広島県廿日市市宮島町の清盛塚とは?
宮島にある「経塚」で、平清盛が一字一石の法華経を刻んで埋めたと伝えられているものです。
この経塚がある丘を経ノ尾と呼んでおり、ちょっとした丘の上に、石塔などの遺構が散らばっています。また、厳島合戦の時には、この辺りにも部隊を布陣したことが知られています。
貴重な文化財でありながら、場所がわかりにくいことと、丘に上がる道がキツいことからあまり訪れる方はおられないように見受けられます。
清盛塚・基本情報
所在地 〒739-0534 廿日市市宮島町西大西町12
※Googlemap にあった住所です。
概要 平清盛が一字一石の「法華経」を刻んで埋めた経塚(伝承)
現地の遺構 塚と周囲の積石
清盛塚・歴史と概観
平清盛ゆかりの史跡であることから「清盛塚」と呼ばれていますが、これは通称のようで、現地の案内看板には単に「経塚」と書かれていました。
経塚とはどのようなものか
経塚というのは、お経を書写して埋め、その上に建てた塚を指します。信心深い昔の方の習慣かと思っておりましたが、そんなことはありません。二十一世紀になった今日でも、経塚は作られています。山口の瑠璃光寺で、ご住職がお経を書写なさって埋めた上に、同寺院のシンボルである五重塔の形をした塚を建てておられたのを拝見しています。なんだろう? と思い解説文を見たところ、「経塚」であると書かれていました。
寺院さまでも、お経を書き写す教室などが開かれていたり、趣味で写経をなさっている方もおられますね。信心深くもなく、流麗な毛筆書きなど無理な身からすると、たいへんに高尚な趣味をお持ちだなぁと常に圧倒されております(趣味ではなく、信仰なんでしょうか……その辺りも無宗教の現代人には理解しがたいです。間違っていたら申し訳ありません)。
では、歴史的に見て、清盛の時代の「経塚」というのは、いったいどのようなものを指すのでしょうか? 何のために、お経を写して埋めたりしたのかという理由も気になるところです。『日本史広事典』で調べたところ、およそつぎのようなことがわかりました。
末法思想が流行した時代、だいたい平安時代の終わりくらいからとなりますが、人々は仏教が滅亡してしまったら、経典も失われてしまうだろうと危惧していました。そこで、経典を書写して、霊山、寺社、墓の近くなどの場所に、埋めました。仏教滅亡によって、経典が消滅することに備えたのですね。
このようにして、経典を書写して埋めることを「埋経」といい、経典が埋められたところを「経塚」と呼びました。たいていこれらの「埋経」した場所の上には小さな塚を築くことが多かったためです。
こうやって地中に納められる経典ですが、たいていは紙本に書き写しましたが、ほかにも瓦、礫石、銅板、滑石、貝殻などに書写されることもありました。そして、書き終えた経典は「経筒」と呼ばれる筒形の容器に入れて保護されました。おもに、紙製の書写経を保護するためのものだそうです。経筒には、青銅、金銅、鉄、石、陶器、木などが用いられ、地中には石組などの施設を造って、合子、刀子、鏡、銭貨などとともに埋められました。埋経は現代にまで続けられましたが、鎌倉、室町時代になると、極楽往生・現世利益を求めて行なわれる行為となっていきました。(参照:『日本史広事典』「経塚」「経筒」「埋経」)
なお、現存する最古の「経塚」として、藤原道長が金峯山に埋葬したものが有名です。道長が彼の地に経塚を造ったことは『御堂関白記』にも書かれていて、さらに「大日本国左大臣藤原朝臣道長」銘文が書かれたものが江戸時代に発見されたのです。
重複しますが、いちおう典拠を挙げておきますね。
経塚
平安時代の末法思想により、 仏教経典を書写し、仏法滅亡後の経典の消滅に備えて地下に埋納し、その上に小さな塚を築いた。 経典はおもに紙本経で、他に瓦経・礫石経・銅板経・滑石経・貝殻経などがあり、金属・陶器・石・木などの外容器に入れ、地中に石組などの施設を造り、合子・刀子・鏡・銭貨などとともに埋納。藤原道長が一〇〇七年(寛弘四) に造営した金峰山経塚は最も有名。鎌倉・ 室町時代になると、極楽往生・現世利益の祈願にかわる。経筒
経文を納める筒形容器。 経文 を地中に埋納する際に、紙本経を保護するために 用いた。経塚から多く発見される。青銅・金銅・ 鉄・石などで作られ、形は円筒形を基本に、八角 や六角のものもある。埋経は末法思想の流行にともない平安後期から盛んになった。年代が明らかな最古の遺品に、寛弘四年(一〇〇七) 銘の藤原道 長埋納の金銅製経筒(奈良県金峰山経塚出土)がある。埋経
写経を霊山・寺社の内外や墓辺に埋めること、また埋めた経。平安中期から現代まで行われ、経を埋めたところを経塚という。 現存最古の埋経は、奈良県金峰山経塚出土の藤原道長の発願のもの。埋納経としては「法華経」が多く選ばれ、写経の材質には紙・瓦・銅・ 板・石・貝殻などが使用された。出典:山川出版社『日本史広事典』
「埋経」という行為は、現代も行なわれていることがわかります。心静かに写経した皆さまが、藤原道長のようにそれを地面に埋めているかどうかは甚だ疑問ですが。しかし、瑠璃光寺さまのように、檀家の皆さまの信仰に感謝して経塚を作ることはあるわけなので、今もどこかで埋めている例はあるかと思われます。
平清盛の経塚
事典の例には、藤原道長が埋めた経筒の話が載っております。このお話はかなり有名でして、受験参考書にも出ております。事典には書いていない「江戸時代に発見され」という部分は、参考書に書かれていたものです。
時の権力者・藤原道長が埋めた経筒であることから、出土品もかなり立派なものであったと想像します(それについては記述なし)。末法思想真っ只中であり、「仏法滅亡後の経典の消滅」を信じての行いというのも驚きです。末法という点では、現在もそうなのですが、鎌倉・室町時代になると、極楽往生や現世利益のために行なわれるようになったとあるので、埋経の意義も変っていったのでしょう。
正直、末法などと言っても、世の中に何か変化が現われたわけではないですし。信心深い昔の方々といえども、心の中では特に何事もないではないか、と考えていたのかも(根拠なし)。大内氏歴代が立派な経蔵を建てて一切経を納め、国家と領民の安寧のために盛大な法会を行なった話はききますが、経塚を作ったというのはニュースになっていないですよね。=作らなかったかどうかは知りませんが。
平清盛の時代は鎌倉時代一歩手前です。それこそ浄土思想が大流行していた時期ですので、極楽往生のための埋経でしょうか。その点はどこにも書かれておらず、わかりません。
経を埋めるのは霊山、寺院、墓などの近くとありますが、清盛塚があるのは、霊山と呼ぶのは無理がある丘の上です。聖なる島である厳島には墓は存在しません。だとすると、寺院の近くという分類になりそうです。確かに、宮島にも大聖院や大願寺といった著名な寺院は存在します。けれども、昔は神仏習合していましたし、何と言っても平氏=厳島神社ですから。清盛は自らが愛した厳島の地に、一族の末永い繁栄を願って経塚を築いたのではないか、そう思いました。
平氏の氏神・氏社って?
平家一門が滅びた後、わずかな間天下人の一族となった源頼朝一家(鎌倉幕府はその後も続きますが、頼朝の子らはすべて亡くなってしまいますからね)。彼らに限らず、源氏は石清水八幡宮を氏神としていました。でもって、頼朝一家はその石清水八幡宮を鎌倉に勧請し、鶴岡八幡宮を建立します。ゆえに、源頼朝といったら、氏神は鶴岡八幡宮ですよね。
そこで、常に気になるのが、彼らと戦い、攻め滅ぼされた平家の人たちの氏神ってどこだったんだろう? ってことです。誰も、○○神社が平家の氏神だった、のようなことを書いてくれていませんよね?
『平家物語』巻七「平家山門連署」の章段には以下の如くあります。
敬白、延暦寺をも(ッ)て氏寺に准じ、日吉の社をも(ッ)て氏社として、一向天台の仏法を仰ぐべき事。 右当家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何者、叡山は是桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教法を此所にひろめ、遮那の大戒を其内に伝へてよりこのかた、専ら仏法繁昌の霊崛として、鎮護国家の道場にそなふ。
(中略)
何に況や、忝く臣等が曩祖を思へば、本願の余裔とい(ッ)つべし。弥崇重すべし。弥恭敬すべし。自今以後山門に悦あらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、おのおの子孫に伝へてながく失堕せじ。藤氏は春日社、興福寺をも(ッ)て、氏社、氏寺として、久しく法相大乗の宗を帰す。平氏は日吉社、延暦寺をも(ッ)て氏社、氏寺として、まのあたり円実頓悟の教に値遇せん。かれはむかしの遺跡なり、家のため栄幸を思ふ。これは今の精祈なり、君のため追罰をこふ。出典:杉本圭三郎. 新版 平家物語 全訳注 全四冊合本版 (講談社学術文庫) (p.1535). 講談社. Kindle 版.
要するに、これからは延暦寺を氏寺、日吉神社を氏社として敬い奉るので、お力をお貸しください。というような意味です。四面楚歌となってしまい、今にも都落ちとなる寸前、藁にもすがる思いで書かれた書状です。なにゆえ、平家が延暦寺に救いを求めているかといえば、『平家物語』を丁寧に読んだ経験がある方ならご存じの通り、平家と延暦寺の関係はどちらかと言えば良好でした。だから嫌われる所以はない、という前提がまずあります。
さらには、延暦寺は桓武天皇が発願して建立なさった寺院なので、その末裔たる平家一門が氏寺・氏社とするのはますますもって、当然のこと、ともあります(延暦寺ってそうだったんですね)。
南都焼き討ちなどで巻き込まれて焼失してしまった寺院などからは忌み嫌われていても、延暦寺に憎まれるようなことは何一つしていないのです。今をときめく平清盛の一族から、氏寺・氏社にしてもらえると聞いたら、喜んで飛びついても罰はあたらない話です。しかし、これは、木曾義仲が攻めてきて、今にも都に入ろうという時分に書かれたもの。さらに、都に入る際、その手前で延暦寺ともめるのは嫌だと考えた義仲が、逆賊を退治するので、我々に味方してくださいと書き送った書状が先に届いていました。
悩みに悩んだ末、結局は義仲に味方する旨、返答してしまった後だった延暦寺は、平家からの書状に返信しませんでした。もう数日早くに、この書状が届いていたら……。様々な人々のその後の運命はどうなっていたのでしょうか。
たひらかに花さくやども年ふれば西へかたぶく月とこそなれ
典拠はわずかにこれだけですが、すでに立派な自らの氏寺・氏社をもつ勢力が、こんな書状を書けるでしょうか。大内氏が興隆寺をほったらかしにして、明日からは延暦寺を我が氏寺に、日吉神社を氏社といたします、なんてとんでもないことは、絶対に言えないですよね(何気に興隆寺は天台宗なので、本家本元やんか、と思ったりしますが。でも、妙見大菩薩さまが氏神であるというこれをとったら大内氏ではなくなるという重要な問題がありますから)。
だとしたら、平家には氏寺も氏社もなかったのか!? と思うとびっくりします。確かに、源氏が勝手に氏神にしてしまっている石清水八幡宮など、武家の神さまという意味では、どの家も氏神ということにできそうではありますが。それに、元は皇族なのだから、伊勢神宮ではだめなのかい? と思えど、これは安徳天皇にとっては氏神さまということで問題ないようですが(最後のご挨拶をしておられた)、家来と化した平家の人たちにはダメだったみたいで(根拠なし)。
そもそも、このような状態(特に氏神というべき神社がない)ゆえ、清盛は厳島神社をかくも大切にしたのだというご指摘を拝見したことがございます。
そんなようなことを、つらつら考えてみると、清盛が一族のために経塚を作ろうと考えた時、厳島以外に選択肢はなかったのかもしれません。
経ノ尾
清盛が崇敬する厳島神社のある宮島に経塚を造ったことも頷けたかと思います。この経塚はとくに「清盛塚」と呼ばれており、またこの経塚がある尾根一帯を「経ノ尾」と呼んでいます。
「経ノ尾」ときいた途端、我々はピクッと反応してしまいます。なぜなら、厳島合戦関連史跡であるからです。いきなり、平家の時代から1555に飛んでしまうのですよね……。
なにゆえにか、このような合戦要図では、「敵軍」が赤色となっております。毛利家の「義軍」は緑色です(味方軍を赤色にして、実戦訓練をしているお国を存じ上げていますが、敢えてどことは申しません)。で、聖なる島・厳島は、広いように見えてこういうときは狭いんです。皆さんご存じの現代の観光資源の周辺に、びっしり両軍が布陣して埋め尽くされてしまっていたことがわかります。
合戦のことは後回しになっているので、ちょっとここにはまだ書けないのですが「経ノ尾」にも、しっかりと毛利軍が布陣していたことがこの図からわかります。ただ、後回しにして調べていない状況下で書いてますが、すべては博奕尾からの奇襲が始まってからのお話となりますので(それまでは、毛利軍は要害山しかなかったかと)、奇襲成功してからの配置でしょうね、これは。だって、すべてを奇襲に集中していたし、人数的に劣っていたのだから、奇襲成功前に、こんな場所に中途半端に布陣してもやられてしまうだけ。兵損もったいないよ、というお話にしかなりません。
逆にどっと下りてきた後、このように左半分を完全に掌握すると、敵はもう、逃げ場がないですね。この時点(そう考えると最初から経ノ尾にいたんかな? とも思い混乱しますが)では、海岸にも敵軍の赤色が見えますが、奇襲成功時点で、制海権はすべて毛利家が掌握。逃げるための船すらない状態になってしまったわけなので。はぁ。
大丈夫だ。俺が大江浦に救出に向かう。だいたい、大和の砲弾が炸裂したら宮尾城なんて一発で跡形もなくなる。
……(話が見えない)。
すみません。今のは聞かなかったことにしてください。危ないよ君って子は。そんなの炸裂したら、味方まで吹っ飛んじゃうよ。
そうなの? ミルが大和ミュージアム連れてってくれないから、俺、イマドキの船のこととか理解できてない。
ミルもわかんないけど、大和もいまとなっては、かなーり古い時代の船になるよ。イマドキの船なんかどんだけ怖いか想像もできない……。
清盛塚・みどころ
平清盛が一字一石の「法華経」を刻んで埋めた「経塚」であると伝えられています。しかし、現地に赴いても石塔が一つあるだけです。発掘調査で見つかった貴重なものは現地に展示されていたりはしないため、あくまで所在地の確認と石塔(塚)を見ることができるだけとなります。
経塚
清盛がお経を埋めて、その上に建てた塚がたぶんこれでしょう。経塚の丘に上がって目につくものは、じつはこれだけなんです。
案内看板
「この丘は経ノ尾と呼ばれている。経塚は清盛塚ともいわれ、清盛が平家一門の繁栄を祈願して一字一石経を埋めたと伝えられる。昭和19年開墾の際一部が発掘されて、銅製の経筒、陶製の甕と中国宋代の白磁の盒子、梅花双雀鏡、刀片などが発見された。これらはすべて平安時代のものとみられる。経塚のあたりは積石で覆われ、宝篋印塔、石灯籠などがあるが、後世のものである。」
(看板説明文)
看板には宝篋印塔や石灯籠があると書かれているのですが、見付けられませんでした。探すために何度か登っているのですが……。
また、発掘調査の結果、かなり色々なものが出土したようですが、どこに展示されているのか不明です(調査中)。
経ノ尾全体像(雰囲気)
上の経塚、そしてその脇の案内看板から少し離れたところから撮影。だいたいにおいて、何もなく、ただ生い茂っている場所と化しています。
別の方角をみたところ。ちょっとした削平地になっていますね。
同じ経ノ尾です。倒木が廃棄されている雰囲気。自然のものなのでかまわないのですが、これらを搬出して削平地を整備すれば、合戦史跡としての雰囲気はより伝わるかもしれないですね。
経ノ尾から見える大鳥居
季節は六月でしたが、かなり生い茂っていて、隙間からわずかに覗き見れる程度。しかし、やはり大鳥居を望むことができる丘であることは紛れもない事実でした。清盛が大好きな厳島神社が見える場所だったんですね。
清盛塚(広島県廿日市市宮島町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒739-0534 廿日市市宮島町西大西町12
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
行き方は色々ありますが、それなり見付けにくいです。地図を見たら、清盛神社と向き合う場所にあったので、なるほどと思いました。詳しい行き方を取材しに再訪したのですが、記事にまとめるまで時間があきすぎてしまい、わからなくなってしまいました(汗)。もう一度取材しますので、少々お待ちください。
清盛塚への行き方(仮)
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1この通りを行きます
どの通りだったか忘れてしまったので、次回の宿題です。すみません(多分柳小路っぽいよね?)
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2経ノ尾入口階段
この道どこへ続いてるの? というような道を進んで行くと、いきなり階段が現われます。いかにも上に何かありそうな予感なので、ほとんどの方は見かけたら上るはずです。
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3階段はそれなり上がりにくいです
ご覧のように、下から仰ぎ見るときちんと手摺りがついているように見えるのですが、途中からなくなってしまいます。また、石段の高さが微妙にキツくて、上手く説明できませんが、危ないです。
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4最後はスロープとなります
階段を上がるとこんな感じです。ひと息つけます。でも、ここで安心しないでください。
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5足元は悪いです
進んで行くと、道が狭くなり、岩だの倒木だのあれやこれやで、時と場合によりますが、足元はあまりよろしくありません。くれぐれもお気を付けください。ここまでくれば、真っ直ぐ行くだけです。
参考文献:受験参考書、『日本史広事典』、『宮島本』、現地案内看板
清盛塚(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想
清盛塚(廿日市市宮島町)・まとめ
- 平清盛が一字一石経典を刻んで埋めたとされる「経塚」
- 経塚とは、経典を書写して地面に埋め(埋経)その上に、塚を置いたものを指す
- 末法思想が恐れられた時代に、経典も消滅してしまうと信じた人々が、守る為に地面に埋めた行為であったらしい
- 経典の書写は様々なものに書かれたが、大概は紙に記したため、保護するために筒に入れて埋めた。この筒を経筒と呼ぶ(清盛は石に書写した)
- 経塚として歴史上有名なのは、藤原道長の手になるもので、江戸時代に発見された
- 鎌倉時代以降、経塚を作るのは浄土思想や現世利益のためという色彩が濃くなっていった。この風習は現代にも続いている
- 平清盛は平家一門の繁栄を祈って、自らが崇敬していた厳島神社にほど近い場所に経塚を作ったものと思われる
- 経塚がある丘を「経ノ尾」と呼び、ここは、厳島合戦の時、毛利軍が布陣した場所の一つでもある
なんだろうこの階段は? 取り敢えず上ってみよう、と上った結果辿り着いた史跡です。階段があったら何でも取り敢えず上る、というのはあまりおすすめできません。下に何の案内版もない場合、整備がなっていないなどの理由で、敢えて案内版を出していないこともあるからです。清盛塚に関してだけ言えば、「なんだろう?」がなければ、絶対に見付けられなかったかと思われますので、上がってみて正解でした。
ここ数年、宮島の整備も急ピッチで進んでおり、行く度に新しく、きれいになっています。ですので、危なっかしい階段は作り直す、看板がないところは作るといった対応がなされた可能性もございますが、最新訪問時(20230604)時点では、階段は危ないまま(危険はないのですが、急です)、案内看板(階段を上ると何があるか、という←のようなもの)もできていませんでした。
上がっていってもあるのは経塚一つ。丘の上も未整備で狭苦しいですし、展望もあまりよいとは申せません。そもそも、存在すら知らない観光客の方が大半かと。厳島神社と弥山だけでほぼタイムオーバーとなりますからね。かなりのリピーターか物好き以外には、観光需要はないかもしれません。いっぽうで、もしも、平清盛が好きで、この塚を探しておられる方がいたとしたら、見付けにくいという……。
位置的には分かってしまえば大したことない場所にあります。しかし、階段は急で、本当に危ないです。ゆっくり静かに上がってください。また、上がってからもそれなり足元が不安定ですから、二重に危ないです。正直なところ、平家の栄華を知りたい人には不向き(だって、だたの石の塔一つなので)ですから、見ないで通過もありの場所です。
こんな方におすすめ
- 平家物語や平清盛に関心がある方
- 厳島合戦関連史跡コンプリートの方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
狭……。
階段危なかった……。
お前たち、こういう行き当たりばったりを続けていると、そのうちアクシデントが起きるかもしれないぞ。ええと、ここに布陣なさったお方は……。
お前、「厳島合戦関連史跡コンプリート」の奴なわけ? 俺たち『平家物語』で回っているから。あと、毛利家のこすぷれの奴、出禁にする御触書殿さまに書いてもらうからな。あれだけトロくても、なんとなく歴史分かって来たみたいだから。
やめなさい! あんまり「分かられ」ちゃうと、出禁になるの君のほうだから。
何で俺が? 大内水軍の将来のために21世紀まで来て勉強しているってのに……。
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みやじま・えりゅしおん
宮島旅日記のまとめページ(目次)です。厳島神社とロープーウエーで弥山頂上は当たり前。けっしてそれだけではない、宮島の魅力をご紹介。海からしか行けない場所以外は、とにかく隅々歩き回りました。宮島の魅力は尽きることなく、旅はなおも続きます。
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