広島県廿日市市宮内の折敷畑古戦場跡とは?
主君・大内義隆を死に追いやり、事実上、大内家の実権を掌中に収めた陶入道でしたが、その強引なやり方に賛同できずに困っていた人々も数多くいました。これは想定内のことですから、クーデターに際して、毛利家に手助けを求め、安芸国方面の反対勢力を抑えてもらいます。毛利家にとっても、反対勢力を倒した後は、彼らの城が手に入るため、互いに美味しい話でした。
ところが、これをきっかけに、毛利家の安芸国での勢力は肥大化。危機感を覚えた大内方は、当初の約束に背き、毛利家が落とした城を彼らに任せないなどしたため、両者は遂に決別するに至ります。我が道を行くことに決めた毛利家は、電光石火で大内(陶)方の城をも次々に制圧。驚いた陶入道は毛利家の勢いを止めようと、宮川甲斐守を派遣して、毛利家を駆逐させようとします。
しかし、悲しい哉、宮川軍は毛利軍の敵ではなく、完膚なきまでに叩きのめされてしまいます。両軍が衝突したのが、ここ、折敷畑山でしたので、この合戦を「折敷畑の戦い」と呼びます。
折敷畑古戦場跡・基本情報
所在地 〒738-0034 広島県廿日市市
※Googlemap にあった住所です(山なので住所不明のようです)
折敷畑古戦場跡・歴史と概観
廿日市 20 名山
折敷畑山は「廿日市20名山」にも選ばれている山です。宮川甲斐守腹切岩の付近に登山道入口があり、その付近から見た山の姿がとても美しく、周囲の光景も心洗われる風情です。しかしながら、現在はこちらの登山道入口はあまり整備されていないらしく、住宅地の中から登っていく登山道が推奨されています(アクセスご参照ください)。
案内看板もご覧の通りで、かなり経年劣化が進んでおります。ただし、山のお姿はやはり住宅地より、中国山地の懐から仰ぎ見ていただきたいので、宮川甲斐守の岩を見るついでに古い登山道入り口看板付近から、山の全景をご覧ください(見たのですが、写真撮り忘れです、泣)。⇒ 関連記事:宮川甲斐守腹切岩
防芸引き分け
陶晴賢が大内義隆を死に至らしめた政変で、毛利家の果たした役割については、様々な研究書で言及されています。どれも同じようなことが書いてあり、どの本のどこに何が、というのは忘れてしまいました。それらはおいおい整理して、きちんと典拠をあげたいと思いますが、今は「通説」としてお読みください。
大内義隆が、命まで奪われなければならないほどの悪政を行なっていたかどうかという議論はここでは置いておいて、叛乱家臣たちの行動が成功したのにはいくつか要因があります。恐らくは、彼らのしたこと(主君を死なせた)には驚いたものの、多くの家臣たちにとって、義隆はけっして名君とは呼べない人物であったことだけは確かだと思います。ほとんどの家臣たちは「見て見ぬふり」をしたわけで、面と向かって彼らを不忠者と罵ったのは数えるくらいです。むろん、保身のために本心を隠していた人も多かったとは思いますが。
とはいえ、義隆恩顧の家臣などは、主の死を悼み、叛乱者たちに抵抗しました。そのような「反対意見」の人たちを味方につけることは不可能ですから、大粛清が行なわれることになります。大内家は大国ですので、支配領国も広大。あちらこちらで叛旗を翻しているそれらの人々を、一つ一つ潰していくのは並大抵のことではありません。
そこで、叛乱者側は、政変実行前に、毛利家と密約を交わしていました。それは、彼らに味方し、安芸国内で彼らに反抗する者たちを倒してくれたならば、大いに助かるというものでした。彼らに従わない者たちの拠点は容赦なく撃破してかまわない。城を落としたあかつきには、それはすべて毛利家の管理下に置く、というような約束を取り交わしていた模様です。
これらの話は、たいてい、毛利元就の伝記類に書かれています。あまりに数が多いため、どこに何が書いてあって……というのがすぐにはまとめられないのです。現代の研究者の先生方は、元就が叛乱者側について、主殺しを手助けした、ゆえに狡猾で性悪だ、などとは考えておられません。毛利家の飛躍の時が来たとばかりにこの機会を利用したのですから、褒められはしても、非難されるような事項ではないでしょう。
しかし、過去に書かれた軍記物の類、ことに『陰徳太平記』などでは、聖人君子である元就が、主殺しの叛乱者と手を組むようなことがあっては絶対に困りますから、この部分を抹殺しています。大内義隆が倒されたと知った元就が、すぐさまこの主殺しの極悪非道の輩たちを成敗する義軍を挙げる物語として脚色してしまいました。それゆえ、叛乱者に反抗していた人たちの城を落とし、我が物にしていった、という過程は抜け落ちてしまっているんです(ひどいのなんて、反抗したから倒していた者たちを、陶の与党だったゆえに倒したことにして、事実をすり替えてしまっています)。それについては、どこかで整理したいと思います。
さて、こうして、いったん叛乱者たちと手を組んだ毛利家でしたが、やがて両者は決裂します。備後の旗返城という城を落とした際、取り決め通りなら、それは城を落とした毛利家のものとなるはずでしたが、大内方は城番として、家臣の江良を入れてしまったのです。
これには大内側にも言い分はあると思います。だって、いくら毛利家が期を見るに敏だったゆえにといえども、数え切れないほどの城を次々と支配下に入れていったら、ついには大勢力と化してしまいます。危険視されてもしかたありませんよね。ただ、約束は約束なので、きちんと果たすのが当然です。お前ら出しゃばりすぎだとばかり、使えるだけ使っておいて、途中から約束を反故にするというのはあまりいただけません。
そんなわけで、城一つの帰属をめぐる諍いから、両者は決別するに至ったのです。これを防芸引き分けと呼びます。
昨日の味方は今日の敵
毛利家は大内方との決別を宣言した途端、当初の「約束」にあった反抗的な者たちとは無関係な大内方の城を次々と落とし、自らの旗印にかえてしまいます。今にも周防国にまで進軍しそうな勢いに大内方は驚きました。とてもじゃないが、これ以上放置はできません。
なにゆえ、大内方がこうまで無防備だったかと言えば、理由がありました。ちょうどこの頃、石見の吉見家と交戦中であったためです。当主(大内義長、大友宗麟の弟)までもが出陣して、吉見の城・三本松を囲んでいました。
この吉見家も、叛乱者たちに反抗した者たちの一味です。のみならず、当主の正頼は、大内義隆の姉を妻としていた関係で、義隆の義理の兄。主でもあり、義弟でもある義隆の敵討ちを掲げて反大内(陶)の「義兵」を挙げていたのです。こういうのを放置しておけば、叛乱者政権としては困りますから、全力で潰しにかかります。それゆえに、当主までもが出陣していたわけです(お飾りですけどね)。
そして、吉見家と陶家の間には、義隆の件以前から曰く因縁がありました。陶家と親しい関係にあった石見の益田家と吉見家は、互いに境を接している関係で争いが絶えない犬猿の仲。妻の実家である益田家に味方したことで、吉見家の恨みを買った陶弘護は主が開いた酒宴の席で、いきなり吉見家当主だった信頼に謀殺されるという悲劇に見舞われています。弘護は陶入道の祖父にあたります。三代に渡る怨恨があったわけです(仁徳者の陶興房が吉見家と揉めたという話は今のところ聞いたことがないですが)。
祖父の仇討ちにもなりますし、ここは何が何でも血祭りにあげねばなりません。いっぽうの吉見家とて、弘護刺殺直後に信頼も成敗されており、益田家との境目争いは今も続いています。陶家は長年に渡り益田家と手を組んでいますし、義弟にもあたる主の義隆を死に追いやった連中です。多勢に無勢で勝ち目はないと分っていても、なおも兵を挙げ、極悪非道の輩を倒さねば気がすみませんでした。
どう見ても一捻りかと思われたこの戦、意外にも膠着状態となり、大内方は三本松に釘付けとなっていたのです。その背後で毛利家が動いていたというわけです。実は、毛利と吉見とはとっくに誼を通じていました。敵の敵は味方なので、当然ですね。さらにまずいことには、吉見家を潰すための戦に軍勢を投入する際、安芸国人に声をかけて動員するのは毛利家の役目とする、という約束も破られ、大内方が勝手に督促状を出すなどしていた事実も明るみに出ました。
ここまでくると、もう両者が和解する道は完全になくなっていたと言えます。陶入道はなんとか、三本松を落としてから毛利家にあたりたいと思いながらも、毛利家の動きがあまりにも素早かったため、そんな余裕はまったくなくなっていました。不本意ながら吉見家と和睦して兵を引き上げ、先に毛利家を潰すことにします。とはいえ、大軍を動かすのもそう簡単ではありません。まずは、先遣隊として、宮川甲斐守を派遣しました。
なお、ここで、折敷畑の戦いと吉見家との和睦の順序について、研究者の間で揉めていました。折敷畑での衝突が六月であったとする説と、九月であったとする説があったのです。現在もなお、揉めているのかは知りません(調査します)。しかし、現地案内看板などから察するに、六月が「定説」となったようですね。
なにゆえに揉めていたのか。六月ならば、まだ三本松で和睦が成立していない時にあたり(和睦は八月以降、という点は全員意見一致)、本隊は動けません。九月ですと、吉見との件を一旦置いておいて、先に毛利家潰しに専念する準備をすべて終えてからの合戦となり、宮川軍は先遣隊でのちほど本隊が来るつもりだったか、もしくはいきなり本隊が来ることもあり得た展開とはなります。
上の記述はいきなり、先遣隊云々のように書いておりますが、個人的には六月説です。まあ、その後厳島に雪崩れ込んでいくことを考えて長い目でみれば、先遣隊と、そんな意味で書いてました。恐らくは、毛利如き、宮川甲斐守の一撃でノックアウトできると考えていたのでしょう。上手くいけば、吉見と和睦などする必要もなかったかも知れません。それが、思いもかけない結末となり、まさに慌てふためいた様が目に浮かぶようです。
折敷畑の戦い
「折敷畑合戦」については、『陰徳太平記』にも章段があり、臨場感があって、なかなかに優れています。ここは、互いに敵対する勢力となって本当に戦闘が行なわれたことを書いているので、インチキも特になく、多少の誇張はあれども……といった程度ではないかな、と記憶しています(かなり前に見たので定かではない)。なので、できれば、ここに、紹介文を入れたいと思っておりますが、現在時間的余裕がありません。ちょっとの間、宿題とさせてください。
さて、その後本隊が到着する予定であったか否かは知りませんが、宮川軍だけでも、相当な大軍であった模様です。ゆえに、どこぞの書物では、最初毛利方は、いきなり大内(陶)本隊が着陣したかと誤解したとか(九月説の人ですね)。あわよくば、宮川さんだけで毛利家に大打撃を与えれば、もう勝ったも同然です。そもそも、総大将(未着)は毛利如きという誤った考えを未だに捨てきれずにいるわけで……。
ん?
のちの厳島合戦でも同じ問題に直面しますが、まだこの時点では、「数の上では」大内方が毛利方を圧倒しているのです。セオリー通りなら、数が多い方が有利ですが、数が多いと言っても単なる寄せ集めだったり、嫌々参加している状態では意味がありません。また、それこそ相手が相当な「愚将」でもない限り、戦は数だけで勝てるものでもありません。
宮川甲斐守さんも百戦錬磨の強者。ゆえに、大切な先陣を任されたのであり、そこらの愚将ではありません。とはいえ、ちょっと「焦り」が感じられるのは気のせいでしょうか。これは宮川さんではなく、総大将のほうです。そりゃ、昨日まで味方と思っていた毛利家にいきなり「絶交だ!」と言われ、あれよあれよと言う間に多くの城を奪われれば、焦るな、というほうが無理ですが。
宮川軍の構成を「烏合の衆」と書いている地元郷土史愛好家の皆さんのご本もありました(古すぎて、典拠なども一切書かれていないご本ゆえ、こちらも典拠にはできませんが、講談のように楽しい本です。ちょっと、毛利元就贔屓が酷すぎるけど……)。しかし、数の上では確かに、毛利方を圧倒していたことは事実のようです。
本隊が三本松にかかりきりで動けないので、そこらじゅうの手が空いたものを集めて行け! とでも言われたんでしょうか(言いかねない)。現地の案内看板(後述)によれば、この頃から毛利方は大内方との最終決戦は厳島、彼らは海路(沿岸)から来る、と考えていたようです。すでに、のちの「海路から来てください」作戦も始まっていたのか、我らが門山城もこの時にぶち壊されてしまったようです(涙)。
しかし、宮川さんは沿岸から来るどころか、毛利軍が本陣を置いている桜尾城を見下ろす高台・折敷畑山に布陣しました。これは意外だったようです(参照:立て看板)。現在、折敷畑山に行っても桜尾城は見えません。むろん、城がすでにないのですから、見えるはずはないですが。しかし、少し前までは桂公園がよく見えたそうです。現在はその、「桜尾城を望む展望台」とやらは樹木に埋もれ、何も見えないそうです。見えなくても行ってみようと思いましたが、倒木に行く手を阻まれて無理でした。
さて、敵の本陣を見下ろす場所に布陣するというのはさすがに百戦錬磨ですよね。数にものをいわせて一斉に敵陣に突っ込んだらそれこそ押しつぶせたかも。ただ、不運だったのは相手が毛利元就と三人の優秀な息子だったこと。
大人数で圧勝するのもいいですが、その手は連戦連勝しているような運のいい時、士気が高い時、相手が無能な時以外、常に100%大成功とは申せません。反対に、数の上で劣っていても、智謀によって劣勢を覆した例というのは多々あります。数が多い上に、想定外に敵方が地の利を得ている。一瞬くらっときますが、そんなことで怖じ気づく毛利軍ではありません。数的に劣っている時、使えるのは「奇襲」です。なんか、もう何度もこの話を聞いた気がして嫌になりますね。
元就は息子たち三人を三隊に分けて、それぞれ別々の方向から、やっとの思いで布陣したばかりといったところの宮川軍に襲いかかりました。え!? ちょっと休憩させてくんないかな? というところに、三方向からの攻撃を受け、それこそ「烏合の衆」だった宮川軍は途端に総崩れとなったようです。
むろん、なんとか態勢を立て直して、受けてたちましたが、奇襲なだけにいきなり襲われた時点で終わってます。終わってなかったら、逆に毛利軍アウトなので。こうなると、何が敵の本陣を見下ろす場所に布陣して、そこから一気に……ですよね。大内方には三本松に注力していた最中に、いきなり別の厄介事がふりかかり、取るものも取らず、とにかく一刻も早く潰せという焦りしかない。本隊は動けず、かき集めの兵力で対応している。毛利方にはそういう一部始終がよく見えている状態なのに、こちらはやっと臨場したところです。これから敵の動きを探って……とか色々始めるところだったんでしょう。
宮川さんは崖から落ちて亡くなったとのことですが、軍記物の脚色ではそうはなっていません。これまた、どの本を典拠にしたのか書いてくれていないので、分りませんが、敵に腕を切り落とされて戦えなくなり万事休す。なんか、「忠度最期」を思い出してしまい、気分が悪くなりました。勝った側はいくらでも脚色できて、楽しい事限りなしですよね。史実は『棚守房顕覚書』にある崖に落ちて亡くなった=合戦関連事故死(戦死扱い)だと思いたいです。
折敷畑古戦場跡・みどころ
みどころといっても、ただの山です。登山が好き、山城が好きな人にはたまらないと思います。古戦場跡というタイトルにせず、折敷畑山登山にしようかと思いましたが、実は山頂まで行っていないことに気付きまして。「古戦場跡」には看板があるだけで、かつてを偲ぶものは何もありません。
登山道入口
登山道入口は閑静な住宅街(四季ヶ丘団地)の中。もみじ公園という公園からほど近いところにございます。でもって、ちょいっと、水が流れている堀のようなところを跨いでいかないといけません。
水は涸れていました。でも、ここを渡るところが、一番わかりにくく、散歩コースにしている地元の方のご案内で見付けることができました。
「折敷畑古戦場跡入口」というプレートが見えますでしょうか。こんなにも小さいので、見落としてしまいますよね。
案内プレート
このくらい大きな文字で書いてくださってあると助かるのですが。この先、ところどころにこの看板と「火の用心」と書いた看板が現われます。でも、基本は真っ直ぐな一本道ですので、看板はいらなかったりします。
「火の用心」しつこいくらい遭遇(笑)。
山道
基本真っ直ぐな一本道です。道なりに行けばよいだけ。迷うことはまずありません。ただ、楽チンと思っていると痛い目に遭います。
45度くらいなのではなかろうかと思うほど、突然に道が急になります。チェーンがついているということは「危ない」という意味ですね。しかも、相当長い距離続きます。
気が遠くなるくらい続いていました。つかまっていれば登りは問題ないのですが、地面が枯葉で覆われていることから滑りやすく、帰りは滑り台覚悟です(要段ボール持参)。
明石講
途中、何カ所かこれを見ました。何なのか地元の方にお伺しようとして、忘れたまま数年間放置。次は確認します。
展望台への道
桜尾城が見下ろせる「展望所」への矢印がついているのですが、見ての通り、道は埋もれています。平然とかき分けて行きましたが、倒木が行く手を塞いでいて、無理でした。地元の方々が整備に入ってくださった後などに行き当たらないと、なかなか難しかろうと思います。
折敷畑山古戦場跡(宮川甲斐守陣地跡)
到着しました。結局、あるのはこれだけ。看板のために登っているみたいな気がしてきますね。それ以上なにを望むのかと言われれば分りませんが。
説明看板
「折敷畑合戦
宮川甲斐守の陣地跡
(折敷畑山 八合目付近)
広島湾岸域から廿日市及び厳島を占領した毛利軍の討伐を命じられた、大内陶氏の部将宮川甲斐守は、天文23年 (1554) 6月初め、桜尾城を眼下に見下ろすこの辺りに陣地を構築し始めた。
桜尾城には強敵毛利元就がいる。 元就は桜尾城を本陣とし、 桜尾城を守る七尾の砦と伝えられている丹渡尾城、 宗高尾城、 谷宗尾城、 越峠尾城、 藤掛尾城、 笹尾城、岩戸尾城の守りを固め、更に大野門山城から小瀬、御庄辺りまでの軍事施設を徹底的に破壊して反撃に備えた。元就は、大内陶氏の進撃は沿岸経路と想定していた様だ。
ところが、 宮川甲斐守は桜尾城攻撃作戦で折敷畑山を選んだ。
桜尾城を眼下に見下ろす折敷畑山頂に大きな陣地を築けば、 毛利軍を強烈に威圧し、この陣地から桜尾城に向かって一直線に攻め下れば、いきなり桜尾城防衛網の内側に入り込むことになる。 戦略的には最高の作戦である。
毛利軍は意表をつかれたが全くひるむことなく、同年6月5日折敷畑山頂に向かって攻撃を開始した。一説には、元就の長男隆元率いる毛利軍本隊は陣地正面から、 次男吉川元春軍は野貝原山側から、 三男小早川隆景軍は御手洗川沿いに攻め上る、 三方よりの進撃を行い果敢な激戦を展開したという。
毛利軍を上回る大軍の宮川軍は着陣したばかりで、 戦闘体制が整わないうちに急襲されたので、宮川軍はたちまち総崩れとなり、大将の宮川甲斐守は谷底に転落敗死した為、この折敷畑合戦はわずか1日足らずの内に、 毛利軍の圧倒的な勝利となった。
この折敷畑合戦に会心の勝利を得た毛利氏は、翌年の厳島合戦にも快勝して、 大内氏を滅ぼし周防、 長門を領国化して、 戦国大名へと成長していく。
平成22年 3月
宮内地区コミュニティづくり協議会」
(看板説明文)
もはや、この看板の名文だけで、ほかに何も学ぶ必要はないですね。ちなみに、「八合目付近」とある通り、ここは山頂ではないのです。廿日市20名山の一つ、折敷畑山を制覇したと思ったら、とんだ大間違いでした。
折敷畑古戦場跡(廿日市市宮内)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒738-0034 広島県廿日市市
※Googlemap にあった住所です(山なので住所不明のようです)
アクセス
最寄り駅は宮内串戸です。ただし、駅から登山口まではかなり歩きますので、公共交通機関かタクシーをお使いください。かつて、宮川甲斐守腹切岩付近に登山道入口がありました。現在も看板は立っています。ただし、そちらの入口から入ることは現在推奨されておらず、整備もされていない可能性があります。
現在は、宮内の二つの団地から入る行き方が推奨されており、安全な上、迷いません。宮内には四季ヶ丘団地と宮園団地という閑静な住宅街がございますが、今回は観光協会の方にご教授いただいて、四季ヶ丘団地から入っています。問い合わせをしたところ、懇切丁寧に行き方がわかる写真までファックスしてくださいました(旅行会社から問い合せていただきました)。
四季ヶ丘団地の中にある、もみじ公園という公園の裏手に登山口があります。でもじつは、そこが一番わかりにくいのです。そこはちょっと頑張って探して見てください。
参考文献:『廿日市20名山ガイドマップ』ほか
折敷畑古戦場跡(廿日市市宮内)について:まとめ & 感想
折敷畑古戦場跡(廿日市市宮内)・まとめ
- 厳島の合戦の前哨戦とも言われる折敷畑の戦いが行なわれた跡地
- 大内義隆を倒すためには手を結んだ大内(陶)方と毛利家だったが、旗返城の帰属をきっかけに対立。ついには袂を分かつに至る(防芸引き分け)
- 大内(陶)方の城を次々と接収する毛利家に驚いた陶入道は、毛利家を阻止するために、宮川甲斐守を送った。本隊は津和野の三本松で吉見家と交戦中だったためである
- 大軍を率い、毛利方本陣の桜尾城を見下ろす折敷畑山に陣取った宮川軍は、一挙に攻め下り、毛利家を殲滅するつもりだったらしいが……
- 大内(陶)方の進軍ルートは沿岸、決戦の地は厳島と準備していたらしき毛利軍は一瞬「だけ」驚いたものの、隆元、元春、隆景の三隊で三方から宮川軍を奇襲
- やっと布陣したばかりの宮川軍は態勢を立て直すいとまもなく、壊滅した
何の因果か「負けた」史跡ばかり巡る旅。厳島からしてそうなので、これも運命。折敷畑山は、廿日市の先生や東広島の先生とお目にかかる前に、単独行動で制覇した最後の山でした。廿日市の先生にお伺しても、折敷畑山が難易度が高い山だとか、危険だというお考えはない模様。また、念には念を入れて、山岳ガイドの方にお願いしようと旅行会社経由で、観光協会にお伺したところ、ガイドがご一緒するような山ではありませんよ、とのお言葉だったとか(電話は旅行会社のお姉さんがかけてくださったので)。それでも、山ほどの資料をファックスしてもらい、これならば万全と思って出発しました。
ところが、登山道入り口を見付けるのが骨。本当にわかりにくいのです。偶然にもお散歩中の地元のご夫妻とお目にかかり、入口を教えていただきました。ですが、タクシーの運転手さんともども「女ひとり(五郎も一緒なんですけど……)でなんでそんなところに行くの? やめなさい」とのお気遣い。昔は散歩コースにしていたが、ここ数年来行ったことがなく、久方ぶりに覗いてみたところ、入口が埋もれていたとかで。奥さまに意地でも行きたいのです、と我儘をお伝えし、強引に入ろうとしたところ、無事に入れるか、入口までご一緒くださいました。遠目には樹木で埋もれていたように見えたが、入口は問題なさそうね、というお言葉に安心して入っていった次第です。
毎度皆さまにご迷惑をおかけしております。多くの方々のご厚意によって支えられている旅でございます。この場を借りて御礼申し上げます。
こんな方におすすめ
- 登山(特に曰くのある山や山城に興味津々)が好きな人
- 厳島合戦関連史跡コンプリートの人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
また負けちゃったの? 華々しく勝った話はないの?
それはね、君。広島では勝ってないよ。毛利の牙城だもんね。吉田郡山に救援に行ったときくらいかな。
それ、広島の話なのに、なんで、本家のサイトに載せてんの!?
そのうち、記事の引っ越ししようね。
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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-
『厳島合戦記』
宮島にある厳島合戦関連史跡をすべて見て回ることが究極の目標。主な史跡には案内看板が立っているが、島内すべての看板はコンプリートしたので、看板もない関連史跡を隅々調査しているところ。
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