広島県廿日市市宮内の「桝井ドーフィンの碑」とは?
「桝井ドーフィン」とは日本で栽培されているイチジクのほぼ80%を占めている品種です。この桝井ドーフィンの産みの親とも言える桝井光次郎氏は、宮内出身の方で、「桝井農場」を経営されていました。たいへん惜しいことに、現在農場は閉鎖されてしまいましたが、桝井氏の功績を称え、「桝井ドーフィンの碑」が建てられており、宮内町歩きでは必ずご案内される場所となっています。
石碑ひとつが観光資源なの!? と不審に思われる方もおられるかも知れません。でも、桝井氏の功績はそれほどに大きく、今も地元の方々に深く敬愛されているのです。それゆえに、記念碑を拝見しながら桝井氏のお人柄や様々な逸話を聞くことはとても意義のあることです。
ひとりぼっちの町歩きでは、数々の逸話を聞くことはできません。観光協会さまの町歩きツアーに申し込み、ガイドさんのご案内を拝聴することが必須です。しかし、碑文の脇に、これ以上ないくらいの名文で、余すことなく桝井氏の功績を書き留めた説明文の碑もございますので、それを頼りにすれば、ひとりで見学することも可能です。
「桝井ドーフィンの碑」・基本情報
所在地 〒738-0034 廿日市市宮内 309−3
※Googlemap にあった、「桝井農場」の住所です。「閉業」という悲しい二文字が注記されています。後述の満州豆梨の木や桝井ドーフィンの石碑は当然、農場跡地に安置されているだろうとの思いから上記の住所を記しておりますが、map で「石碑」を検索しても出てきませんので、もし別の場所にあった場合はすみません。
また、本文中でも農場跡地にあるものとして記述しています。現在はほかの事業を展開なさっておられるようで、農場跡地のような史跡があるわけではございません。ご了承ください。
桝井ドーフィンと桝井光次郎氏
さまざまなアイディアを思いつく天才
桝井ドーフィンの碑があるかつての桝井農場の手前に、「満州豆梨の木」という樹木が植えられています。「桝井農場」という大きな看板もありますので、見落とすことはないと思われます。一見したところ、どこにでもある普通の木なのですが、近付いてよく見てみると、小さな実をたくさんつけています。
春には綺麗な白い花が咲きます。そして、この小さな実(緑枠内です)は、食べることができます。ただし、食用に栽培されている木というわけではない模様。甘みはなく、酸っぱいそうです。なにゆえ、この木がここに植えられているのか、それは、桝井農場の農場主だった、桝井光次郎氏と関係があります。
桝井さんはアメリカに渡り、カリフォルニアの農園を手伝っていました。そして、日本に帰国する際、餞別としてイチジクの枝を三本もらいます。わずかに三本の枝でしたが、うち一本が奇蹟的に根付きました。これが、現在「桝井ドーフィン」と呼ばれ、日本で栽培されているイチジクのうち八割を占めている代表的な品種です(後述)。
さて、桝井さんは、品種改良により、この「満州豆梨」になる小さな実を、大きな実にしようとお考えになったそうです。つまりこの、豆梨の「実がたくさんなる」という特徴を活かして、多くの実がなる梨の木を作ろうとなさったんです。
美味しい梨が大量になる魔法の木が誕生したら、まさに快挙でしたが、残念ながらこの品種改良は上手くいかなかったようです。
ちなみに、ガイドさんから現物を見せていただきましたが、今は当たり前になっている宣伝用の広告。そのカラー印刷されたものを最初に導入したのも桝井さんだったそうです。現在もご存命なら、きっといち早くネットを使った販売などに進出していかれたのではなかろうか、と思いました。
目標に向かってひたむきに努力する人
桝井さんはもともと薔薇の花の美しさに魅了されていたらしく、日本で販売を始めたのですが、あまり売れなかったそうです。そこで、イチジクのほうを販売してみたところ売れました。なので、イチジクを全国に売り歩こうと決めたのでした。
先ずは近場から、自転車で売って歩き、次第に範囲を広げて、車、汽車を使って遠方でも販売しました。販売するのはイチジクの苗木です。当時の日本にあったイチジクより三倍ほど大きく、甘くて美味しかったので、大好評でした。
一昔前の成功物語には、最初はリヤカーを引いて夫婦二人で売り歩いていたのが起源、などというお話がたくさんありましたが、まさにその通りですね。自らの足だけを頼りに、一軒一軒農家を回ってイチジクを販売したのです。イマドキの若者なら、メンドーだからやめる、とかすぐに根を上げそうですが(同じくです)。
桝井さんの販売方法は苗木で提供すること。ほかに、キウイの苗木も販売しましたが、これもこの農園が最初のことでした。
やがて、購入したイチジクを栽培し、自らも販売するような人々も現われました(この辺、特許とかどうなっているんだろう、って思うんですけど……。そもそも、苗木ごと売っておられる時点で、自らの儲けにはこだわっておられないことがわかりますよね。買い手が苗木を植え付けることができたら、その果実は買い手の売り放題となるわけで)。そんなわけで、桝井ドーフィンはあっと言う間に全国に広まったようです。
多くの人々に美味しいイチジクを味わって欲しいという桝井さんの思いは実を結びました。
桝井さんが亡くなられた後、その思いはご子息にも受け継がれていきました。昨今の経済的事情から、苗木の販売だけでは経営がなりたたなくなってしまわれたようで、現在は農場のお仕事はなさっておられぬようです。ちょっと寂しい結末でした。
桝井ドーフィンの碑は二箇所ある
ちなみにですが、桝井ドーフィンの碑は二箇所ございます。もう一箇所は、桝井さんの墓所があるところでして、北山黄幡社の背後辺りだそうです。黄幡社には参詣したのですが、石碑と墓所には気付かなかったため、次回現地で確認してから、情報を補足します。
桝井ドーフィンの碑・みどころ
みどころといっても、石碑があるだけです。石碑は故人の業績を称えるためのものですから、素直に一礼して、おとなりにある解説文を拝読しましょう。
満州豆梨
これが目印になっている看板です。この写真からだとよく分りませんが……。豆梨の木は下の写真のように大きくて立派なんです。
甘くて美味しい梨の実が大量になったら……想像しただけですごいことだよね。まさに魔法の木だよ!
何度も試行錯誤を繰り返されたんだと思うけど、成功しなくて残念だったね……。
挑戦することに意義があるんだよ。これも梨の実を味わう皆のためを思ってのこと。立派な方だよ。
そうだね。たくさん実がなれば、大量に売れて大金持ち、とかそういう発想はなかったかと。魔法の梨の木も、どんどん苗木で販売してほかの農家の人を儲けさせちゃったかも。お人柄が溢れてる。いいお話だね。
桝井ドーフィンの碑
帰宅後、写真を拝見していたら、広島県知事と書かれていました。もはや、宮内村だけの偉人ではなく、広島県を代表する方になっておられたんですね。でも、宮内からそのような方が出た、という意味では地元の方の誇りです。
「いちじく 桝井ドーフィンの由来
初代桝井農場主、桝井光次郎は、明治13年、ここ広島県佐伯郡宮内村に生れた。光次郎は、当時、まだ日本では珍しかったバラの美しさにひかれ、24才の時、単身渡米、カリフォルニアに於て、 育苗と品種改良を学んだ。
5年後、技術の習得をおえ、200余種のバラ苗を持って帰国し たが、渡米時の友人・フランス籍のH・ホフマン氏の勧めにより、 いちじくの枝3本をも一緒に持って帰った。
帰国後、光次郎はこのいちじくの挿木を育てたが、これはまだ日本には見られない、美味で、しかも優秀な大果であることを知り、この品種名の鑑定を農商務省に依頼、「ドーフィン 」であることが判明したが、これに似た品種に、「ビオレードーフィン」のあることから、これに桝井の名を冠して、「桝井ドーフィン」とし、ここに新しい品種名のいちじくが生れた。
その後、光次郎は生涯を通して、この新品種の全国への普及を決意し、ホルマリンに漬けた果実見本を携えて、自ら自転車で各地を巡回した。こわれやすい果実見本をでこぼこ道の振動から守るため、 瓶を首から下げて自転車にまたがったと伝えている。
昭和25年、光次郎は死去したが、桝井晃、治の兄弟は、父の遺志をつぎ、この品種の普及につとめ、その結果、現在では、この 「桝井ドーフィン」は、全国いちじく栽培総面積約1200ヘクタール のうち約90%、1、100ヘクタールの栽培を見るに至り、まさに日本 一の品種を誇るに到っている。
思うに、もしH・ホフマン氏と光次郎の出合いがなく、また、持ち帰った挿木の成功がなかったとすると、日本のいちじく栽培は恐らく現在の盛況とは大いに異なっていたことは確かである。それだけに光次郎の育成した本種が当地宮内から誕生したことは、桝井農場の誇りであり、これを記念してその由来を彫しここに碑を建立するものである。
昭和62年9月吉日
広島県佐伯郡廿日市町宮内
有限会社 神井農場
桝井晃
桝井治
桝井治書」
(説明プレート解説文)
桝井ドーフィンの碑(廿日市市宮内)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒738-0034 廿日市市宮内 309−3
※Googlemap にあった「桝井農場」の住所です。現在、残念ながら農場のお仕事はなさっておられません。map には「閉業」とあります。なお、「桝井ドーフィンの碑」では map に出て来ないため、農場の住所を載せています。普通に考えて、石碑は元農場のあった場所にあると思われますが、別の場所であった場合は、たいへん申し訳ありません。
アクセス
最寄り駅は宮内串戸です。Googlemap に載っていないため、ナビゲーションが使えないのが致命的です。map に「桝井農場」がありますので、そこに記念碑もあることを祈りましょう。歩いて行った感想としては、駅からそう遠くなかった印象です(感じ方には個人差があります)。
参照文献:観光協会さまパンフレット、ガイドさんのご案内、現地案内看板
桝井ドーフィンの碑(廿日市市宮内)について:まとめ & 感想
桝井ドーフィンの碑(廿日市市宮内)・まとめ
- 現在日本で栽培されているイチジクの80%ほどは、「桝井ドーフィン」といわれる品種である。その「桝井ドーフィン」の産みの親ともいうべき方が、桝井光次郎氏
- 桝井氏は宮内の出身であることから、同氏の功績を称えて記念碑が作られた
- 「桝井ドーフィン」の誕生は、桝井氏がアメリカから持ち帰ったわずかに三本の挿木のうちの一本が根付いたことから始まる
- 桝井氏はそのイチジクの苗木を自らの足でほうぼうに販売して回り、やがて全国に広まっていった
- キウイの苗木を販売したのも桝井氏の農場が最初。また、カラー印刷の広告を考案した最初の人も桝井氏
- 多くの業績を残した桝井氏は宮内が誇る人物として語り継がれている
- 残念ながら、現在、ご子孫は農場のお仕事からは撤退してしまわれたが、いまも「桝井農場」の名はよく知られている
亡き祖母はイチジクが大好物でした。イチジクといえば美容にもいいと聞きますし、お好みの女性は多いのでは? 母がイチジクが好きではないという理由で、我が家の食卓では見かけたことがない果物でしたが、美容のためにドライフルーツのイチジクを食べまくっていた時期があります。その時の品種が「桝井ドーフィン」だったかはわかりませんが、ドライフルーツはほぼほぼ海外のものが多いので、残念ながら違っていたかな。
それにしても、日本のイチジクの八割を占める品種が、宮内から全国に広まっていったなんて驚きです。どこの地方にも何かしらそのようなお話は伝わっていると思うものの、果物の研究のために宮内に来ていたわけではなかったので。このような貴重なお話はガイドさんとご一緒の町歩きでないと味わえませんね。たまたま前を通りかかったとしても(満州豆梨は道なりにあるので、偶然に通りかかる可能性大有りです)、どこかの農場の宣伝だろうと通り過ぎてしまうところだったかと。石碑はかなり大きいので、何だろう? と近付いて観察することは考えられますが。
今は苗木の販売だけでは経営が成り立たないので、ほかの事業に転向なさったようなお話をききました。それ以上のことはわかりません。ガイドさんからお伺したお話がすべてなので、石碑の解説文は丁寧に拝読しなかったのですが、これを書くために拝見したところ、これまたすごい感動物語になっていました。今も農場が続いていたらな、とちょっとだけ寂しい気分です。
こんな方におすすめ
- イチジクが好きな人
- 郷土の偉人物語に惹かれる人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
イチジクが好きな人にオススメって何? またしてもネタ切れだね。
いや、イチジクに限らず、好みの食べ物がなぜ今君の口に入るのかを知ることは大切だと思うよ。
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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