みやじま・えりゅしおん

千畳閣(豊国神社、広島県廿日市市宮島町)

2024-09-14

千畳閣・内部5

広島県廿日市市宮島町の千畳閣とは?

宮島塔の岡にある巨大な建物のことです。豊臣秀吉が「大経堂」として建築を始めましたが、中途で亡くなったため、建物は未完成のままです。畳千枚くらいの広さがあるということから、「千畳閣」と呼ばれ、地元の方や観光客の皆さまにもこの名称で親しまれていますが、正式には厳島神社の末社・豊国神社となります。

宮島では最も大きな建造物であり、なおかつ、誰がいつ造った物であるか(※注・未完成)がはっきりしているという点で、とても珍しいものとなります。

千畳閣・基本情報

所在地 〒739-0588 廿日市市宮島町1−1
(※Googlemap にあった『豊国神社』の住所です)
拝観は有料です。料金等については、変更されることがございますので、敢えて載せません。事前に観光協会さまなどにお問い合わせください。ちなみに、とても「安い」です。
建造発願者 豊臣秀吉
神社としての祭神 豊臣秀吉

千畳閣・配置図

今回ご案内する「千畳閣」は、ご覧のとおり、厳島神社の真向かい、五重塔の真ん前にございます。なんともこれ以上ない、ロケーションを我が物にしておりますね。

千畳閣・歴史

「天下人」が建てた「大経堂」

戦国時代、織田信長の死によって「天下人」の後継者となった豊臣秀吉が、月に一度千部経を読誦させる場所として、建築を開始しました。1587年のことです。秀吉の死によって建築事業は頓挫し、未完成のまま現在に至ります。秀吉が死んだのは1598年ということですので、少なくとも十二年間にもおよぶ期間、工事を続けていたことになります。

本人が亡くなったことで、何をどうしようとしていたのか、さっぱりわかりませんが、お経を読ませるための場所であったことだけは確かです。つまり純粋に仏教系の建物ですよね。神仏習合していた時代とはいえ、ここに僧侶を集めて千部経を読誦するための場所といえば、そうなります。

つまりは、明治時代になって廃仏毀釈が叫ばれた時、ここも危なかったのでは? と思ってしまうわけです。『宮島本』にも、ガイドブックにもそのことは書かれておりませんでしたが、現在ここが、秀吉を祀る「神社」という扱い(?)になっていることから、やはり建物を守るために地元の皆さまが努力されたのだろうな、と思う次第です。

なお、大経堂だった際に、こちらに安置されていた貴重な仏像類は現在は大願寺に移されております。

用語解説

千部経:同じ経典を千回読む、または千人で一部ずつ読む法会。千部経を行う法会を千部会といい、追善や祈願の目的で行われる。
読誦:読経。声を出して経文を読むこと。仏教の法要や布教、祈祷などで用いる。

参照:Google AI

千畳閣=畳千枚ではない

千畳○○という言葉は、色々なところで使われております。山城跡などに赴くと、千畳敷などと呼ばれる広い削平地があるこはしばしばですよね。同様に、こちらの千畳閣も、きっかりと畳が千枚敷かれているわけではありません。単に、「広い」ということを表わしている程度の意味です。

むろん、500枚分の広さしかないのに、千畳とは呼びませんので、それ近く敷けるくらいの広さであることは事実です(『宮島本』によれば、857枚敷けるそうです)。千部経の意味に、千人の僧侶が読経することと、同じ経文を千回読むの二種類あることから、どちらの用途に使うつもりだったのかは不明です。秀吉主催の法会ともなれば、出席者も多数となるであろうことから、僧侶千人と大勢の出席者が入るのに千畳で足りるのかなぁ? と思ってしまいますね。

まあ、普通に考えて畳一枚にお坊さんお一人ということはないですが、ソーシャルディスタンスは昔も今も大事だったと思うんですよね。隣の人とベッタリとか、気持ち悪いですから。さて、太閤さまはここでどのように法会を挙行するおつもりだったのでしょうか。今となってはすべてが謎です。建物が無事に完成し、第一回目の法会の記録でも残っていればと惜しまれます。

如何に天下人といえども、不老長寿の薬だけは手にすることができないわけで(そんなものはこの世に存在しません)、その後の、関ヶ原とか、徳川家康が結局は天下のいいとこ取りしたとか、知識に乏しいといっても、そのくらいは常識の範囲でわかりますから、その意味で、どことなく悲哀が漂う場所です。家康が、工事の続きをしてもよかったと思うんですが、なんでそのままに放置されたのでしょうかね。どうでもいいけど。

未完成なゆえにの風情もある

千畳敷などというからには、畳が敷いてあるのでは? 畳などないのは未完成だから? など、色々考えてしまいますが、内部は板張りです。千畳敷は広さを表わしているだけの用語であることから、ここが千畳閣と呼ばれているからと言って、畳が敷かれる予定だったのかはわかりません。しかし、この、むき出しの床が気持ちいいのです。

さらに天井。これもむき出しです。そういう造りにするつもりだったのかどうかは知らないですけど。ただし、おかげで、建築物のなんたるかを学ぶのにうってつけなんですよね。建築学んでないので、見てもわかりませんが。ただ、普通は天井にも何か板張りというか、貼ってあるはずですし、そこにまた、見事な絵などを描いたりしたであろうことは十分に想像がつきますので、未完成だからむき出しなんでしょう。

現在、そこらの梁丸出しのような天井部分には、大量の絵馬が飾られております。これは、秀吉の時代からあったものかと思っておりましたら、明治時代まで厳島神社にあったものだそうです。

天井だけではなく、外観もふきっさらしで、そのままなんですが、これはこういう造りだったのか、それとも、壁で覆われるはずだったのか、謎です。でも、普通はふきっさらしはあり得ないですよね。十何年もかけて、ほとんど枠組みしかできていないようです。

屋根は金ピカ

屋根瓦にはなんと、金箔が押してあるそうです。そう言われても、望遠鏡でもないと見えないです。こればかりは、スマートフォンのズームでは無理でした。安土桃山時代の文化は豪華絢爛だといいますから、これもその一例なのでしょうが、立てた人が人なだけに、成り上がり根性むき出しのような気がしてしまいます。

天下を手に入れたら、大金持ちは疑いなしでしょうけど、別に金箔はらなくてもいいのにと思います。まあ、時代がそのような豪華な造りが流行していた時期だったということで。

ちから餅の話

塔の岡茶屋さんに、太閤のちから餅という美味しいお餅があります。一度食べたらやめられないほどの美味なんですが(リピートすること数えきれず)、このお餅は、千畳閣に由来するものです。お餅をいただくと、いわれの書いたリーフレットを頂戴できますが、そこに、だいたい次のようなことが書かれていました。

秀吉は千畳閣の建築のために汗水垂らして働いている人夫たちを気遣い、彼らのお腹を満たすと同時に、次の任務に元気に取りかかれるようにするような食べ物を用意してあげたいと考えました。で、現場監督(『宮島本』には奉行とあります)のようなことをしていた安国寺恵瓊がその意味を汲んであみだしたのが、このちから餅でした。名前の通り、美味しいお餅を食べた人々は元気百倍となったそうです。

……記憶が曖昧となってきましたので、次回もう一度お伺した時に、正確に書き改めたいと思います。意味としてはだいたいこんな感じです(原文はこんなに陳腐ではありませんでした。誤解なきように)。

現在、お茶屋さんで味わえるちから餅は、この時のお餅を再現したものだということです。本当に、頬が落ちるほど美味しいのですが、ここまで素晴らしいものを食べさせてもらえていたのでしょうか。甚だ疑問ではあります。偉い人って、なかなか現場の人々のことまで考えてはくれないものですからね。

とにかく、皆さまは塔の岡茶屋さんにお伺して、ちから餅を食べること。千畳閣に行ったらこれだけはお忘れなきように。⇒ 関連記事:塔の岡

千畳閣・みどころ

千畳閣遠景

千畳閣・遠景

なんということか。あまりにも建物がデカすぎるため、近付くと全景をおさめることができず、こんなに遠くから漸くすべて入りました。五重塔も同じことで、近付きすぎると全景をおさめるのが難しいですが、これほどではありません。さらに、建物自体が五重塔のように麗しくはないため、遠くから撮影する極上のスポットも特にないです。そもそも高さがなく、目立たないので、遠目には、何だあの屋根は? となるだけです。

千畳閣・入口

塔の岡・千畳閣

こちらが千畳閣の入口となります。お金を払うのもこちら、靴を脱ぐのもここです。階段が何段かございますので、足元にお気を付けくださいませ。

外観

千畳閣・外観

喚鐘と説明看板がございました。近付くと、撮影できるのは、このような部分部分となります。

「千畳閣
此の建物は 天正十五年(一、五八七)に豊臣秀吉公が 安国寺恵瓊に命じて建立したもので俗に千畳閣といいます 桃山時代の豪放なもので重要文化財であります 秀吉公の気風をよく現した建物ですが 途中で秀吉公が逝去したため未完成のものです この千畳閣は元来大経堂(読経所)として建てられたもので仏像を安置してありました明治初年神仏分離の際仏像は大願寺に移し豊臣秀吉公を祀って豊国神社と称し 毎年九月十八日に例祭がおこなわれます」
(看板説明文)※原文の「豊国神社と称し」の「称」の字は旧字体でしたが、Wordpress にて更新不能ゆえ、置き換えています。

屋根

千畳閣・屋根

屋根瓦に金箔が施されているという屋根がこちらです。経年劣化は避けられないこともあろうと思われますし、ちょっと黄色いかな、という程度にしか分りませんでした。完全に色が抜け落ちているところもありました。「が」

千畳閣・屋根

スマートフォンのズームの性能もアップした後、再訪して漸くゲットしたのがこちらです。『宮島本』に、丸瓦は中に連珠、その中に「王」の字が云々と書かれていたと記憶しており、その「王」の字をはっきりと確認できました。すごい。確かに金ピカでした。ですが、本にあった写真のような完全に金色に輝く場所は探せませんでした。

かつてはここら辺すべてが金色に光り輝いていたのでしょう。豪華絢爛ではありますが……。感想はノーコメントで。

大量の絵馬

千畳閣・内部2

内部に所狭しと飾られている絵馬や額。元は厳島神社の廻廊に飾られていたものが、明治時代にこちらに移されました。

千畳閣・内部3

奉納品には、なんとしゃもじまでありました。それも、ひとつやふたつではありません。宮島といえば、しゃもじですが、奉納品としても用いられることが多かったようです。

千畳閣・内部4

圧巻・畳千枚の広さ!

千畳閣・内部

むき出しの柱とか、板貼っただけの床とか、このままにするつもりだったのか、手を加えるつもりだったのか素人にはさっぱり分りませんが、ご覧のように遮る壁すらもないため、中はふきっさらしです。過ぎゆく風が心地良く、まさに気分最高のお休み処と化しています。

むき出しの天井

千畳閣・天井

天井もむき出し。中途半端に工事が終わってしまったゆえにか、崩落の危険を避けるために現在はこのように落下防止用に鉄の柵が貼られていました。

豊国神社

千畳閣・豊国神社

神社は千畳閣内部にご鎮座。太閤さまは、こちらにお祀りされています。神仏分離とともにこうなったわけなので、明治時代以降の建物となります。なお、のちに、加藤清正も合祀されたそうです(『宮島本』)。どこから持って来た、失礼しました。お遷ししたのかは不明ながら(執筆者が不明なだけです)。

千畳閣からの眺め

千畳閣・展望

千畳閣からの展望です。高台にあるので、景色は最高。高さで五重塔に負けているとはいえども、あちらは中に入れません。涼やかな風を感じながら、宮島を見下ろしたい方には、最高のロケーションです。

千畳閣(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒739-0588 廿日市市宮島町1−1 

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

宮島に行けばどこからでも見えますので、迷う人はいません。塔の岡、五重塔の向かいにございます。宮島フェリーからも見えます。厳島神社に参詣した帰りにでも立ち寄ることをおすすめいたします。

参照文献:『宮島本』、『広島県の歴史散歩』

千畳閣(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想

千畳閣(廿日市市宮島町)・まとめ

  1. 「天下人」となった豊臣秀吉が、千部経を読ませるために造った大経堂
  2. 畳千枚敷けるほど広い、という意味から「千畳閣」と呼ばれているが、これはあくまでも通称。元は「大経堂」現在は「豊国神社」という
  3. 豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社であり、千畳閣の内部に社殿がある。
  4. 屋根に金箔を施すなど豪華絢爛な建築物として完成する予定が、秀吉の死によって工事は取りやめに。永遠に未完成のまま残されることになった
  5. ご由緒が古すぎて、いつから存在するのかわからない神社が多い中、豊国神社はその建築時期が明らかとなっている点で珍しい。ほかの神社同様、厳島神社の末社である
  6. 内部には大量の絵馬が飾られているが、これらはすべて、元は厳島神社の廻廊にあったもの
  7. 元千畳閣に安置されていた仏像は、現在は大願寺に移されている
  8. この建物のせいで、厳島合戦の貴重な史跡であった塔の岡の往時の姿はわからなくなった
  9. 千畳閣を建築するために駆り出された人夫たちのために考案された食べ物が「ちから餅」で、現在も塔の岡茶屋にて、復元されたちから餅を味わうことができ、絶品である

「天下人」も暇ではないでしょうから、これにかかりきりにはなれなかったのでしょうが、恐らくは身の丈に合わない、とんでもないすごいものを造ろうとしていたのでしょう。おかげで、貴重な厳島合戦の史跡であった塔の岡は見る影もなくなり、建物が未完成であることから、ふきっさらしの空間が場所をとっています。

大工事のためにかき集められた人々の苦労も建物が未完成となれば、全く報われません。どうしてくれるんだよと思いますので、この建物はまったく好きになれません。地元の方々は愛着をもっておられることから、一度は参詣しようと中にはいりましたが、それきりであとはつねに、「邪魔」と思っています。

しかし、役に立つこともあります。例えば博奕尾から塔の岡までどうやって奇襲したのか、博奕尾から塔の岡はどう見えたんだろう、と確認しに登ったことがございますが、望遠鏡でもない限り、肉眼ではなかなか分りづらいです(実はスマホのズーム程度で十分だったりしますが、その時はそんな機能ありませんでしたので)。五重塔は見えるのですが、小さいんです。その時、このドデカい建物のお陰で、あそこか! となりました。

有難いとまでは感じませんが、役に立ったのはこの一度きりです。後は来る度に邪魔と感じています。山口からの友人たちをご案内した時も皆、スルーでした。厳島合戦は頭にあっても、戦国時代とは無縁な大内文化研究の方々だからです。

現代の我々は、天下人云々とは無関係。そういう連中が主人公の世の中に生まれ、建物が無事に完成していたとしても、中に入ることなどできなかったでしょう。そう思うと、庶民が主人公の現代に生を受け、豊臣秀吉? 誰それ? という方でも普通に入ることができるのは素晴らしいことです。ふきっさらしの大広間で大の字になれば、涼しい風を肌で感じることができますし、高台にあるため、ここから見る外の景色もなかなかのものです。中に入らないと、秀吉を拝むことはできませんので、関係者は毎回入らねばならなくてお気の毒ですが、そうでない方も、一度は中に入ってみることをオススメします。外からでは見えない部分もございますし、外目も確かにデカいと感じますが、中に入るとその思いはますます強くなるはずです。

ただし、拝観は有料ですので、倹約を心がける方は一度ですむように、入ったら最後、出てくるまでかなり粘って、隅々満喫なさってください。お気に入りの場所となれば、何度でもお入りになればよろしいですし、そうでなければ、一度で十分です。なお、極めて個人的なアドバイスですが、中にはいるとき、靴を脱がなければなりませんので、登山装備の方はそれだけで面倒です(執筆者も靴は常に登山装備ですので、二度と入らないです)。

こんな方におすすめ

  • 豊臣秀吉が好き、もしくは関心のある方
  • 歴史ある建物があったら入る方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

トヨトミヒデヨシって誰?

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

何者だろうね。知らない。成金だってことは分るね。金ピカ使ってる人物はたいていそうだよ。「富と権力」を見せつけたいからすることだもん。生まれながらに高貴な方は奥ゆかしくて、見せびらかしたりなんてしないから。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

本家のご当主さまは皆、高貴なお方だよね?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

どうかなぁ……。高貴って、公家とかのことなのかもしれないし。よくわかんない。

五郎吹き出し用イメージ画像(笑顔)
五郎

雅とか、高貴とか、俺にも関係ないし……。「猿」とかいう奴については、とりあえず、ちから餅を考案してくれた人ってことでいいよね。

ミル吹き出し用イメージ画像(笑顔)
ミル

そうそう、いいほうに考えるとなんでも楽しくなるよ。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

元就公の厳島合戦関連史跡が……

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

お前、空気読めないの? 取り敢えず、ちから餅食えば。すべて忘れると思うよ。

腰少浦神社付近での記念写真
みやじま・えりゅしおん

宮島旅日記のまとめページ(目次)です。厳島神社とロープーウエーで弥山頂上は当たり前。けっしてそれだけではない、宮島の魅力をご紹介。海からしか行けない場所以外は、とにかく隅々歩き回りました。宮島の魅力は尽きることなく、旅はなおも続きます。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
大内氏歴代当主さまとゆかりの地をご紹介するサイトを運営しています

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