関連史跡案内

安芸国分寺(広島県東広島市西条)

2023年3月19日

安芸国分寺・解説看板

広島県東広島市西条の安芸国分寺とは?

奈良時代、聖武天皇の詔で全国に造られた「国分寺」の安芸国版です。現在、かつて国分寺があった場所は「歴史公園」となっており、発掘調査の結果明らかになった当時の様子などを知ることができるように整備されています。また「安芸国分寺跡」は国の史跡として石碑も立っています。

では今は「跡地」しかない、つまり寺院そのものは残されていないのか? というと、そんなことはありません。聖武天皇詔当時の伽藍がすべて残されてはおらず「遺跡」となった、というだけで、安芸国分寺は今も立派に存続しております。大内氏直轄領だった東西条の地にあったことから、無関係なはずはなく、文化財説明看板にも「庇護された」旨、明記されています。

安芸国分寺・基本情報

所在地 〒739-0002 東広島市西条町吉行 2064
山号・寺号・本尊 金嶽山常光院・安芸国分寺・薬師如来
宗派 真言宗御室派
寺院さまHP https://www.aki-kokubunji.com/

安芸国分寺・歴史

聖武天皇が全国に造らせた国分寺の一つとして、安芸国に建立された国分寺です。現在も真言宗御室派の寺院として存続していることに加え、今は使われなくなった古代の遺跡も発掘調査を行い、一部復元した上で、跡地を公園として公開しています。

発掘調査の結果、天平勝宝二年 (750)頃には、寺院として運営されていたことが確認されており、正確な創建年代は不明ながら、天平十三年(741)の国分寺建立の詔からほどなくしてきちんと造営、運営開始されていたことがわかります。

金堂、講堂、塔、僧房、大衆院、国師院などなどの伽藍が立ち並ぶ荘厳な大寺院であったと考えられ、それらの建物が実際に存在していたことも、発掘調査から明らかになっています。律令制度の崩壊とともに、国分寺の運命も変りますが、安芸国分寺は塔が焼失したり、僧坊が建て替えられてその位置を変えたりしつつも、金堂、講堂などは引き続き存続していたようです(参照:文化財説明看板。屋根瓦の葺替えが行なわれたことがわかっているそうです)。

中世に入ると、この地は我らが大内氏の直轄支配地となりました。つまりはかかわりがあったに違いないと思いますが、これまでのところ、安芸国分寺の存在を知らなかったくらいそのお名前を見かけたことがなかったので、どのようなかかわりかたをしていたか不明です。説明看板にも「中世になると、この地を治めた大内氏や毛利氏によって庇護され、伽藍も整備されたようで」とありますし、関わりがあったことは間違いないのですが、説明文にも「ようで」とあり、特に誰が何を再建したなどの記述がないことから、ひょっとしたら謎に包まれているのかもしれません。唯一十六世紀中期のものとされる仁王門が、時期的にあるいは? ですが、十六世紀中期といったら滅亡した時期にあたるわけで、その後毛利家が建立したことも大いにあり得る年代ですので、何とも言えません。

大内も毛利も安芸国から去ったのち、浅野家が領主となってからは、その祈禱所となってとたんに歴史がはっきりします。東広島市の重要文化財となっている護摩堂も、江戸時代の建築物です。

東西条を拠点としていた頃、同じ西条でも福成寺が圧倒的に重要視されていた感があるので、安芸国分寺については普通に支配下地にあるゆえに保護、といった形だったのかも知れません。

そもそも国分寺とは?

仏教に篤く帰依した聖武天皇が、全国に詔を発して国分寺、国分尼寺を建立するように命じた、ということを日本史の授業で習い、受験勉強のためにあれこれと暗記させられます。いっそここで復習をし、今に伝わるホンモノの国分寺を見てその理解を深めましょう。知識を整理すれば、安芸国分寺を参拝するにあたってもとっても役に立つという相乗効果が得られます(参拝前にやっとくべきだったと深く反省してます……)。

聖武天皇の時代、つまり奈良時代ってことですが、禅宗や浄土教系統はもちろん、弘法大師や伝教大師すらまだおいでにならなかった時代ですから、仏教といっても現在の様に○○寺は○○宗の総本山であり云々というようなかたちではありませんでした。「南都六宗」と呼ばれる「三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗」のような宗派はあったのですが、これらは多分に哲学的で、お坊さんたちは六宗の教義をひっくりまとめて全部学んで身につけていました。いちおう、○○寺は○○宗の寺院とかなっていましたけど、どこの寺院に属していても全員すべてを学んでいる、という感じです。

それから、仏教のあり方も現在(中世、近世とも)とは少しく異なり、まだまだ誰もが信仰するもの、というよりも国家のものでした。「国家仏教」と呼ばれて、天皇を中心とし、朝廷=国家のための宗教だったんですね。「鎮護国家」といって、天皇さまが「護国の経典」とされていた「金光明経」「仁王経」を篤く信仰していれば、仏教の神様(つまりは仏さま)の力で国を守ってもらえる、というような考え方が主流でした。ゆえに、仏教は国家のもの、お坊さんたちも国に奉仕する公務員のようなものでした。天皇さまも熱心に仏教事業を展開するし、お坊さんたちは真剣に教義を学び、国のために法会を行なっていました。

え? でも、聖徳太子の頃から貴族たちは権威の象徴として古墳ではなく寺院を建てるようになったわけだし、氏寺とかもう存在してたじゃん。お寺もお坊さんも国のもの、とかおかしくない? 聖武天皇の時代にはすでに琳聖太子来朝後、その子孫の代になっているし、氏寺興隆寺もすでにあったはずでは? とか諸々疑問噴出しますが、その考え方もあってます。藤原氏の氏寺・興福寺のような祖先崇拝のための寺院も当然存続していました。けれども、これらの大寺院は「鎮護国家」のためにも奉仕しました(「??」となると思うけど、興隆寺の問題については、勅願寺化とかのところで考えることにしてひとまず置いておきましょう)。

国の寺である=官寺って意味を確認しておくと、つまりは国家によって創建された寺院を指しますので、国分寺、国分尼寺はまさにそうですが、そのほかに、「国の援助を受ける寺院」という意味もありまして(援助といえばつまりは経済的援助ってことですが)、飛鳥寺、大官大寺、藤原氏の氏寺・興福寺とか、薬師寺、大安寺、元興寺とかがそれにあたります。むろん国分寺、国分尼寺にとどまらず、同じく聖武天皇によって建立された東大寺なんかが官寺となることは言うまでもないです。要するに、貴族・豪族の建てた寺でも、「官寺に準ずる」と見なされていた寺院はあったってことです。官寺扱いってことは当然、「鎮護国家」の役割も果たさねばなりません。

ですが、このような制度は律令制度が崩壊していく中であり方を変えていきますので、のちに興隆寺が勅願寺化された頃には、公家などに強いコネがあれば仲介してもらい、地方の寺院が勅願寺認定してもらえるケースが大量に現われるようになります(ちなみに、勅願寺と官寺も=ではなく、東大寺、国分寺のような国家プロジェクトによって建てられた紛う方なき官寺と、単に天皇の希望により建てられ、天皇のために祈願をする寺としての勅願寺とは微妙に違うようでして、後者は天皇個人のいわば『私的』なもの的性格が強いようで、初期の頃の勅願寺は『官寺』的なものだったが、次第に私寺化した、と事典類にはあります)。

で、いよいよ国分寺建立の話ですが、このように仏教が国を守ってくれるもの、という考え方だった時代、悩み多き聖武天皇は国家の安寧のために、諸国に寺院を建てるように、という詔を出しました。これ、参考書に載っています(多分、教科書にも)。つまりは高校生でも知っている知識ということです……。

「 (天平十三年三月) 乙巳詔して曰く、……宜しく天下のすべての国ごとに諸国をして各々敬んで七重の塔一区を造り并に金光明最勝王経, 妙法蓮華経各一部を写さしむべし。……又国毎の僧寺には封五十戸, 水田十町を施し, 尼寺には水田十町。 僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、 其寺の名を法華滅罪之寺と為す。 」『続日本紀』国分寺建立の詔

コチラは石川晶康先生の『日本史実況中継』から引用してまして、『続日本紀』は読んでおりません。ちなみに受験生の要暗記事項は「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪之寺」みたいで、ソコ、赤シートで暗記できるようになってます。頭痛くなりますね。書き写している間に覚えてしまった……。

つぎに、『日本史広事典』で国分寺の項目を調べて補充しておくと、この七重の塔には聖武天皇真筆の「金光明最勝王経」が入れられたこと、僧侶二十人が定員割れとなれば補充すること、ってありました。また、国分寺を各国のどこに建てるか、ということですが、「国衙所在地に近く、人里と適度に距離を隔て」たところ、だそうです。天皇さま自らすべての国分寺のためにお経をお書きになるとか、すごいことだと思いますね。ですが、実際問題として、すんなりとこの大事業が進んだわけではなく、間に合わせにすでにあったお寺を借りてそこを国分寺ってことにしてすませてしまった国もあったそうです。

文化財保護の考え方が広まったのち、あちらこちらで国分寺はどこだ? と発掘調査が行なわれたようですが、「発掘調査」ってことはすなわち、現在にまで続いているものはきわめて少ないと考えてよく(奈良時代の建築物ですから、当たり前ですよね)、「跡地」だけになっていたり、別の場所に移ってたり、あれこれでしょうが、全国にいくつあるのかわからないので、ほかの国分寺までいちいち調べておられません。跡地の遺構がしっかり残されていたら文化財指定になっているはずですし、現在まで存続していたら○○国分寺って名前であると思うので、これを機会に皆さまも地元の国分寺について検索してみるのもいいかもですね(調べたら地元の○○国分寺ありました。で、『後継寺院』と『跡地』だそうで。つまりそのままの形では残ってない。周防国分寺と安芸国分寺ってものすごく貴重ですね)。

【安芸国分寺跡】あきこくぶんじあと

広島県東広島市西条町にある。東西一九八m、南北一二八mの寺域内に塔跡・金堂跡・講堂跡・南門跡・中門跡、および北方の掘立柱建物跡などが確認されている。伽藍配置は塔を除く各建物が一直線上に並ぶ国分寺式。瓦は軒丸瓦と軒平瓦がそれぞれ四種類ある。国史跡。

出典:山川出版社『日本史広事典』

発掘調査と歴史公園化

昭和七年(1932)年、「聖武天皇の歯を埋めたと伝えられている塚」の発掘調査が行なわれた(『広島県の歴史散歩』)のが始まりのようです。天皇さまの歯を埋めた塚が見付かったのかどうかは不明ですが、七重の塔の跡が確認できたことから、「安芸国分寺塔跡」と認定されました。文化財説明看板によると、史跡指定されたのは昭和十一年(1936)9月3日です。

昭和四十四年(1969)の調査で門や、金堂、講堂などの伽藍配置、敷地の広がりなどがだいたいわかり、平成十二年(2000)には  「 天平勝宝二年(750)」と書かれた木簡が見付るなどしてこの年代に国分寺が確かに存在していたことが判明しました(同上)。これらの新たな研究成果を踏まえて昭和五十二年(1977)6月29日に単なる「安芸国分寺塔跡」ではなく「安芸国分寺跡」として追加指定されました(文化財説明看板、東広島市HP)。その後も調査は続き、追加認定された部分などもあるので、その辺りは東広島市HPにてご確認お願いいたします。https://www.city.higashihiroshima.lg.jp/shisetsu/bunka/7592.html

「安芸国分寺歴史公園」は「平成11年度から平成24年度まで15カ年かけて」整備されました(同上)。

国分寺が全国に造られた以上、それこそ至る所に跡地はあるわけですが、この歴史公園のように、市民の憩いの広場的要素ももたせて公園として整備されているケースはどのくらいあるのでしょうか。調べていないのでわからず、申し訳ないのですが、たいへんに貴重なことであると思いました。(この項目参照:文化財説明看板、東広島市HP、『広島県の歴史散歩』)

安芸国分寺・みどころ

現在の安芸国分寺にお参りすると同時に、歴史公園に入ってかつての伽藍配置などを確認する、という見学の仕方になります。現在の国分寺の敷地は周防国分寺に比べて狭いですが、周防国分寺はほぼそのまま往時の場所に存続していることから、かつての遺構などを見ることが難しいです。いっぽう、安芸国分寺は、当時の伽藍配置などが復元されて、視覚的に確認することができるようになっており、非常にわかりやすいです。現在の国分寺境内と、公園として整備されている部分とをあわせたものが、古代の国分寺ですので、どれほど広大であったのかがわかります。

まずは歴史公園と合せた全体図を説明看板からお借りして抽出しますと、以下のようになります。

安芸国分寺歴史公園案内看板(地図部分)

※「安芸国分寺歴史公園」の案内看板より地図部分をお借りしました。

わかりづらい写真で恐縮ですが、とても広大な敷地です。実際、あれこれの遺構を見て回るとけっこう時間がかかります。現在、遺構として跡地に復元展示されているのは、講堂跡の基壇、僧坊跡と軒廊、井戸、塀などとなります。復元されてはいませんが、「塔跡」も発掘保存されています。

ところで、安芸国分寺の「伽藍配置」ですが、まるで受験参考書の総復習となり、まさに目に見える教材です。法隆寺式とか、薬師寺式とか東大寺式とか強引に暗記させられたと思いますが、これ、上に引用した『日本史広事典』の「安芸国分寺」項目に「国分寺式」と書かれているんですけど、よくわからず。ちょっとズルいことをしてネット検索してみたけれど、「国分寺式」なるワードではなにも出て来ないです。権威ある書物が間違っているはずはないのですが。参考書で暗記した伽藍配置は古い順に、

 飛鳥寺式 ⇒ 四天王寺式 ⇒ 法隆寺式 ⇒ 薬師寺式 ⇒ 東大寺式 ⇒ 大安寺式 

だったはずで、国分寺式なる名称ははなく、つらつら思うに東大寺式ではないのかな、と。

「南大門、中門、塔、金堂、講堂」が一直線に並ぶのが白鳳期の四天王寺式ですが、聖武天皇の天平期になると、主要な建物が一直線に並ぶ点はかわらないものの、塔が中門の外に出てしまうのですよね。これを東大寺式といい、さらに、塔が南大門より外側に出てしまうってなると、大安寺式となります。

安芸国分寺の興味深い点は、奈良時代からの建物で使わなくなったもの(現在『跡地』として歴史公園内にある)と、現存している寺院さまとをあわせて見た時、建物(含む『跡地』)が綺麗に一直線になっていることです。現在の本堂はかつての金堂の場所に建っているんです。ゆえに、「歴史公園」と現在の国分寺とを別物と考えてバラバラに見学してしまってはダメで、現在公園内にあるかつての遺構と現在の寺院さまとをあわせたものが、往時の国分寺の姿である、ということを意識しながらお参りするのが望ましい順路となります。

つまり、参考書にある「僧坊、講堂、金堂、中門、南大門が一直線で、塔が中門の外に出ている」という記述を元に考えると、僧坊、講堂は跡地ですが、直列しており、その手前、かつての金堂の場所に現在の本堂が、その前に山門(仁王門)という古代の遺構 + 現代の建物で、まさに参考書の図式通りの一直線の配置となっており、でもって、跡地の看板しかないゆえに見落としやすいかつての七重の塔跡は、門の外に出てしまっているのです。中門、南大門が存在していたことも、発掘調査で明らかになっていますが、復元遺構にはありません(ゆえに、塔が中門の外なのか、南大門の外なのかわからず、東大寺式なのか大安寺式なのか不明です)。恐らくは中世などに整備した際に、現在の寺地の下に埋もれてしまったのかもしれません。壊れていたゆえ再建されたのか、すでに失われていたのかわかりませんが、一六世紀建立の仁王門がそれらの代わりとしての役割を果たしてきたわけですね。

いやはや、これまで伽藍配置とかまったく意識したことがなかったですが、参考書通りだとなんだか嬉しくなりますね。というようなことに、帰宅してから気付いたらもう一度行きたくなってしまったよ……。

「安芸国分寺跡」碑

安芸国分寺跡石碑

申し訳ありません。左側の矢印看板に気を取られて、すぐそこにあった石碑を見落としておりました。辛うじて読めますけど、プライバシーの観点からもよろしからぬ写真です。塔の絵が描かれた看板が見えておりますので、塔跡もここで、それゆえにここに石碑を置くことにしたのではないかと思われます。再訪はわりと容易ですので、差し替えるまで少々お待ちくださいませ。

古代史における寺院の伽藍配置でもっとも重要なのは塔と金堂(本堂)です。てか、これは受験生向けに何が重要かという意味ですが。伽藍配置を暗記する時にこれだけは、ってことです。いずこの寺院さまでも、たいせつではない建物など一つもないですので、誤解なさいませぬようにお願いいたします。

現代の寺院さまでどでかい塔をお持ちのところは少ないですけど(昔のが残っていれば国宝です)、ここに七重の塔跡があり、金堂があることが、この地が「安芸国分寺跡である」という証にもなるので、絶対に「塔跡」を見落としてはなりません(見落としました。探していたのに……)。安芸国分寺の場合、寺院さまは現在も存続し、金堂はすなわち現在の本堂として使われておりますので、「跡地」はありません(『金堂』の看板は寺院さま境内にあります)。むろん、現在ある本堂は聖武天皇の代から続くものではないので、元々の金堂は現在の本堂の下に保存されているものかと。

ちなみに、塔は仏舎利を入れておくところ、金堂は仏像を安置しておくところ、です

講堂跡

安芸国分寺・講堂跡

かつてここに講堂があった、ということくらいしかわかりません。復元図を画いてくださってあるので、こんな建物だったのか、ということはイメージできます。講堂というのは、お坊さんたちが偉いお坊さんから講義を受けたりするお勉強の場所ですね。

僧坊と軒廊

安芸国分寺・僧坊と軒廊

素人が見てもただの野っ原ですので、如何ともしがたいですが、ただひたすらに広いです。要するに、お坊さんたちが暮らす僧坊のお部屋がいくつも区切られたようにして並んでたみたいです。軒廊とは、僧坊と講堂を繋ぐ渡り廊下を指すようです。お坊さんたちは、毎日この廊下を通って、講堂に通って学習していたのですね。

しかし、この野っ原から、どうやって、このようなイメージ図に到達できるのか、専門家以外には難しいです……。

井戸跡

安芸国分寺・井戸跡

いついかなる場所でも万人にわかりやすいのは井戸です。ほかの建物もこのように復元してくださればわかりやすいのに、と思いますね。建物は大きすぎてレプリカ建造物を貴重な遺構跡に建てるのもマズいことから、どこもかしこも井戸とか、門などが復元されているのでしょう。

板塀

安芸国分寺・塀跡

井戸同様、とてもわかりやすいです。これが復元されている理由も井戸と同じと思われます。つぎの国師院建物と先の僧坊とは分けられていて、国師院の周辺はぐるりと板塀(掘立柱塀)が取り囲んでいました。柱を立てた穴も見付かっています(穴未見)。

国師院建物

安芸国分寺・国師院跡

「歴史公園」内にあるもののご紹介はここまでです。もちろん、これですべてではないですが、同じような想像図と跡地だけですので、省略します。ちなみに、この「国師院」なるものですが、文化財説明看板のご説明によれば、「安芸国内 の僧侶の育成や指導、 法会の執行等を行った国師のための施設」とのご説明です。でもって「国師」というのは、各地の僧侶の育成指導のために都から派遣されて来たお坊さんのことです。たいせつなのは、この「国師院」という施設の存在が発掘調査などで確認されたのは、コチラの安芸国分寺が全国で初めて、という点です。

仁王門

安芸国分寺・仁王門

仁王門は一六世紀中頃のもの、と文化財説明看板にあったことから、建立したのが大内なのか毛利なのか、非常に微妙です……。

本堂

安芸国分寺・本堂

ご本尊・薬師如来さまはこの中です。「秘仏」ゆえ普段は拝むことができません。寺院さまのHPに次回の公開は平成五十年とあったので、元号変りましたが、えーーと、あと二十年くらい待たねばならない、ということになりましょうか。三十三年に一度のご開帳とのことです(寺院さまHP)。

薬師堂と鐘楼

安芸国分寺・薬師堂と鐘楼

この薬師堂の中に、広島県指定重要文化財の薬師如来坐像がおられます。本堂にも薬師如来さまがおられるわけなので、二躰あるということになりますね。本堂の薬師如来さまは東広島市の重要文化財となります。ややこしいですが。県指定文化財となっているほうの薬師如来坐像は、文化財案内看板に写真が載っていたりするので、普通にそのお姿を拝むことができます(写真とはなりますが)。寺院さまHPでもご覧になれます。

安芸国分寺・文化財説明看板

護摩堂

安芸国分寺・護摩堂

大内でも毛利でもなく、浅野のお殿さまによって建立された江戸時代の建物です。安芸国分寺の文化財説明看板に「江戸時代には広島藩主浅野家の祈祷寺院として隆盛」したと書いてありましたので、戦乱の世が終わり、平和になった時代は大内も毛利も無関係に繁栄してたんですね。

安芸国分寺(東広島市西条)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒739-0002 東広島市西条町吉行 2064

アクセス

西条駅からとても近いです。もちろん歩いて行けます。10分くらいと思われます。ナビゲーション頼って歩いていたら、閑静な住宅街の中を通過していったので、なんとなく怪しい見知らぬ人物的になって恥ずかしかったです。住宅地を通らずに行ける道を探しています。

なお、「歴史公園」はわかりやすいのですが、「塔跡」と「安芸国分寺跡碑」とは、公園の外にあります。公園内を必死に探したけど見付からず、何もないのかと思ったらきちんとあって、しかも知らずに通過していました。石碑が気になる方はこの点だけご注意くださいませ。あとは特にわかりづらいことはないです。

参照文献:東広島市様HP、安芸国分寺様HP、『日本史広事典』、『広島県の歴史散歩』、『広島県の歴史』、受験参考書、文化財案内看板

安芸国分寺(東広島市西条)について:まとめ & 感想

安芸国分寺(東広島市西条)・まとめ

  1. 聖武天皇の詔によって全国に建てられた国分寺の中で安芸国の国分寺
  2. 天平勝宝二年 (750)頃には存在していたことが、発掘調査から明らかになっている
  3. 中世に大内氏、毛利氏などが伽藍を整備したと考えられ、仁王門は十六世紀の建立である
  4. 近世には浅野家の祈禱所となり、大切に保護された
  5. 江戸時代の火災によって多くの建物が焼失するも、きちんと再建、復興されて現在にいたる
  6. 秘仏である本尊の薬師如来像、仁王門、薬師堂内の薬師如来像など、多くの指定文化財が伝わっている
  7. 古代の国分寺跡地についても発掘調査が行なわれ、遺構の復元と保存がなされ、歴史公園として整備されている。

じつに無礼なことながら、この地に安芸国分寺があることを知らずに訪問しました。待ち合わせ時間の調整で付近になんかないかな~と地図を見ていたら、へぇ、安芸国分寺が西条駅からほど近いところにある! となったわけです。これまであまり、安芸国分寺に何かを寄進したとか聞いたことがなかったので、まさか現在にもこんな立派な寺院さまが残っておられたとは夢にも思いませんでした。そもそも国分寺はその後失われたところも多いわけでして、それゆえに、存在していることすら知らなかったのです。無知って恥ずかしいですね。

問題は、安芸国分寺と大内氏との関係ですが、そりゃ東西条にあり、しかも国分寺が残っていたとなったらゆかりがないはずがないです。とはいえ、「ゆかりがないはずがない」こと以外は何もわかりませんでした。現在歴史公園となっている遺構の中には、中世にも使われていたものもあったようでして、それらも含めて伽藍の整備を行なった模様です。しかし、それがどのような規模であったのか、などはわからないです。

未確認ですが、国分寺はたいてい国衙付近に建てられることが普通なので、だとしたら、東西条のあたりが古代安芸国の政治の中心だったということになります。地図を見ればわかるんですけど、東広島市って広島県のど真ん中ですよね。現在進行形で、どんどん人口も増えている地域で、これからますます発展していくと思われ。今も昔も、すごいところが直轄地だったんだなぁと。※『日本史広事典』で調べましたら、安芸国衙は府中にある(あった)そうです。ご訪問したことがなく、どのくらい離れているのか(近いのか)わかりませんが、周防国分寺のように国衙にほど近い(同じ防府市内)ではないようです。「が」、同じ山川出版社の『広島県の歴史』には、安芸国府は国分寺と同じく西条かもしれないみたいなことが書かれていました。要するに、確定できていないのではないか、と思われます。この問題、しばし保留とします。

ところで、またしても東広島市さまのホームページが手厚くて、「安芸国分寺歴史公園」のパンフレットがダウンロードできてしまいます。さらにさらに、動画や行き方案内(大量に写真付き)まで。いやはや、これほど手厚い自治体さまほかにないですよ。ただし、すべての観光資源において同様のご説明があるわけではないことが惜しまれます(多分、文化財指定ある箇所はすべて手厚いのではないでしょうか。有り難いことです。すべて拝見したわけではないので、未確認ですが)。そろそろリンク掲載ページを公開したいのですが、許可が必要な自治体さまへのご連絡がまだなので少々お待ちください。

こんな方におすすめ

  • 古代史に関心があり、国分寺跡地などあれば必ず見ます
  • 寺院巡りが好きで、とくに由緒ある名刹を好みます。文化財の仏像とか伝わっていたらなお嬉しいです

オススメ度


何のかんの言っても「跡地」がメイン。それが原っぱにしか見えないとせっかくの歴史公園も台無しに。行く人を選ぶ観光スポットであると思われます。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

畠山義豊イメージ画像
次郎

こくぶんじって寺の名前じゃないの? 安芸国にもあったとか、なに興奮してんの?

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

国分寺は全国にあったんだよ。お前らの河内国はどうなってるんだ?

畠山義豊イメージ画像
次郎

そーなの? あとで親父にどこにあるか聞いとこ。

新介通常イメージ画像
新介

どうやら今は「跡地」だけになっているようだよ。お父上の時代にはどうだったかわからないけどね。

畠山義豊イメージ画像
次郎

けっ、何なのよ。俺んちにないなんて。

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

続きを見る

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます
※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-関連史跡案内