安芸紀行(除廿日市、宮島)

明顕寺(東広島市西条下見)

2024-07-17

明顕寺・寺号碑2

広島県東広島市西条下見の明顕寺とは?

菖蒲の前と水戸新四郎頼興ゆかりの寺院。起源は、水戸新四郎創建の真言宗寺院に遡るというので、鎌倉時代のことになります。

寺院さまの縁起によれば、江戸時代に「寺院取調の際誤って隠寺とな」ってしまいました。その後、浄土真宗に改宗。本願寺から免許を許可されますが、なおも寺院として名乗ることは許可されませんでした。明治時代になって、ようやく、念願の「公称」が許可されます。

保育園を設立するなどして、福祉にも貢献。地元の皆さまに信仰される寺院さまとして著名です。なお、墓地の中に、槌山城の合戦で命を落とした大林和泉守の墓があります。

明顕寺・基本情報

所在地 〒739-0047 東広島市西条下見6丁目3−65
山号・寺号・本尊 玉法山・明顕寺
宗派 浄土真宗本願寺派

明顕寺・歴史

水戸新四郎創建の寺院

源三位頼政の子・水戸新四郎頼興が創建したという縁起が伝えられる寺院さまです。菖蒲の前伝説は全国各地にあり、東広島もその伝承が色濃く残る地域の一つです。伝承である以上、真実かどうかの証明は難しいのですが、これほどまでに広範囲に伝えられ、ゆかりの史跡も数多くなると、やはり真実なのではないか、と考えてしまいます。

そもそも寺院さまに縁起が伝えられているというのに、真実なのかどうか云々を口にするのは無礼にあたる気もいたします。とはいえ、「史料、史料」とうるさい研究者の先生方からすれば、寺社さまの縁起は大半があてにならないものとして片付けられてしまうケースも多く、「真実」としてとらえるよりも、そのような縁起が伝えられてきた背景などを研究対象とするような例がおおいように見受けられます。

水戸新四郎の伝説は、その母・菖蒲の前の伝説と同じものとしてよいでしょう。平家の追っ手を逃れて西条の地に身を隠していた頼政の夫人(正室ではない)・菖蒲の前が、頼政の子を守り育てた、というものです。成長したその息子が「水戸新四郎頼興」であり、源氏の世になってから西条の地を賜り、二神山城を築いた、とされています。

果たしてこれが、単なる伝承なのか、真実なのかという点が「史料」によっては確定できないことから、研究者たちは伝承として片付けてしまいます。しかし、二神山城跡はとにかくとして、立派な縁起を石碑に刻んでいる寺院さまの前で、単なる言い伝えと通り過ぎるのはご無礼にあたります。

二神山城のご紹介のところで述べたことと重複しますが、以下の二点から、菖蒲の前さんの物語は極めて真実に近いと考えています(個人的な意見です)。

一、福成寺さまに、西妙尼(=菖蒲の前)さんの遺品が伝えられており、ご本人やそのご子孫のものと思しき大量の墓碑が伝えられている(かなりの年代物である)

一、西条に源頼政の子孫が移り住んだことについては、史料がある。

これらを決定打としてよいものかどうかは、研究者ではないので、わかりません。

少なくとも、頼政の子孫が西条の地にいたことは確かであり、そうであるならば、お名前が「菖蒲の前」かどうかは不明ながら、ゆかりの女性がいたことも十分に考えられます。

問題は「水戸新四郎」さんのほうです。女性と違い、男性は系図類にも名前が載っています。ただし、系図には漏れ・欠けがつきもの。時には確かに存在した人物を何らかの理由で意図的に抹消して、後世に伝えないことすらあります。ゆえに、系図はあてにならない、という点に留意しつつ、頼政の子孫なる一類の方々を見て行くと、「水戸新四郎」さんのお名前はないのです。漏れ・欠け・抹消にあてはまるゆえになのか、存在しなかったのか、こうなると証明は困難です。

行く先々で寺社の縁起を紐解いて行くと、混乱して終始がつかなくなりますので、ここは素直に信じておけばいいと思います。

明顕寺=妙見?

現在の東広島市にあたる地域は、中世、大内氏が直轄支配していた「東西条」の地と重なります。彼らが氏神として、妙見大菩薩を深く信仰していたことは周知の事実です。歴代の当主は、氏寺興隆寺の妙見社を、至る所に勧請しています。と言っても、根拠地の周防・長門には氏寺・氏社としての興隆寺・妙見社(かつては神仏習合の時代ですから)がありますから、そちらがメインとなります。

問題は遠く離れた分国です。かつて、大内義弘が紀伊や和泉の守護職を得ていた際、氏寺から遠く離れていることから、妙見社を勧請しました。本人が応永の乱で敗死し、これらの地域は没収されたことから、その後どうなったのかはわかりません(書いている人が知らないだけです)。また、応仁の乱で、長らく分国を留守にせざるを得なかった政弘も本国から妙見社を勧請したことが知られています。

となれば、長らく大内氏の直轄地となっていた東西条の地に、妙見社が勧請されていたことは大いにあり得ることです。ただ、それがどこなのかはわかりません。これもどこかに記録がある(あった)はずと思いますが、現状手許に史料はなく、調べようがありません。

しかし、我らが尊敬する東広島の先生は、この寺院さまが元は妙見とかかわりがあったのではなかろうか、という仮説をたてられました。妙見(みょうけん)が長い時を経て同音の明顕に変化した、もしくは、なんらかの触りがあって、敢えて表記を改めたのではないか、というのです。時代の変遷に伴い、いつのまにか表記法が変ってしまう事例もすくなくないですので、これまた大いにあり得ることです。

ただし、寺院さまの縁起は、妙見との関係にまったく触れられておらず、これだけでは真相を窺い知ることはできません。今回に限っては、先生のお手元にも史料はなく、あくまで推測です。ですが、それが、デタラメとも言えない理由はほかならぬ「水戸新四郎」にあります。彼の身内に大内氏ゆかりの人物がいたのです。

この件については、明顕寺さまからほど近い築地神社さまにご由緒が書かれていますので、そちらで考察いたします。

20241101 追記:『広島県神社誌』の天之御中主神についての解説に、「広島県内の多くの妙見社(明見社、明現社)に祀られている」との記述を見付けました。「見」「現」ではないのが惜しいですが、『明「顕」』=妙見の可能性が見えてきた気がいたします。「多くの」妙見社の中には、多少の変わり種もあって不思議はないですので、ほかとは違う文字を充てたのかもしれません。

「明顕寺縁起」

水戸三四郎頼興が真言宗寺院として創建したのが起源です。けれども、江戸時代には、寺院として認められず(何らか手違いがあった模様)、寺院として活動できない状態に。その後、浄土真宗寺院に改宗して免許をもらいますが、やはり公的機関からは認められず。明治時代になって、漸く寺院として名乗ることを許可されたのでした。

「公称」できないというのは、文字通り公に名乗ることができない、という意味と思われます。水戸頼興の創建なら鎌倉時代から続く名刹ということになり、かくも長きに渡り名乗ることもできない事態になってしまわれた、というのに驚かされます。「寺院取調の際誤って隠寺となり」とあることから、何らかの手違いがあったものと考えたわけですが、それにしては気付いてもらえるまでの期間が長すぎます。寺院さまにとっては苦難の時期でした。

公称が許可されて以降は、伽藍の改築・修築などが行なわれ、ご覧になればわかる通りの立派な寺院さまとなっておられます。また保育園を作り、運営なさるなど、福祉の面でも地元の皆さまのために貢献なさっておられます。

明顕寺・みどころ

立派な伽藍です。その一言に尽きます。建築物は最近改築・修築されたものが多いため、文化財指定などはありませんが、水戸新四郎と菖蒲の前伝説に関心がある方々からしたら、ぜひ一度ご参詣なさるべきところです。

寺号碑

明顕寺・寺号碑

立派ですね。寺号碑が立派な寺院さまは、現在の檀家数も多く、篤く信仰されている証である、と考えます。収入がなければ、立派な寺号碑は作れませんから(個人的な意見です)。

山門

明顕寺・山門

山門は重厚感があって立派です。昭和時代に修築された際、移転されたそうなので、元はどこにあったのでしょうか。

本堂

明顕寺・本堂

本堂が真新しい。しかし、明治時代の再建物です。その後は、屋根の修理や、そのほかの修繕を繰り返しつつ、大切に伝えられているのです。

「玉法山 明顕寺縁起」碑

明顕寺・縁起碑

寺院さまの御由緒看板(石碑)が、こんなにも立派です。これを見ればすべて分ってしまうという優れモノ。しかし、往々にして、このタイプの石碑を文字起こしするのは極めて面倒なのです。写真を拡大すれば、そのまま読めるではないか、って? そうではありますが、写経ならぬ、案内看板文字起こしも学びになるのです。読んで終わりにしても(酷い場合見て終わり。見ると読む、微妙に違います)、何も頭に残りませんからね。

「玉法山 明顕寺縁起
芸藩通史に明現寺は西妙尼(水戸新四郎の母、菖蒲の前)の柄りし所なりと云い此に小堂を遣つとあり、明現寺は現在の明顕寺に相違ないと記してある。
賀茂郡誌及び西条誌には、明顕寺は下見村字鴻巣にあって、本尊は阿弥陀如来立像玉法山と號し、元、真言宗にて二神城主水戸新四郎頼興の創建する所也と云う。
寛文六年度(一六六一~一六七三)寺院取調の際誤って隠寺となりしが元禄二年(一六八九)釋円浄という僧が事実をもって嘆訴したが用いられず、同年真言宗本派本願寺に改めた。文政七年九月三日本願寺より、寺號明顕寺と免許を受けたが公称することはできなかった。
明治十二年三月十九日寺號公称の許可を受けたが、第八世釋法真は北海道開教の為北海道に渡った。
明治三十四年一月下見地区有志の要望により、釋法真の弟釋法顕が第九世住職を継ぎ、本堂を再建した。第十世法澄は布教に専念し、庫裡新築の途中若くして歿した。第十一世は住職代務をおく。坊守釋好昭が第十一世として昭和十二年十二月本堂大修理・経蔵・鐘楼の新築、玉法保育所の創立など教化活動に盡した。
昭和三十二年五月西本願寺門主勝如上人の御巡教を受ける。第十二世釋正晃は昭和五十七年本堂屋根の大修理及び納骨堂昭和六十三年十一月山門修築・鐘楼の移転・平成九年十一月庫裡の大改築を行い保育園は、社会福祉法人明顕福祉会の設立運営となり園舎を新築し活動し寺門の発展を願った。
平成二十四年一月親鸞上人七百五十回大遠忌記念」
(記念石碑説明文)

大林和泉守の墓

明顕寺・大林和泉守墓

大林和泉守さんのお墓です。ん? 誰だっけ? 何てことを仰るのですか。槌山城で亡くなった槌山城番衆のお一人です。じつは、このお方についてはほかにもあれこれの曰く因縁がございまして、それについては「竹内家住宅」のところでご紹介予定です。⇒ 関連記事:槌山城

明顕寺(東広島市西条下見)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒739-0047 東広島市西条下見6丁目3−65

※Googlemap にあった住所です。

アクセス

地図を見てお分かりになる通り、ブールバールから道が続いております。鏡山公園からほど近い場所です。歩くのはかなりたいへんですので、公共交通機関をお使いください。西条駅からバスが出ています。

参照文献:寺院さま由緒碑、東広島市ボランティアガイドの会さまご解説、郷土史の先生のお話

明顕寺(東広島市西条下見)について:まとめ & 感想

明顕寺(東広島市西条下見)・まとめ

  1. 鏡山城からほど近いところにある浄土真宗本願寺派の寺院
  2. 菖蒲の前と水戸新四郎頼興にゆかりのある寺院とされ、創健者は水戸新四郎と伝えられている
  3. 寺社縁起は伝承的要素が強いものとして、敬遠する歴史学者は多いが、一般観光客は学者ではないから縁起を尊重すると、水戸新四郎が創建者ならば、鎌倉時代から続く名刹である
  4. 理由は不明ながら、江戸時代に寺院として「公称」することを認められず、真言宗から浄土真宗に改宗することで、浄土真宗からは免許を許可された
  5. それでもなお、公的機関からの許可はおりず、公称できるようになったのは、明治時代になってからだった
  6. その後は本堂そのほか伽藍の改築、修築をして寺院を整備。幼稚園を設立して福祉にも貢献するなど、地元の人々に信仰される寺院として著名となった
  7. 寺内に槌山城の合戦で亡くなった大林和泉守の墓がある

二神山城のところで、菖蒲の前と水戸新四郎のお話はまだまだ続くと予言した通り、続いております。しかし、市内にいったいどれだけの関連史跡があるのか分りませんので、すべてを回るのは不可能でしょう。また、特にこの伝承に興味があるわけでもございません。たいへんに興味深いものではありますが、興味の関心がもっとほかのところにありますから。

まずは、槌山合戦で亡くなられた大林和泉守さんのお墓がこの寺院さまの中にあるということ。別に墓マイラーではないのですが、これは見ないと帰れません。わざわざ行くほどの関心はないとしても、寺院さままで来ていたら、見ないで(お参りしないで)帰る理由はありません。地元ガイドさまのお話だと、以前はもっと見付けやすかったそうです。しかし、現代の方々の墓所が増えたゆえにか、埋もれてしまい、探すのに一苦労でした。感覚鋭い女性ガイドさんが、見付けてくださいました。ありがとうございます。ミルたちは古そうな宝篋印塔などがそれだろうと探しまくっておりましたが、見事に裏切られました。しかし、そのような古墓もございましたので、ほかにも何らかのゆかりあるお墓はあるのかも知れません。

さて、何よりも興味が尽きないのは、明顕寺=妙見寺ではなかったろうか、という郷土史の先生のご推測のほうです。東西条は直轄支配していたくらいなので、大内氏が妙見社を勧請していないほうが謎です。長い歴史の流れの中で、廃れてしまったことは十分考えられますが、鏡山城にほど近い、という位置関係からいかにもという感じがいたします。ただし、たしかに、東西条にも妙見社を勧請したという話は聞いたことがない(書いている人が聞いたことないと言う意味です)ので、山口県側史料からの確認ができません。そもそも、すべての事項について史料が残っているわけでもないですし、本などで言及されていないからといって存在しなかったとは申せません。神仏習合の時代、妙見大菩薩は「菩薩」というくらいなので、仏教系ですが、妙見社は「社」なので、神社系。そもそも異国の神であり、日本に入ってきた時点で道教と習合していましたから、何なのか極めてわかりにくいことになっています。

大内氏の氏寺興隆寺には、寺院でありながら、妙見社がありました。天台宗なので山王権現も。大内氏の滅亡であれこれの堂宇は切り売り状態となり、かつての面影は偲ぶべくもありませんが、寺院は現在も立派に続いており、妙見社も祠のようになった山王社もあります。明顕寺さまがかつて妙見も祀っていたとしたら、それは今、どこに行ってしまったのでしょうか。かつての妙見社は悉く天御中主神をご祭神とする神社となっています。しかし、こちらはある時点で(恐らく江戸時代とかずっと前に)寺院となり、何となく音が似ている明顕寺という名前になったのでしょうか。何を根も葉もないことを言っているんだ、ここは水戸新四郎創建の寺院さまじゃないか、と仰る皆さま、その通りです。しかし、なんとびっくり、ほかならぬ水戸新四郎さんと妙見とにゆかりがあるのです。それについては、築地神社のところで。

こんな方におすすめ

  • 寺社巡りを好む人
  • 水戸新四郎・菖蒲の前伝説に関心がある人

オススメ度


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五郎

ここ、本当に妙見大菩薩ゆかりの寺院だったのかな?

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ミル

どうだろう。ミルたちが勝手に決めることはできないよ。でも、郷土史の先生がそういう仮説を立てられたので、根拠のない話ではないと思う。鏡山城の近くに妙見社勧請、いかにもじゃん。

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五郎

でもさ、妙見社ってほとんどが天御中主神の神社に変ったじゃないか。だとしたら、普通の流れでいくと、ここも天御中主神の神社になってるんじゃ? 逆にそうならば、あ、もしかして、元は妙見社で周防から勧請されたに違いない、ってピンと来るんだけど。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

それは一理あるね。でも、興隆寺は興隆寺のままで、境内に妙見社があるよ。悲しいけど、名前だけ残して、妙見社は消滅したのかも。天御中主神に置き換えられることすらなしに。悩ましい大問題だねぇ。

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五郎

ああっ、俺、八本松に「明顕神社」という神社を見付けた!

ミル吹き出し用イメージ画像(怒る)
ミル

ナニソレ、どこ? ああっ、本当だ! 二箇所もあるということは、妙見を明顕に置き換えるという公式は成り立つのでは? しかも、神社。これはいけるかもしれない!

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

でも、俺たちにすら見付けられたのに、先生が気付いていないはずないよね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そうでした。世紀の大発見など、1億年早い身分でした……。

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安芸紀行

#hitひろしま観光大使に任命された五郎が、ミルと一緒に旅した安芸国の旅(目次ページ)
宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。

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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
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