広島県廿日市市宮内字辻堂原の宮川甲斐守腹切岩とは?
厳島の合戦の前哨戦ともいわれている折敷畑の戦いで総大将として出陣、戦死した宮川甲斐守にまつわる史跡です。中世から、宮川甲斐守はこの場所で自害したという言い伝えがあり、いかにも最期の場所に選ぶに相応しい大岩があります。
ただし、史実では甲斐守は折敷畑で亡くなったことになっておりますので、ではこの岩で亡くなったのはいったい誰だったのか、そもそも本当にこの場所で亡くなった人がおられたのか、謎多き場所です。
宮川甲斐守腹切岩・基本情報
所在地 廿日市市宮内字辻堂原2541-1
※住所は現地案内看板によります。
宮川甲斐守腹切岩・概観
「謎多き部将・宮川甲斐守」
この腹切り岩に行く前に折敷畑古戦場跡を訪問しています。さまざまな資料(含軍記物)や現地案内看板などから、宮川甲斐守は戦場で亡くなったと判断するのが妥当です。ならば、なにゆえ、戦場から離れた(ほど近い場所ではありますが)この場所で亡くなったとする伝説があるのでしょうか。
折敷畑の戦いは毛利軍の圧勝に終わっており、大内方は壊滅したといってもいいのではないかと。この時代の人々が、誰言うとなく、この大岩の上でそれなりに身分のありそうな人物が腹を切ったと語り伝えているのはなぜなんでしょう。このことが、とても気になっていました。
宮内町歩きでご一緒したガイドさんにそのことをお伺してみたところ、宮川甲斐守は「謎多き部将」と言われている、と。てっきり、出自などが謎に包まれているのかと思い、ますます興味津々となりましたが、折敷畑で亡くなったはずなのに、大岩の上でも亡くなったと伝わる。一人の人間が二回死ねるはずはない。謎。との意味だったらしく。ガイドさんオリジナルのちょっぴりお茶目なネーミングでした。
しかし、考えれば考えるほど謎ですよね。地元の一般庶民は、宮川甲斐守がどんな顔姿であるかなど知るよしもありません。なので、本人ではないことも十分考えられます。でも、誰もこの上で亡くなっていないのにもかかわらず、亡くなった、という噂が流れるようなことがあるでしょうか。
宮川甲斐守には影武者がいました。総大将らしく、出で立ちもそれらしい上、顔姿も似ています。万が一の時には、その者が身代わりとなり、本人は密かに逃れるのです。その人物はこの大岩の上で、わざと人目につくように、見事に自害して果てました。地元の方々は、立派な身なりの大将が腹を切ったのを見た、と大騒ぎに。……というのは、和田恭太郎先生の創作にあったお話です。小説家ではありながら、史実にないことを脚色するということを、ほぼなさらないお方です。廿日市の先生からお借りした毛利元就を描いた小説の中に、上述の影武者の一段がありました。その時、なるほど! と思った次第です。むろん、ここは和田先生の脚色ではありますが。とても筋道が通っているとおもいませんか?
しかし、影武者なるものの任務は主を助けることです。その意味では、彼は任務を達成できていません。甲斐守は亡くなっているからです。そんなことをつらつらと考えました。ここで亡くなったのは、もはやこれ以上は逃れられないと思った甲斐守で、戦場で亡くなったのが影武者だったのか。甲斐守を逃がすことができずに戦死させてしまった影武者が、ド派手に自決する姿を演出することで、彼の勇姿を地元の方々の目に焼き付けたのか。さて、どちらでしょう? 当然、後者だと思いますが、もしそうであれば、その役割は十分に果たされたということになります。だって、数百年後の今にいたるまで、語り継がれているのですから。
甲斐守の祠はどこに!?
真偽はともあれ、地元の人々は甲斐守がこの場所で亡くなったと考え、その霊を慰めるために祠を造ってお参りしていました。その祠は、明治時代に怪しい小社・祠の類や小さな神社や寺院を整理した際に、片付けられてしまいました。ゆえに、今、現地に行ってもお参りはできません。
しかし、このような社や祠というものは皆、それぞれに曰く因縁がございますので、簡単に可燃ゴミというわけにはまいりません。中にお祀りされていた神さまなり、横死した人なりは付近の大きな神社にまとめられました。つまり合祀ですね。宮内にあったそれらの小さな社や祠はすべて、八坂神社(現在の宮内天王社)に集められたとされています。
恐らくは、あまりにも数が多すぎたのでしょう。宮川甲斐守の祠のような小さなものが祀られているという記録は、天王社さまのご由緒などにはありません。しかし、じつは、この腹切り岩からほど近い所に、大歳神社がございまして、そちらに合祀されたというご意見もございます。
そもそも、なんでもかんでもまとめようということなら、大歳神社さまもまとめられてしまったかも。しかし、きちんとご鎮座なさっているのは、由緒ある神社だったからでしょう。たいがい、小祠はその付近の神社に合祀されるのが普通です。その意味では大歳神社さまに合祀された、という説のほうが有力なのではあるまいか、と思います。ガイドさんにもお伺しましたが、史料がなく証明はできないものの、個人的なご意見としては距離的位置から考えても大歳神社説が正しいのではないかと。公的なアナウンスでは天王社となっており、何ともなんですが、常に公的アナウンスが正しいとは限りません。だって、こんな小さな祠、どうでもいいだろうってなれば、そこまでですし。数が多すぎてすべての記録など残っていないでしょう。
あくまでも、個人的な意見ですので。ご参考までに。ただ、恐らくは地元の方はほとんど、この説に一票を投じられるのではないか、と思います。もっと資料を探して、何とか明らかにしたいですね。⇒ 関連記事:宮内天王社、大歳神社(明石)
宮川甲斐守腹切岩・みどころ
みどころといってもただの岩ひとつです。それにものすごく浪漫を搔き立てられるか、単なる言い伝えだろう、で終わるか。行く人を選ぶ史跡です。
あるのは岩本体と、祈念碑だけです。ちょっとした高台なので、階段がついています。
文化財説明看板
ごらんのように、ちゃんと廿日市市の文化財という扱いを受けて大切にされているのです。この説明看板が、簡潔明瞭で素晴らしい名文です。
「宮川甲斐守腹切岩
(廿日市市宮内字辻堂原2541-1 廿日市市史跡 昭和56年10月14日指定)
天文23年(1554)5月12日、毛利元就は陶晴賢と断交し、吉田より兵を進め陶氏支配下の銀山城 (広島市安佐南区)・草津城(広島市西区)・桜尾城や厳島を電撃的に占領した。陶晴賢は直ちに山代(山口県東山間部) や山里 (佐伯郡山間部)の土豪を動かし、宮川甲斐守房長を将として反撃に転じた。
同年6月初め桜尾城奪回の目的を持って、陶軍は廿日市の北西、折敷畑山付近や明石口に陣を敷いた。毛利軍は桜尾城を本陣として、6月5日未明に陶軍への急襲を行い、この地域一帯で激戦が展開された。陶軍は総崩れとなり宮川甲斐守房長は敗死し、毛利軍の圧倒的な勝利に終わった。
この戦いは「折敷畑(明石口)合戦」と呼ばれ、毛利氏にとっては厳島合戦の前 哨戦で勝利した大変意義ある合戦であった。
「房顕覚書」には「陶内 宮川甲斐守 馬ガハヤリ カケホラ (崖洞) へ落死ニケリ」とある。土地の人は「この腹切岩の上で、宮川甲斐守は自刃した」と伝えてい る。この辺りには戦死者を積んだという「小積谷」とか、死者を葬った「仏坂」 などの地名があり、合戦がこの一帯で行われたことは間違いない。
この腹切岩は折敷畑合戦や宮川甲斐守の戦死後の碑石と伝えられている。
平成8年11月
廿日市市教育委員会」
(文化財説明看板本文)
記念碑
「宮川甲斐守切腹址」と彫られています。ゆえに、ずっと「切腹岩」と連発していましたが、観光資源としての名称は「腹切岩」のようですね。
こちらは昭和十四年に建てられた由緒石碑のようです。残念ながら、文字が不鮮明になっており、解読はその場で理解できる方でないと難しいです。また、悲しいことには見学に行った日は、背後に産業廃棄物があって、全体像をおさめるポイントに下がれず。今はきれいに清掃されていればいいのですが。
岩の全体像
確かに曰くありげな巨石です。
付近の風景
ご覧のように、付近には中国山地の山々が見え、心洗われる雰囲気でした。
宮川甲斐守腹切岩(廿日市市宮内字辻堂原)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 廿日市市宮内字辻堂原2541-1
※住所は現地案内看板によります。
アクセス
最寄り駅は宮内串戸ですが、歩いたらたいへんなことになります。天王社から45分くらいだった気がしました。しかし、ほぼ、真っ直ぐな道が延々と続いているので、迷うこともなく、中国山地の山々に心癒やされます。でも、ガイドさん曰く、岩の真横は無理でも、近くには車を停めるところがあるし、歩くのはやめたほうがいい、と。同感です。ホテルに着いたときはボロボロでした。費用対効果を考えた場合、タクシー代金をお支払いしても、体力温存し、ほかの観光資源も見て回ったほうが効率的です。次の日まで疲労が続きますから……。
参照文献:現地案内看板ほか(※参考文献は、折敷畑古戦場跡執筆後に整理します)
宮川甲斐守腹切岩(廿日市市宮内字辻堂原)について:まとめ & 感想
宮川甲斐守腹切岩(廿日市市宮内字辻堂原)・まとめ
- 厳島の合戦の前哨戦ともいわれる折敷畑の戦いを率いた宮川甲斐守がこの上で亡くなったという言い伝えがある岩
- 史実では、戦いは毛利軍の圧勝。甲斐守も戦場で戦死したことになっている。ならば、ここで亡くなったのは誰なのか、永遠の謎である(むろん、どなたも亡くなっていない可能性も)
- 昔は、この岩の付近に小さな祠があり、宮川甲斐守を祀っていたとされるが、現在は付近の神社に合祀されたらしく、見当たらない。公式アナウンス(『宮島本』など)では、宮内天王社に合祀されたという
本当にただの岩です。しかし、どうしても見たくてたまらなかったので、歩きました。ガイドさんの仰るように、歩いて行くのは時間の無駄でしたが、途中、中国山地の山々の景色がとても美しかったので、本当に心洗われました。付近には、折敷畑山もあり(登山口もありますが、現在は推奨されない入口です)、一説によれば宮川甲斐守の祠が合祀されたともされる大歳神社もあります。宮内串戸の駅からはかなり遠いため、徒歩で行くことは推奨されませんが、車で行ったとしても、付近の光景は満喫していただきたいと思います。
しかし、この岩で本当に、宮川甲斐守さんが亡くなられたとはとても考えられず、さりとて、単なる言い伝えにしてはあまりにもそれらしい大岩です。そもそも、何もないところに言い伝えなど生まれないはずでして。現状、和田恭太郎先生の影武者説以外、説明のしようがないと思います。さもなくば、この岩に来たのは、すでに亡くなられた後のお姿だったのかもしれませんね(嘘)。ただ、文化財案内看板にもある『棚守房顕覚書』は崖から落ちて亡くなったとしているんです。崖から落ちたが、実はまた息があって、この岩まで辿り着いたという説は成り立たないのでしょうかね。
山口の友人たちを廿日市にお迎えした際、最初のリクエストにはこの岩も入っていました。タクシーを使えば造作なかったのですが、結局時間は足りず、彼女たちも単なる岩ひとつや公園になってしまったところ(桜尾城のこと)は、時間が足りないなら諦める、とのことでした。次回は一緒に来て、この目で見てもらい、彼女たちの感想もぜひ聞きたいです。
こんな方におすすめ
- 興味をそそる言い伝えがあれば、岩一つでも見に行く人
- 厳島合戦関連史跡コンプリートの人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
マジ何もない岩ひとつなんだけど、こんなに胸が苦しいのはなんでなんだろう。なんだか、俺に親しい人が亡くなったような気がする……頭が割れそうに痛い……
(はっ、まさか、甲斐守さまを思い出してしまったのかも……)いや、君の子孫にお仕えしていた人が亡くなった場所だから、悲しくなるのは当然だよ。
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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