毛利家臣となった大内氏分家のうち、今回は矢田氏を取り上げます。名字の地となった大内村矢田のほか、周防国内にほかにも領地を持っていたようですが、九州の城を預かり、分国で任務に就いていました。そのためか、周防国内に矢田氏にかかわる史料はあまり伝えられず、先生方が完全な系図を作ることが難しい一族となりました。
主・義隆とともに大寧寺に逃れなかったにもかかわらず、主の死を知って殉死するほどの忠義の家臣が出ました。それゆえにか、叛乱家臣一味とは接点がないかのごとく、殉死した父の息子は毛利元就に仕えています。大内氏の滅亡前(つまり、義長死亡時)に毛利家に仕えたのか、どこかに身を隠していたのかは不明です。
矢田氏概説
矢田氏の祖は、二十一代弘家の子・盛賢です。矢田と名乗ったことについては、二つの説があります(参照:『大内村誌』)。
一、父・弘家が矢田の地(吉敷郡矢田村)に居住し、矢田太郎と名乗っていたから
二、弘家は大和国矢田郷で生まれたから
『萩藩諸家系図』には、二の説が書かれていました。なにゆえ大和国!? と思いますが、理由は不明です。しかし、『大内村誌』では、二の説を否定しておられます。吉敷郡に「八田郷」という地名があったことは、古代から知られているためです。八田が矢田になったのは頷けるとして、大内氏の当主がいきなり大和国で生まれたというのは、二十一代にもなった時代ですと、ちょっとあり得ない感じですよね。始祖以降の古過ぎる方々については、都にいたという伝承もありますから(あくまで伝承です)、世代がとても古いとあるいはそのような伝承があったとしても分かりますが、二十一代となったらもう、周防国に根を張ってい久しい時期です。何のために大和国にいたのか、想像もつきません。
出生地の問題とは別に、矢田氏は筑前国と縁があった(後述)ために、筑前にあった「矢田」という地名を故郷にも移したという説もあるようです(参照:『大内村誌』)。何やらあれこれと、諸説ありすぎる方々です。むろん、この説も否定されています。
なお、『大内村誌』によれば、矢田氏はほかにも存在し、それぞれ全く異なる出自ですので、後世になると混同される弊害も起こったようです。
一、多々良氏の矢田氏(吉敷郡矢田村)⇒ 弘家の末子盛賢を祖する(=つまりここで話題にしているもの)
二、源姓の矢田氏 ⇒ 足利義康子・矢田義清の後胤とする
三、出自不明の矢田氏(豊浦郡西市の矢田)
四、藤原姓矢田氏(朝鮮使節団が邂逅した人物らしい)
三と四についてはおよそ、詳細も不明ですが、一と二は後世に伝わり様々な誤解や混同が生じました。矢田氏についての史料がそもそもあまり伝えられていないため、『大内村誌』でも詳説はできなかった模様です。
満弘は「同名異人」なのか?
『萩藩諸家系図』は、五代・重盛が養子とした「満弘」について、こだわっておられます。矢田家の系図には弘世の子・満弘を養子にしたとあるようです。ところが、『新撰大内氏系図』には養子の件は書かれておらず、重弘の子・満弘と弘世の子・満弘とは「同名異人」となっているそうで。実際、その通りです。普通に考えれば、同じ名前の人は大量におられます(弘直さんなど、何人もお見かけしました)。しかし、二人の満弘の息子はともに幸盛と父子ともどもに同じ名前が続いているので、二代続けて「同名異人」となると、いかにも怪しいということで。
他氏族においても同名異人はままあることで はあるが、父子、兄弟まで同名異人である例は他になく、また常識的にも考えられぬことであり、むしろ両家は何らかの関係を有したがため記憶上の誤りがあり、系図作成時において矢田氏の系に弘世の三男満弘の系が混入されたと見るのが妥当な考え方ではないだろうか。なお考える余地がある。
出典:『萩藩諸家系図』1150ページ
とはいえ、満弘・幸盛についてのそれぞれの記述はまったく異なっているため、同じ人物とは思えません。『大内村誌』には以下のようにあります。
矢田氏の満弘と、その子幸盛の続柄が、大内義弘の弟満弘と、その次男の幸盛との続柄に、非常に似通っていることなどから結びつけて考えこのような誤った系図になったのではなかろうか。
出典:『大内村誌』
これは、名前が似ていたことで、無関係な同名の満弘と義弘弟満弘が混同されてしまった、というご説です。つまり、養子でもなんでもなく、普通に義弘・弟と同じ名前の満弘という人がほかにいたという意味です。「誤った」というのは、系図に「義弘弟を養子にした」とある点なのです。
しかし、二つのご本ともどもに、矢田家系図については、何かしらの誤解や混同があり、不完全なものではなかろうか、という点では一致しております。『新撰大内氏系図』では、二人の満弘たちを何ら関連付けずに、それぞれの場所に配置しておりますので、深く考えなければ、二人いたのだな、というお話です。
義隆に殉じた後、毛利家臣に
盛賢の孫・貞致は、筑前国萩原城主となりました。以降も同城を任されていたため、出身地である大内村のほうには、史料が乏しいのではないか、『大内村誌』には、そんなことが書いてありました。しかし、史料の乏しい矢田氏の歴史の中で、はっきりと分かっている点があります。
大内義隆に仕えた矢田隆通は、家臣の叛乱が起こり、義隆が亡くなった際に殉死しているのです。主の逃避行には同道していなかったらしく、完全なる主の死を悼んでの殉死です。ともに最後の一時を過ごしたわけでもなく、事の顛末を知ってからの行いでした。これまた、忠義に篤い家臣の壮絶なる自刃です。
史料が乏しいため詳細は不明なところもありますが、隆通後の矢田氏は、叛乱家臣一味に与することはないまま、毛利元就に仕えました。ただし、その後浪々の身になるといった出来事もあり、最終的に毛利家臣に落ち着いたのは輝元の代になってからのことです。
『新撰大内氏系図』全コメント
矢田氏の系図部分は、やたらにすっきりとまとまっています。数字は『大内村誌』にあった系図と照らし合わせて家督が動いた順番に付けたものですが、当主となった方々だけがずらっと並んでいることがわかります。子女がまったく展開されていないのです。この家系は代々子宝に恵まれない人ばかりであった、とも考えにくいですから、不完全なのでしょう。
①成賢 金寿丸、蔵人大夫
②盛師 兵部三郎
③貞致 助三郎、筑前萩原城主
④弘茂 太郎四郎
⑤重盛 備中守、依無一子以満弘為養子
⑥満弘 三郎左衛門尉、大蔵左衛門尉、法名天泉寺殿浄林大禅定門
⑦幸盛 采殿、宮内少輔、摂津守、明徳二年正月内野合戦依忠節賜防州吉敷郡七房村問田村矢田村小佐波村合本地三千四貫(明徳二ハ三ノ誤)
⑧家弘 宮内少輔、代々筑州萩原城預ル
⑨盛通 孫太郎、母鷲頭弘宗女
⑩重護 四郎左衛門尉、豊後守、母杉久左衛門盛重女
⑪高護 備中守
⑫盛澄 孫十郎、豊前守
⑬保通 四郎太郎、備前守、備前入道
⑭義宣 助三郎、治部丞、大蔵左衛門尉、天文七年於山口生害
⑮隆通 内蔵助、内蔵大夫、天文廿年九月十三日為義隆於防州黒川切腹卅歳
有名人(大内氏時代の人限定)
『大内氏実録』には、矢田氏の方の「伝」がありません。『萩藩諸家系図』、『大内村誌』ともに、内容はほぼ、系図に書かれていることと同じです。系図に混同や誤りが多い、史料が乏しいといった論考が主です。記事にするには、まったくボリュームが足りませんが、名前だけ拾い出しておきます。
矢田成賢
二十一代・大内弘家の末子。金寿丸。矢田氏の祖
矢田貞致
成賢の孫。筑前国萩原城主となった。
矢田満弘
「貞致の孫・重盛には跡継がなく、弘世の子・満弘を養子とした」とする系図があり混乱を招いているが、『新撰大内氏系図』では、この満弘と弘世の子(義弘の弟)・満弘は同名の別人として扱っている。恐らくは、『新撰大内氏系図』にある通り、両者は偶然にも名前が似ていただけの別人であろう。両満弘の子はともに幸盛といい、同じ名前が二代にわたって続いていることから、さらなる混同を招いたと見受けられる。『大内村誌』は、両者を名前が似通っていたゆえにの混同ととらえ、『萩藩諸家系図』も、基本は同じご意見だが、同姓同名も二代連続するとは考えにくいとして、さらによく検討すべきであるとしている。
矢田幸盛
摂津守。「内野合戦」(いわゆる明徳の乱での山名氏との戦闘)で手柄をたて、その論功行賞として、吉敷郡七房村・問田村・矢田村・小佐波村の四ヶ村を賜わる。本領と合せて「三千四百貫」となった。幸盛の子・宮内少輔家弘は、筑前萩原の城を任される。矢田家代々は九州に滞在し、任務についていたと考えられる。
・子孫太郎盛通は、永享四年(1432)二月十四日、筑前深江で討死
・盛通六代孫・治部丞義宣は筑前守護代
矢田隆通
内蔵大夫 、甲斐守。義隆代の人。天文二十年(1551)、陶らの叛乱で義隆が亡くなると、九月十三日、吉敷郡黒川村で切腹し、義隆に殉死した。三十三歳という。熊毛郡波野村宗禅寺の大内矢田家世牌写に、「前筑前萩原城主矢田甲斐守多々良朝臣隆通」とある(参照:『大内村誌』)。
※『新撰大内氏系図』はこれ以降断絶している。
矢田隆直
隆通の子。毛利元就に仕え、元直と改名。天正十九年(1591)に四十九歳で亡くなった。隆直の子・土佐守元行は浪人となり、備後に住んでいたが(なぜ浪々の身となったものか不明)、のちに元就に仕えた。元行の子・甲斐守就定は毛利輝元に仕え、安芸国に移住。慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦いで討死。 子孫はその後も毛利家に仕えた。
参照文献:『萩藩諸家系図』、『大内村誌』、『新撰大内氏系図』
トロい殿さまのために殉死って……。
戦死とは違った意味で、忠義の究極のかたちだな……。子孫が毛利家に仕えたことは……
ん? 毛利家に仕えた? 矢田家の者は、わしを裏切ったと!?
いいえ。話せば長くなりますので、出て来ないでください。
トロいとは、いかなる意味か、気になったのでな。こう見えて、歴代でも稀な好学の士と言われておる。んんん? 毛利家の旗印など持って何をしている!?
……。
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大内宗家から分家した一族
「大内」以外の名字の地を名乗って分家していった多々良氏の人たち。滅亡後毛利家に仕え今に続く人、宗家と運命をともにした人色々。
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人物説明
大内氏の人々、何かしらゆかりのある人々について書いた記事を一覧表にしました。人物関連の記事へのリンクはすべてここに置いてあります。
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