歴史的に著名な方や一族の墓所というのは、全国各地にございます。それらを回って歩くのを趣味としている方々もおられるとか。もちろん、墓所を巡る趣味はないけれども、そこで眠っておられる偉人の足跡を尋ねて訪れる方もおられるでしょう。
今回は、そのような著名人(一族)の墓所を管理なさっている寺院さまをご案内いたします。小早川家菩提寺・米山寺さまです。時間の関係で、寺院さまのご参詣はまだ終えていない状態ですが、再訪予定ですのでタイトルは墓所ではなく寺院さまとしました。この記事が、自らも小早川家墓所を訪ねてみたいと計画なさっている皆さまの、お役に立てたなら幸いです(訪問回数1回)。
広島県市三原市沼田東町納所の米山寺とは?
沼田小早川氏の菩提寺として知られている曹洞宗寺院です。沼田小早川家代々の当主の宝篋印塔があります。小早川家には、毛利元就の三男・隆景が養子として入り、同じく吉川家に養子に入った兄・元春とともに「毛利両川」として本家・毛利家を支え助け合ったことで知られています。
そのご縁から、元就の子息である隆景の墓所は小早川家歴代当主として、自身が養子入りする以前の当主たちの墓とともに同氏の菩提寺にございます。その小早川氏菩提寺がこちら、米山寺さまです。「沼田小早川茂平が、1235(嘉禎元)年に建立した氏寺」(参照:『広島県の歴史散歩』)です。
米山寺・基本情報
所在地 〒723-0146 三原市沼田東町納所 460
山号・寺号・本尊 東廬山・米山寺
宗派 曹洞宗
(参照:『広島県の歴史散歩』)
米山寺・歴史と概観
沼田小早川家の菩提寺
小早川家墓所前の案内看板に以下のようにあります。
「米山寺は、嘉禎元年(一二三五)、小早川茂平によって境内に不断念仏堂が建立され、小早川氏の菩提寺となった」
小早川氏の本家本元を辿っていくと、鎌倉御家人・土肥実平まで遡ります。源平合戦の後、いわゆる平家没官領から、手柄に応じて源頼朝の配下に土地が宛がわれました。土肥氏には安芸国にあった沼田氏(平家に味方して滅亡)のものであった「沼田荘」が与えられます(※往時、与えられるのは土地そのものというよりも、地頭職のような管理権限だったりしたことには注意が必要です)。
寺院を建立した茂平は、土肥実平の孫にあたる人で、安芸国にやって来て沼田荘を本拠地としたのです。なぜ、「沼田」を名字の地としなかったのかは、勉強不足のため不明ですが、茂平は「小早川」と名乗りました。東国の人たちがぞろぞろと西国に移り住んだことは周知の如くなので、その一例です。さらに、承久の乱が起こると、またしても、西国の多くの地が没収されます。理由は承久の乱で上皇方についた人々の土地であったためです。
沼田荘の小早川茂平は、承久の乱で手柄を立てたことから、沼田に加えて都宇・竹原の二つの荘を与えられます。これらの地は元々下賀茂神社の神領だったそうです(参照:『広島県の歴史散歩』)。領地も増えましたので、茂平の子らは、兄・雅平が「沼田」、弟・政景が「都宇・竹原」を譲り受けます。ここで、両者は「沼田小早川家」「竹原小早川家」とに分れます。
一見すると、普通に分割相続で兄弟仲良く土地を分け合ったように見えます。実際、当初はそうだったのでしょう。しかし、代を経るごとに、二つの小早川家は対立し争うようになります。応仁の乱のような天下真っ二つの事態が起こるとそれぞれ相対立する側について揉めるという有り様でした。
このような一門同士が敵対する状況の終息は、小早川隆景の竹原小早川家への養子入りが契機となりました。隆景が、沼田小早川家当主の妹を妻に迎えたことで、二つの小早川家が統一されたのです。で、沼田、竹原どっちに統一されたんだろうかとか、考え出すとあれこれきりがないのですが、「小早川家」として安芸国にやって来た茂平時代に戻ったとすれば、すんなり落ち着くかと。
それを証拠に、茂平が建立した寺院の中に、統一された新生小早川家の当主となった隆景の墓もあるのですから。
絹本着色小早川隆景像
米山寺さまには、国の重要文化財となっている小早川隆景の肖像画が伝えられています。
名称 : 絹本著色小早川隆景像
ふりがな : けんぽんちゃくしょくこばやかわたかかげぞう
員数 : 1幅
種別 : 絵画
国 : 日本
時代 : 桃山
年代 : 1594
西暦 : 1594
ト書 : 文禄三年ノ賛アリ
指定番号(登録番号) : 01104
枝番 : 00
国宝・重文区分 : 重要文化財
重文指定年月日 : 1910.04.20(明治43.04.20)
所在都道府県 : 広島県
所有者名 : 米山寺
解説文:桃山時代の作品。
出典:国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1861
文化財データベースに画像があればと思いましたが、残念ながらございませんでした。ですので、リンクを参照くださっても、拝見することはかないません。
なお、「文禄三年ノ賛」とあるのは、「京都大徳寺の玉仲宗琇和尚」(参照:『広島県の歴史散歩』)のものです。また「毎年3月末頃の涅槃会のときに公開される」(参照:同上)そうです。参照させていただいた『広島県の歴史散歩』は2009年刊行ですので、現在も同じく公開されているのかはわかりません。ご住職が代替わりなさったりすると、以前は事前にお願いすると拝見できた文化財が非公開となってしまったという寺院さまもございました。もしも、肖像画を拝見したくて遠方から訪れる予定の方は、事前に観光協会さまなどにお伺いすることをおすすめします。
米山寺・みどころ
寺院さまは観光資源ではなく、宗教施設です。その意味では、檀家の皆さまではなく一般観光客の皆さまにとっては、境内外にある小早川隆景公ほかの墓所にお参りすることが目的となるのかな、と思います。寺院さまでは、隆景公の肖像画などを所蔵なさっておられます。年に一度、一般公開される機会もあるらしいので、予定をあわせてご参詣なさるのがよろしいかと存じます。
山門
とても立派な山門と、背後にご本堂の屋根も見えております。時間の関係上、ご参詣はできませんでしたので、次の機会にもう一度お伺いしたいと存じます。鐘楼門ですね。屋根の中央に毛利家の家紋が踊っております。小早川家の家紋がどんなものなのか存じ上げないのですが、毛利家と同じではないような。まあ、県内至る所に付いていたりいたしますので、気にすることもなかろうかと。
小早川家墓所入口
墓所は寺院さまの裏山というよりは、山門の外にございます。そのため、寺院さまを通り抜けずに、墓所だけお参りすることができます。入口には文化財案内看板が立っております。
「国重要文化財
米山寺宝篋印塔
昭和三十一年六月二十八日指定
所在 三原市沼田東町納所 米山寺
米山寺は、嘉禎元年(一二三五)、小早川茂平によって境内に不断念仏堂が建立され、小早川氏の菩提寺となった。
小早川氏歴代の墓など(石造宝篋印塔二〇基)が二列に整然と並んでいる。
このうち、後列、むかって一番左の大型の塔が米山寺宝篋印塔で、高さ二二三・四センチメートルで、この塔は、元応元年(一三一九)に供養塔として造られたもので、形態は温雅の感があり美しく、鎌倉時代末期宝篋印塔の秀作である。
塔身に「大工念心 元応元年己未十一月 日、一結衆敬白 」の刻銘がある。
広島県史跡
小早川隆景墓
昭和十八年三月二十六日指定
墓は、一四九・一センチメートルの宝篋印塔で、前列右端に位置する。
小早川隆景は、天文二年(一五三三)、毛利元就の三男として生まれ、竹原小早川家の養子に迎えられたのち、天文一 九年(一五五〇)には沼田小早川家を相続し、兄吉川元春とともに父元就を助けて毛利氏の中国統一を成就させ、のちに豊臣秀吉の五大老の一人となった。
慶長二年(一五九七))六五歳で没した。
三原市教育委員会」
(看板説明文)
歴代ご当主方の墓碑群
ずらりと並んだ宝篋印塔群に圧倒されます。看板説明文にある通り、合計二十基の宝篋印塔が前後二列に並んでいます。どこかから移してきて整備したというようなご案内はないため、元々このように並んでいたのであろうと思われ、中世以来の墓碑がこのように整然と並んでいるのは稀有なことだとびっくりしました。
重要文化財の宝篋印塔
文化財説明看板にある、国重要文化財の宝篋印塔は、「むかって一番左の大型の塔」とのことでした。位置から考えるとこちらがその塔にあたります。しかしながら、何やら新しいようにも見えますし、他のご当主さま方の宝篋印塔と比較しても、どこが違うのか、さっぱりわかりません。
その疑問に対する答えが以下の説明プレートにございました。
「重要文化財 米山寺宝篋印塔 建造物保存修理事業概要
災害復旧事業の概要
平成三十年七月豪雨により背面地山が崩壊し、重要文化財宝篋印塔も土砂に埋没、台座石以上が流出したため、計三ヵ年に亘り災害復旧事業を行った。平成三十年十二月より土砂撤去と各石材掘出、平成三十一年四月より法面補強と擁壁設置を行い、保存修理事業で重要文化財宝篋印塔の石材補修と組立を実施した。
保存修理事業の概要
修理方針 解体修理(災害復旧)
事業期間 令和二年四月一日~令和三年二月二十八日
総事業費 七、八九〇、〇〇〇円
収支内訳 国庫補助金 六、三一二、〇〇〇円
広島県補助金 五二六、〇〇〇円
三原市補助金 五二六、〇〇〇円
所有者負担金 五二六、〇〇〇円
工事関係者
事業者 宗教法人 米山寺代表役員 垣井賢祥
設計監理 公益財団法人 文化財建造物保存技術協会
工事監督・工事主任 安田一男
主任補佐 後藤沙紀
工事請負 有限会社 河城石材彫刻店
保存修理工事の概要
本工事において、笠石隅飾欠失部の矧石補修、台座石・塔身・笠石欠損部の擬石モルタル補修、基壇上段の亀裂補修を行い、基壇下に割栗地業を敷設して、被災前の通り復旧した。 重要文化財宝篋印塔は、造立年も明確であり鎌倉末期の形式をよく示す秀作として知られるが、本工事によって、 塔身上端に奉籠穴が穿たれていたこと、基壇下方から甕の破片と骨片、古銭が発見され、江戸期に現墓所に移設されたことが明らかになった。」
(案内版説明文)
重要文化財を守り伝えるため、多くの人々の叡知と努力が活かされていることに感銘を受ける機会はしばしばございますが、こちらの宝篋印塔もまさにその一例であることがわかります。
ここには書かれておりませんが、裏山の土砂崩れでこの塔が押し流されたということは、同じ場所に並ぶ他の塔にも同様の被害があったのではないかと容易に推測できます。みたところ、いずれの塔も同年代くらいのものと見受けられるお姿であるからです。また、土石流がピンポイントで、一つの塔だけを押し流したとも考えにくいです。恐らくは、ほかのすべての宝篋印塔も同様に補修工事が行なわれたのではなかろうか、と感じました。そうだとしたならば、その費用は膨大なものとなります。
現在きちんと整備された墓所をお参りできるのは、ひとえに寺院さま、国や自治体さま、工事関係者の皆さまのたゆまぬ努力のお陰であることに、感謝の気持ちを忘れてはなりません。
なお、土砂崩れ前の塔のお姿については、下記の国指定文化財等データベース(文化庁)から拝見できます。文字史料は自由に引用可能ですが、お写真については著作権の問題が発生するため転載は許可されておりません。以下のリンク先にございますので、興味関心のある方は、文化庁さまのページをご覧ください。
名称 : 米山寺宝篋印塔
ふりがな : べいざんじほうきょういんとう
員数 : 1基
種別 : 近世以前/その他
時代 : 鎌倉後期
年代 : 元応元
西暦 : 1319
構造及び形式等 : 石造宝篋印塔
元応元年己未十一月日の刻銘がある
指定番号 : 01388
国宝・重文区分 : 重要文化財
重文指定年月日 : 1956.06.28(昭和31.06.28)
所在都道府県 : 広島県
所在地 : 広島県三原市沼田東町納所
所有者名 : 米山寺
出典:国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/3123
小早川隆景公の墓
前列右端の塔が、隆景公の宝篋印塔です。なお、キャラ画像は目印用に合成したもので、墓所の中に入ることはできませんので、ご了承ください。
なお、隆景公以外のご当主さま方の宝篋印塔にもそれぞれ、お名前を刻した墓碑が立てられております。墓所内に立ち入ることができないため、見えづらいものもございますが、いちおうすべての宝篋印塔にお名前が書かれていたように思います(※見えていない部分もございましたので、断定はできません)。
『広島県の歴史散歩』には、前列右端が隆景公の墓と「考えられている」と但書がございました。ほかの多くのいにしえの著名人の墓所同様、伝承的要素もあるのかも知れません。
記念碑
小早川隆景公肖像画をご覧になった記念と思しき感想をしたためた記念碑が、同公墓の手前にございました。タイトルくらい読めたら……と悲しいのですが、いい加減な情報は載せられませんので、現状記念碑とだけお伝えしております。
米山寺(三原市沼田東町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒723-0146 三原市沼田東町納所 460
(※Googlemap にあった住所です)
アクセス
最寄り駅は「本郷」(JR)です。公式アナウンスでは、駅から車で10分とのことです。新高山城に登頂したのち、車で立ち寄りましたので、徒歩での行き方は調査中です。車で赴く場合ですが、道が細く対向車が来たらどうしようという部分があったようでして、お導きくださった先生がこういう道は困るんだよなぁ……とこぼしておられました。我儘申し上げてすみませんでした。どこか広い道で下ろしていただき、後は徒歩で行くのがよろしかったかなと反省しております。ご参考までに。
参照文献:現地案内看板、『広島県の歴史散歩』、国指定文化財等データベース
米山寺(三原市沼田東町)について:まとめ & 感想
米山寺(三原市沼田東町)・まとめ
- 鎌倉御家人だった土肥実平が、源頼朝から拝領した安芸国沼田荘に、実平の孫・茂平が土着。小早川姓を名乗った。米山寺はその茂平が建立した氏寺
- 小早川家は承久の乱でも手柄を立てて、安芸国内でさらなる土地を拝領。それが都宇・竹原の地で、茂平の息子二人が、沼田と都宇・竹原をそれぞれ分け合った。これが、「沼田小早川氏」「竹原小早川氏」の始まりとされる
- 両小早川氏はやがて対立関係となり、応仁の乱などにおいて、互いに相反する側に属するなどして合戦にまで及ぶほどに
- のち、毛利元就の三男・隆景が竹原小早川家に養子入りし、さらに沼田小早川家当主の妹を妻とすることで漸く両家が統合された
- 小早川隆景は一つになった小早川家の当主として、同じく吉川家に養子入りした兄・元春ともども、本家・毛利家を支えた。その小早川隆景の墓と伝えられる宝篋印塔は、茂平建立の米山寺に沼田小早川家代々のものとされる他の宝篋印塔に混じって佇んでいる
- 米山寺には小早川家墓所、小早川隆景の肖像画などのみどころがある。小早川隆景の墓は広島県の「史跡」扱いだが、肖像画は国の重要文化財に指定されている
- また、小早川家墓所の中に、国の重要文化財指定を受けた宝篋印塔が一つ混じっている。塔は近年の集中豪雨による被害により流出してしまい、国や自治体、寺院さま方のお力で修復されたことが記されている
小早川家墓所がすごいです。これまでご参詣した寺院さまで、著名人の墓所があればなるべくお立ち寄りしてきました。ただし、昨今流行りの墓所巡りが好きな方々とは違いますので、あくまで寺院さまに関連づけてのご紹介となることがほとんどでした。誰それの墓所があるということを、前面に出している寺院さまもあれば、どこにも何も記されておられないことも。後者の場合、完全なる見落としとなっているはずです。あるいは、書かれていても、慌ただしい旅程の中、関心がなければ素通りとなったケースもございます。再訪可能な場所であれば、二度目で情報を書き加えることができるのですが。
そんな中、何件かは「墓所」のほうが主たる目的で参詣させていただいた寺院さまもございます。なんともご無礼とはなりますが。当然、墓所に眠っている方々に何らかの興味関心を持っているゆえに他なりません。寺院さまのほうも、そのような観光客が多いことをご存じで、「○○墓所はこちら」のように書かれた案内看板がいきなり立っている場合もございます。檀家でもないのに、建築物や墓所目当てで寺院さまに入っていくことに、何となく気まずい思いを感じるこの頃です。ですけど、案内看板などがあるということは、文化財として拝見するためにご参詣することも許されるのであろうと自らに言い聞かせています。
今回は時間の関係で、寺院さまにご参詣することができませんでした。同行者の方が大切な予定を控えていたので、これ以上の我儘は言えなかったのです。幸い、小早川隆景公に対しては好意を寄せておられたので、墓所のお参りだけは叶いましたが。寺院さまと切り離されて、境内外に墓所があったことも幸いし、宗教施設としての寺院さまに用もないのに入っていくことをせずにすみました。しかし、本来ならば、墓所を見学させていただいたお礼にご参詣し、賽銭箱にもきちんとお金をお入れすることが礼儀だと考えております(常ならばそうしています)。その点、とても心残りなので、ぜひとも再訪してお詫び申し上げたい気分です。
こんな方におすすめ
- 小早川隆景公を尊敬している方
- 著名な人々の墓所がある菩提寺寺院さまに関心がある方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
俺、寺院さまに入ってみたかったんだけど……。
仕方ないよ。いつもよくしてくださる廿日市の先生に、これ以上の我儘は言えないもの。
次回は自らの力で訪問し、きちんとご参詣をすませるのだ! 心配は要らない。まだ、三原城にもお伺いしていないのだから、まだまだ三原市とのご縁は切れていないぞ。
広島駅から呉線に乗って呉に行ける! 呉と三原は繋がっている。で、本郷は山陽本線になるけど、三原の次の駅だ!
だろう。機会はまだまだある。絶対に再訪しろよ。
お金がないって言ってるのに……。常は仲が悪いはずが、なんで結託してるかな? 呉の話になるといきなり着替えるのも意味分かんないし……。
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安芸紀行
#hitひろしま観光大使に任命された五郎が、ミルと一緒に旅した安芸国の旅(目次ページ)
宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。続きを見る