陶のくにの人々

陶弘長 

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陶氏の歴代当主についてまとめています。今回は三代目・弘長さんについてです。ほとんど史料がなく、名前くらいしか出て来ないことは、前回の弘政さん同様。弘政期には陶から富田に根拠地を変えるという一大イベントがありましたが、それすらないので、何を書いたらいいのかと。AI に人物評についてサイトに記事を書きたいのですが、アウトラインはどうすれば? と質問してできた雛形を使いましたが、「人となり」とか「肖像画」とか埋めようもないものは仕方ありません。ちなみに、普通に PC に入っている AI ですので、かわりに文章を書いてくれたりはできません……。

陶弘長とは?

二代当主・弘政の子で、陶氏の三代当主です。南北朝~室町時代初期、宗家の弘世・義弘・盛見代に活躍した人です。父・弘政とともに、弘世の防長統一に貢献したほか、義弘が将軍・義満に叛旗を翻した時にも主の東進に従軍(=いわゆる『応永の乱』)。義弘に周防に帰国して再起をはかることを進言した人として知られています。義弘は戦死しましたが、弘長は無事生還。その後は、盛見に仕え、長門守護代に任じられましたが、豊前国猪岳で戦死しています。

基本データ

生没年不詳
父 陶弘政
呼称 三郎
官職等 尾張守、長門守護代、富田保地頭職
法名 春林道琳

略年表

永徳三年(1383)東興禅寺に鰐口寄進
康永一年(1389)将軍・義満から富田保地頭職を安堵される
応永六年(1399)宗家義弘が将軍家に叛乱を起こす。弘長も従軍。義弘は敗死するが、弘長は無事帰国(応永の乱)
応永八年(1401)長門守護代に任官
豊前国猪岳で戦死

業績と影響

父とともに宗家に尽す

弘長の父・弘政は弘世の命で陶の地から富田に領地替えとなります。宗家と対立していた鷲頭氏の抑えとしての役割を担ってのことでした。弘政は期待通り、弘世による大内氏の防長統一の過程で活躍しました。弘長も、ともに従軍して父を助け、その貢献の一翼を担ったであろうことは想像に難くありません。父の跡を継いで、三代当主となって以降も、宗家のために多くの武働きを行ない、その勢力拡大を助けました。大内宗家は弘世から義弘に代替わりしますが、弘長は引き続き宗家のために尽力します。

ところで、弘政は弘世のもとで、大いに活躍したにもかかわらず、越前守となり、富田保の地頭識を与えられた以外に何ら肩書きがありません。同じ陶一族の中でも、長門守護代に任命されたのは、弘政ではなく、弟・弘綱でした。長門の厚東氏討伐で功績をあげたからというのがその理由です。

将軍・義満が山名氏の叛乱を討伐した際(=明徳の乱)、義弘は多くの軍功をあげ、周防長門石見豊前筑前といった中国・九州地方の国々のみならず、和泉と紀伊の守護にも任命されます。この時も、紀伊守護代に任命されたのは、弘綱の子・弘宣でした。

弘綱・弘宣父子は、陶氏の一族ながら、弘政・弘長から見れば、弟、従兄弟という関係にあたります。いわば、陶氏の傍流であり、嫡流を押しのけて大内宗家に優遇されているように見えます。大内宗家が、鷲頭長弘の風下に立たされていた頃を思い出します。宗家に弘幸流と長弘流があったように、陶氏にも弘政流と弘綱流が並び立っていた感じでしょうか。ところが、思いがけない展開で、弘宣は命を落としてしまいます。

「応永の乱」に従軍

義弘は、将軍・義満に叛旗を翻し、討伐されるという衝撃的な事件が起こります。後に、当時の元号をとって「応永の乱」と呼ばれる叛乱です。弘長も義弘に従軍して東進していました。義弘が叛旗を翻すにいたるまでは、それ相応の理由があり、将軍家に挑む以上はそれなりの準備も行なっていました。しかし、所詮、最盛期の幕府と戦って勝利を得られるはずもありません。分国だった和泉・堺に砦を築き、幕府軍を迎え撃った義弘でしたが、事前に味方として頼みにしていた勢力とは合流できず、多勢に無勢という圧倒的劣勢の中で見事に戦ったとはいえ、勝ち目はまったくありませんでした。

弘長は、義弘にいったん周防に帰国し、再起をはかることを進言しましたが、聞き入れられることはありませんでした。義弘は戦死し、叛乱は鎮圧されます。弘長が進言した云々の件は、『大内氏実録』に記載があり、「富田尾張守」として登場しています。近藤清石先生は、陶氏が、陶から富田に移ったことで、富田と名乗っていたのだろうと推測しておられます。

応永の乱では、義弘の弟・弘茂が幕府に降伏し許されています。弘長については、なんら書かれておりませんが、その後も活躍しておりますので、詳しい経緯は不明ながら、無事に逃れて帰国したものと思われます。いっぽうで、紀伊守護代を任されていた従兄弟の弘宣については、系図に「於紀州自害」とあります。わずかにこれだけの記述しかないのですが、おそらくは叛乱に関連して戦死したものと思われます。

盛見に仕え、長門守護代に

義弘の死後、幕府に降伏して後継者として認められた弘茂と、周防で留守を守っていた盛見との間で、兄弟間の家督争いが起こりました。弘長はこの時、盛見方につきます。戦いは盛見の勝利に終わり、盛見が家督を継ぎますが、弘長は盛見が弘茂を倒した戦いにおいて大いに活躍しました。長門守護代に登用され、重く用いられたのはその証です。その後も、弘長は宗家に尽し、活躍しました。

最後は豊前国猪岳というところで、戦死したとあります。系図には、年月日の記述がなく、いつの頃なのかは特定できません(現在のところ、執筆者が記録を見つけられていないという意味)。弘綱の子(弘宣の兄弟)宣顕の子・宣輔も同じく、豊前国篠崎で戦死しています。義弘代より、宗家は豊前・筑前の守護に任じられ、九州のことを任されるようになります。

今川了俊が解任されて以降、九州探題はまったくアテにならない名前だけの存在と化しますが、南北朝の動乱がおさまったからといって、九州が平穏無事な地域になったわけではありませんでした。少弐や大友は頻繁に騒ぎを起こし、周辺の勢力もそれに呼応したりして終始火種が尽きない地域でした。それらの不穏な地域を任されていた、ということは、主はもちろん、配下もそれらの凶徒討伐にたびたび駆り出されたということを意味します。後に盛見自身も凶徒討伐の際に筑前で戦死しているくらいです(永亨三、1431)。

ただし、弘長の死はこれよりは、かなり早かったと思われます。断定はできませんが、四代の盛長が、将軍家に富田保地頭職を安堵されたのが、応永十七年(1410)、また、長門守護代任官がその翌年であるためです。これより前に、弘長から盛長へ家督が移ったのでしょう。隠居の身として合戦に出ていた可能性もゼロではないものの、弘長が亡くなったゆえに、家督が継承されたと考えるのが自然です。

弘長の母や妻子についての情報はまったくありませんが、跡継に恵まれなかったようで、弘宣、宣顕らの兄弟、盛長が後を継ぎました。従兄弟どうしの間で家督が動いたことになります。そして、弘政流、弘綱流とそれぞれに活躍していた一族中の二つの家は、盛長が弘長の跡を継いだことでひとつとなりました。

功績とその影響

父・弘政代に陶から富田保に移転してから二代目、始祖から数えて三代目となりました。大内宗家による防長の統一も終わり、陶氏の根拠地も安定してきた頃と言えます。これからは、周辺地域への影響力を強め、さらなる領地開拓に努め始めたといった頃でしょうか。

いっぽうで、弘政の兄弟・弘綱の長門守護代任官を挟みつつ、盛見期になると弘長が長門守護代に任じられ、その後は五代・盛政に至るまで、代々長門守護代を任されるようになります。のちに、長門守護代には内藤氏が任官されるようになりましたが、陶氏はかわって周防守護代を務めるようになります。

陶氏は長きに渡って大内宗家の重鎮の地位を占め続けますが、その最初の一歩が弘長の父・弘政であったとしたならば、弘長期はその地固めの時期にあたります。宗家の防長支配が盤石なものとなり、家中における家臣たちの役割もだいたい定まってきた頃でしょう。

弘長は応永の乱にもその名前が見え、やがて宗家の嫡流となる盛見(義弘の子・持世の治世を夾みつつ、以後は盛見の子孫が代々当主となる)と弘茂との争いで、盛見を助けたことなどの功績が大きかったと言えます。

人物像

人となり

弘政同様、弘長についても、その人となりについて記した記述を見かけたことはありません。弘政同様に、宗家のために尽した生涯だったとしか書けません。当然のことながら、忠義に篤い人であったことでしょう。最後は戦死という、究極のかたちで軍功をあげています。

後世の評価

人となり同様、これといった評価も伝わっていません。陶氏代々は、常に宗家に対して忠実であり続けた、弘長もまた、そのひとりであったとしか言えません。むろん、能力値が低ければ、忠義の心があっても、活躍はできません。合戦で活躍できるに足る武人としての能力、一家の主として一族を束ね、領国を治めていく力を兼ね備えた立派な人物であったであろうと推測できます。

まとめ

  1. 富田保に本拠地が移ってから家督を継いだ最初の当主
  2. 父・弘政が土台を作った富田保の地に根を下ろし、さらなる整備を加えた。安定後は、周辺地域への勢力拡大も目指したらしい
  3. 父・弘政とともに、弘世の防長統一のために尽力。また、義弘に仕え、応永の乱の際にも従軍していた。敗色濃厚な中、義弘にいったん帰国して再起をはかる策を進言したが、義弘は聞き入れず敗北。弘長は無事に逃れて帰国した
  4. 幕府に降伏した義弘の弟・弘茂が宗家の後継者と認められるが、留守を守っていた盛見はこれを拒否。弘茂には盛見討伐の命が下っており、兄弟が家督を争った。弘長は盛見方について活躍
  5. 家督争奪に勝利した盛見は、弘長の功績を評価して、長門守護代に任じた
  6. その後数代にわたり、長門守護代は陶氏が務めることになり、家中における地位の高まりがますます確たるものとなった
  7. 弘世、義弘、盛見と、宗家代々に仕えて活躍してきた弘長だったが、最後は豊前国猪岳という場所で戦死する。亡くなった年月日や年齢は不明
  8. 弘長には跡継がいなかったらしく、従兄弟にあたる盛長が後継者となった

参考文献:『大内氏史研究』、『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『陶村史』、『周防国と陶氏』

雑感(個人的感想)

初期の頃の当主さま方については、ほとんど実態がわかりません。その他大勢の中に名前が出ている感じです。名前がでているだけでも幸いなほうでして、実際には数え切れないほどの方々が長い長い歴史の中で、それぞれの役割を果たしてきました。役に就いたりすることなく終わった一兵士の皆さんにも功績はちゃんとあるのです。その意味では、陶の一族は、有名人であり、果たした功績も甚大であった、と言えます。

『周防国と陶氏』という貴重なご本を拝読していたら、惣領家である弘政一家のほかに、庶家である弘綱一家があり云々と。さらには、惣領たる弘政を差し置いて、長門守護代は弟、つまり庶流である弘綱に与えられた云々と。これではまるで、弘世と鷲頭長弘と同じではないかと不安を覚えました。つまるところ、惣領家ってなんだろう? 上の人が褒美をくれるのは、一番活躍した人である、というだけのことだよね、と思うのでした。鎌倉時代みたいに、惣領の意見に全会一致で駆り出されるという時代は終わってます。だからこそ、代替わりのたびに、実力比べみたいに争いが起こるわけで。

そう考えると、陶の家では宗家とは異なり、代替わりのたびに大戦争にはなっていないよね、と考えたりしました。弘綱に長門守護代職が、その子・弘宣に紀伊守護代職がいったところで、あら? と思いましたが、普通に弘綱一家から盛長が弘長の跡を継いで円満に終わってます。ということは、弘政の系統はすでにして途絶えてしまったとなりますが。だからどうということもないですよね。

弘綱は長門守護代職もらえたのに、弘政は何ももらえなかったってなんで? って思いますが、そういう細かいこと、どなたも気にしていないので。まあ、厚東氏との戦闘で功績をあげたのが目立ってたんでしょう。弘世対鷲頭弘直のほうは、他家との戦というよりも、内輪揉めっぽい側面もあるし。なかなかすんなりと、嫡流が延々と続くケースって少ないのですね。これまで陶の家について、そんなことに注目していなかったことに気付きました。

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五郎

亡くなった理由も、年月日も不明……か。

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ミル

理由は戦死だよ、君。

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五郎

いつ、誰との戦いなのか、まったくわからないじゃないか。話にならない。

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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
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