道端にそっと佇む町中のお堂。そんな場所にも多くの歴史が紡がれています。ただし、案内看板などもなく、地元の方々でも、いつからそこにあったのか、どんな御由緒を持っているのか、はっきりしないことも。それでも、心惹かれるのがそのような小祠やお堂です。今回は、大野にある観音堂についてご紹介します。こちらはきちんとした御由緒を伝えておられます。この記事が、皆さまのお役に立てたならば幸いです。(訪問回数1回)
広島県廿日市市塩屋の鯛山観音堂とは?
元は鯛山にあった、法華経石塔の経堂です。厳島合戦の前、吉川元春の率いた軍勢が門山城を破壊した際に、城に詰めていた兵士らと戦闘になりました。この戦闘で犠牲になったとされる両軍の兵士を弔うため、千人塚を造り、観音像を安置しました。しかし、近代化の波により、鯛山が崩されてしまい、この場所に移転されたものです。
※正式名称は単に「観音堂」とお呼びする模様ですが(現地案内看板が『観音堂』となっています)、ほかの観音堂と区別するために、「鯛山」をつけております。
鯛山観音堂・基本情報
所在地 〒739-0445 廿日市市塩屋 1ー3−15
(参照:現地案内看板、所在地は Googlemap)
元鯛山にあった法華経石塔の経堂、観音堂と千人塚(供養塔)がある
鯛山観音堂・歴史と概観
厳島合戦関連史跡としての千人塚
厳島合戦の際、毛利軍は大内(陶)方に海路厳島に向かって欲しいと望んでいました。狭い島の中に、大軍を誘導し、奇襲をかけることで、兵力差で劣る状況でも勝利を得られるとの考えによります。というようなことが、中世以降、ずっと語られてきました。
最新の研究では、さまざまなことが最新情報に書き換えられたりしており、上述の作戦についても軍記物曰くの世界になってしまっているかもしれません。とはいえ、敵方の拠点をあらかじめ破壊しておくことは、いかなる合戦においても重要です。その意味で、毛利軍が陸路の要衝であった門山城を、事前に破壊した行為は当然のことです。その意味では、門山城も厳島合戦の関連史跡のひとつと言えます。
なぜなら、この破壊工作の際、城に詰めていた大内(陶)方の兵と、吉川勢との間に戦闘があったからです。この時点で、大内(陶)方が、どれほどの兵力を配置していたかなどは調べがついていません(執筆者が、という意味です)が、毛利軍の事前対策が実に優れていたこと、恐らくは軍記物曰くのあれこれの手段を講じなくとも、大内(陶)方は陸路からの進軍を重視していなかったのではないかと思われること(個人的見解です)などから、さほどの大軍がいたとは思えません。
それでもやはり、見張り程度の人員配置はあったはずで(そうでなくては、城としての存在意義がありません)、吉川勢に攻め込まれた城方の兵との間で、戦闘が行なわれました。恐らく、城番側は壊滅したと思われ、後は吉川勢が、城を徹底的に破壊しました。敵味方双方で、数千人の犠牲者が出たといわれていますので、かなりの規模の戦闘だったかと思われます。
かくして、犠牲者双方の霊を弔うため、千人塚が造られました。
門山城祈願寺による大供養
千人塚を造り、犠牲者の供養を行なってくださったのは、門山城の祈願寺・護安寺最後のご住職、覚玄阿闍梨という方です。同阿闍梨の発願により、観音像を造り安置なさったといいます。その際に、地元の方々が小石を運んで積み上げ、皆で経文を書いて埋めたそうです。そして、大供養が営まれました。
戦死者の供養というものは、大概において、このような地元の方々の優しさによって営まれることが多いように感じます。合戦当事者がその場に居残って、犠牲者を弔っていくようなケースは聞いたことがありません。それどころではないですからね。経文を墨書してくださった地元の方々には頭が下がります。本当にありがとうございました。戦死者たちの御霊も皆さまのお心遣いによって、成仏できたことと思います。
鯛山の消滅と現在地への移転
千人塚、法華経石塔、稲荷神社などがあった鯛山は、地元の方々の信仰を受ける場所だったと推測します。しかし、近代になって、都市開発が進み、鯛山は崩されてしまいます。少し前までは、名残のような部分もあったようですが、現在は完全に消滅しております。
鯛山を崩して、都市開発を行なう際、山にあった千人塚や神社、観音堂などは現在地に遷されました。移転前と後とで、多少姿を変えた部分もあったかと思われますが、今も往時の供養塔や観音像にお参りすることは可能です。むしろ、現在地のほうが、門山城には近いような気もします。
寺社が場所を移転することも珍しくはありません。こちらもそのひとつです。所在地はかわっても、皆さまの信仰はかわりません。その意味で、とても意義深い場所です。
鯛山観音堂・みどころ
観音堂と、その脇に整然と並ぶ供養塔の数に驚かされます。厳島合戦の関連史跡を回っている方や、大野の歴史に関心をもっておられる方にとっては極めて重要な場所です。
観音堂
こちらが移転された堂宇です。向かって右側に供養塔が見えています。お堂の中に、観音堂の由来が見事な筆書きで記された御由緒説明文がございます。また、移転前のお姿を撮影した写真などもありました。
千人塚(供養塔)
供養塔はどう見ても真新しく、昭和時代の移転時に新たに造られたのではないかな、と感じます。恐らく、最初に造られた塚の下には、犠牲者が眠っていたと思われ、その意味ではこの下には何もないということになろうかと。大切なのは、供養する気持ちですので、装いも新たになった場所で祈りを捧げればよいと思います。
なにぶんにも千人塚。供養塔の数もすごいことになっており、圧巻です。千あるのかどうかは、数えきれませんでしたが。
鯛山観音堂(廿日市市塩屋)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒739-0445 廿日市市塩屋 1ー3−15
(※Googlemap にあった住所です)
アクセス
最寄り駅は大野浦です。門山城跡に登頂したのち、帰り道にありました。城跡はどうでもいいという方は、ナビゲーション起動で向かってください。城跡じたい、大野浦から歩けますので、徒歩圏内と思われます。
参照文献:現地案内看板
鯛山観音堂(廿日市市塩屋)について:まとめ & 感想
鯛山観音堂(廿日市市塩屋)・まとめ
- 厳島合戦の前、吉川勢が門山城を襲撃し、使えない状態に破壊した。その際、城に詰めていた大内方の兵と戦闘になり、双方で数千を超える犠牲者を出した(人数典拠:現地案内看板)。
- 戦闘の犠牲者を弔うために、千人塚が築かれ、門山城祈願寺・護安寺最後の住職覚玄阿闍梨によって観音像が安置され、大供養が行なわれたという
- その際、地元の方々が、経文を墨書し、その下に埋めたと伝えられている
- 千人塚や観音像は長らく、鯛山にあった。法華経石塔や稲荷神社に参詣する人も少なくなかった。しかし、近代化の波で、鯛山は崩されていき、やがては完全に消滅した
- 今ある観音堂は、稲荷神社とともに、鯛山から移されて来たものとなる
大好きな門山城が目茶苦茶に破壊されてしまい、城として使えない状態にされたことは、何とも悲しい出来事として、ずっと心の中に重くのしかかっています。とはいえ、これも勢力対勢力の衝突(=合戦)の中では、仕方のないことです。もっと防御を完全にして、吉川勢など追い払ってしまえるだけの力がなかった時点で、何となく、もう終わっていたようにも感じます。
それはそうと、千人塚までちゃんとあり、大供養まで行なわれていたという事実には胸が熱くなりました。ところが、ここでまた、元あった山が崩されてしまって、移転されているという。このような事例にも、すでに数限りなく遭遇して参りましたので、今は特に嘆き悲しむでもありません。それよりも、新しい場所に遷してくださり、大切に守り伝えてくださっている地元の皆さまへの感謝の思いでいっぱいです。
それにしても、ひとりで門山城に登頂した際には、これらの貴重な遺跡について、完全に見落としておりました。地元の方にご案内いただくということの大切さをまたしても思い知らされた次第です。ご教授ありがとうございました。
こんな方におすすめ
- 厳島合戦関連史跡を回っている方に
- 町中のお堂などに参詣しながら町歩きをするのがお好みの方に
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
門山城が壊された時、やはり必死で守ろうとした兵たちはいたのだね。千人もの犠牲者が出たということは、敵方を含むとは言っても、かなりの数だよね。
まあ、千人塚=千人とも言えないけど。案内看板によれば、数千人となっているから、凄まじい数だね。吉川勢が断然優勢だったと思われるので、城内の方は恐らく……。
ふふん。元就公の作戦は常に完璧である。それを見事に遂行したご子息方も……
お前って、空気読めないの極地だね。しんみりと会話してるのに。ここでは出て来ないでくれよ。できれば、ほかも含めてだけど。
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