安芸紀行(除廿日市、宮島)

石清水八幡宮(東広島市西条町吉行)

石清水八幡宮・入口石段

広島県東広島市西条町吉行の石清水八幡宮とは?

安芸国分寺歴史公園の近くにある八幡宮です。平安時代の末に石清水八幡宮から勧請されたとのことで、社名もそのまま石清水八幡宮です。しかし、それと同時に、聖武天皇の時代、国分寺の鎮守社として創建されたという言い伝えもあり、二つの由来をもつ神社さまだと言えます。

石清水八幡宮と名乗っており、勧請年も明らかなので、この説が正しいと思われます。しかし、安芸国分寺との位置関係を考えると、鎮守社であったという説にも説得力はあります。ただし、史料はないようで、何とも言えません。

石清水八幡宮・基本情報

ご鎮座地 東広島市西条町吉行
御祭神 誉田別尊、比売大神、息長帯姫命
主な建物 本殿、拝殿、鳥居、手水鉢、灯籠
境内神社 荒神社
境外神社 伊勢宮(祭神:天照大神、ご鎮座地:西条町吉行川尻) 
主な祭典 例祭八月十五日(旧暦)
※最新の地元案内看板によれば、十月の第三日曜日に固定
(参照:現地案内看板、『広島県神社誌』)

石清水八幡宮・歴史

国分寺の鎮守社か石清水八幡宮からの勧請か

『神社誌』によれば、二種類の由緒が伝わっているそうです。

一、長和四年(1013)に、石清水八幡宮から勧請された
一、安芸国分寺の鎮守社として創建された

いずれが正しいのかは、神のみぞ知るですね。しかし、安芸国分寺歴史公園(つまりはかつての安芸国分寺があったところ)にほど近く、まるで渾然一体としている感もありますから、国分寺の鎮守社という説も頷けます。

しかし、お名前が石清水八幡宮。まんまですね。考えてみたら、厳島神社なんて、全国に山とあるわけですし、何の不思議もないことです。でも何となくですが、八幡宮に限っては、〇〇八幡宮と地名で呼ばれていたりすることが多いような気がするのです。これは、天満宮にも同じことがいえます。だけど、〇〇厳島神社なんて、きいたことありませんよね。

防府にも宇佐神宮があって驚きましたが。こちらも、お名前を見て驚きました。地図を貼るために検索しても、石清水八幡宮だけだと京都の本家本元さまが出て来てしまいますから。しかし、勧請してもいないのに、いきなり石清水八幡宮を名乗るわけにもいかないでしょうから、国分寺とは無関係に勧請された説も捨てきれません。

もはや、聖武天皇の時代のことなど、古すぎて分らない、そんなところでしょうか。勧請したことについては年次まで明らかなので、こちらが正しいように思えます。

ついでに、こちらの神社さまの御神輿板札(『旧』とあるので、すでに使われてはいなかったものでしょう)に、「大日本安芸州東条郷寺町八幡大菩薩神輿也」云々と書かれていたそうです。これは、かつて、この地域には西条だけではなく「東条」とも呼ばる場所もあったこと(つまり、東条と西条に分れていた)を証明する貴重なものとなっています。それもそうなんですが、この板札に「応永廿六年沙弥道性」と書かれていた(つまりこの人がこの文章を書いた)とあるほうに眼がいってしまいました。普通に地元の方なのだと思われますが、どことなく、聞いたことがあるようなないような名前である気がして。

大正時代に二つの神社がこちらに合祀されたといいます。

御由緒(最新版)

現地に2021年製作の最新の御由緒看板が立っていました。残念ながら、『神社誌』が書かれた時と、中身はほぼ変りません。安芸国分寺歴史公園へ向かう途中に鳥居があり、社殿は公園の裏手です。そのような配置からは、国分寺鎮守社説も捨てきれません。二つの由緒をもつ神社、ということで落ち着くほかなさそうです。ぜひ、ご自身の目でお確かめください。

石清水八幡宮・由緒看板

新しくて立派な由緒看板です。最新の研究成果が書かれていると思うので、これがすべてです。ただし、建築用語など、やや難しくてわかりませんでした。手挟とか(説明を書いてくださってあります)。

「石清水八幡宮
祭神:誉田別尊(応神天皇)、比売大神(応神天皇の妻)、息長帯姫命(応神天皇の母)
由緒:加茂郡志に「国史に天平九年(七三七)、聖武天皇が諸国に召して国分寺を 建てしむと見ゆ、其時建立する国分寺の鎮守社として建築せる社即是なり」 と書かれている
吉行村国都志御用書上坂には長和二年(一〇一三)本宮である 京都石清水八幡宮から勧誘されたと書かれている
江戸時代から明治時代の初めまでは吉行村、土与丸村、四日市次郎丸村、三ヶ村の氏神でした
現在は吉行地区の氏神となっている
本殿:三間社流造、宝永四年(一七〇七)再建、昭和六十二年(一九八七)修復
手挟(てばさみ)=垂木と組物の間に入れた透かし彫り
 ⇒ 正面に向かって左側に「竹に寅」右側に「獅子に牡丹」がある
木彫掛物(一七〇七) ⇒ 本殿 右手 
長押 ⇒ 芸州広島茶屋幾美
石造物:灯籠四基(一七一六~一八五五年) 、手水鉢一基(一八一二年)、玉垣(一九〇九年)
境内社:露掛荒神社 稲荷大社 大歳社 桑原荒神社 大元社
祭日:十月の第三日曜日
石清水八幡宮氏子総代
二〇二一(令和三)年七月 東西条地区住民自治会協議会」
(看板説明文、※一部読みやすいように句読点と記号などを入れました)

石清水八幡宮・みどころ

閑静な住宅街の中に佇んでいます。数年前に書かれた最新の由緒看板に書いてあることがすべてです。社殿のほかに、三つのお社が確認できました。これらが、境内社だと思われますが、数が足りず。なんだか重要なものを見落としている気がいたします。

鳥居

石清水八幡宮・鳥居

閑静な住宅街の中に、いきなりの鳥居です。この先に神社がある! と思い進んで行くと、神社よりさきに「安芸国分寺歴史公園」に着きました。

社殿

石清水八幡宮・社殿

住宅地を抜け、安芸国分寺歴史公園の裏手に鎮座まします社殿です。なんとも言えぬ趣があり、こんなところに、こんな立派な神社が……となりました。じつは、廿日市でもあるあるなのですが、閑静な住宅地の中に、埋もれてしまっているお社がたくさんあるんです。元は畑や田んぼだったところが、宅地化されて、小さなお社など、ガイドさま方でも場所が分らなくなってしまうほどです。でも、こちらの神社さまはこれほど立派で厳か。しかも、国分寺歴史公園の近くにあるため、宅地に埋もれることもなく安心です。

石清水八幡宮・社殿2

御建神社のところでも、これが何なのかわからず、こっそり誤魔化していますが……。賽銭箱もありますし、これって拝殿なんでしょうか? 本殿は普通、拝殿の背後に隠されており、参詣者は拝殿にてお参りをすませるもののはず。山口ではそれゆえ、ご本殿は脇からチラ見します(神社さまの構造により、脇から拝見できないこともあります)。

拝殿と本殿の連結は、脇から確認でき、ご本殿が背後に隠れていることがわかるんです。この吹き抜けのような建物は、広島県の特徴なんでしょうか? 賽銭箱と書かれた大きな箱がございますし、こちらでお参りするようにも思えます。でも、本殿がまる見えてしまってるってこと? まさか。

『神社誌』にも、本殿と拝殿しかないと書かれており、そうなると、上が本殿、下が拝殿、となりましょうか。要調査。

境内社

石清水八幡宮・境内社

可愛いお社が二つ並んでいます。それぞれのお名前はわかりません。じつは、近付くと書いてあったことに帰宅後気が付きましたが、写真を拡大しても読めませんでした。

石清水八幡宮・境内社2

こちらはどこにもお名前が書かれておりません。同じく小さなお社。この写真からはわかりにくいですが、左手奥にもう一社見えております。これで合計四社。ご由緒看板によれば、五社あるはずですので、一社足りません。ご覧の通り、ご本殿の裏手は奥行きがあり、とても広いですので、もっと時間をかけてきちんとお参りすべきでした(約束があり、急いでしました)。

石清水八幡宮(東広島市西条町吉行)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 広島県東広島市西条町吉行

※Googlemap にあった住所です。所番地は書かれていませんでした。なお、『神社誌』によれば、「吉行二、〇七八」となっています。ご本の出版時と住居表示に変化がなければこちらです。

アクセス

西条駅からほど近いところにございます。住宅街を通り、安芸国分寺歴史公園を抜けて行きます。道はやや分りづらいですので、ナビゲーションをお使いになるのがよろしいかと思います。特に、住宅街で彷徨っていると、地元の方を不安にさせてしまいますので。要注意。なお、ながらスマートフォンにならぬよう、ナビ起動の際には必ず道の脇に寄り、立ち止まって操作してください。

参考文献:『広島県神社誌』、現地案内看板

石清水八幡宮(東広島市西条町吉行)について:まとめ & 感想

石清水八幡宮(東広島市西条町吉行)・まとめ

  1. 平安時代末ころ、京都の石清水八幡宮から勧請されたという
  2. なお、聖武天皇の時代に、安芸国分寺の鎮守社として創建されたという説もある
  3. 配置的にはまさに、安芸国分寺歴史公園(安芸国分寺跡)と隣り合っている
  4. 現在の社殿は、江戸時代の再建物を、昭和時代に修築したものとなる

またしても、住宅地の中を彷徨い、恥ずかしい思いをしながら到着しました。といっても、じつは、住宅地からの道は真っ直ぐだったりしますので、脇道に入り込まなければ迷わないかと思われます。自宅に戻り、一年後に整理するまで、放置状態で申し訳ありませんでした(神社さまにお詫び申し上げております)。

安芸国分寺歴史公園は、午後から地元の方とお約束しており、それまでの時間で辿り着ける場所は……という感じで探した訪問先でした。「安芸国分寺」として。ですけど、向かう道なりに大きな鳥居があり、ついでに神社にも立ち寄れるかも知れない、と思ったのを覚えております。ついでに立ち寄ったというご無礼な意味を強調したいのではなく、そのくらい、寺院(跡地)と神社とが近くにあったのです。

それゆえに、聖武天皇の命令で国分寺の鎮守社として創建された、という言い伝えも満更ではないと思われてなりません。とある研究者の先生によれば、そもそも八幡宮というのは、様々な由緒を持っているそうです(〇〇から勧請された以外の縁起が多い)。空から何かが降ってきただとか、神さまのお告げがあっただとか。じつは、それらは、「前身」の神社の由緒であるケースが多く、つまりは、まったく別の神さまをお祀りしていた神社が、のちに八幡宮となった、という事例が多いことを意味しているそうです。確かに、石清水八幡宮から勧請されたというだけなら、年月日と勧請した人のお名前が記録されているだけですよね。その意味では、どなたかは不明ながら、長和四年(1013)に石清水八幡宮から勧請されたという記録が残っているので、これは完全なる石清水八幡宮から御霊をお遷しした神社さまです。

でも……。縁起は失われ詳細は不明だけれども、聖武天皇時代に建てられた神社の跡地に八幡宮を勧請したとも考えられます。年代まではっきりしている石清水八幡宮から勧請説のほかに、もう一つの由来が捨てきれずに残っている理由は、ご鎮座地にあるような気がしてなりません。こればかりは、実際足を運んでみないと感じ取れない不思議な感覚ですので、ぜひともお参りください。だって、普通に安芸国分寺と何らかの関係がある神社なんだろう、って思いつつ帰宅しましたので。上手く言葉にできませんが、その位置関係というか、地理感が。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きな人
  • 安芸国分寺歴史公園に来た人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

鶴千代吹き出し用イメージ画像
鶴ちゃん

結局、何が言いたいのかよく分らん。普通に八幡宮ではだめなのか?

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

神社って、古ければ古いほど威張ってるじゃん。聖武天皇か、平安時代か、大問題だ。聖武天皇も推古女帝にはかなわないけどね(←厳島神社のことを言っている)。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

いや、君、それは違うよ。神さまがたは威張ったりなさいません。悠久の歴史、とかそういう言い方をしてください。品位を問われますよ。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(怒る)
鶴千代

(もとより品位などない連中のくせに)

五郎セーラー福イメージ画像背景あり
安芸紀行

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宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
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