらしいことです(史料にも名前が出ているようです)。つまり、興房と持長とは完全な別人です。作者が勘違いしたのか、敢えて別の名前に変えて「創作である」と主張したのかは不明です。けれども、史実で興房が活躍した場面は、すべて「持長」と置き換えられていますので、この本の中では、持長=興房と置き換えて読む必要があります。

持長と義清については、最後に付記しておきますが、持長(興房のことらしい)の忠心を称賛しているのか、将来主に叛くことを恐れて我が子を手に掛けるまでしたのに、連れて来た養子がやはり主を死に追いやったではないかと皮肉っているのか(両方とも成立しますが)、作者本人に聞かないと不明です。

あれやこれやのおぞましい要素を考慮せず、単純に、なにゆえこのような逸話が生まれたのかと考えた時、興房が忠義の臣だったこと、その息子が極めて優秀だったことという事実があったのではないか、と都合良くまとめます。⇒ 関連記事:『陰徳太平記』について陶義清が載る系図はコチラ

菩提寺と墓所

興昌の法名は「信衣院春翁透初大禅定門」です。どこかに「信衣院」なる寺院があったのだろうかと思いますけれど、どことなく既視感がありました。『大内氏実録』の興房伝に「龍文寺の侍衣寮を改めて信衣院と名づけ、これに壽像を掲げ、香花田を附して冥福を修せしむ」云々とあるのです。侍衣寮の名前を変えただけですから、偶然の一致かと思えど気にかかります。

とりあえず、龍文寺に葬られたのであろうと思いつつ、ならばなにゆえに海印寺に興昌の宝篋印塔があるのだろうか、という疑問も残ります。正直、興房や興明の宝篋印塔など一つではなかったですので、当然ながら、龍文寺にあるどれかも彼のものである可能性は高いです。⇒ 関連記事:海印寺

まとめ

  1. 陶興昌は興房の子。長じて陶氏を継ぐべく期待されていたが、安芸国に出陣中に病を得たことがもとで亡くなる
  2. 興房とともに、厳島神主家との戦いに従軍。大内宗家のために尽した結果の合戦関連死だった
  3. 父の存命中に若くして亡くなったためか、残された史料などはとても少ない。『大内氏実録』にある興昌関連の記事はわずかで、そのほとんどは『棚守房顕覚書』から採られている。父と共に安芸国に従軍していたことから、興房の事蹟を辿れば、興昌もその傍らにあって父を助けていたであろうことが想像できる
  4. ここが菩提寺であるという寺院が今に伝えられているわけでもなく、明確な記録はないが、菩提寺である龍文寺に葬られたとみるのが妥当。ほかに、海印寺に興昌のものとされる宝篋印塔が残されている。興昌と海印寺の関連については不明(供養された記録が残るはずが失念)
  5. 『陰徳太平記』に、興房と思しき人物(同書中では持長)が、我が子を手に掛けるという恐ろしい逸話が載っている。あまりに聡明な子で、出来の悪い主を軽蔑していたため、長じて主に無礼を働くことを未然に防ぐためだったという。その息子は「義清」といい、興昌とは無関係だが、跡継がいなくなったために隆房を養子に迎えたという流れは史実と一致しており、また、『新撰大内氏系図』の隆房項目にも、この逸話が但書されている。あり得ない話として無視されてきたことだが、同じ但書にある隆房養子の件が新事実として認可されつつあるため、俄然どことなく気にかかる記述となった

以下に、『陰徳太平記』いうところの、義清の物語を載せておきます。なお、これはあくまで創作であり、現段階で(恐らく将来的にも)このような事実があったことは確認されていません。ただし、『新撰大内氏系図』の但書に採用されている点には留意すべきで、作者のデタラメな捏造ではなく、過去にこのような逸話が囁かれていた可能性があります。

『陰徳太平記』曰く「陶持長、嫡子・義清を殺める」

神童

左氏が言うことには「子を知るは父にしくは無し(子を理解するについては父に勝るものはない)」。また「明父子を知る(賢い父は子を理解している)」とは史記に記されていることである。この言葉がいかにも本当であるということを、私(『陰徳太平記』の作者)は陶持長入道の事例で知った。

持長には息子がひとりあり、次郎義清といった。生まれつきかしこく、優れた才能の持ち主で、しっかりした考えと寛大な心をもっていた。非常に優れた知恵がある子どもだったから、李泌も前を歩くことを遠慮し、謝朏も露払いをしようとするくらい(李泌も謝朏もいわゆる『神童』の例)。そういうわけで、武芸の達人であり、乱舞(能、もしくは能の速度の速い舞)にすぐれており、詩歌管弦、そのほか世間の人が興じ楽しむ芸術小伎(ちょっとした技術)に至るまですべて、その向上に努めていた。

しかしながら、義清は義隆卿のふるまいを見て、周の穆王が遊宴(酒盛りをして遊ぶこと)を好み、隋の煬帝が詩文ばかり巧みで、武芸や戦闘について関心がなかったのに似ており、まるで破戒僧や流刑にあった公家というべきであり、全くもって武士が主君と仰ぐべき大将の器ではないと、朝夕の口ぐせでばかにしていた。

入道はこれを聞いて、「息子の才能は他にぬきんでてすぐれており、今の世の中には稀なる将来性のある若者だ。だが、己の心が勇ましく、思慮も深いことを誇り、主君の御品行について、万事気に食わぬ顔を見せるとは嘆かわしいことだ。忠臣というのは、内にあっては主君の悪い所を正しくなおし、外にあっては主君の立派なところを褒めるよう勤めるものである。次郎のふるまいは、この入道の心とは非常に大きな隔たりがある。将来義隆卿にいささかなりとも政道に公正さを欠くところがあれば、きっと大いに恨み、ついにはあだと成るだろうと思われる。どうすればよいだろうか」

烏帽子折

入道が心配し悩んでいた時、越前から幸若大夫が下向してきた。義隆卿は甚だ楽しみなさり、すぐにも烏帽子折(能の曲目)を望まれた。大夫は廂の間で、手拍子を丁々と打って舞ったから、聞いていた者は身分の上下をとわず皆、感慨に堪えかねて袖を濡らした。

陶入道は屋敷に帰り、嫡子次郎を近付け、「お前は幸若の音曲を真似できるか」と言うと、 「幸若を似せますことは、誠に鵜の真似をする烏(能力や身の程をわきまえずに人まねをする者、また、その結果、惨めな失敗をする者のたとえ)でございますが、お父上のご命令とあらば」と、扇を手に取り、手拍子を打って舞うと、その声は林木を震わせ流泉を湧き出させるようにはっきりとひびき、幸若の舞よりもいっそう趣があった。父の入道も、ああ才能第一の我が子かな、と思ったけれども、主君を軽蔑しているということが、ひとしお身に深くしみるように感じられた。

五郎の兄イメージ画像(平安貴族風)

美しく舞う「隆房の兄」
(幸若舞じゃないです)

またその頃、明国から義隆卿へ書状が届けられた。義隆卿は香積寺、国清寺等の長老、西堂などを呼び集め、書状をひらいて念入りにご覧になった。義清も末席に並んでいた。父・入道は家に帰ると、「どうだ次郎、今日の書状を覚えているか」と尋ねた。「どうして一遍見ただけで覚えられるでしょうか。しかしながらあてずっぽうに書いてみましょう」と、長篇の文章を一文字の違いもなく書いて、流れるように音読した。入道も次郎は人間ではない、神仏の化身なのだ、または漢の張安世、魏の祖瑩の再来なのだろうと思い、あっけにとられた。

それからますます注意して見ていると、次郎のかしこさ利発さはいちだんと深まっただけでなく、義隆卿を見下す様子もまた、止まなかった。父・入道は、「いずれにしても、次郎は将来、義隆卿を侮って君臣の礼を乱し、当家に害を加えようとする者となる。いかに我が子が可愛くとも、主君の御為には代えられない」と、義清が十五歲の春の頃、ひそかに毒を盛って殺した。

大義滅親

昔、衛の州吁は兄・桓公から当主の座を簒奪した。桓公の家臣・石碏は州吁を誅殺し、州吁に従った我が子・石厚を殺した。当時の徳の高い人々は、「大義、親を滅す」(国家・君主の大事のためには親子兄弟のような個人的関係は無視する)とはこのようなことをいうのだ、と石碏を褒めたたえた。これは主君を弑逆した罪が明らかだから殺したのである。しかし、持長はまだ事が起らないうちに、この例と重ね合わせて深く考え、愛する我が子を殺したのである。忠義の志は石碏に勝る。近くにいた人はこれを見、遠くにいた人は話を聞いて、忠義の志を感じ、その悲しみを察し、涙を流さぬ者はいなかった。

その後、入道の妹婿・問田紀伊守の嫡子が養子となり、陶五郎隆房と称したのである。この持長入道道麒という人は、十六歳から主君の傍近くにお仕えし、ついに友人の家を訪ねるということがなかったという。礼記に、「人の臣と為る者は外の交り無し、敢て君に貳(ふたごころ)あらざる也」と説いているのも、この入道のことをいうのだろう。これも皆、忠の一字を深く心の奥そこに挟んだゆえに、慈しみ育てた我が子すら殺めたというのに。

今の隆房は、讒言する者のいうことが事実かどうかをも調べずに、先祖代々の主君を弑逆し、 おまけに摂政関白殿を初めとして、多くの公卿のお命を奪うとは。その残忍極まること、人は怨み神は怒って、忽ちに天の喪びを受けるばかりか、亡父入道の怒りも深く、不忠不孝の罪も免れないだろう。行く末恐ろしいことだと思わぬ者はなかった。 いにしえ、鄧伯道に子はなく、今、隆房に忠義なく非道あり。ああ、天はこのことを知っているのだろうか。

※このエピソードは政変後、大友晴英が当主になる前の部分に挿入されている。

参考文献:『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『日本史広事典』、『棚守房顕覚書』、『陰徳太平記』、『中世周防国と陶氏』

雑感(個人的感想)

『陰徳太平記』作者の創作力ときたらすさまじいと思っていたら、そうともいえないことがわかりました。つまり、「種本」といいますか、作者はその時代に出回っていたほかの書物、言い伝え、そのた諸々に取材して物語を構築しているのです。要は、すべてが作者オリジナルのフィクションというわけではなく、この本が書かれた当時には「事実とみなされ」「流布していた」内容を脚色したにすぎない、という面がある、ということです。その脚色が絶妙であるからこそ、読者は面白いと思い、そこが作者の筆の巧みさということになります。

陶義清のエピソードで一番恐ろしいところは当然、陶持長が実の息子を手にかけた、という部分でしょう。ここが、作者が「事実をねじ曲げて」書いたところなんだろう、と考える人は多いかもしれません。しかし、しかし、じつはこの逸話は、やはり別バージョンの「系図」に但し書きとして、しっかりと書かれています。

陶晴賢のところに、つぎのような一文があります。「或曰実問田紀伊守嫡子而興房姉所生之子也興房実子五郎義清于時十五歲無道而不忘父意故鴆殺之而以晴賢為養子」しかもこれ、いわゆる、現状最も流布している「定説」版である、『新撰大内氏系図』のコメントですよ。信じられませんね。つまり、もっとも信頼されていると見なされているハズで、系図の上には「義清」なんて出ても来ないこの『新撰大内氏系図』すら、この義清伝説を捨てきれなかったのか、代々伝えられてきたあらゆる系図を整理して正しいものを作ってくださる過程で、削除せずにこの一文を残したわけです。

『新編大内氏系図』にまで名前が出てしまっている義清なる人物、実在したかどうかは未確定ながら、『陰徳太平記』によって捏造された人ではないことはほぼ確実で、また、陶持長(興房のつもりらしい)が実子を殺害したことも、『陰徳太平記』の創作ではなさそうです。おそらくはこれについても当時フツーに流布していた噂話として存在したか、あるいは博学の作者がどこかでこのコメントがついた「系図」を見たのでしょう。

では、『日本史広事典』が指摘する『陰徳太平記』は「事実をねじ曲げ」ているというのは、「隆房の兄」についてはあてはまらないのか? といえば、そこは判断が難しいところです。あるいは、聡明すぎる作者は陶「持長」が息子を殺したというのはいくらなんでもインチキだろう、と系図のデタラメを知っていたのに敢えて採用した。でもって、ああそこまでしたというのに、かわりに跡継とした息子(養子)はもっととんでもない人物であったじゃないか、悲惨。ということが書きたかった。こうやって貶めておけば、毛利三兄弟輝くよね……。

もう一つの考え方としては、イマドキならぬ近世の人々は「大義滅親」とやらを麗しい物語としてとらえていた可能性がある、ということ。そうであるならばこれは、主のためには息子すら手にかける陶持長という人物の「忠義」を称賛しているともとれます。現代人にはおよそ信じられない話ではありますが……。こうやって父親を称賛することにより、息子(作中では養子だけど)の「不忠」が際立つわけで。やはり毛利三兄弟輝くよね……。

では、陶「興昌」の真実とは……と言えば、それは『棚守房顕覚書』に書かれていることがすべてです。県史のどこかにも記述を見つけたのですが、現在記憶が飛んでしまっております。

興昌は近藤先生の『実録』やその系図にきちんと載っているばかりか、海印寺には供養塔も存在します。くわえて、そこに供養された、という記録もあるので、とてもわかりやすい人です。近藤先生の『実録』時点ですでに、れっきとした「合戦関連死」であることが明記されています。にもかかわらず、「隆房の兄・義清」っていったいどこから? と思ったら、近世の系図はもとより、最新の『新撰大内氏系図』にまで未だ義清の名がコメントとして生き残っています。いい加減にしてほしいと思う一方で、ひょっとしたら、本当にいたんだろうか? という錯覚にも陥ります。

じつは、海印寺にはこの供養塔と並んで、興昌の伯父・陶興明の供養塔もあり。こちらのほうは、すでに一昔前のことになってしまいましたが、数百年の時を経て、現代の研究者の先生方によってその存在が証明されたという一大ニュースとなった経緯があります。それに比べて、興昌のほうは、数百年間、ずっと同じ場所にあり、だれもが「あれがそうだよ」と知っており、お参りされたりしていたのでしょうか? 謎の義清伝説のせいで、近世の人たちの認識では、「隆房の兄」は義清であり、興昌という人物は何者かわからなかったんじゃないかと考えてしまいます。

山とある陶氏のものらしき供養塔の中で、被供養者がはっきりしているものは極めて稀です。興昌の供養塔はその中の貴重な一つ、ということになるわけです。いつの時代に、どなたがそれを明らかにしたのか、隣にある伯父の供養塔と違って、そのことに言及された文章を見たことがない気がします。

父・興房の人となりから推察するに、息子たち(含養子)には厳しく接したに違いありません。内面は深い愛情に充ち満ちていたはずですが。将来を期待された長男が、合戦で命を落とすことも珍しくはない時代。それにしても事実そのようにして亡くなってしまうとは、なんとも辛い出来事です。

陶義清なる人物は、じつは歴史の「真実」を見抜いていた『陰徳太平記』の作者が、最大級の嫌味を込めて創り出したインチキな人物。いってみれば、作者のイタズラのように思えます。興昌については、若くして亡くなったということ以外、ほとんど何の言い伝えもありません。あるいは、義清のような優等生だった可能性ももちろんありえます。ただし、父親に殺されてはいません。

近藤清石先生のご研究以来系図から消えたものの、それ以前の系図の中には「義清」なる人物が確かに存在しました。もしくは実際に、興昌に実の兄弟がいた可能性とて否定はできません。なぜなら、「存在したこと」の証明よりも、「存在しなかったこと」の証明のほうがはるかに難しいからです。だからこそ、『新撰大内氏系図』にもいちおうコメントが残っているのかもしれません。

いたのかいないのかはっきりしない義清については保留しておくと、いちおうその存在が明らかなところでは、興房の子は兄と弟二人。あとは姉妹という認識でした。ところが、現在では、その弟は養子であったという説が浮上しており、すでに定着した模様です。久しくメンテナンスを怠っていた間に天変地異が起こった気分です。興昌と養子になった弟との間に接点はあったのでしょうか? 長の患いが続き、あるいは? という最悪の事態も興房の脳裡には過ぎったであろうかと。だとすれば、興昌の生前に養子を迎えたことも十分に考えられます。だとしたら、二人は面会しています。ただし、想像にしかならないので、今後のご研究の成果を待つ次第です。

歴史に「もしも」はないとか、また怒られそうなので、興昌の不幸な早死には素直に受け入れます。同じ合戦関連死でも、兄は「弟」よりずっと恵まれていました。少なくとも故郷の地で、肉親に見守られながら世を去って、そのご、身内の手で大切に供養されたのですから。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

興昌さまが長寿を全うなさっていたら、歴史は全く違うものになった可能性がありますよね?

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宗景

たらればは NG じゃないのか?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

分かってますけど。何となく。

宗景吹き出し用イメージ画像
宗景

そうかもしれん。だがな、どの道を進んでも行き着く先はきっと同じだ。あまり深く思い悩むなよ。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

ところで、興昌さまは鶴寿丸と名乗っていなかったのでしょうか? 単に記録にないだけ? 名前も次郎だし、あるいは本当に優秀すぎる長男が!?

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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
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