広島県廿日市市串戸の「天王址」は、宮内にある「宮内天王社」の旧地です。
天王社にご参詣した方はもちろん、由緒ある神社の旧地をこの目で確認したい方にはぜひとも足を運んでいただきたい場所です。
このページでは「天王址」の歴史と沿革、ややわかりにくい行き方などを、現地に赴いた経験をもとにご案内しています(訪問回数:1回)。
広島県廿日市串戸の天王址とは?
宮内天王社の旧址です。宮内天王社は宮内地区の氏神として篤く信仰されている神社ですが、創建当時のご鎮座地は、現在のご鎮座地とは別の場所にありました。自然災害により、元の社殿などが被害を受けたため、現在地に移転したのです。
宮内天王社の起源は神武天皇の御東征に遡るほどの由緒あるいにしえの宮です。現在地への移転は天正年間(1573~92)のことですので、神武天皇の御代から十六世紀までご鎮座していた旧地は非常に長い歴史を経ていたことになります。
旧址が残されていたことを有難く思うとともに、地元の皆さまの邸宅に埋もれてわかりづらい場所に辛うじて保存されていることに時代の流れを感じる場所です。
天王址・基本情報
所在地 〒738-0033 廿日市市串戸3丁目12−10
(Googlemap の『天王址碑』の住所です)
民家に囲まれたわずかなスペースの、地面から一段高い敷地内に、「天王址」と刻された大きな石碑と、由来を記した石碑があります
天王址・歴史と概観
こちらは、宮内天王社の旧地となります。現在の天王社へのご参詣も忘れずにお願いいたします。
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宮内天王社(廿日市市宮内)
起源は神武天皇の東征まで遡るという。明治期、付近の神社を合祀して八坂神社となるも、氏子の方々の希望で慣れ親しんだ旧名にもどった。
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宮内天王社の旧地
宮内地区の氏神社・宮内天王社の旧地です。宮内天王社は神武天皇が東征をなさった時に立ち寄られた場所に建てられた、という御由緒の神社です。つまりは、神武天皇ゆかりのとてつもなく古い神社と言うことができます(注:起源についての典拠は神社さま御由緒によります)。ならば、古代史に興味がある方々が、宮内天王社に参詣するのはとても興味深いことです。その考え方は間違っていません。ただし、宮内天王社さまは一度ご鎮座地を遷しておられます。
つまり、現在地は神武天皇が立ち寄られた場所ではない、ということになります。いやべつに、立ち寄られた場所云々というよりも、そのような御由緒が貴重なのであるとのお考えの方は問題ありません。けれども、どうしても旧地が気になってしまうという方も一定数おられると思います。
古来より長い歴史を刻んできた由緒ある寺社さまでも、合祀や合併に際して、もしくは自然災害などの不可抗力によって寺地・ご鎮座地を移転しておられるケースは少なくありません。その場合、もともとの寺地・ご鎮座地が何らかのかたちで残されているところも、失われてしまったところもございます。失われたといっても、土地が消えるわけではありませんから、観光資源として「○○跡地」のように整備されていないということです。整備されておらずとも、元々信仰の対象だった施設があった場所ゆえ、粗略に扱われたりはしていないと思われますが。ただ、全国見回せば「○○跡地」だらけということになってしまいますから、すべてが整備されているとはとても思えません。地元の詳しい方にお伺いして、それらしき場所をご教授願えれば幸いとなります。
そんな中、宮内天王社の旧地はきちんと保存されておりました。宮内天王社の御由緒看板そのほかには、旧地がどこにある、といったご案内はなかったため驚きました。神社をお遷しした理由も自然災害ですので、旧地の社殿などは跡形もなくなっていた可能性もあり、よく今まで伝えられてきたなぁという気持ちです。
しかしここは、Googlemap にも掲載されております。地元の皆さまはじめ、情報収集能力に長けた県外の方々にも意外によく知られている場所なのかも知れません。
現地碑文と天王社ご由緒との相違
天王址には、「天王址」と刻された大きな石碑と御由緒が記された石碑の二つがあるだけです。この由緒書きに書かれていることがとても興味深いので、まとめておきます。
一、天王址がある場所は、かつて神武天皇が東征の時、駐屯した場所である
二、神武天皇が手を洗われた川を御手洗川、衣を召し替えられた場所を衣掛尾と呼ぶ。衣掛尾はみその尾とも呼ぶが、みそ=御衣の意味である
三、かつて、串戸以南一帯の地を「あひの浦」と呼んでいたが、それは「埃乃宮址(=天王址)」があったためだろう。その後、地御前神社が創建されて、地御前村と名を変えた
四、埃乃宮址は、串戸の西端にある。鳥居の基礎などが残っていたことから、天皇が最初に駐屯していたのはここだったのだろう。しかし、たびたび高潮に襲われたため、それを避けるために場所を移された。それが現在の八坂神社の地である
どれもとても興味深いものですが、気になるのは、四です。
最初に、碑文中でいう「今」とは「昭和二年」と但書がありました。ですので、「現在の八坂神社」とあるのは、その後昭和四十四年に八坂神社が宮内天王社と改称されたことが反映されておりません。
まずは、昭和二年に碑文が書かれたということは、その時点ですでに、この場所が天王址として認識されていたという点にびっくりです。鳥居の基礎などが残っていたというのは、その時点での話なのか、言い伝えなのかは碑文だけからは不明です。
どうやら神武天皇の駐屯地は「埃乃宮」と呼ばれていたようです。ゆえに、この場所も埃乃宮址だったのですね。しかし、括弧書きで「天王址」ともいう、とあります。そもそも、一時的に八坂神社となる前も天王社は天王社だったので、その跡地となれば、いずれの言い方もあって当然です。
さて、碑文を読む限り、高潮の被害が頻繁に起こるので、天皇が駐屯地を変えたように読めます。「遂ニ其ノ西ニ玉座ヲ還サセラレシト云ク」とあり、「玉座」と書かれている以上、神武天皇の御在所が変ったという意味ですよね。その後に括弧書きで、それが今の八坂神社(昭和二年時点の呼称)とあることから、天皇ご自身が八坂神社、つまり現在の宮内天王社に場所を移されたとなります。
そうであるならば、宮内天王社の御由緒にある天正年間の津波によってではなく、神武天皇時代の高潮によって天王址の場所から宮内天王社のご鎮座地にお移りになっていたことになります。ここは大いなる相違点です。
碑文が書かれた時代には、そのような認識であったのか、現在も諸説あるのかはわかりません。そもそも碑文の記述は言い伝えを記している感じですし。宮内天王社さまの御由緒にあるように、天正年間の津波によって現在のご鎮座地に移転したというのが正しいと思います。
そもそも、神武天皇の時代のことなど、古すぎてわかりません。寺社さまの縁起・由緒はどこまで信用できるのか謎な部分もあり、天皇東征との関係は誰にも証明できないかもしれません。ですが、これだけ多くの言い伝えがあるということは、何らかの真実を伝えているように思えてなりません。
天王址・みどころ
みどころも何も、石碑が二つあるに過ぎません。場所が場所だけに、狙ってお伺いしないと、偶然に見付かることはあるまいと思われます。当然のことながら、宮内天王社をご参詣済みの方々に、ご興味がおありでしたらこちらにも合せてお立ち寄りいただきたいと思います。
天王址全景
ここに写っている光景が、天王址のすべてです。ご覧のように周辺を地元の方々の邸宅が取り囲んでおりますので、プライバシーに配慮すると写真撮影もできない状態です。なお、カットしてありますが、わずかに見えている通路を夾み、向かって右手にも民家が迫っております。
天王址碑
こちらが、天王址碑となります。刻された文字も立派で、とても大きいです。裏側に回ることができなかったのか、撮影しわすれたのか忘れてしまいました。
天王址由緒碑
天王址の御由緒などを記した石碑です。上の天王址碑と合せて、天王址にはこれら二つの石碑があるだけとなります。周囲の民家が写り込まないよう、碑文の文字起こしができるよう、碑文の文字部分にフォーカスしておりますので、天王址碑と比較した実際の大きさについては、「全景」をご覧ください。
「天王址(埃乃宮址)ニ就テ
昔神武天皇開國ニ方リ、其御東征ノ時御駐在アリシ地ニテ御手ヲ洗ハセラレシ川ヲ御手洗川ト偁フ南ニ衣掛尾アリ(みその尾トモ偁フル地名アリ)此ノ地御衣ヲ召シ更ヘサセラレシ處ト云フ(みそハ御衣ナリ)昔串戸以南一帯ノ地ヲ『合ひの浦』ト偁フ(旧記参照)蓋シ其の偁アルハあひノ宮址アル所以ナリ(あいハ埃ナリ)然ルニ今(昭和二年)ヲ去ル約七百年?即チ嘉禎年間厳島外宮社造営アリニヨリ地御前村ト改称セリ(厳島由来記参照)埃乃宮址(天王址トモ云フ)ハ串戸ノ西端ニアリテ鳥居ノ礎石其ノ跡形ノ如ク存在ス始メ天皇此ノ地ニ御駐屯アラセラレシガ時々高潮襲フルヲ避ケサセラレ遂ニ其ノ西ニ玉座ヲ還サセラレシト云ク(今ノ八坂神社之也由テ此ノ地ヲ大幸ト云フ)」
(≒ 碑文)
※碑文の文字にはかすれて読めない部分もあり、正確ではないところもあるかもしれないことをお断りしておきます。
天王址(廿日市市串戸)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒738-0033 廿日市市串戸3丁目12−10
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
宮内串戸の駅からとても近いです。むろん徒歩圏内です。ただし、見付けるのはそれなりたいへんです。「え!? こんなところに!?」という場所にございます。
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1串戸第三踏切
この踏切よりわずかに真っ直ぐ進みます。
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2天王址入口
進行方向左手のほう、二軒目の邸宅脇から道が続いております。
参照文献:観光協会ガイドさまご案内および資料、現地石碑碑文、宮内天王社由緒看板
天王址(廿日市市串戸)について:まとめ & 感想
天王址(廿日市市串戸)・まとめ
- 宮内天王社が現在の場所にご鎮座地を遷す前の跡地
- 遺構のようなものは特になく、「天王址」という石碑と昭和二年の由緒石碑がある
- 宮内天王社の起源は、神武天皇が東征のために立ち寄ったところ、というもの。天正年間に津波によって現在地に遷されるまでは、こちらの跡地に鎮座していた。つまりは、神武天皇が立ち寄られたのはこの場所ということになる
- 由緒石碑には、天皇が手を洗われた川を「御手洗川」、御衣を替えられた場所を「衣掛尾(みその尾とも。みそ=御衣)などの地名の由来などが記されており、非常に興味深い
- 神武天皇が駐屯なさっていた場所は「埃乃宮」と呼ばれていたらしく、そのため、この場所は別名「埃乃宮址」とも呼ぶ(同石碑)
- 跡地の現状は、わずかな地に石碑二つを設置した状態で、地元の方々の邸宅に囲まれている
廿日市観光協会ガイドさまとの宮内町歩き。とっても楽しく、また、有意義な一日(数時間)をご一緒できて、本当に感無量です。あれから早くも半年が過ぎてしまいました。月日が経つのが早すぎてついていけません。数年前にひとりで参詣した宮内天王社。御由緒がすごいことになっていて、びっくりしたのを覚えております。まさに、古代史浪漫の世界です。でも、それだけで帰ってきてしまうのがひとり旅(五郎も合せてふたり旅)。あれもこれも見落としているではないか……という感じに。
宮内はものすごい早さで宅地化が進んでおり、去年と今年でまったく光景が違って見えるほど。かつては、田んぼの中にぽつねんとあった小祠などが、真新しい住宅地の中に埋もれてしまい、探すのも困難に。さすがに、数年単位ではそこまでの変化はないと思われますが。地元に詳しいベテランガイドさま方曰く、現在はどこにあるのか久々になると分からなくなる、と。新しくて綺麗な住宅地の中にあるのもまたよいのですが、確かに田んぼの中にあったほうが小祠の光景としては嬉しいです。
ひとり(ふたり)で宮内天王社に赴いた時には、まさか跡地が保存されているとは夢にも思いませんでした。観光協会のスケジュールにも「天王址」という訪問箇所は載っていません。今回のご訪問は、優しくて博識のガイドさんからのとっておきのプレゼントでした。Googlemap で場所を調べる時、さすがにこんな所は載っていないだろうなぁと思ったら、しっかり載っていてちょっとだけ残念。知る人ぞ知る場所なんですね、きっと。しかし、Googlemap に載っているからといって、ここにはちょっと辿り着けないだろうなぁと思いました。map のナビはもちろん誤っているはずがありません。しかし、恐らくは入口にあたる所で「目的地に到着しました」となると思うのです。まさか、民家の脇から入っていくなんて、誰も思いも寄らないかと。
これまでもたびたび、「到着しました」となっているのに見当たらず、どこに!? となったことがありました。その後、ちょっとだけズレていたり、山頂なのに登り口だけで着いたことになっていたりすることを知りました。それでも、どう考えても平地なのに、周囲見回してもそれらしきものがない、という謎の体験をしたことがあります。こんなことを書くとナビが信用ならないと言っているように聞こえるかもしれませんが、けっしてそうではありません。99.9%、ナビのお陰でどこへでも行けている現状です。それでも辿り着けない時、理由はあるいはこんなことだったのかもしれないと思いました。
こんな方におすすめ
- 大好きな神社なら跡地にも行ってみたいような方
- なかなか見付けられない旧跡などを探すのがお好きな方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
さすがのミルもびっくりな「跡地」だった。ガイドさんに感謝しないと。今回も素敵な出逢いがあった。俺たち、本当に人に恵まれているね。
そうだね。優しくて、とっても親切な最高のガイドさんだった。またお目にかかりたいな。
会えるよ。つぎの地御前神社の例祭の時に。六月は旅行の閑散期。ついてるね。
OWNER の財布は、閑散期でも出発できないほど困窮してるけど。六月までには何とかして欲しいね。
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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