『大内殿有名衆』 義隆期家臣についての史料

大内義隆イメージ画像

『大内殿有名衆』

『大内殿有名衆』とは?

『大内氏実録』の附録です。大内義隆が大宰大弐となって以降のものとされ、早くとも天文五年五月十六日以降のものです。同じく附録として、『家中覚書』なるものも掲載されておりますが、いずれも、家来名簿みたいなものです。どんな人がいたのか知るのに使います。

『実録』著者の近藤清石先生は、大内氏の家臣たちについても、個別に調査なさいました。しかしながら、よほどの重臣でもない限り、史料に乏しく伝が立てられませんでした。そこで、それを補う物として、義隆期と義長期に書かれた家来名簿のような史料をサンプルとして掲載なさったのです。これとても、完璧なかたちで残されていたかどうかは不明です。

『家中覚書』については、天文二十四年、大内義長期のものです。なぜ義隆期のものだけではなく、義長期のものを合わせて掲載する必要があったのか。サンプルは多いに越したことはないでしょうが、そのまま使えるものがたまたま残っていた以外にも理由がありそうです。結論は単純で、比較検討すると「見えてくる」ものがあったためです。

近藤先生は、そもそも叛乱家臣たちを「賊徒」呼ばわりなさっているお方なので、現代の感覚とは相容れません。「有名衆」に名前があり、「覚書」に名前がない人々について、以下のように記しています。

  • 「国難」前に亡くなった
  • 「国難」に殉じた忠義の人
  • 不忠者だったが、(義長期には)亡くなっていたので事蹟が伝わらない人
  • 生き残りたいがゆえに隠れ潜んでいた人
  • 「陶賊」に与したが、その後亡くなったので、(義長期には)名前がない人

二つの記録両方に名前が載っている人々については、さらに辛辣で「まさしく賊党なり」と断言しています。が、後に毛利に帰順した人物に関しては翻って「此等は当時勢力が敵せざるが為に、暫く賊党に屈服して時機の来るをまてるなるべし」と。

要するに、叛乱家臣=極悪非道の輩って立ち位置です。このような考え方についてどう感じられるかはご覧になる皆さま次第です。

以下本文となりますが、適宜現代語に直し、煩わしい長文説明は一部省略するなど整理したため、原文そのままではありません。原文については図書館に赴いてください。なお、各項目最後に「人数」が書かれたものがありますが、「合計○名いた」という意味と推測されます。ただし、書かれた人数と挙げられた名前は一致しません。原文で省略されていた人物が存在したのか、史料が不完全であったのかについては説明がないため、不明です。

国衆

麻生上野介、秋月中務大輔、益田右衛門大夫、千手治部大夫、青景越後守隆著

親族家類

陶尾張守隆房、宇野弾正忠興之、冷泉下野守興豊、鷲頭治部少輔弘季、右田市郎隆俊、野田兵部興方、問田備中守隆盛、黒川越中守、江木五郎、末武弥三郎、仁保右衛門大夫隆慰

奉行三家老

陶尾張守*、杉七郎介重矩、内藤左衛門大夫隆通
*他の項目にも重複して名前が出ている人物(以下同じ)

小奉行

波多野備中守、久佐河内守、大庭図書允賢兼、宮川内蔵大夫、伴田中務大夫、吉田右衛門尉、能美主計允、豊田兵部丞、河屋伊豆守、来原丹後守、末益備中守、海田四郎左衛門入道
(22人)

小座敷衆

祢宜民部允右延、矢野大炊助、乗福寺、宗像大宮司氏男(黒川隆像)、青木彦五郎、安富源内、豊田美濃守、右田右京亮、陶安房守隆満、国清寺、小野縫殿助、丹生山城守、門司太郎、相良大和守、清野肥後守、飯田石見守興秀、町野掃部介隆風、仁保宮内少輔、保寿寺、広徳寺(『家中覚書』広徳院)、椙信濃守、入江民部少輔、橋爪右馬助、宗像鍋寿丸、内藤彦二郎、横地淡路守
(25人)

侍大将先手衆

青景彦五郎、内藤彦太郎隆世、杉彦七正重、鷲頭大和守、鷲頭玄蕃、鷲頭民部少輔、鷲頭彦三郎、鷲頭彦太郎、野田主計頭隆方、椙美作守、杉次郎、杉彦五郎、杉新四郎、杉弥次郎、杉平右衛門尉、杉信濃守、杉孫七、内藤鶴寿丸、内藤肥後守、内藤舎人允、飯田山城守、飯田大炊助、飯田弥五郎、吉田若狹守興種、飯田小五郎、神代善内、高橋修理亮、小野縫殿助*、豊田弥太郎、吉田四郎、吉田弹正忠、吉田平右衛門尉、深野次郎左衛門尉、遠田孫三郎勝貞(弾正少弼、年月日不明戦死)、高橋介三郎、安田隼人、島田彦太郎、安富弥三郎、島田修理進、島田新四郎、島田小治郎、安富備後入道、龍崎弥七、小原安芸守、小野四郎五郎、小野六郎、市川玄蕃頭、野上刑部允、怒溜勘解由(『家中覚書』怒留湯勘解由允)、江木小治郎(『家中覚書』江ロ小治郎、いずれが正しいか不明)、縄摩六郎(『家中覚書』託摩六郎)、板井掃部介、池上飛驒守、仁保平太郎、豊田右衛門大夫、岡屋左衛門大夫隆秀、服部平右衛門尉、阿川太郎隆康、柿並與次郎(『有名衆』柿並余次郎)、神代左衛門尉隆兼、波多野彦左衛門尉、斉藤新右衛門尉、竹内右馬允、高山亦次郎、田尻掃部助、横地次郎、中山藤七郎、甲斐余次郎、吉田三郎右衛門尉、佐田兵衛、森喜惣(『家中覚書』喜三)、遠田治部少輔兼相(『系譜』治部丞、幼名孫三郎、既出孫三郎の子)、伊佐源次郎、橘庭新三郎(『家中覚書』博庭)、石津安芸守、楊井弥七、楊井飛驒守、井原弥二郎、行野四郎左衛門尉、石川弥右衛門尉(『家中覚書』左衛門尉)、由利備後守、小林新大蔵、雑賀刑部丞隆俊、世良小三郎、木村新左衛門尉、坪井筑後守、河津兵庫允、相良七郎(『家中覚書』相賀七郎)、横屋六右衛門尉、三笠伝次、波多野喜代寿丸、木村宮内少輔、株豊後守、井原筑後守、白井又六兵衛、高石有助、小幡冠次、小幡齋宮、白井藤五郎、楊井十郎左衛門尉、吉弘次郎左衛門尉、中村佐渡守、宮川越後守、原助五郎(『家中覚書』厚助五郎)、万里丹後守、一来小五郎、千葉七郎次郎、脇六右衛門尉、蒲生介三郎、蒲生豊後守、貫越中守、入江民部允、平野伝吉、牧野又助□□門尉、国森弥右衛門尉、三隅弥次郎、御郷主水正、黒川善四郎、高石力之助、日内勝次郎、横地左中辨允、波田式部允、伊藤越中守、竹吹金丸、野口作右衛門尉、柿並市右衛門尉、来原筑後守、郷田三四郎、中川修理允
(142人)

御伽衆

淡路彦四郎殿(『家中覚書』淡路彦次郎、以下『家中覚書』には殿字なし)、伊勢孫四郎殿(『家中覚書』伊佐孫次郎)、六条越前殿(『家中覚書』越前)、有梅軒、池辺松菊殿、宗智、西坊、在理、西院、竹田法眼、竹田法橋、法泉寺、妙喜寺、金龞寺(『家中覚書』金驚院)、八幡大宮寺、松田土佐守、香積寺、正寿寺、清水寺、於輪、脇摩、靈社大宮司、今井主水正殿
(23人)

御客衆

二条関白様尹房、持明院様基規、冷泉大納言様為和(権大納言民部卿為広卿の子、天文十年十月二十六日権大納言、十八年二月薨)、日野中納言様晴光(権大納言内光卿の子、天文十年三月二十七日権中納言、十六年二月十八日権大納言、二十四年九月十八日薨)、一条様兼冬(内大臣房通公の子、天文二十三年二月一日薨)

五家

天神大宮司、伊勢大宮司

外々並

十三社大宮司

御寺並

二十三箇寺

御寺

善福寺、妙善寺、龍源院、闢雲寺、凌雲寺

分貫

大宰大式

軍評定衆

江口五郎(名前不明、九月二十八日「国難」時、法泉寺で、冷泉隆豊等と山の手を守る、翌日法泉寺に召還、死亡時状況不明)、内藤弾正忠、阿川太郎*、明部賀左京、大田隠岐守隆通、岡兵部昌歳、園壱岐守広忠、東儀因幡守兼康

※『大内殿家中覚書』については、近日中に掲載しますので、コチラ『有名衆』との比較検討をなさってみてください。近藤先生言うところの「陶賊」との関連性を確認するのにどうぞ。

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