陶のくに風土記

正護寺(山口市陶)

2022-10-15

正護寺由緒説明看板
正護寺由緒看板前にて

山口県山口市陶の正護寺とは?

陶氏の先祖が右田氏から分家して移り住み、名字の地とした「陶」。富田に移るまでのわずかな期間ですが、陶氏はここに居館を構え、本拠地としていました。正護寺はその館内に、陶弘政が祈願所として建立したといわれている寺院です。本家・大内氏の滅亡後は衰頽していたのを毛利氏が再興しましたが、大内輝弘の乱で焼失してしまいます。江戸時代に陶出身の大円恵満和尚によって再建されました。

陶晴賢分骨塔があるほか、明治維新の志士・富永有隣や最後の小郡代官・北川清助の菩提寺であったり、脱隊兵士駐留所として使われるなど、近代史においても様々なゆかりのある寺院です。伽藍焼失の際、仏像は寺僧たちによって守られて今に至り、木造薬師如来坐像は山口県指定有形文化財となっています。

正護寺・基本情報

住所 〒754-0891 山口市陶郷上 3907
山号・寺号・本尊 万松山・正護寺・釈迦牟尼仏
宗派 臨済宗東格寺派

正護寺・歴史

開基は陶弘政、開山は傑山寂雄和尚。南北朝期・正平年間(1346~1370)の頃、弘政が館内に祈願所として建てたのが始まりといわれる。大内氏が滅亡すると廃寺同様となった。毛利氏によって再興されたものの、大内輝弘の乱で戦渦に遭い、本尊・脇士・開山像だけは寺僧が門前の池に投じたお陰で守られたが、伽藍は焼失した。

江戸時代、山口・常栄寺の大円恵満和尚(陶出身)によって再建され、現在に至る。明治維新で活躍した富永有隣や小郡宰判最後の代官・北川清助などの陶村出身の著名人ゆかりの寺である。明治時代、脱隊兵士の駐留所となったことでも知られている。

正護寺・みどころ

中世から近代まで、ゆかりある物が多く残されている希有な寺院である。

一、開基塔、開山塔はじめ、陶晴賢の分骨塔など多くの供養塔や石塔がある。
一、脱隊兵士駐留所となったゆかりがあり、本堂には銃弾跡が残る。
一、富永有隣の菩提寺である。
一、北川清助が小郡代官所から移築した門がある。
一、山口県有形文化財「木造薬師如来坐像」がある。

仏像以外は供養塔や建築物なので、いつでも見学可能。仏像も事前に連絡をすれば見ることができる(202003現在)。

開山塔 & 開基塔

正護寺・開基開山供養塔

境内には大量の墓碑があって驚かされる。入り口の説明看板によれば、これらは歴代ご住職のお墓だという。それらに混じって、「正護寺殿」「開山塔」という二つの供養塔がある。開山塔は開山の傑山寂雄和尚のもの、正護寺殿は開基・陶弘政のものとされる。

このうち、陶弘政の開基塔についてだが、弘政の代に陶氏は富田に移ってしまったので、亡くなったのも富田の地だと思われる。ただ、亡くなった場所がどこなのかは記録がなく、したがってこの開基塔についても、ゆかりの地であるがゆえに建てられた供養塔なのか、それともこの地に埋葬されていて墓であるのか、正確なことはわからないそうだ(参照:『陶村史』)。

まあ、はっきりしないと言ったら大内氏歴代当主の墓もすべてそうなので、少なくとも供養塔として伝承されていることは間違いなく、歴とした関連史跡である(気にし始めるとキリがなく、弘政の先代、始祖である弘賢の墓はどこにあるのか、弘政から龍文寺を建立した盛政までの間の当主はどこに? とか色々ある)。

陶晴賢分骨塔

正護寺・陶晴賢分骨塔

202003 撮影

お墓は洞雲寺にあるはずだが、「分骨塔」っていうからには、ココにも分骨されている、ということになる。誰がいつ、ココに持って来たのか、誰も言及していない気がする。ただの供養塔なのか、本当に分骨塔なのか、何を根拠に証明されているのか、とやや気になる。

分骨塔を造るにしても、若山ではなく、ココにある、ということも気になる。陶一族が、陶の地にいたのは、始祖の弘賢と二代目の弘政だけで、その後はずっと富田の人である。だけど、富田と姓を変えることもなく、ずっと陶の名で通したことや、わずかに二代しか過ごしていなかった陶の地の方々が、なおも地元の英雄として分骨塔まで造ってくださっている有難さとか、あれこれ考えて、この陶の地は、陶一族にとって、本当に大切なルーツの地なのだ、と思うのである。

寂しいけど、やはりここも、「伝承」なので、本当の分骨塔ではない可能性は残る。

正護寺・陶晴賢分骨等

202212 撮影

まったく同じ写真なんだけど、一番上の石がちょっと傾いているのが分かるだろうか。積んであるだけなので、傾くのもしかたないけど、なんだか悲しかった。こことは違う場所、違う人の墓所で、やはり一番上の石が傾くのを、地元の郷土史の先生がお参りするたびに傾きを直しておられると仰っていた。一度傾いてしまうと、不安定になってしまうのかもしれない。

正護寺・分骨塔

20231015 撮影

三界万霊

正護寺・三界万霊

ちょっとわかりにくい写真になっているけれど、向かって左端の石塔には「三界万霊」と書かれており、陶晴賢の「供養塚」である。台石に「晴賢二百五十年忌に際し陶村民挙って供養のためこれを建てた」と記され、上に地蔵が座っている。二百五十年忌といったら、今から二百年以上前ということになるから、これじたいが年代ものである。その当時から、陶村には供養してくれる方々がいたということであり、上の分骨塔も同じような人たちの手になるものとして、俄然信憑性がありそう(な気が……)。

正護寺・三界万霊(2)

二年越しで拡大版をアップできます。懐かしい。

ボウ虫墳

正護寺・ボウ虫墳

この石碑、説明看板にも載っているが、「多くの虫の死を悼み」建てられたもの、とある。普通に考えると、必要に迫られて害虫駆除を行い、結果大量の虫が死んだので、いちおう供養をした、というような感覚になる。まさかそんなはずはないので、駆除対象にはならないような虫たちが大量死したような事件があって、その供養のためなのか? ただし、詳細が書かれていないため、確認できない(非常に気になる)。また、ボウ虫のボウは、案内看板では虫偏に方角の「方」となっているが、普通のPCでは変換できない(石碑の字とは、微妙に違う気がする)。看板の文字も石碑の文字も、漢和辞典に載っていない……。ますますもって、謎だらけである。

本堂

正護寺・本堂

小郡代官所正門

正護寺・小郡代官所門

この門は、北川清助が小郡代官所の正門をこの場所に移築したものであるという。北川清助と富永有隣両氏は、陶村を代表するなような傑人で、お二人の墓所は寺院墓地内にあるらしい。『陶村史』にはその事蹟が詳細に記されているけれど、中身が深すぎて現時点では消化できていない。

富永有隣先生招魂之碑

正護寺・富永有隣の墓

見出しにある通り。前回の訪問時、看板を見たはずなのだが(写真があった)、これだけ大きな石碑を見落としていたとは(あるいは、新たに造られたか、場所を移動されたかしたのだろうか?) 正護寺が富永家菩提寺だったというから、有隣の墓もあるのだろうと思うけれど、この石碑は「招魂之碑」とある記念碑で、有隣先生のお墓そのものではない。

陶の風景

正護寺付近の風景

『陶村史』によれば、大内輝弘の乱で焼失した後、正護寺が再建されたのは、元々の寺院跡地ではなくして、陶氏館跡地だった。元の寺院跡地は現在地より少し離れたところにあって、土塁などが残っているという。

ということは、寺院の現在地 = 元陶氏館跡、である。『陶村史』よりずっと後に書かれた『山口市史 史料編 大内文化』には、陶の陶氏館跡地の調査が行なわれたことが書かれていた。やはりわずかに土塁跡のようなものが見付かったらしいけれど、大内氏館跡や勝栄寺土塁のようなわかりやすい遺物ではないようだ。

『山口市史』を読んでいないときに訪問したから、土塁云々はかなりわかりやすいものがあって、きっと目視できると思っていたのに、何も見付けられず、後ろ髪引かれる思いでその場を後にしたことを覚えている。専門家に案内を頼めば、それらを目にすることができると思ったけれど、地元のガイドさんたちのご認識では、ここにはそのようなものは特にないということで、二回目の訪問は見送った。おそらく、考古学的発掘調査を行なっている研究者の先生にお願いしなければ見付からないレベルなのだろう。

そもそもどうしても何かの痕跡を見付けなければならない、という必要性はないのであって、かつてここにあった、その事実だけで十分だろう(本音は何らかの残骸でもいいから見たいけど)。

ちなみに、Googlemapにも「陶氏館跡」と載っている。どこかに看板でもあるのかと探してみたけれど、やはり何もなかった……。どれが土塁であるのかも、やはりわからず。

元館跡に寺院が建てられた、ということを念頭に置いて、少し離れたところから現在の正護寺の方角を見てみた。何気に寺院石垣の前に盛り土があるけれど、多分無関係だろう……。

正護寺付近の風景(2)

正護寺付近(3)

北川清助の墓

正護寺・北川清助の墓北川代官の墓所は、タクシーを使わず陶・鋳銭司のゆかりの地を町歩きしながら回っていて発見。タクシーだと、寺院の前に到着してしまうので、見付けにくい。寺院に向かう途中の道に看板があって、その奥に入っていったらありました。

脱隊兵士駐留所

正護寺・「脱隊兵士駐留所」説明看板

脱隊兵士駐留所の看板は、本堂近くに設置されていたように記憶しています。古い写真を探したところ、確かに看板の位置が変っておりました。境内の模様替えが行なわれたように思います。脱隊兵士の反乱の際、本堂の柱に銃痕ができてしまった旨、看板に書かれております。けれども、本堂はその時代から修繕・改築されていると思われ、敢えて痕跡を残していて、現在も見ることができるのかは不明です。

しかし、看板の設置場所が変った機会に、背後の閉じられた門を見てみると、何やら穴が開いています。貫通しているわけではないですし、単なる経年劣化であると思われるものの(本堂と比して門は年代モノと思えます)、あるいはコレも銃痕だったりしないかなぁ、と考えながら目をこらしていました。

正護寺(山口市陶)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒754-0891 山口市陶郷上3907

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。西陶バス停から徒歩15分とあるので、タクシー代金を節約できそうではあります。付近に鋳銭司跡、陶窯跡などもあるので、まとめて見ておきたいなら車がいい気もします。そもそも西陶バス停からも15分も歩かなければならないわけなので、歩くのが面倒に思われる方には行きにくい場所です。

参照文献:説明看板、『陶村史』、『山口市史 史料編』※本はまだ読み終えていない段階です。

正護寺(山口市陶)について:まとめ & 感想

正護寺(山口市陶)・まとめ

  1. 陶弘政を開基、傑山寂雄和尚を開山として南北朝期に創建されたという
  2. 右田氏から分家した陶氏の根拠地で、名字の地となった
  3. 陶氏は二代だけで他所へ移ってしまったが、「陶」の名乗りは終焉まで続いた
  4. 開基、開山の供養塔および陶晴賢の分骨塔がある
  5. 陶氏、宗家の大内氏の滅亡で寺院は廃頽。毛利氏が再興するも大内輝弘の反乱で焼失。
  6. 江戸時代に中興の祖・大円恵満禅師によって復興された
  7. 小郡代官だった北川清助、維新の志士・富永有隣などの著名人とのゆかりも深い寺院

どこを起点とするにせよ駅から歩くのはかなり難しいらしい。地図を眺めていると、ナビゲーションありなら行けそうな気がするのだけど。たいていは、新山口駅から公共交通機関を使うことをおすすめされます。けれども、初めての地で地元のバスを使うのって、けっこう勇気がいることです。運転手さんがついうっかりつぎのバス停の放送を流し忘れて通り過ぎても気付かないとか、およそあり得ない不安がつきまとってしまいます。結局、全行程を歩くか、贅沢したツケに後から押し潰される覚悟でタクシー貸切りにするか……。後者はもはや無理ですので、次回は歩こうと思います。

Googlemap にもしっかり出ている「陶氏館跡」。これはそれなりに何かの遺物が目視できるという意味なのではないかな、と常に思いますが、行く度にひたすら田園風景が見えるだけ。確かに盛り土のように見える箇所はあり、これが土塁なんじゃなかろうかと感じるのですが、耕作地を造る際にできた盛り土の可能性も大。いちおう、寺院前の盛り土は当たりではないかと考えています。

ココ、専門家のご案内が絶対に必要と思うのですけど、なぜかこれまでご案内くださる方に巡り逢うことができずにおります。考古学を学ぶ学生のような身分であれば、殊勝なことだと親切にお付き合いくださる先生方が幾らでも名乗り出てくださるように思いますが……。謎の通りすがり観光客にはそれはとても難しい。『山口市史』には発掘調査の結果報告があり、土塁の位置を示した地図も載っていたので、次回はそれをコピーして持って行こうと思います。また行きたい……。

こんな方におすすめ

  • 陶氏ゆかりの地を回っている方
  • 北川清助、富永有隣など近代の偉人について調査している方(ゆかりの寺院です)

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(笑顔)
五郎

ご先祖様の地はのどかでいいところだね。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

そうだね。時間が経つのを忘れてしまう。

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
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