広島県廿日市市地御前の国道開鑿碑とは?
明治時代になり、かつての旧道を改め、全国で新しい国道が整備されました。廿日市も例外ではありません。その、国道開発の歴史と功績を称えた記念碑です。地御前のほか、宮内にも記念碑が立っていました。
ガイドさんにお伺いしたところ、「国道」であることから、当然国からの援助があるはずが、廿日市では費用のほとんどを地元の方々の寄附によってまかなったそうです。他の地域のことをよく知らないため、何とも言えませんが、地元の方のお力により造られた道であることを称えてこのような立派な記念碑が造られているようです。
記念碑建立にあたり、有栖川宮熾仁親王から賜った四文字「地平天成」は、「平成」という元号の由来の一つにもなったと書かれています。地御前神社の真ん前にあるため、見落とす方はおられないものなのですが、神社関係の記念碑であると勘違いしかねないことには注意が必要です。
国道開鑿碑・基本情報
所在地 〒738-0042 廿日市市地御前4丁目13−7
※Googlemap にあった住所です。
地御前神社社殿の脇です。
建立年 明治二十年(1888)二月、令和二年(2020)改修
国道開鑿碑・歴史と概観
新しい時代、新しい道
現在、日本全国は網の目のように道路が張り巡らされております。車さえあればどこへでも行ける、便利な世の中となりました。車を持っていない、免許証がない、という方は少数派です。とはいえ、別に絶対に所持していなければならないものでもありませんので、それを以て差別される謂れはありません。
執筆者も免許証は不所持です。友人・知人の中にも「え!?」と思うような方が不所持だったりします。ご主人の車に便乗する、常に助手席の人だから、という理由の方もあれば、車は持っているだけで維持費がかかるので不要、という方も。
ただし、これは首都圏だからよいのであって、ちょっと田舎に行きますと、車なしでは生活が成り立たないそうです。高齢ドライバーは免許を返上してください云々と言われても、返上すると病院に行くのも困難なんです、というようなお話をきいたことがあります。
毎回タクシー呼んでいてもなお、自ら車を維持するよりは安上がりと宣う友人なども、タクシーを使う回数などそう多くはないから言えるのであり、毎日の通院ともなれば、話は別になろうかと。
まあ、このようにして、車さえあればの便利な生活がかなうのも、道路網が整備されたおかげです。何も車を使わずとも、徒歩でいくにせよ、江戸時代のような峠道を越えていくのではたいへんです。
昔からの街道について、専門に研究している先生方も大勢おられることから分る通り、道の問題は、生活に直結する重要事項です。
今なお、どこかで新しい道の工事は行なわれており、ますます便利になります、なんて宣伝が流れていることがあります。
そんな風にして、明治時代に新しい道を切り開き、人々の往来を便利なものとした、そのことを記念して造られたのが、この「国道開鑿碑」です。
地元の方々の功績甚大の国道
国道は全国どこにでもありますから、国道開鑿碑の類も、名前は多少違うかも知れませんが、道の数だけ存在するといってよいでしょう。ただし、道路開削の歴史も場所によってそれぞれなので、石碑に書かれた文言は似ているようで、微妙に違うものとなっているかと。道路研究の先生方は、全国の道路についてお調べになればそれこそ楽しくてしかたないと思うのですが、残念ながら道路に関心はないです。
しかしこの、廿日市の国道開鑿碑はとても立派なので、よほどのことがない限り、目にした人は「なんだろう?」と思われるはずです。実は、最初に地御前神社を訪れた際には地元の方々による、解説立て看板がまだありませんでした。そのため、いったい何を記念したものなのか、まったく分りませんでした。案内看板設置の年に、石碑そのものも修築なさったとあるので、最初に見た時のものと、現在のものはひょっとしたら、多少の違いがあるかもしれません。
実は似たような碑文が宮内にもございまして、名前も少し違う上、地図にも出ては来ないのですが、道路についての記念碑であることにかわりはありません。宮内町歩きの際に、ガイドさんと前を通りかかったのでお伺いしてみたところ、だいたい次のようなお話だったように記憶しています。
国道である以上、国が援助してくれるのは当然のことで、ことに資金面では国の援助がないと大がかりな工事は難しいです。しかし、廿日市の皆さんは、ほとんどの工事費用を有志の方々の寄附によってまかなったというのです。ほかの地域のことを知りませんので、比較できませんが、国の援助にほとんど頼らずに、自分たちのお金で道路を造ってしまった、というのはすごいことです。
したがって、宮内の碑文にも、地御前の開鑿碑にも、この点は明記されています。地元の方々のお力添えがあったからこそ、道路は開通した。その功績を永久に称えよう、ということで、碑文の裏面には、有志の方々のお名前が刻されています。
観光資源となっている!?
じつはこの開鑿碑、前述のように、地御前神社の社殿傍に建っています。ゆえに、オール漢文が読めないので、恐らくは神社によくある碑文の類だろう、と勘違いしてしまうのですが、まさか道路に関するものだったとは驚きです。
この場所に石碑が建っていることには当然理由がございまして、碑文の中に「神社前の国道二号線」が開通したとあるゆえです。なるほど、という感じですが、なんとこの開鑿碑、町歩きのパンフレットにも載っておりまして、観光客の皆さまの立ち寄りポイントになっているんです。
まあ、地御前神社の前にあることから、敢えてここを目指さずとも見てしまうことにはなるのですが。
明治13年に廿日市以西大竹の県境までの国道が海岸線に沿って新設されました。上部に有栖川殿下の筆による「地平天成」とあり、元号「平成」の出典の一部です。
出典:観光協会パンフレット
平成の元号が定められた時のことなど、古すぎて知るよしもありません。でも、この開鑿碑が出典の一部とかすごいことですね。とはいえ、むろん、この石碑から取られたという意味ではないようです。
用語解説
地平天成(ちへいてんせい)は、世の中が平穏で、天地が治まることを意味する四字熟語です。「地平」は地の変動がなく、世の中が平穏に治まることを、「天成」は天の運行が順調で、万物が栄えることを意味します。
「地平天成」は「内平外成」とともに、年号の「平成」の出典とされています。
参照:Google AI
国道開鑿碑・みどころ
みどころといっても記念碑ひとつです。とにかく立派なものなので、ぜひともごらんください。ただし、何と書いてあるかについてはさっぱりです。有難いことに地元の皆さまが解説案内版を作ってくださっているので、そちらを拝見すれば、意味はわかります。
国道開鑿碑
とっても大きくて立派です。左側のほうに、地御前神社の社殿が見えています。宮さまがお書きになった上の四文字すら読めません。さらに、下の解説文が細かくて異常に長いです。教養のなさ丸出しですが、仕方ないですね……。
碑文説明看板
これがなかったら、本当になんなのかまったくわからないところでした。なんだ、神社とは無関係だったのか、などと思いながら撮影し、自宅で熟読した次第です。ところが、読んでいくと、平成という元号の由来の一つになっただとか、非常に得るところの多い解説文でした。
どう見ても、原文は解説文よりも遙かに長文ですので、様々装飾などが施された美文なのでしょう。ますます以て、素人には理解できるはずもありません。案内看板に書かれていることがすべてと思います。
でもこの上の四文字、どうやったら「地平天成」と読めるのですかね。お習字の知識が必要だなぁとぼんやり考えました。小学生くらいの頃、たいていは習わされると思いますが、数年でやめますよね。ですが、その頃、大学生くらいのお兄さん、お姉さんでなおも続けておられる方がいました。そのレベルになると、漢字の色々な○○体などを学んで芸術的な作品をお書きになれるんですよ。きっと、この文字もさらっと読んでしまわれるんだろうな、となぜか急に思い出しました。
「国道開鑿碑
明治維新以降、嶺・峠・坂が続く往還から平らな道の必要性が生まれた。明治六年より新道建設が小己斐峠(井ノ口)より 始まった。明治十年には宮内村四郎の嶺を越える旧街道に代わって、串戸から港に沿って御手洗川を渡り、 地御前村に通じる海岸沿いに新道が建設された。そして明治十三年二月にはついに大竹まで新道が開通した。
工事費は当時の金額で三万円余りを費やし、その殆どが民間有志の寄付金で賄われた。道路にかけた当時の民衆の熱意の 高さをうかがい知ることが出来る。
碑文では、「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するための大運動を展開した。結果、神社前 の国道2号線が完成した。」と伝えている。
明治十八年八月 明治天皇 西巡の際、聖駕(天子の乗り物)をお通しし歓呼して天皇をお迎えした。明治二十年の国道開鑿碑
建立に当たっては有栖川宮熾仁親王に、「地平天成」の書を賜り、碑文上部の四篆字とした。(この四篆字は、先の元号 「平成」の由来の一つと言われている。)
碑の裏面には当時の佐伯郡東は己斐村より、西は大竹に至る八十六ヶ村の世話役修路従事者五一〇名の芳名が刻されて感謝の意が表されている。
明治二十年(一八八八年)二月建立
令和二年(二〇二〇年)五月修復
令和二年(二〇二〇年)十一月
地御前地区自治会
地御前郷土文化保存会
地御前市民センター企画運営委員会」
(看板説明文)
「道路開通記念」碑(宮内)
折敷畑古戦場跡から下りてきたのち、道に迷って住宅街をひたすら駅に向かって歩いていた際に見付けた石碑です。ガイドさんとの町歩きの際に見かけたものは、撮影しなかったので、同じものかどうか自信がなくなってきました。そういくつもはないと思うのですが。
こちらには、何の案内看板もありませんが、書いてあることは道路開通の歴史であるようです。有難いことに「道路開通記念」の文字は読めますので、意味はわかりますが、下の長文は無理ですので、あるいは、比較的新しい別の道路のことを言っている可能性も捨てきれないことを申し添えます。
ガイドさんとご一緒に見たものであれば、国道に関するものとなるのですが(限りなく似ているし、二つも三つもあるとは思えないのですが、断定はできません)。
国道開鑿碑(廿日市市地御前)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒738-0042 廿日市市地御前4丁目13−7
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
広電「地御前」駅から徒歩圏。地御前神社社殿の脇にあります。
参考文献:観光協会さまパンフレット、現地案内看板
国道開鑿碑(廿日市市地御前)について:まとめ & 感想
国道開鑿碑(廿日市市地御前)・まとめ
- 明治時代に旧往還にかえて国道を開設しようという人々の熱意によって国道が開鑿された歴史と功績を綴った記念碑
- 明治二十年(1888)に建立されたものであり、記念碑自体が年代モノになっていて貴重。令和二年に修復された
- この記念碑に書かれている有栖川宮から下賜された「地平天成」という書による言葉は、平成という元号の由来となったものの一つとされる
- 国道開鑿という国家規模の事業ながら、その資金のほとんどが地元の方々からの寄付金によるものであったという史実は人々の国道造りへの情熱を現していて感動的
- ただの記念碑ひとつとはいえ、元号の由来の一つとなったこと、人々の道路開設事業の歴史を現代に伝えるものとして貴重で、観光協会の町歩きパンフレットにも掲載されているほど
- 道路開削事業や元号の由来などに関心がない人であっても、石碑が地御前神社社殿脇に建っていることから、知らぬ間に目にする可能性が高い
まさか、町歩きで立ち寄る観光資源になっているとはびっくりです。説明文が載っているにとどまらず、コース別ルート案内にもきちんと組み込まれています。何も知らずに参加した人は、この「国道開鑿碑」なるものは、どれだけすごいものなのだろうか、地御前神社から遠いのだろうか(観光する順番が並んでいるので)と考えてしまうかも。なんだ、地御前神社のところにあるじゃないか、という話になりますね。位置関係はたまたまそのようなことになってはおりますが、観光ルートを組み立てた地元の観光協会やガイドさん方にとって、この石碑がとても重要なものであるということがわかろうというものです。
元号の由来のひとつ、という点。加えて、地元の方々がお金を出し合って、自分たちの手で造った道路であるという点が皆さまの誇りとなっているのだと思います。たかが記念碑一つなどと考えてはいけません。そもそも、これほど大きくて立派な記念碑ですので、観光客として来た方々で、写真撮影がお好きな方にとっては絶好の被写体です。ただ、大概において、これらの記念碑は「読めない」ことが多いですから、手前の案内版や、ガイドさん方(町歩き参加の場合)のご案内が必須となります。ここまで至れり尽くせりになっていることからも、皆さまのこの記念碑への思い入れの程がわかりますね。
とはいえ、何も知らずにふらっと地御前神社に参詣した方でも、否が応でも目にすることになります。実際そうなりました。字が読めないだけに、おおお、神社の由来とか書いてあるのだろうか? と思ってしまいましたが、まるで違っていました。
こんな方におすすめ
- 記念碑の類を読みこなせる方
- 廿日市の近代化、道の歴史などに関心がある方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
これ普通、神社の由緒書きとか思うよね。あるいは改築、修繕記念碑とか。
俺はちゃんと、手前の案内版を読んだから。道路についての石碑は宮内にもあったよね。
いつの時代も、道は人々の大切な足となる。これほど重要なものはないからな。
俺は常に海路を行くけどね♪
……。
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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