
大内氏ゆかりの人物について書いています。今回は最後の当主の息子についてです。何人かいますので、書いてる順番としては最初のひとりとなります。悲劇的な最期ととらえるか、単に哀れと流すか、捉え方は皆さま次第です。
大内義尊とは?
三十一代・義隆の息子です。義隆と離縁された正室の間には実子がなかったようで、正室に仕えていた侍女(小槻伊治の娘)をお気に召した義隆とその侍女の間に生まれました。父親が公家主義に走った無能な人物なので、息子についても推して知るべしです。家臣の叛乱で父親が自刃した際、子どもばかりは助けて貰えるとでも思ったのか逃れていましたが、見つけられて殺されました。大寧寺に墓があります。
基本データ
生没年 ?~15510902(天文二十年、七歳)
父 大内義隆
母 小槻伊治女(広橋兼秀養女)
呼称 或弘貞、新介
官職等 周防介、従五位下
法名 幻性院真海珠珍童子、或珠珍鳳毛童子
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』)
略年表(生涯)
・義隆と小槻伊治の娘(広橋兼秀養女)との間に生まれる
・天文二十年(1551)九月二日、家臣の叛乱に巻き込まれて死亡
おもな事蹟
幼くして亡くなったので何もなし
タイトル通りです。系図に書かれていることが正しいとするならば、七歳で亡くなっているので、まだまだ勉学の途上でしょう。長じて名君になったか、両親同様に愚鈍のまま終わったかは知る術がありません。要するに何も分からない、ということです。
ひとつだけ言えるのは、子どもに罪はない、という点。子どもは親を選べませんから。母親が悪女ですから、このような息子が当主となれば、家はどうなっていたか分かりません。父親と同じくして亡くなる運命となったのはある意味当然でしょう。
軍記物の記述はひたすら哀れを誘うが……
あれこれの軍記物を見るに、大寧寺までの逃避行で足から血が流れたとか、哀れを誘う記述ばかりが目立ちます。確かに、わずかに七歳で亡くなる、しかも「殺される(自刃説もあり)」という亡くなり方。気の毒なことは理解できます。ただし、父親が家臣に叛かれたのも、相応の理由があったからですし、母親も問題のある女性でした。叛乱者たちに、生かしておいたら面倒と思われるのは当然のことです。
当主の替えパーツとして必要だったという考え方もできますし、一部そのような意見の方もおられますが、個人的にそれはないと思っています。『大内氏実録』は叛乱家臣たちを「叛逆」の巻に分類し、極悪非道の輩と見なしていますが、そんな中に、叛乱者たちの話し合いシーンで、やるなら徹底的にやらねば。息子を替えパーツにするなどもってのほか。死んでもらおうみたいなくだりがあります(話し合いの結果そうなった)。冷酷非情な連中と片付けることは簡単ですが、そうとも限りません。普通、殺害しようと決めた主の息子を生かしておいたりするでしょうか? そういうケースも歴史上はあるでしょうけど、よほどのことがない限り、父親の仇に担ぎ出されて大人しくお飾りの当主を続ける人はいないと思われます。
七歳という年齢が微妙ではありますが、叛乱者たちを好ましく思わない人々からあれこれと吹き込まれたら、やがてはすべてを理解するでしょう。極めて危険な火種となりかねません。世間一般の心優しい方々が、気の毒な若子さまとして認知しておられるのも当然ですが、軍記物の影響も少なからずあるかと。世の中、そんなに甘くはありません。
死ぬまでの流れ
軍記物等からまとめると、義隆とともに、法泉寺、大寧寺と逃れます。大寧寺で父親が死んだのは、それ以上先に逃れようと船を出したが、風と波に吹き戻されて、どうしても進めなかったためです。天命ってやつでしょう。大寧寺を最後の地と選んだために、現在も本人とともにずらーーっと忠臣とやらの墓があります。
義隆と付き従っていた忠臣はそこで自刃したり、最後の立ち回りをやったりして全員亡くなりますが、幼子だった義尊と偉い公家などはあるいは見逃して貰えるかも? と一縷の望みを託して落ち延びます。しかし、結果は誰ひとり許されず、見つかり次第殺されました。
『大内氏実録』には以下のようにあります。
「(天文)二十年八月廿九日、義隆の長門に奔るや同朋龍阿に命じ、義尊を懐抱して従はしむ。九月朔日、賊の虜する所となりて翌日害せらる。年纔に七歳なり。(言延覚書、義隆記、同異本、中国治乱記、房顕記、歴名土代参取〇系図に、 於大寧寺父倶生害十二歳とし、大寧寺過去帳、忌日一日とす。共に非なり。法名、系図に幻性院真海珠珍 とし、大寧寺過去帳に珠珍鳳毛とす)」
近藤先生が参照にした史料が大量に並んでいることからも、この説が当時普通に囁かれていたものであり、恐らくは史実その通りだったものと思われます。
『大内義隆記』だと以下のようになっています。
「若君と御曹子・一忍軒と小幡四郎、此の人人をば、助け申さん、とたばかりつゝ、生け捕りにして、明日二日に殺しける」
この記述だと、何やら「助けてやる」と言って騙してから命を奪ったみたいで叛乱者たちを悪し様に書いていますね。ですけど、『義隆記』から取材したはずの近藤先生もこの点には触れておられませんから、脚色でしょう。だって、その後に続く文言が目茶苦茶ですし。
二条殿若君:御姿、初花桜の色さき出づるが如くにて、容顔美麗なり。
小幡四郎:是も姿心は、若君にひとし。
要するに、全員が平維盛並に見目麗しいってことになっているのですけど。そんなんありか? と思うなりです。義隆は麗しい方々に囲まれて、さぞや楽しい日々を過ごしておられたことでしょう。審美眼だけは長けていたみたいですから。
次、『言延覚書』は以下の通り。
「若君様御七歳 幷二条殿若公様十四歳にて候。いづれも柿並手にかけはたしまいらせ候」
「手にかけた」のは柿並さんの配下のようですね。
『中国治乱記』では以下の通り。
「同九月二日、二条殿の若公左中将良豊は十六歳、義隆卿の若公新介殿義高は七歳にて、落ちさせ玉ひけるを、柿並追ひかけ、是を討ち奉る。哀れと云ふもをろかなり。」
ふうん。どうやら、もっとも哀れっぽい記述がないのは、恐らく『陰徳太平記』にあるのでしょう。記憶鮮明なのに、以上の書物にはないので。近藤先生は『陰徳太平記』を「史料」と見なしておられませんから。
いずれにせよ、父とともには死なず、逃れようと試み上手くいかなかった、ということですね。
今、『大内文化研究要覧』の記述に典拠を求めると以下の通りとなります。
天文20年(1551)8月山口を出て長門大寧寺に、更に異雪和尚に連れられ日置方面へ避難中、同年9月2日捕らえられ殺される。自害か
出典:『大内文化研究要覧』(大内文化探訪会)53ページ
権威ある書物に、「自害か」とあるので、殺されたのか、自害を強要されたのかは不明とみてよいでしょう。
人物像や評価
七歳の子どもに評価はつけられない
タイトル通りです。特に「神童」だったという噂もないですし、これからどう成長していくかは未知数のまま亡くなりました。判定不能です。当時の医療水準では断定できないものの、特に何事もなければ、長じて家を継いでいたのはこの人だったでしょう。無事にその時を迎えていれば、あれこれの評価がついたと思われます。
普通に考えて、子どもに罪はないですので、確かに気の毒です。しかし、時は戦国乱世の入口、致し方ないでしょう。恨むなら親を恨むほかないですね。
菩提寺と墓所
さすがに七歳では、跡継などまだ作れません。なので、子孫はなし。菩提寺もありません。大寧寺に墓所があるため、そこがそうなのかと思いますけど。『大内文化研究要覧』によれば、「俵山安田にも墓あり」とのことです。亡くなったのはその場所かもしれません。
まとめ
- 大内義尊は、義隆の実子
- 母親は小槻伊治の娘。義隆正室の侍女だった女。身分を合せるため、よりランクが高い公家の養女となり義隆継室におさまった
- 父親が家臣の叛乱で亡くなった際、山口から長門までの逃避行に同道。父とともには死なず、なおも逃れたが、叛乱者たちに見つかって殺された
- 大寧寺に墓所があるほか、別の場所にも墓があるらしい。言い伝えなのか、本物なのかについては不明
参考文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』、軍記物そのた

やけに淡々としているけど、可哀相とかいう感情はないの?

ない(キッパリ)。君にはあるの?

特にないよ。公家の宴会繰り返している父親の息子、たかが知れてるよね。

どうだ、元就公の偉大さがわかっただろう? お父上が立派なら、三人のお子様方もすべてが優秀な方々だった。「遺伝子」が違うのだ。

そうだよなぁ(← 珍しく意見一致)。でも分からないのは、「お父上が立派なら」というのが、三十一代にはあてはまらない点。俺、『陰徳太平記』に書いてある、なにゆえあんなに立派だった父上からこんな○○がみたいな記述に賛同してる。「遺伝子」ってよくわからないけど、何かの間違いだよね?

そうだな(← 珍しく意見一致)。最後のが立派だったなら、我らの間に溝が生まれることもなく、普通に親戚づきあいができたかも知れない。

あらら……なんか、すごい会話が続いてるけど、これ問題ないの?

崇敬の念を表明しても叩かれる世の中だよ。まして、悪口にしか取れないことは書かないで、ってあれほど頼んでいるのに……。

「生存確認」のため、いちおうアップしたダミーみたいな記事です。時間ができたら、いくらでも書き直しますんで。