陶弘政

五郎イメージ画像

陶弘政とは?

大内宗家の分家・右田氏からさらに分出した陶氏の二代当主です。だいたい南北朝期頃の人であり、宗家の弘世代に活躍した人です。陶氏は名前の通り「陶」の地を領有しており、名字の地となっていました。弘世は鷲頭氏と対立状態にあり、弘政を陶から富田の地に移しました。鷲頭氏の領地により近い場所に、有能な身内を配置したところに、弘世から弘政に対する信頼の高さが見て取れます。弘政は弘世の期待に応えて活躍し、その後も、弘世・義弘父子の数々の戦に従軍して功績をあげました。

その後、陶氏の本拠地は滅亡に至るまで、ずっと富田の地でした。本拠地の基礎を作ったのは弘政であり、また、大内氏重臣として重用される最初となったのもこの人からです。

陶弘政・基本データ

生没年 不詳
父 陶弘賢
兄弟 弘綱(弟)ほか
子 弘長
呼称 五郎
官職等 越前権守、越前守、富田保地頭職
法名 春林道栄
(参照:『新撰大内氏系図』ほか)

略年表

南北朝期・正平年間(1346~1370) 正護寺を創建
文和元年(1352) 領地替えによって富田保に移る
同年 弘世の鷲頭氏攻めに参陣、活躍する
・この頃、勝栄寺、海印寺などが建立される
・その後も、子息・弘長とともに、宗家・弘世、義弘父子に従軍し、数々の合戦で活躍した

大内氏重臣の家としての礎

陶から富田保へ

陶村(現在の山口市陶)を采邑としていた陶一族が、富田保に移ったのは、弘政期。これ以降、陶氏の本拠地はずっと、富田保であり続けますが、最初に入部したのが弘政代であったという点は重要です。

弘政期は、陶の地から、富田の地に移るという過程があったため、陶の地で活動していた時期もありました。現在、山口市の陶にある正護寺は、弘政が開基の寺院です。⇒ 関連記事:正護寺

富田保に移った弘政は、海に近い(富田津、古市港)場所に、勝栄寺という寺院を建立。この寺院は現在も存続しており、勝栄寺の土塁と呼ばれる中世の土塁跡が有名です。中世の寺院には、防御的機能を備えていたものが多く、いざという時に楯籠もる場所としての性格がありました。むろん、すべてにおいてそうではないのですが、この寺院においてはそれが顕著です。

鷲頭氏への備え

弘政の領地替えは、弘世による鷲頭氏への備えであったと考えられています。数多くある諸氏家の中で、とりたてて弘政が選ばれたのは、弘世からの信頼が高かった証拠でしょう。弘政もその期待に応え、鷲頭氏との戦いで奮戦します。弘政らの活躍もあり、鷲頭氏を倒した弘世は惣領家としての地位を安定させ、周防国の平定、ついで、長門国も支配下に入れていくことになります。その先々で、弘政が常に傍らにあり、多くの功績をあげたであろうことは、想像に難くありません。

弘政の富田保入部が、来たるべき鷲頭氏との戦いに備えてのものだとすると、早急に拠点を築く必要があり、まず最初に整備されたのが、勝栄寺だったというわけです。開基は弘政ですが、元々地元の豪族などが築いていた屋敷を再利用したというご説もあります。⇒ 関連記事:勝栄寺

本拠地の整備

富田保に移った最初の人として、その事業は根拠地の開拓から始まりました。現在は跡形もなくなっておりますが、陶氏の居館、遠尾山城などの山城は、弘政によって作られたと考えられています。代を経るにつれ、より規模も大きく立派なものになっていったのは、当然であり、特に城についてはずっと後の時代、弘護期に若山城が築かれたとされています。ただ、いつまでも勝栄寺という寺院を防御の要にしていたとは思えず、居城の雛形も築かれていたと考えるのが普通です。若山城も最初に築城したのは弘政だったとするご説もあるようです。⇒ 関連記事:陶氏館跡

その後、陶氏は長きに渡って大内宗家の重臣を務めることになりますが、その最初の一歩はこの人・弘政からでした。これこそが最大の事蹟であり、その後の陶一族、ひいては大内宗家の発展に大きな影響を与えました。

菩提寺・墓所と子孫

関連寺院

弘政は、父・弘賢の菩提寺として海印寺を建立しています。また、陶の地にも、陶氏の祈願所として正護寺を建立。開基として、石塔が残っています。ただ、ここが菩提寺だと明記している史料を見たことがありませんので、断定は避けます。加えて、前述のように、勝栄寺も建立しています。

子孫

弘政の跡は、子息の・弘長が継ぎますが、実子なくして亡くなったため、その後は弘政の兄弟、弘綱の子に家督がいきます。系図上は弘政には弘長以外にも名前も不詳の息子が五名もいました。うち二名は出家しています。弘長死後にそれらの息子たち(弘長兄弟)ではなく、従兄弟(弘政甥)が相続した経緯については不明です。あくまで系図上ですが、弘政嫡流としては、子息・弘長一代で断絶と見えます。

まとめ

  1. 陶村を知行し、陶と名乗った右田氏の分家・陶氏の二代目
  2. 鷲頭氏と抗争中だった大内宗家・弘世の命により、鷲頭氏への備えとして都濃郡富田保に移住。富田保はこれ以降、陶氏の根拠地として発展した
  3. 富田保に入部した弘政は、まず、防御的機能も備えた寺院として勝栄寺を整備。これは、元々在地の豪族屋敷であったともいわれる。寺院は現在も存続しており、中世の土塁跡も一部遺されている
  4. 弘政は弘世と鷲頭氏の戦いで活躍。その後も、弘世・義弘父子に従軍し、数々の功績をあげたとかんがえられる。これらのことから、のちに、陶氏が大内家中で重きをなす一族となる基礎ができた
  5. 弘政は新たな根拠地となった富田保を整備。居館や、山城などの施設が揃った
  6. 陶村時代、弘政は祈願所として、正護寺を建立。また、富田では、父・弘賢の菩提寺として海印寺の開基となった
  7. 富田が根拠地となったことで、「富田」と名乗ったことを記している史料もあるが、一時的なものだったらしい。最初の姓氏「陶」に愛着があったのか、一族の歴史は、その後も「陶氏」として綴られていく

参考文献:『大内氏史研究』、『大内氏実録』、『陶村史』、『中世周防国と陶氏』

雑感(個人的感想)

名字の地を名乗りとするというのは、武家のルールのようになっています。けれども、よく調べてみると、母方の姓を名乗るだとか、ほかにも色々な名乗りがあるのです。陶氏の人々は、富田に移った後、やはりそこを名字の地として「富田」とも名乗ったようです。わずかばかり、そのような史料もあるとか。ですので、「富田 ○○ 」というどなたかわからないお名前があったら、陶一族の方である可能性があります。

けれども、この名乗りは定着しなかったようです。ご存じのように、最後のお一人に至るまで、ずっと「陶」を名乗っておられたからです。別に名字の地にこだわる必要もないわけですし、引っ越すたびに名乗りを変えていたら、後世の人は混乱します。弘政には、「陶」という響きに愛着があり、捨てがたかったのでしょうか。陶氏が、陶の地を本拠地としていたのは、右田氏から分家した始祖・弘賢(弘政の父)と弘政の二代限りです。そう考えると、本当にわずかな期間でしかありませんでした。もし、富田への移転で以後は富田さんになってしまっていたならば、陶という姓はそこで断絶したことになります。

富田の方々からしたら、なんで陶のままなの? となるかも知れません。でも、姓がなんであろうと地元のお殿さまとして慕われていたことは事実です。加えて、「陶」の名乗りのまま、その後も活躍し続けたおかげで、元の根拠地陶の方々からも慕われ続けています。意図してそうなったものかは不明ですが、二箇所もの元根拠地の方々から、今に至るまで慕われているというのはいい話だな、と思います。

『陶村史』にはその辺りの考察があって、とても興味深いです。やはり、陶という名前で有名になった上は、改姓しないほうがいいと考えたとか、そんな内容だったように記憶しています。いちおう富田も試してみたらしき痕跡があるのですが、皆さんあまりピンときてくれなかったんでしょうか。『陶村史』を拝読したのも遙かに昔となってしまいましたので、再読して、この記事にも重みをつけていきたいと思っています。

ただいかんせん、あまり史料もないですね。主の活躍の中に、名前が出てくるくらいしか。

五郎

ふーん。確かに、引っ越すたびに名前変る人いるよね。俺も、なんで陶っていうのかなぁと自らの姓ながら悩んだ。

ミル

陶という響きがたまらなくいいの。そんなこと言うと、富田の皆さまに失礼にあたるけど……。やはり、陶で売り出した以上、もはや変えられなかったというのが真相なんだろうね。弘政さまには故郷の記憶が残っていただろうけど、後の人々は生まれついてから富田なわけで。

五郎

そうだよ。俺も正護寺に行ったのは、ミルとが最初。ここが名字の地だったのかーって、感動した。

ミル

(いや、行ってたでしょ、多分。本家みたいに、歴代墓掃除の掟書があったかは知らないけど)

【更新履歴】20260318 加筆修正

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